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開放型三角関数

 ふう、ふうと、忙しない呼吸音が響いている。自室のラグの上に座り込みベッドに背をもたれかけさせた尚は、頭上から落ちてくるそのほんのりと湿ってくぐもった音を雑誌を捲る音で上書きした。
 雑誌は、夏也が持ち込んだ週刊漫画だ。部活帰り、今日お前の家に寄っていいか、と言われて、尚は特に思うところもなく頷いた。ああ、したいんだな、と思っただけだ。
 夏也は尚の応えをわかっていたくせに、よかった、なんて殊勝にも喜んで、帰路立ち寄ったコンビニでこの雑誌と一個百円のプリンを買ったのだった。 
プリンの方は手土産か礼か、あるいは詫びのつもりだったのだろうか。今更だし、お互い中学生なのだからそんな気を遣わなくてもいいのに、と思う。このプリンも夏也が親からもらったこづかいから捻出されているのだろうから。
(そこに気を遣うよりも、もっと根本的に改めるべきところがあるだろうに)
 尚はしみじみと思うのだが、すべて思うだけで口にはしなかった。代わりに夏也の買ってくれたプリンを食べ――おいしいのだが内容量わずか百五グラム。マネージャーとはいえ部活後の男子中学生には少々物足りない。すぐに食べ終わってしまう――夏也が買った雑誌を読んでいる。
 紙面では、ヒロインが主人公のベッドの上でしどけなく眠っている。その現場に意図せず居合わせてしまった主人公がシャツのはだけた胸元だとか制服のスカートから覗く下着ギリギリのふとももに理性を試されている、というシーンだ。翌週に持ち越しらしく、赤面して生唾を飲み込む主人公のコマに、どうする××!? なんて主人公を煽る文句を被せて終わっていた。
 尚は雑誌を閉じた。ついでに目も閉じて、背後からの音と背中から伝わる振動をシャットアウトする。
 ふだんは引っ込み思案で清楚なヒロインが、主人公の布団で無防備に眠っている。そんなラッキーなシチュエーションありえない。ありえない、とは思うが、これは漫画だ。この漫画には他にも三名ほどヒロインが存在するが、尚のお気に入りは黒髪ロングの清楚系なこのヒロインだった。少年誌なので濡れ場まではいかないだろうが、下着や胸の谷間なんかは大いに描いてくれる漫画なので来週に期待である。漫画という、虚構の世界は実にいい。
 それに比べて現実は。
 尚は漫画を目前のローテーブルに置いて、首だけで背後を仰いだ。ふうふうという音はさっきよりももっと小刻みなリズムに変わっている。それからベッドの振動も、ぎしぎしと小さな悲鳴を上げる程度には大きくなっていた。
「夏也」
「っは、ぁっ、何……」
 返事すら、あっという小さな喘ぎ声にかすれて消えていく。裏返りつつ喘ぐのは聞き慣れた、低い、正真正銘男の声だ。
 現実は、ちっともよくない。ラッキーなシチュエーションもエッチなドキドキもない。黒髪ロングの清楚系な女の子が自分のベッドでしどけなく転がっているなんて、ありえないのだ。今尚のベッドに転がっているのは、やわらかなラインとはほど遠い骨ばって筋肉質な身体をした友人だった。水泳部部長、桐嶋夏也。悲しいかな、男である。
 ベッドの端に頬杖を突く。尚の視線に気づいたのか、夏也はうっとうしそうに薄目で見返してくる。口元にはまだらに色を変えた青いチェック模様の布を押し当てていた。
 尚にも見覚えがある。今日の二時間目、化学の実験の後夏也が試験管を洗って濡れた手を拭こうとしたとき。まちがえて持ってきちまった、と話していた、彼の弟の――郁弥のハンカチだ。
 朝はまだきれいに折りたたまれていたハンカチは、ぐしゃぐしゃになっている。下着や水着じゃあるまいし兄弟のものだから使えばいいのに、夏也はハンカチを大事にポケットにしまいこんで尚に拭くものを貸してくれとねだってきた。だから夏也はあのハンカチを一切使っていない。そんなハンカチがまだらに色を変えているのは夏也の涎を吸い込んでいるからだ。
 尚のベッドに横たわる夏也は左手で郁弥のハンカチを握り締め、口元に当て、涎を垂らしながら喘いでいる。尚はため息をついて夏也の右手の行方を追った。下着ごと制服のズボンをずり下げて、濡れて勃起するペニスの奥に伸ばされている。
「なんでアナニーまでいっちゃうかな」
 くちくちと微かに聞こえる粘った音は、夏也の精液だろう。尚がわずか百五グラムのプリンを平らげている間に、夏也は前を擦って一度射精していた。そこで満足すればいいのに、出した精液を潤滑剤に夏也は右手の指をアナルに出し入れしている。
 自分の吐き出した中学生らしくない単語にまたため息が漏れた。こんなことば、覚えたくなかった。知ったのは夏也のせいだ。尚は少々露出の多い少年漫画を読んで、エッチだな、と思って満足する程度にふつうの、男子中学生らしい性癖をしている。なのに夏也ときたら。
「ふっ、ふ、んっ……ょうがねぇ、っだろ、ん」
 開き直って郁弥のハンカチに鼻先を押しつけ、思い切り息を吸い込んでいる。何がしょうがないのかはよくわからない。
 腕の向こう、はだけたシャツから覗く胸元に、やわらかくたわわな膨らみなんて一切ない。あるのは水泳に特化した筋肉と脂肪の厚みだけ。ふとももは丸出しだが、ギリギリ下着が見えそう、なんてときめきはないし、濡れて勃起したペニスが丸見えだし、筋の浮いたふとももは引き締まって固そうでちっともそそられない。
 現実は、よくない。ほんとうによくない。
「はっ、ぁ、っくやぁ……」
 尚が声をかけたことで開き直ったのか、夏也は濡れた声で弟の名前を呼んだ。
 こいつは部活の後、「今日、尚の家に寄って帰るから遅くなる」なんて郁弥に告げたとき、一体どんな顔をしていたのだろうか。更衣室で話していたから、部長の顔だっただろうか、あるいはわだかまりが解けて以降見せるようになった、兄の顔だろうか。まさか今ここで尚の前に晒している、だらしのない雌みたいな顔ではないだろうけれど。
 頷いて遙たちと共に更衣室を出る郁弥を見送ったあのとき、あるいはまちがえて持ってきてしまったと気づいたあのとき。いつから夏也はこの郁弥のハンカチをオカズにしようと思っていたのだろう。
 呆れて肩をすくめても、夏也が尚の様子に気づくことはない。目を閉じて眉間をぎゅっと寄せて、弟のハンカチの匂いを吸い込みながら尻の穴をほじっている。
 今の夏也にとって尚なんか、いるだけ邪魔なのだ。ここは尚の部屋なのに。
 けれど尚は家でやれ、とは言わなかった。家だと隣の部屋に郁弥がいるから、お前の部屋でさせてくれないか。そんな夏也の、ちょっとばかり頭のネジが外れた懇願を受け入れたのは他ならぬ尚だから。
 一体どんな妄想に耽っているのだろうか、夏也は少し身体を丸めて小刻みに震えている。たぶん右手の指はさっきよりも奥に進んでいて、いくや、いくやと荒い呼吸の合間に弟の名前を呼んでいる。尚の前で。
 こんなことは今日が初めてではない。郁弥の名前を呼びながら自慰に耽る夏也は既に、よくないことに、見慣れたものだった。言いたくはないがこのおかしな状況に、尚はとっくに慣れている。強いて言うなら夏也が弟の私物をオカズとして持ってきたことは初めてだ。いつもはケータイを開いて、その小さな画面を見ながら慰めている。何を写しているのかは知らないし、知ろうとも思わないけれど。
 そんなことまで把握している程度に慣れている、だからといっておもしろいかというと、まったくおもしろくない。尚とてどうせ自分のベッドに転がってくれるのなら女の子のほうが絶対にいいし、おっぱいが大きい清楚系の女の子ならもっといい。何が悲しくて男の、友人の、桐嶋夏也のオナニーを披露されなければならないのか。しかも夏也は、尚のことなんて見ていないのだ。
 頬杖をつきながら、夏也の顔を覗き込む。ほんのりと頬を紅潮させて、切なげに眉根を寄せて、ハンカチに顔を埋めている。伏せられた睫毛が意外と長いことを、尚はずっと前から知っている。その睫毛の上に、ちかりと光るものが乗っている。
 涙の珠がひとつ、乗っていた。夏也が喘ぐたびにふるりと揺れて、落ちそうで落ちない。こいつ、本当に睫毛長いな。そう思って、敢えて目元だけに注目して夏也を眺める。
 夏也はこれで結構な女顔だ。短く揃えた髪や普段の素行や、水着の印象の強さからそうと気づかれにくいが、クラスの女子たちよりもずっと睫毛が長く、瞳が大きく、しかも二重だ。勘のいい女子の数人が夏也の目元のパーツの良さに気づいて羨んでいるのを尚は知っているし、夏也が密かに女顔を気にしているのも知っている。
 尚はすっと手を上げた。中指と薬指の間を開いて、隙間から夏也の目元だけが見えるようにして覗いてみる。
 赤い目元に、泣き濡れた睫毛、悩ましげに寄る眉間のしわ。
 目元だけを見てみたら、ありかな、と思う。
 はだけた胸元は理想とは違うし、スカートから覗くふとももだってない。黒髪ロングの清楚系ヒロインには遠くおよばない。
 けれど、この視界の限りの夏也ならあのヒロインよりもずっと、クる。
 尚は一度手を下ろして、ベッドの上に乗り上げた。ぎしりと大きくベッドが軋んで、半ば夢の世界に行っていた夏也が目を開く。睫毛に乗っていた涙がぽろりと落っこちて、それがもったいないと思った。
「な、お」
「俺もする」
 いいだろ、と付け足せば、夏也は一瞬視線を彷徨わせて、頷いた。返事より先にベルトを外しズボンの前をくつろげていた尚は、うずくまる夏也の身体に覆い被さった。
 これも初めてではない。夏也が尚の部屋に来るうち三回に一回ぐらいはこういう流れになる。最初こそ尚の行動に驚いていた夏也だが、部屋代の代わりだと言えばおとなしく頷いた。そもそも頭のおかしい行動に先に出たのは夏也なので、驚かれる筋合いも拒否される道理もない。
 百五グラム百円のプリンが付き始めたのはあれからだったな、なんて薄っすらと思いながら、尚は下着から取り出した自分のペニスを扱き始めた。四つん這いの姿勢で夏也に覆い被さっているため、互いの身体は触れそうで触れない。
 夏也は尚の動きを横目で見守っていたが、尚が自慰を始めてからは安堵するように目を閉じて行為を再開した。ふっふっとハンカチの匂いを吸い込んで、右手でアナルを捏ねて、また郁弥との妄想の世界に浸ってゆく。尚が何をオカズに自慰を始めたかなんて、考えてもいないだろう。
 いくら女顔とはいえ、似通った容姿の弟によくもここまで欲情できるものだ。いや、夏也は突っ込まれたいみたいだから女顔は関係ないのか?
 そんなことを考えながら、また夏也の目元だけを見つめる。こうして女みたいなつくりだけを見ていると、声まで女らしく聞こえてくるのだからふしぎだ。すすり泣く声に感じ入りながら、あー、声に息が混じるのエロいな、まで考えて、手の中の自分のペニスが角度を増すのがおかしかった。
 後ろだけを刺激している夏也はなかなかイけないらしい。いつも後ろをいじるときは左手で前を擦っているのに、今日はその手にハンカチを握っているせいだ。
「ひっ、んく、ぁ、あっ、あぅ」
「夏也」
 心なし喘ぎ声にも泣きが入っている。見かねて名前を呼べば、呼ぶな、とでも言いたげに薄く瞼が開かれる。
 尚は構わず、夏也があんなに大切にしていたぐちょぐちょのハンカチを取り上げた。
「なっ! 尚、何しやが――んぶっ!」
「ほら、これでいいだろ」
 こんなに涎を垂らすぐらいなら、いっそ食べてしまえばいいのだ。声が聞こえなくなるのは残念だけれど。そんな思いでハンカチを夏也の口に突っ込んでやったら、夏也はばちりと睫毛が鳴りそうなぐらい大きく目を瞬かせた。
 本当は左手ごと、ハンカチを被せて夏也のペニスを扱かせてやってもよかったのだけれど、そうすると夏也はきっと、弟を汚した、みたいな絶望した顔をするだろうから、やめた。代わりに空っぽになった手を導いて、夏也自身のペニスを握らせてやる。ついでに尚の勃起したペニスを押しつけてやれば、んん、と声が上がった。
「はは、何言ってるかわからない。ごめんね、夏也」
「んぐっ!? ん、んんっ!」
 見開かれた夏也の目に、尚が映っている。信じられない、とでも言いたげな顔に微笑みかけて、尚は夏也の手のひらごとペニスを掴み、自分のそれとまとめて両手で扱き上げる。びくんっと夏也の身体が跳ねて、アナルを弄っていた指が抜けた。
 尚の手の中で、今まで放置されていた夏也のペニスが強すぎる刺激に震えている。後ろでの自慰が癖になっている夏也だが所詮男だ、前への刺激の方が気持ちいいに決まっている。……将来はどっちの方が気持ちよくなるのか、それはわからないけれど。そこまでは尚の案じてやることではない。
「ん、ん、んっん」
「はっ……夏也の、目、」
 口からチェック模様のハンカチをはみ出させて、夏也は尚を見上げている。さっきまでいないもののように扱っていた尚を。郁弥ではなく。
 その事実に優越感を覚えている。尚は自分でも気づいている。
「好きだな」
「んんっ」
 耳元に顔を伏せて囁やけば、ぶるりと夏也の身体が震えた。濃く甘く香る夏也の体臭に、けれど尚は傷つけてやりたいとすこしばかり思った。
「きれいで、……っは、おれの、目、とちがって」
 ハンカチの奥で、息を呑むような音が鳴った。
 強張った。夏也の身体は震えさえ止めていた。じわりと水を滲ませて、尚の好きな目をこぼれんばかりに見開いている。そこにはもう、尚しか映るものはない。
 夏也はきっと、尚の目を見ている。手術も処置も終わって、今は特に不自由もなく見えている尚の瞳。もしかすると夏也の思考は二年前まで遡って、俺が尚を水泳部に誘わなければ、とまで考えているかもしれなかった。今までとはちがう、瘧のような震え方をする身体を見るに間違いないだろう。
 勘違いをするように仕向けたのは尚だけれど、勘違いをする夏也がかわいそうで、かわいい。口に咥えたハンカチが誰のものかなんて忘れてしまって、尚だけでいっぱいになっている夏也は、ベッドでしどけなく眠る黒髪ロングの清楚系ヒロインよりもずっと下半身にきた。
 ペニスを擦っている右手をひとつ外して、震えをなだめるように夏也の腕に触れた。途端にちいさく跳ねる夏也は、いい。この現実は悪くない。
「冗談、だよ」
「んっ……」
「せっかくだから、いっしょにイこうか。夏也」
 何がせっかくなのか、自分でもわからない。けれど夏也はそのおかしさに気づくこともなく、尚のことばに脱力して何度も頷いていた。許された、とでも思っているのだろうか。
 許してるよ、最初から。いじわるしてごめんな。
 だって郁弥を想って俺の前ですすり泣くお前は、お前が。
 決して声にはしないことばは尚の頭の中で溶けて消えて、二人分のペニスを擦るうちにどこかへ行ってしまった。
 セックスなんてしたことはないけれど、たぶんこんな感じだろうな、と思って腰を振れば、夏也の腰も尚を追いかけて揺れていた。尚に巻き込まれるままだった手で尚のペニスを擦っていて、尚は夏也のペニスだけを擦ってやる。
 やがて濡れた布に吸い込まれながら嬌声が上がり、尚も詰めていた息を吐き出して射精した。
 手のひらが夏也の精液で濡れている。視線を落とせば夏也は長い睫毛をたっぷりと濡らして、放心したようにうつろな目をしていた。その頬は上気したままで、だからおかしくなっているわけではないだろう。そんな成人向け漫画みたいなこと、そうそうないと思うが。
 手のひらの夏也の精液をシーツに擦りつける。どうせこの後洗濯するから構わない。そうしてきれいになった手で、夏也の口からはみ出すハンカチを抜き取った。たっぷり濡れて重くなった布に、つっと夏也の唾液が糸を引いている。
 その透明なつながりが、ふつり、と途切れる。尚は曖昧に笑って、夏也の唇から垂れる涎を指先で拭ってやった。