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チューン・ザ・レインボウ

 その真っ赤で、めいっぱい泣き叫んで、両手に収まりそうなぐらいちっぽけな命のかたまりに圧倒されたことを覚えている。
 こんなにちいさいのに、分娩室の機材やら何やらをびりびり震わせるような大音声はどこからくるのだろうか。先人はこの産声を、おぎゃあおぎゃあ、とかことばにしていたけれどそんなもんじゃない。
 こうしてそばに立っている自分の命をまるごと、根こそぎ奪っていくような声。赤いいのち。
 お父さん、お父さん、と何度か呼ばれてはっとした。となりで清潔そうな真っ白な衣服に身を包んだ看護師が呼んでいる。マスクをかけた口元は見えないけれど、ゆいいつ露出した目が柔和に弧を描いていた。
 おめでとうございます、元気な男の子ですよ。
 男の子。伝えられたことばを、からっからに渇いた口の中で転がす。今時分、出生前のエコー検査の段階でほとんど性別は判明してしまうものらしいが、自分たちは生まれたときの楽しみにしたいからと医師から聞かずにいた。
 けれど、そうか。男の子。そうかそうか、男の子か。
 陣痛からずっと耐え、それよりも十月ばかり前から腹の中でこの子を守り続けていた妻は、汗と涙と他の何かでびしょびしょに濡れた顔で笑っていた。この世に、この世界に今まさに生まれたばかりの赤いいのちを両腕に抱いて、いとおしそうに笑っている。
 あたりまえだ。自分たち夫婦の、初めての子ども。息子。長男。
 松岡家の、長男だ。
 あなた、と妻に呼ばれ、震える足で近くに寄る。がんばったな、ということばすら喉の奥から口の中から、あっちこっちに張り付いてなかなか声にならなかった。抱いてあげて、といわれ、妻から看護師へ、そして看護師から自分へと、うやうやしく差し出されるむき出しの命のかたまり。
 どうにも定まらない視界の中、なんとか両腕を差し出して――それはもう、昔親友とふざけていて着衣のまま海に落っこちて必死でもがいて母にこっぴどく怒鳴られた、あの泳ぎよりもずっと重たくて自由の利かない腕で――受け取った。
 こんなにちいさいのに、ずっしりと、重たい。
 これが生命の重さだ。
 まだ形容しがたい音で泣き叫ぶ息子の声の向こうに、妻の呆れた笑い声がたわんでいた。
 ねえ、あなたったら。きっとこの子より、今のわたしより、ずっと酷い泣き顔よ。
 まだ名前のない息子を手渡してくれた看護師も、どうやらマスクの向こうで笑っていたようだった。子どもの誕生を、ではなく、ぐしゃぐしゃに泣く父親をだ。しかし誰にどんなに笑われたって、どうにも泣き止めそうになかった。
 俺は、怖かった。
 妻の腹の中で日に日に成長する子どもに会うのが楽しみで楽しみで、本当に楽しみで、同じぐらい怖くて、不安だった。妻が知ったら怒るだろうが、もしかすると妻よりも不安だった。
 だから性別だって、生まれるまでの楽しみにしておこう、なんて、おおおらかな父親みたいな態度で知るのを遠ざけた。不安で不安で仕方なかったから、ひとつ、ずっと大切にしていたものを諦めて、故郷の岩鳶に戻ってきた。
 ずっとずっと怖かったのだ。
 けれど今、息子を前にして、どうだ。この脱力は。
 生まれたばかりの息子を妻に帰して、一足先に分別室から出れば、近くのソファに母が腰掛けていた。おめでとう、どちらだった、ということばに、ようよう返した。男の子だよ。
 そうか、松岡の男か。答える母の声は優しくも遠く、きっと彼女の夫や彼女の父へ向かっても呟かれたことばに違いなかった。俺の耳の奥では、息子の力強い産声と岩鳶の潮騒がせめぎ合っている。


 うちよりも数ヶ月ばかり先に生まれた息子を抱いた親友に、役所に届けを出したばかりの長男の名前を伝えてやれば目を丸くしていた。
「女の子みたいな名前だなあ」
 なあ、旭。そう話を振られた方もまだまだ乳飲み子で、もちろん頷きも首を振りもしない。ただその名前は、うちの子よりは立派に『男の子』の名前だろう。比べるものでもないし、息子に女の子みたいな名前を付けた自分がいうことでもないがそう思う。
 はあはあ、なんて気の抜けた声を出しながら、親友は後ろを振り返った。岩鳶の実家は広く、今腰掛けている縁台から屋内まではなかなか遠い。その遠い和室の真ん中にはまだ本調子でない妻のために母が布団を敷いているが、妻も今は客を迎えて体を起こしている。そばには親友の妻と、よちよち歩きのその長女がいて、今は静かに眠る息子を見つめている。女の子みたいな名前をもらったなんてまだ知らない、松岡家の長男だ。
 親友はちらちらと妻たちの様子を見、そしてうっすらと雪の積もる庭の向こうの方を見、最後に自分の息子を見下ろしながら囁いた。
「お梗さんがよく許したなあ」
 今はこの場にいないこの家の家長を思い出したのか、ぶるるっと身震いまでしてみせる。こいつは俺の母のことをなんだと思っているのだろうか。たぶん今の息子たちと変わりないぐらいの時分から面倒を見てもらい、散々迷惑をかけたり怒られたり躾けられたりその他諸々、そういう記憶がそうさせるのだろうが。
 少々厳しくはあるが、別に怖い人ではない。恐らく。親友の仕草にため息をつきながら答える。
「なんで」
「だってこう……イマドキの名前っていうか、キラキラネーム? というか。お梗さん、そういう浮ついたの嫌いじゃねえかと思って」
 お前の名前だって、虎一だろう。
 付け足されて、頷いた。子どもの頃からこの歳まで、他に会ったことがないぐらい、いわゆる男らしい名前だという自負はある。松岡虎一。ちょっと時代錯誤すら感じるそれが自分の名前だった。
 この、虎一が自分の息子につけた名前が、
「松岡凛」
 だ。声に出してみると、なかなかしっくり来る。名前だけ見て男だと気づいてもらうには少々厳しいかもしれないが。
「いい名前だろう」
「そりゃあな。悪くはない。いい名前だけど。なあ」
「蒼平」
 まごまごと呟く親友の名前を呼んで、遮る。こいつもなかなかいい名前をしている。男らしいし、彼の息子の旭と並べると、水平線に昇る朝日って感じで実に締まりがいい。
「松岡の男の話はしただろ?」
「……海にとられる、とかいうやつか?」
「それだ」
 松岡の男は、海にとられる。
 母はそういう。母は母の母、つまり祖母からその話を聞かされ、その祖母も彼女の母から聞かされたという。代々漁師の家系で海近くに暮らす古い家にはありそうだと頷けてしまう、偶然の一致か血の宿命か。そんな話だ。
 実際、俺の父は漁に出て早くに亡くなった。祖父も海で亡くなったという。曽祖父も、きっともっと上の代の男たちも、ことごとく。漁に出て亡くなった者もいれば単に海で溺れて亡くなった者もいるし、戦時中船に乗っていて、だとか、戦闘機が海に落ちた、だとか、そんな話も聞いた気がする。このへんまでくるとだんだん怪しくなってくるが、とにかく残った家族が恐れるぐらいには海で亡くなったというイメージが強いのだろう。
 それが例え偶然の一致でしかないとしても、ここまで重ねれば宿命と同じ意味だ。海で亡くなるだけならまだしも、おおよそ若くして亡くなっていることも因縁に拍車をかけている。
 もしかすると自分も、とは思っている。そして妻の妊娠がわかって大いに喜んで、その次ぐらいにも思ってしまった。もしこの子が男の子だったら、と。
 自分のことなら、言い方が悪いが諦めもつく。漁師という仕事柄、海難事故など覚悟してしかるべきだ。
 けれど生まれてくる息子は、だめだ。そんな因縁とは関わらず、健やかに生きてほしい。
「昔、戦国時代かなんかで」
「うん?」
「男の子に女の子の名前をつけるとさ、死神が女の子だと勘違いして連れて行かないとかって聞いた気がして」
「……戦国時代に死神って概念があったか?」
 蒼平は唸りながら首を傾げた。そこは虎一もあやふやなところなので返しようもない。ヨーロッパとかの話だったかもしれない。
 あやふやではあるが、いかにも男らしい名前をつけるよりいいような気がした。そこから音の響きとか画数とかいろいろと、ほんとうにいろいろと考えて、その結果が凛である。松岡凛。
 いい名前だ。妻はかっこいい名前だと笑ってくれたし、蒼平の危惧する母は何もいわずに頷いた。
「まあ、うん、ちょっとどっかおかしい気もするけど、お前の込めた気持ちはわかったよ」
 今は蒼平もうんうんと頷いている。重くなってきたのか腕の中の息子を抱き直して、屋内をまた振り返った。妻と交代してもらおうと思っているのだろう。
 その横顔が、こちらを視界に捉えないままほろりとこぼした。
「松岡の男が云々とかさ、」
 きゅっと、旭を抱く手の甲に筋が浮く。
「俺はまあ、よその家の人間だから信じてないし。そんなにいうなら漁師やめて港町から引っ越して海とは無縁のところで暮らせば、とも思うんだが」
 そうして振り向いた親友は、まるで虎一自身のようだった。
 笑っていた。ちょっと眉尻を下げて、仕方ない、といわんばかりに、けれど晴れやかな笑い方だった。蒼平のひとみの中に映る虎一も、どうにも同じ顔をしている。
「「離れられないんだよなあ」」
 声が重なって、二人して黙り込む。
 それからまた二人して、腹の底から笑った。何せ乳飲み子のうちから梗に怒られ可愛がられ、楽しいことも悪いことも一緒にやってきた親友である。好きなことも、やりたいこともお互い知っていて、そして自分たちを遠くつなぎとめているものがひとつあった。
 どうしても海から、水からは離れらない。うっかり海に落ちたとき、あるいは浜から見える小島まで泳いで勝負したとき、はたまた隣り合うレーンで競ったとき、逆にひとつのレーンを繋いで泳いだとき。
「お前だって、息子にも泳いでほしいんだろう?」
「……お前こそ」
 二人を繋ぐものは、いつでも自分たちのそばにあったものは、泳ぐということだった。
 子どもができたことと引き換えに、不安な自分が諦めてしまったものも泳ぎだった。
 競泳選手になる、なんて、不確かで泳ぐみたいに足がつかなくて危ないものを遠ざけた、その決意とともに長らく離れていた故郷に戻ったとき。母よりも誰よりも先に会いに行ったのは、蒼平だった。甘くて切ない、ずいぶんと身勝手な喪失感を理解してくれたのも蒼平だった。
「なあ、こいつらが泳げるようになったらよ」
 蒼平が縁から上がりながら、にんまりと笑う。
 察して笑って、握りこぶしを突き出した。ことばが続く前に、自分から切り出してやる。
「いいぜ。どっちの息子が速く泳げるか、勝負だ」
 分娩室から出た瞬間。あの、生まれたての命にまるごと奪われたような脱力。
 その倦怠に、歓喜したのだ。
 あの、真っ赤に生を叫ぶ子どもこそ、自分の諦めてしまったものを燃やし尽くして肺にして取り込んで、松岡の男を取り込む水すら干上がらせてくれるのだと、信じてやまないのだ。
 もしかすると志半ばで夢を諦めた惨めな男の、傲慢な押しつけでしかないかもしれない。松岡の家を取り巻く因縁よりもたちの悪い、呪いかもしれない。その未来はまだ、自分にも生を得たばかりの息子にもわからないけれど。
 贈ったこの名前こそが、彼への祝いになるのだと願っている。


 凛。松岡凛。
 この名前が、凛は嫌いではない。
 名簿一覧で見られるとまず男だと気づいてもらえないし、子どもの頃は女みたいな名前だとか、女の名前だから顔も女みたいなんだとか子ども特有の意味の分からない三段論法で散々からかわれて嫌な思いもしたし喧嘩もしたし、喧嘩をして母親や祖母やついでに父の友人にも怒られた。凛が選んだ名前ではないのに理不尽だ、もっと女みたいじゃない、男らしい、例えば父や親友みたいな名前がよかったと、何度も思った。
 この名前への嫌悪感が薄らいだのはいつからだろう。オーストラリアに留学した時分にはもう気にならなくなっていたと思う。何せ向こうでは日本人の名前のスタンダードも、ましてや女性名も男性名もてんで理解がない。女みたいな名前だけど男です、という自己紹介の持ちネタにぽかんとされて、ずいぶん冷や汗をかいたことも覚えている。あれはだいぶつらかった。人生で最高に滑った瞬間だといっても過言ではない。
 それに、りん、という音は、英語圏でも比較的発音しやすいらしい。ファーストネームで気安く呼ばれるのはけっこうくすぐったく、けれどもなんだか大人になったようで誇らしかった。その誇らしさも本場で学べる喜びも、おおよそ四年をかけてゆっくりと摩耗していってしまったのだけれど。
 話を戻そう。自己紹介の持ちネタにできていたのだから、当時の凛は名前に関してそれなりに受け入れていたはずである。確か佐野小学校から岩鳶小学校に転校したとき、同じく佐野SCから岩鳶SCに移ったときの自己紹介でもこの名乗りを披露したのだと思う。そのときは日本なのでそこそこ笑ってもらった、はずだ。
 ただ、そのときにものすごくすごく苦い顔で凛を見ているやつがいたはずである。同じく、女みたいな名前だけど男の、七瀬遙である。
 遙との、いいや遙たちとの出会いは運命だった。この歳になってもまだ、凛は恥ずかしげもなくきっぱりと断言できる。遙と、真琴と、渚。父が一番を獲った場所で、父が仲間たちとレーンを繋いだリレーを泳ぐにふさわしいと凛が信じた仲間たち。みんな女みたいな名前の、男だった。
 嫌悪感が薄らいだのがいつからだったか。父が亡くなってからだったかもしれないし、妹の江がお兄ちゃんと逆の名前がよかったと泣いていたときかもしれない。親友の宗介が、どんな名前でも凛は凛だろ、といってくれたときだったかもしれない。明確にこのときからだとは断言できない。
 けれど凛が、女みたいな名前に誇りを持つようになったのはきっと、あの小学校六年生の、遙たちとレーンを繋いで一番を獲った、あのときだったと自信を持っていえる。
 だってあれは、運命だったから。
 だからこの、モニタの向こうでふくれっ面を晒した男が、壊れかけのラジオみたいにリンリンリンリン鳴っているのだって仕方がない、運命なのだ。
「…………ハァル?」
『なんだ凛。凛。凛凛凛』
 前言撤回。壊れかけのラジオではなく、鈴だ。小学校の音楽会とかクリスマス会で使う、五個ぐらい連なっていて手にはめてめちゃくちゃ鳴らすやつ。
 ヘッドセットを通した遙の音声は、ほんものより少しがさがさしている。それがもう、リンリンリンリン、だんだん声ではなく音として認識し始めるレベルで耳に吹きこまれている。これが自分の名前でなく、相手が遙でなければネット通話を切っているところだ。
 つまり七瀬遙の奇行は、高校を卒業し大学に進学し、チームに所属してなんとなくそれなりに人間っぽくなったところで変わらない、ということなのだが。
「そんなに呼ばなくても聞こえてるっての」
『凛、お前に聞こえてるかどうかなんて、こんなパソコン越しじゃわからない。凛』
 リンリンの切れ目にいってやっても、これだ。
 お前は小学生か駄々っ子か? お互いにヘッドセットで音声を繋いで、それに飽きたらずカメラまで繋いでお互いの顔を見つめながら会話しているのに、聞こえてない、なんてことはないだろう。少々ドッジボール気味だが、きちんと会話のキャッチボールも成立しているというのに。
 意味がわからない、という意思表示を込めて眉間にしわを寄せれば、遙による鈴の音がふつりと途切れた。代わりに長く長く、なぜか物分りの悪い子どもにいい聞かせでもするように長く息を吐く。マイクとイヤホンを通した遙の吐息はがさがさという音に変わる。
『凛』
「だから、なんだって」
『すき焼きを食べに来い』
「……ハア?」
 聞き返すも、モニタの向こう、少し荒れた画像の七瀬遙は至ってまじめな顔をしていた。
『今日はすき焼きを食べる日だし、お前の名前を何度だって呼びたい』
「は、」
『凛。あと四年だ。オリンピックひとつ分』
 あと四年。四年後に、何があるんだったか。
 日本で夏季オリンピックが開催される年、ではあるけれど、遙の口ぶりだとオリンピックのことではないのだろう。四年後といったら、凛が二十二歳になる――いや、違う、そういえば今日は。
 モニタの端の時計にカーソルを合わせる。二月二日の〇時と少し。
『俺があの夏の日に殺して、また生まれた、凛に会いたい』
 ロマンチックだなんだのと凛を揶揄する遙が、なんだか詩的なことをいっている。どこかで聞いたことのあるこのことばは、いつ聞いたものだったか。
 ぼんやりと、キーワードが繋がっていく。パズルみたいだ。出題者はモニタの向こうで、珍しく笑っていた。
『凛に会いたい。直接、会って話したい。触って確かめたい。お前がいるってことを』
 キャラじゃないぞ、大丈夫か、頭でも打ったか――いつもの凛なら、そう返していただろう。怒涛のごとく吐き出される遙のことばと気持ち。
 じわじわと繋がって、ようやく理解して、今度は凛が息を吐く番だった。吐いた息の分だけ口角が上がって、今はたぶん遙と同じ笑顔を浮かべている。
「ハル。俺を生んだのはおふくろだし、俺はおやじの息子だ。お前がいたから生まれたんじゃねえよ」
 松岡凛が七瀬遙と出会ったのは運命だが、七瀬遙のために生まれたわけじゃない。
 自分は、父と母に、きっともっとたくさんの人に望まれたから、松岡凛として生まれたのだ。
 俺が生まれなければ、おやじは。二年前、まっ暗くて寒い墓前でこぼしたことは覚えている。今の自分はあたたかくて、明るい場所にいる。日本とオーストラリアでは気候も逆だし、なんて思えるぐらいには、今の凛の心は定まっていた。あと四年ということばにももう、揺るがない。
『そうだな。……それはそうだ』
 今となっては恥ずかしい心情を二年前吐露した相手といえば、ずいぶんと大人びた顔で笑っていた。来年には成人だから、当然だ。遙も凛も、おとなになる。
 父が――松岡虎一が父親になった歳まだ、あと四年。彼が諦めた夢を、凛は凛の夢として追いかけている。伸ばした指先が届くまで、あと少し。手応えは、ある。
「今週末、」
 知らず固めていた拳を、遙に向かって突き出す。こつりとモニタにぶつかって、確かにこの距離はもどかしいなと思った。さっきの遙ほど情熱的に思うわけではないけれど、ああ、会いてぇな、とか、じんわりと思うぐらいにはもどかしい。
 だから先月、実家に帰ったときに交わした妹との約束を口にした。
「帰るから。実家に。そのついででよければ、まあ……会ってやるよ」
 ほんの二日程度で、しかも遙のいる東京には通りすぎる程度しか滞在しないからわざわざ帰国することを伝えるつもりもなかったのだけれど。
 思い出しついでにそこらあたりに放り投げているスマートフォンを探す。ホームボタンを押せば妹からの連絡がプッシュアップで通知されていた。ちょうど日付の変わった瞬間に受信したそれに、時差をわざわざ考慮して連絡をくれた妹のいじらしさを感じてほほえみそうになる。
 尤も、それに先んじて数十分前からリンリンリンリン鳴っていたやつがいる手前、なんとか押し隠したが。壊れかけのラジオだかベルだったかを脱した遙は、モニタの中で頷いていた。
『じゃあすき焼きはそのときだな』
「ていうか、お前の都合がよければ食べに来いよ、すき焼き。ばーちゃんちだけど、岩鳶だし」
 たぶんきっと、先月しつこく帰国を約束させられたのは凛の誕生日を祝うためだ。自分と妹と母と祖母とで囲むすき焼きだが、食の細い女が三人と食事に制限をかけている凛とでは少々持て余す。
 遙はあんまり肉が得意ではないようだけれど、先に肉を用意するといったのは向こうなのだから勝算はある。祖母の家で、そして、
「松岡家の祝いごとはな、すき焼きだって決まってんだ。たまたまだけど」
 松岡家の祝いごとに遙を呼ぶ意味も、きっと察してくれるだろうから。
 遙は、すぐには答えなかった。ただ、あの水みたいにひんやりと静かな顔が、少し荒れた画像の向こうでじんわりと赤くなっている、ような気がした。
 二人きりでモニタ越しに向かい合って、片方が黙り込んでしまうともう、どうしようもない。ましてやさっきのキャラを間違えたみたいな台詞の数々は素面でいえたくせにどうしてこんなときばかり照れてしまうのか、遙の赤さがインターネット回線を通じて、日本からオーストラリアまで伝わってくるようだった。今、オーストラリアは夏だけれど、それにしたって熱い。主に、顔とか、耳とか、首あたりが。
「は、ハル」
『……行く。スケジュールも、調整できる』
「じゃなくて、あのな」
 動揺の隙間になんとか声をかければ、遙はダイヤルアップよりも遅い速度で返事をくれた。けれど今は少し、その、凛の実家に挨拶、みたいな流れは置いておいてほしい。まだ冷静にそんな話をするには時間がかかるし、それよりも先にもらいたいものを思い出したから。
 違ったかと、不安げにひとみを揺らす遙が勘違いをして沈む前にことばを続ける。
「まだ、聞いてねぇけど」
『……あ』
 二年前、まっ暗闇の中もらって、篝火みたいに弾けたことば。発音がなっていないと両断すれば、じゃあ凛が教えてくれと返ってきたそれ。
 あのときみたいな発音じゃ、これから踏み出す未来、世界の舞台では厳しいぞ。そんな気持ちで遙から受け取った羞恥心を覆い隠せば、すうっと遙が息を吸う音がノイズ混じりに耳に届いた。
『――凛、』
 たいせつな宝ものみたいに、そうっと囁かれたその名前。凛。
 遙という、運命に繋がった音。両親が与えてくれた自分。
 今は祝いを連れてきてくれる、その響き。
 心地よくて、そっと目を閉じた。やさしく自分の名前を乗せてくれる唇が触れられないことを、ちょっとばかり残念に思いながら。
 続く祝うことばの発音に、合が出たのか否が出たのか。
 答えは週末、直接、礼のことばとともに遙の耳に注いでやりたいと思う。
    2016.2.2 (2.3)