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さよならエレクトラ

 桐嶋夏也は、桐嶋郁弥にとって万有たる存在だった。
 夏也はまず、郁弥の兄である。
 郁弥は夏也より二年遅れて、彼の弟としてこの世に生を受けた。郁弥は夏也の背を追って育ち、どこへ行くにも何をするにも一緒だった。郁弥がつまづいたときにも先をゆく夏也は必ず気づいてくれて、立ち止まって引き返して、そして手を差し伸べてくれた。足が痛くてもう歩けないとぐずれば、笑いながらおぶってくれた。
 次いで、夏也は郁弥の母であった。実の母は郁弥を夏也に任せがちで、郁弥とはすこし距離があったから、なお一層夏也が郁弥の母であった。
 夏也は涙し、あるいは悩む郁弥にいつでもやさしい励ましをくれた。ねだればやわらかく抱擁を与えてくれた。兄を慕うあまりに周囲との軋轢ばかり生み、同級生たちとうまくいかないときには慰めてくれた。郁弥が謗られることがあればおだやかに事情を聞いて、それから郁弥を諭し、いっしょに相手に謝りにいってくれた。謗りがいわれのないものであれば郁弥を背に庇い、敢然と相手に立ち向かってくれた。
 そして夏也は、郁弥の父でもあった。実の父は仕事の都合から不在がちで、郁弥のみならず母にとっても夏也は桐嶋家の父としての側面を持っているようであった。
 夏也は郁弥が他人を傷つけるようなまちがいをしたときには、厳しく叱った。郁弥が癇癪を爆発させるようなことがあればひと回りおおきい体のすべてで郁弥を止めたし、場合によっては郁弥を叩くこともあった。
 郁弥は、父としての夏也のことはあまり好きではなかった。夏也とまともに口も聞かなかった二年間、夏也は郁弥の兄であることも郁弥の母であることもやめてしまったから。差し伸べる手もやわらかな抱擁も忘れて、夏也の両腕は気難しげに胸元で組まれるか、あるいは郁弥を止めるだけのものになってしまった。
 世界を広げろ、仲間を作れ、なんて、桐嶋夏也で形づくられた桐嶋郁弥の世界に、唐突に誰とも知れない仲間を押しつけてきた。郁弥は夏也のことばを理解できず、意味を請うてもそれ以上が語られることもなく、ただ、手酷い裏切りを受けたとしか思えなかった。


「今だから、わかるけど」
 ちいさく体を丸めて、郁弥は呟く。立てた膝を両腕で抱えて、片頬を膝に預けて。倦んだ熱がしっとりと皮膚のあいだでわだかまっている。
「あのときのぼくと、兄貴は、やっぱりよくなかったんだなって思うよ」
 視線の先で転がる夏也の体が揺れた。まだ到底追いつけそうもない広い背中に、筋肉のうねりが見て取れる。
 夏也は笑い混じりの声で答えた。肩越しにちらりと郁弥を振り返る、その睫毛がやわい水を含んで濡れている。
「そりゃ、よかった。お前にも仲間と、世界ができたってことだ」
「……うん」
 ぼくに、も。
 仲間ができた。三年生の夏也と並んでも遜色のない背丈なのに、いつも気弱そうに眉尻を下げている、やさしいバックの少年。やかましくてすぐに調子に乗って、けれど芯には揺るがないきもちを持っている、認めたくはないけれどリーダー気質の、バッタの少年。無口で無愛想で無表情で、なにを考えているのかわからなくて、けれど天才的な泳ぎと静かな情熱を持っている、フリーの少年。
 ひとつのレーンを繋ぐ四人。郁弥の、最高の仲間たち。
 夏也のことばの意味を教えてくれた、大事な友だち。もっとずっと広げていけそうな、郁弥の世界の入口に三人は立っている。
 この場所で振り返ってみれば、夏也でできた郁弥の世界はちいさくて、いびつで、ほころんでいた。ただ、感じていた温もりだけは本物で、だからこそもうあの塒には戻ってはいけないと思う。
 郁弥は夏也を見る。郁弥のありとあらゆる存在である兄。兄もきっと温かな場所から抜け出して、桐嶋夏也の世界を作ったのだ。
 桐嶋郁弥と桐嶋夏也というきょうだいは母子でも父子でもない、まったくのゼロになって、ひとりの桐嶋郁弥とひとりの桐嶋夏也として横に並んだ。そうしてお互いの世界を抱えて、ときにお互いを裡に入れて、ひとりとひとりとして息をしている。
 ひとつに溶けて離れらなくなっていたあのころは、よくなかった。
「今は、……」
 じゃあ、今は?
 言いよどむ郁弥に、夏也からの返事はない。
 膝を抱えていた腕をほどく。一糸まとわぬ郁弥の身体は、どこもかしこも濡れているような違和感があった。不快、ではないが、どこかこそばゆい感覚。
 膝を割ってさらに奥へ伸ばして、すべらせた手のひらは腿の内側でねばる何かに触れた。
 引きぬいた手を、目の高さまで持ち上げる。ゆっくりと手のひらを開いて伸ばせば、白くねばついたものが指のあいだで糸を引いた。
(どっちのか、わかったもんじゃない)
 ひとりとひとりになったのに、混ざりあって分離できない。
(……どっちのでも、)
 ぼくと兄貴とおんなじ遺伝子が、たぶん半分ずつぐらい。行き着く先のないできそこないの死骸が、ふたりぶんこびりついている。
 掲げた手のひらの向こうで、夏也が郁弥を見つめていた。うつ伏せの姿勢になって組んだ腕に顔の半分をうずめて、ひとみだけで郁弥を見ている。郁弥とほとんど同じかたちをしたまなじりが笑っているのか困っているのか、口元を隠された姿勢では判然としない。
 このまなざしは誰のものだろうか。兄だろうか、母だろうか、父だろうか。頼もしく、そして慈しみ、あるいは厳しく郁弥を導いてきたすがたはここにあるのだろうか。白く汚れた手を掲げたまま、ぼんやりと考える。
 不意に、夏也のからだがうごめいた。一度腕の中に顔を隠して、だらりと伸ばしていた足を下り膝を折る。そこからぐっと肘を突いて、上体を伸ばして、起き上がる。這いまわる芋虫か、さなぎからの羽化のようだと思った。
 白い蛍光灯の下、うすく汗に濡れた夏也のからだがふしぎに光っている。ふっと浮き上がった腰の奥が郁弥の手のひらよりも濃く白く汚れていた。いたたまれず、目を伏せる。
「郁弥」
 まるで目を逸らすな、とでもいうようなタイミングだった。父である夏也に慣れすぎた郁弥は反射的に声のほうを見る。
 四つ這いの夏也が、目の前にいた。
 生まれたままのすがたで、すこしずつ母から離れてゆく赤子の出で立ちで。
 手首にぬるい温度がからむ。夏也の指は半端に太陽に晒されたプールの水と同じ温度をしている。郁弥の手を取って、白い汚れに赤が映えた。夏也の、赤い舌。なまなましい肉の裡がわと同じ色が、ぴちゃり、とちいさな音を立てながら白を掬い取って、呑み下す。
 ぼくと兄貴の、行き着く先のない死骸が、兄貴の腹の中でひとつになっていく。
 堪らず伏せた視線の先で夏也の喉仏の張った首が、隆起する。浮いた筋を汗の珠がすべって、落ちていく。しずくの軌跡を見送れば、濡れて汚れたシーツに落っこちて見えなくなった。
「は」
 また、ぴちゃりぴちゃりと音がする。ぬるぬるした感触が指の股を、爪の先を、手のひらのくぼみを這いまわる。郁弥を汚す白をくまなく舐め取る夏也のすがたは、知らない誰かなのだろうか。
 視線の先で、汚れたシーツがうねって波打っていた。郁弥の指を舐めながら夏也が身体を揺らすから、膝でかき混ぜられたシーツがぐちゃぐちゃにしわを寄せていく。その膝から伸びる足を、すこし白の混ざる液体が伝っている。
「郁、弥」
 湿った音と息を混ぜて、ささやく。こんな声は知らない。さっき散々聞かされた、郁弥の下でかすれて裏返っていた声もこの声も知らない。
 桐嶋夏也は、郁弥の万有たりうる存在だった。でも夏也も、郁弥も、ひとりの夏也とひとりの郁弥にわかれた。ゼロから始めて隣りに並んだ、そのはずだったのに。
 この、目の前でいやらしく揺れる身体の深い深いところ、肚のなかで、夏也と郁弥が混ざってひとつになっている。
 ちゅっと、ひと際おおきな音を立てて濡れた感触が離れていった。もう白のない手のひらの向こうで、夏也が俯きがちにささやく。
「ごめ」
「謝らないで」
 シーツに落ちた郁弥の声の代わりに、夏也のおもてが上がる。
「……郁弥」
 ごめんな、ということばは、到底聞けるものではなかった。
 誰だって、何にだってなれる。さなぎの中で溶けてあたらしいかたちをつくる。桐嶋夏也が選んだかたちはぼくらの始まりによく似ていて、けれどまったくちがう、もっとずっと不健全なかたちだった。それだけだ。
 なのに、謝られてしまったら。さなぎの前の幼い体も、そのすがたを選んだ理由も、ぜんぶぜんぶまちがっているようで。
(桐嶋夏也に選ばれたひとりの桐嶋郁弥が、否定されたみたいじゃないか)
 そんなのは惨めすぎる、息ができない。
 息の継ぎ方を忘れた郁弥は、昔のように救いを求めた。喘ぐくちびるを夏也に差し出して、応える夏也が自分のそれを重ねてくる。まるでキスみたいに酸素と二酸化炭素を混ぜて、合わせて、郁弥は息を吹き返す。
(例え兄貴とぼくが、まちがっていたとしても)
 水面から顔を上げるときと同じ呼吸音。プールで聞くよりも密やかな音を、ふたりで響かせる。
 ゼロに近い距離で見つめ合うひとみは、同じかたちをしていてもちがうものだ。きっとお互いがまだお互いを知らない、はじめましての人間だ。
 ちいさくて、いびつで、ほころんでいた郁弥の世界が、桐嶋夏也を呑み込んでまろく全きかたちになっていく。
 潤みを湛えた夏也のひとみの中、郁弥の影が揺れている。波紋を広げて、長い睫毛が伏せられる。そうして逸らされた視線の先で、郁弥よりもずっと大きくて骨ばった手がきゅっと、しわだらけのシーツを握っている。
(だってこんなの、)
 すこし顔を離せば、赤があった。舌や内蔵のなまなましさとはちがう、春の花みたいな淡い赤だ。まるで恋の象徴みたいな色は、夏也が頬を染める色だった。
(兄貴じゃなくて、母さんじゃなくて、父さんじゃなくて)
 桐嶋郁弥にとって万有たる桐嶋夏也が。
 数あるかたちから――を、選んだだけじゃないか。
 すっかり汚れを拭われた手で、夏也の肩を掴む。そのまま伸び上がって、うっすらと雫を結ぶ夏也の睫毛に舌を伸ばした。塩っぱい味がじんわりと郁弥の中に広がって、口の中で唾液と混ぜあわせる。またひとつになったそれを唇と唇でわけ合えば、まるく開かれた夏也の目とさらに赤みを増した頬が郁弥の誰かを刺激した。
 誘われるまま、郁弥はしわくちゃのシーツの海に夏也を沈めた。