×

精青のバベル

 芹沢からも言ってやってくれ。渋面を浮かべながらの顧問の台詞には、はあ、としか答えられなかった。はい、ではなく、はあ。
 尚自身は返事をしたつもりだったが、もしかすると溜め息程度にしかなっていなかったかもしれない。それでも咎められなかったのだから、顧問も尚の返答には期待していなかったのだろう。そもそも渋面で眇められた目は曖昧にあさっての方を向いていた。話題にしたくなかったに違いない。当たり前だろう、尚も当事者もまだ中学生である。
 尚とて聞きたくはなかった。知ってはいたけれど、言葉にしてしまいたくなかった。それがよりによって、顧問に。大人から釘を刺されるなんて――つまり事態は尚が思っていたよりも酷いのかもしれない。
 職員室を辞した尚は、決して軽くはない足取りで教室に向かう。一月の校舎はしんしんとして冷たい。真っ赤な西日が曇った窓ガラスから差し込んでいたが、熱量はなかった。土曜の夕方、上階の特別教室や遠く体育館、グラウンドの方から部活動の喧騒は届くものの、廊下には誰の姿もない。尚の影だけが、冬の陽に長く伸びている。
 もしかしたら、もう帰っているんじゃないか。らしくなくそんな後ろ向きな希望を抱きつつ、尚は一度足を止めた。目の前には閉ざされたドアがある。プレートに掲げられた学年は二、尚の、そして――夏也の教室である。
 一度息を吸って、ドアを、開く。
 がらんどうの教室は、薄く茜色に染まっている。その教室の真ん中に人影があった。机に突っ伏して丸くなった背中が霞んでいる。舞い落ちる埃だけがちかちかと光っている。
 消え入りそうな背中は見間違えようもなく、桐嶋夏也のものだった。ドアが開く音に気づいていないはずもないのに、微動だにしない。尚はまた、はあ、をこぼした。茜の空気に吐息が白く濁っていく。
 少し露骨すぎるくらいに足音を立てて、夏也の元に近づく。夏也の背中は消えずにその場に留まって、ただそれだけだった。少しだけ躊躇って、尚は夏也の机の端に腰かけた。触れそうで触れない二人の距離を、冬の空気がわだかまる。
「……ちょっと最近、派手なんじゃない?」
 すうっと、落ちて溶ける六花のようなことばと声を、いつにもまして意識した。
 けれど二人の温度は零度のまま、夏也は尚の気遣いを踏み潰して跡を残していく。
「避妊はしてる」
「…………」
 あまりに直截的な物言いに、今度は、はあ、すら出てこなかった。
 見下ろした夏也の頭は、尚ではなく窓の方へと傾いている。話したくないのだろう。じっと冬の空を見つめる横顔、その頬が夕日以上に真っ赤に、手のひらのかたちに染まっている。
 尚とて話したくない。昼食時の賑やかし程度に交える猥談ならまだしも、鼻先を突き合わせて訥々と、つまり説教のように話したい内容ではない。尚も、夏也も、まだ中学生なのだし。ここは学校だし。
 けれど言ってやらないわけにもいかない。顧問に言われたから、ではなく、尚が夏也の友人として看過できないと思うから。それから――思い違いかも知れないが、原因に心当たりもある。
「……彼女を取っ替え引っ替えして、ところ構わずセックスして、あちこちでトラブルを起こすのはやめろ、なんて」
「……」
「俺、言いたくなかったんだけど。何、今日は避妊がどうこうの話にまでなったわけ?」
「次にこんなことがあったら家に連絡する、部活も考えてもらうことになる、の、後。俺だけ残されて最後に言われた」
「寛大な処置に感謝だね、恋愛沙汰で指導室行きになった時点で相当だけど。元彼女に殴られたのは?」
「指導室入って即行」
 ああなるほど、目の前で殴られるところを目撃したから生活指導担当の教師も今回は多少甘く見逃してくれたんだな、などと納得する。尤も夏也に告げた通り、周囲を顧みない痴話喧嘩で彼女もろとも生活指導室に引っ立てられる時点で相当だし、担任のみならず顧問の教師にまで伝えられているあたりどうしようもない。持て余した顧問から尚にまで話がきたあたりはもう、つまり教師陣も持て余しているのだろう。
 はあ、と。今度は自然、溜め息になった。
 夏也の猫みたいな目がちらりと見上げてきて、視線がかち合う。
 本当は、もっとうまくやれよ、とか言って背中を叩いて、ある程度見ないふりをしたいのだ。実際、最初夏也の恋愛事情を察したときは気づいていないふりをしていた。
 いくら友人とはいえ尚は他人の恋愛に口を出したいとは思わない。そんなの、好き好きだし。お互いにまだ中学二年生なのにどうだ、とは思うけれど、夏也は異性関係に、ひいては性にだらしないんだな、で終わることだし、だからといって軽蔑もしない。一度快感を知ってしまえば性行為に夢中になるのも仕方ないだろう、とも思う。若いんだから。男子中学生高校生の特権として、サルみたいに発情するのも悪くないだろう。
 だが今はもう、放置しておくわけにいかなくなった。このままだとますますエスカレートしそうだし――何よりもう、夏也は夏也一人の体ではないのだ。
「お前、もう部長になったんだぞ」
「……」
 せっかく重なった視線は、すいと逸らされてしまった。だが尚は逃さない。
 快活で、向上心があって、自他に厳しく、リーダーシップがある。少し暑苦しいこともすぐ頭に血が上ることもあるけれど、いいやつ。
 クラスでも部でも、夏也はだいたいそういう評価だった。だからこそ二学期末、三年生の退部に際して夏也が次の部長に選ばれたのだろう。部内の誰も何も言わず拍手で新部長を迎えたのは、みんなが夏也をそういう前向きな人間だと疑っていないことの証左だ。
 だが夏也には案外、逃げ癖がある。笑顔で卒のないことばを選びながら、快活な桐嶋夏也を取り繕って、でも意識的無意識的を問わず逃げる場所を探す癖がある。尚はそれをよく知っていた。そしてそれとなく退路を塞いで、無言で、笑顔で、きちんとした決断を夏也に迫るのは尚の役目にだった。
 夏也とのそういう関係を、煩わしいと思ったことはない。尚を前に逃げ場を失った夏也を見るのはわりと楽しかったし、太陽みたいな夏也の翳りに尚だけが気づいているという事実には後ろ暗い喜びみたいなものを覚えていた。
 だがそれも、余裕があったからこそだ。今は――今の尚は、そう思う。
 いつものように逃げる夏也を、いつもより急き立てて囲い込んでいく。
「お前が何かやらかしたら、水泳部全体に響くんだぞ。お前個人のトラブルで部活動禁止とか、部員全員公式大会出場禁止だってありうる」
「……に」
 夏也がちいさく、何事かを呟いた。聞こえなかったふりをして、尚は続ける。
「今は陸トレメインで水泳部らしい活動はしてないけど、お前が水泳部の部長だっていうのは間違いないんだ。一度のトラブルで一ヶ月先、学期間、年単位での処罰だって下りかねない。四月になれば新入部員だって入ってくるだろうし、お前がこんなままじゃ――」
「……っ部長に」
 机についた指の先で、夏也の身体が弾けた。
 紅い残滓の中、埃がぶわりと舞い上がっている。瞳を刺すガラス片みたいだと、尚の脳みその内の呑気な部分が思っている。
 その鋭い光に叩きつけるような音。けたたましい悲鳴を上げて倒れる椅子と、夏也の大音声。
「部長になったから、いつでもなんでもお行儀よくしてろって言うのかよ! っそれに、」
 立ち上がった夏也の影は、冬の冷たさに溶けてしまいそうに霞んでいた。ただ眦を吊り上げた瞳だけが、尚の眼を貫いていた。
「部活動停止とか、関係ないだろ! もう泳げないやつには!!
 壊れかけた尚の網膜に、酷く憔悴した夏也が灼きついた。
 視界が白く濁っていく。最近知覚した網膜剥離のせいではなく、肩で息をする夏也の呼吸が冷えて白くなっているせいだった。乱れた空気が静かに落ちていくさまを、尚は教室の中を漂う埃の光で見ていた。それは二人の間に横たわる沈黙そのものだった。
 たぶん、怒る、とか、失望する、とか、そういう感情が必要だったのだろう。それをすぐことばにするべきだったと思う。
 けれど尚は――そういう激情をひとつも覚えなかった。
 ただ、悪いな、と思った。
 もっと上手に、夏也を諭してやらなければならなかったのに。それが芹沢尚という人間だったのに。でもそれだって、尚が夏也より余裕を持っていたからできたことで、それはもしかすると、夏也にとっては、嫌なことだったかもしれなくて。
 最初から、間違っていたのかもしれない。夏也に逃げ場所を探す癖をつけてしまったのは、尚だったのかもしれない。尚がいつも、夏也の逃げ場所を塞いでやることを知っていたから、夏也は逃げていたのかもしれない。
 今の夏也も、そういうことなのだ。性に溺れて、乱れて、荒れている夏也は。たぶん。
「ごめん」
 自然、声が出た。ほんの小さな呟きだったけれど、静かな教室には存外と響いた。
「ぁ……」
 俯いていた夏也が、のろのろと顔を上げる。見開かれた瞳がちいさく揺れている様を、尚の瞳はまだ捉えられる。
 今の荒れた夏也。怯えた夏也。きっと自分がきっかけだ。
 今までずっと、たぶんきっと、芹沢尚という人間は傲慢なぐらい夏也のそばにいて、桐嶋夏也という人間を作っていた。なのに、こうなってしまったから。
「俺も、余裕ないんだ」
「……っ!」
 ひゅっと、夏也が息を呑んだ。
 泳げなくなって、夏也の逃げ場を塞いでやれなくなってしまったから。
 夏也のそばを離れそうになっているから。
 知らず閉じていた瞼の裏が、揺れた。はっとして目を開けば夏也の頭がすぐそばにある。俯いて、鍛え上げた肩を縮こまらせて震えて、尚の腕に縋りつく夏也がそこにいた。
 震えとともに吐き出される声が、細く白く消えていく。ひゅうひゅうと空気が鳴っている。
「っご、めん……尚、おれ、なお、……んなことッ」
「わかってる。わかってるから、大丈夫だから。ゆっくり息しろ」
 腕を掴む夏也の手に、そっと手のひらを重ねる。はっきりと筋が浮いた手の甲に、真っ白くなった指先。寒さのせいだけではないだろうそれを強く握った。夏也は一度びくりと震えて、それから少しずつ、息を吐いていく。
 指先の強張りが解けていくと同時に、ずるずると下がっていく夏也の身体を、脇に手を差し入れて支えてやる。最後には二人で床に座り込むかたちになった。膝をつく夏也はそれでも尚の学ランから手を離さず、尚は胡座をかいた格好で夏也を支えてやる。
 ぱたぱたと、木目の床に水が落ちる音がする。被せるように、夏也の声。
「俺っ、おまえが、おまえまで、」
「うん」
 まだ震えている声に、宥めるように頷きを返す。見えはしなかっただろうが、夏也は尚の袖を掴む手に力を込めて答えた。
「郁弥とも、ずっと……話せなくてっ、……びしくて、」
 郁弥。桐嶋郁弥。
 夏也の弟のことは、尚も知っていた。話したことはないが、夏也の家を訪れた際何度か見かけた記憶がある。夏也と違って随分と線が細い印象の、けれど夏也と同じ猫のような目をした子だった。目と目が合った瞬間に睨みつけられすぐに尚と夏也の目の届かないところに行ってしまうので、その目の強さだけはよく覚えていた。
 そして尚は郁弥の名前と顔だけでなく、夏也とのわだかまりについても知っていた。岩鳶中学校に入学して知り合ったばかりの夏也は、水泳部への勧誘の次に郁弥の話題を口にしていた。曰く、いつも後ろをついてくる、将来一緒に世界にいくと約束した、自慢の弟なのだと。ただでさえ太陽みたいな夏也の顔がいっそう眩しく輝くのは、決まって郁弥の話をしているときだった。
 けれどその光は徐々に薄まって、今やもう夏也の暗い影になっている。尚が夏也の押しに負け、水泳部に入部して以降、尚が夏也を知って仲を深めていくのに反比例して、夏也から郁弥の話が出ることはなくなっていった。
「でも尚、なおが、お前が、いるからっ……」
「……うん」
 夏也と郁弥はきっと、二人だけだった。でも夏也は中学生になって、水泳部に入って、SCもやめてしまって、そうやって世界を広げた。尚も夏也が広げた世界のひとつだ。
 ただ尚は、夏也の近くにいすぎたのかもしれない。
 そして郁弥は、夏也の広げる世界を受け入れられなかった。
 夏也から郁弥は遠ざかって、尚と、尚を含む新しい夏也の世界が残った。
「おまえまで、いなくなったらって、っそれが、つ、らくて、」
「うん、夏也は、寂しがりだからな」
 夏也は決して友人が少ないわけではない。むしろ多いほうだろう。同級生も上級生も下級生も、水泳部以外のやつでも、尚の知らない誰かに夏也はよく声をかけられている。人当たりが良くて、明るくて、付き合いやすいやつだから当然だ。
 なのにその夏也は、弟と、尚の名前だけを出して怯えている。
 夏也。郁弥。そして自分。気づいていたのだろうか。少なくとも自分は気づいていたはずだ。郁弥を突き放したのだと、眉を下げて笑う夏也の寂しさに、陰に。……ならば気づいていないふりをしていたのだろうか。自分だけが知っている夏也の陰を、喜ぶばかりで。夏也の逃げ道を塞ぐことで、夏也の一部になってしまって。
 思わず下唇を噛んだ。
「なおも、いなくなるって思ったらっ、だれかに、いてほしくて、でも、お前も、郁弥も、いないならって、どうでもよくなって、おれ、最近ずっと、っ、おかしく、て」
 夏也が、脱力する。脇に手を入れるだけでは支えきれず、胸元まで夏也を引っ張り上げた。猫の毛のようにふわふわと跳ねる夏也の髪が尚の頬をくすぐったが、去来するのは苦い感情だけだった。
 肩口で、夏也が啜り泣いている。
「ひどいこと、おれ……ごめん、ごめん……!」
「いいよ。俺も、ごめんな」
 お前を、一人でいられなくさせて。
 思い違いではなかった。夏也がこんなふうに彼女を取っ替え引っ替えしてトラブルを起こしていた発端は、自分だったのだ。夏也は弟だけでなく尚までもが離れていくと思ったから、どうしようもなく寂しくなって、誰かに寂しさを埋めてもらいたくて。
 ――でもたぶん、それを埋められるのは世界で二人だけなのだ。
 夏也の頭に口元を寄せる。唇をくすぐる夏也の毛を食むようにしながら、ゆっくりと、夏也を囲うことばを選んでいく。
「俺は水泳部はやめないよ。確かに泳げないけど、マネージャーになる方向で先生と話もつけてきたところだ。出て行けって言われても水泳部に居座るからな」
 ぐず、と夏也の鼻が鳴る。
 もう、いいだろう。夏也の頭から顔を上げて、天井を仰いだ。頭上ではちらちらと、埃が光になって舞っていた。
「……俺は、お前に誘われて水泳を始めた。最初は渋々だったけど、今はお前なんかよりずっと部活のこと気に入ってる」
「……知ってる」
「だろ」
 ようやく返ってきた憎まれ口に笑う。胸元の重みが少し浮いて、離れていく距離に安堵と不安を覚えた。
「俺は結構諦めが悪いんだ。だから、夏也が勝手に俺を諦めるな」
 夏也と自分は、こんなに距離の近い人間ではない。
 夏也と自分は、一分の隙間もないぐらい近くて、離れがたい人間だ。
 どちらが正しいのか、どちらであるべきなのか、わからなくなる。だから尚は微笑んで、夏也の逃げ道を塞いでやった――塞いでしまった。
「もう、やめろよ。彼女取っ替え引っ替えとか、そういうの」
「…………」
 返事はなかった。
 ただ緩慢に、夏也の頭が上下した。
 はあ、と。白く息を吐く。浅く沈んだ夏也の頭が、のろのろと持ち上がる。元彼女に叩かれた頬を赤く腫らして、猫みたいに鋭い目元をそれ以上に赤く滲ませて、きらきらと光る水を浮かべた目で、尚をまっすぐに見ている。
 夏也はきっと、何も考えていない。今尚が何を考えているか、何を夏也に選ばせたかなんて考えもつかない。そして夏也は気づいていない。身体まで繋げた彼女たちが埋められなかったものを、誰が埋められるのか、なんて。そもそも夏也はどうしたかったのか、どうされたかったのか、なんて。
 いつもは高い位置にある夏也の顔が、目の前にある。まろく滲んだ友人の目を、尚はじっと覗き込む。
「俺が、いるから」
 この猫みたいな目も、意外と長い下睫毛も、いつか見えなくなるのだろうか。などと考える。医者と親とを交えて話した結果、手術をする方向で検討しているから、全く何も見えなくなる、という心配はしていないけれど。
 もしもそんな日が来るとして、尚の目に夏也が映らなくなってしまったら。そのとき夏也はどうなるだろう。
 今は不思議と、そんなことだけが気がかりだった。そうはさせないと思っている自分がおかしくて、笑った。夏也を追い詰めた余裕のなさが、今は遠い。
「……俺は、いるから」
 夏也は逃げない。逃げられない。
 どちらとも確信はできないままに、薄く開いた唇に自分の唇を重ねた。ひんやりとした感触。触れるだけのそれ。夏也は、拒絶しなかった。二人で唇を重ね合わせたまま、真正面から見つめ合ったままでじっとしていた。
 やがて互いの唇に、ほんの少しの熱と水が宿ったところで、どちらともなく離れた。
 はあ、と落ちた吐息も、白く濁った空気も、夏也のものなのか、尚のものなのかわからない。両方だったかもしれない。混ざり合っていればいい、と思った。
 ゆっくりと立ち上がる尚の眼下で夏也は座り込んだまま、二度、三度、静かに肩を上下させて呼吸をしていた。その背中はもう、霞んではいなかった。
「行こう。夏也」
 差し出した手の影が、茜色の中に長く伸びる。尚を仰ぐ夏也の表情にも陰があって、けれどそれは頷いた瞬間に揺らめいて、消えた。
 重なった夏也の手は零度よりも温かく、尚はこの瞬間だけ、無心で夏也を引き起こした。
 この熱を分けあって、夏也という太陽の温度になって、二人溶けて、寂しさを埋めてやりたい、なんて考えているのは、自分だけだろうか。例え自分だけだとしても、夏也にはもう選ばせてしまった。だから離してやるつもりはない。
 立ち上がった夏也はそれでも尚の手を離さず、握り締めてきた。それが答えだった。




 冬の日没は早い。カーテンが開け放たれたままの部屋は、薄い闇色に染まっている。
「尚」
「ん」
「重くないか」
 それは、どちらのことだろうか。
 白い天井から、胸元に乗った茶色い頭へと視線を落とす。夏也は尚の心臓の音を聴くような格好で、尚の身体の上に寝そべっている。
 触れ合った手は教室を出る頃には離れてしまったけれど、どちらも何も言い出さないまま、それでも夏也の家に来てしまった。二人してまっすぐ夏也の部屋に向かって、ドアを閉めた夏也が尚の手を引いてベッドに押し倒して――そうしてお互い学ランも脱がないまま、二人でただくっついて転がっている。
 問いかけた夏也は、じっとして動かない。尚の呼吸と同じタイミングで頭が上下するだけだった。
「重いよ」
 はあ、と息を吐けば、夏也の髪が揺れた。同時にぴくりと身体が震える。
 自分で尋ねたくせに、怯えているのだろうか。少しだけ呆れながら、夏也の襟のあたりを掴んで引き上げながら捻る。夏也が気づくよりも先に身体の上下を入れ替えて、一瞬の後には尚が夏也に覆いかぶさるかたちになっている。
 眼下、尚の影の中に光があった。夏也の瞳の中に宿るそれは存外と静かで、微かで、この先を待っているようだった。
 ないと知りつつも右肩の一点を押さえ、抵抗を封じる。厚く着込んだ制服の下、真夏の太陽に晒されていた夏也の身体のかたちを、骨の隆起を、筋肉の流れを尚は指先で思い描く。もしも見えなくなってしまったとしても、この指先が覚えていてくれればいい、なんて、一瞬考えた。
「肩幅がこれだけあればそりゃあね。まずタッパも……いつの間にか俺を追い抜いてるし。二の腕も俺より太いし。あとこの胸の厚さね」
「っん」
 肩から上腕へと辿って、厚着の上からでもわかる盛り上がった胸へと手のひらを乗せる。ちいさく呻く夏也を笑うつもりはなかった。だって、そういうつもりで触れ合っているから。
 この手のひらの下に、夏也の心臓がある。密度の高い骨と肉の真ん中の、これでもまだ未成熟な身体の端々にまで血を漲らせる肉の塊が。散漫な思考に酸素を届けて喘がせるいのちの核が。
 尚は呼吸とともに上下する己の手の甲を見つめる。夏也は目のやり場に困ったのか、ふいと顔を背けた。一応、状況は理解しているのだろう。冬であってもうっすらと日に焼けている夏也の頬が、この暗がりには白く映えていた。
「重いよ。……重くないわけないだろ」
 その白に唇で触れてみる。エアコンも入れていない部屋の中、晒された頬は冷たかった。
 唇に夏也の体温を乗せながら、指先ではもっと心臓の熱を感じたいと思う。学ランの下に着込まれたパーカーを捲り、その下のシャツをズボンから引っ張りだして、アンダーシャツの下まで潜らせてゆく。
 硬い腹筋に触れた刹那、夏也の身体が目に見えて跳ね上がった。
「ぁ!」
「……っ」
 予想外の声に尚の指先が止まる。自分でも気恥ずかしかったのだろうか、夏也は身体を捩って嫌がるような素振りを見せた。尚はとっさに左手で肩を押さえ、右の手のひらを夏也のへその下あたりに置いて動きを封じた。
 尚の指先が触れた箇所を中心にして、夏也の腹筋がうねった。そんな錯覚があった。生々しい、と思った。上擦った夏也の声がたどたどしくかすれている。
「ちが、指っ……冷てーから」
「あ、ああ。悪い」
 夏也もこんな声を出すのだ。
 夏也の寂しさを埋めるこの行為は、こういう生々しさを伴うのだ。
 避妊はしてる、という、無機質な夏也の声が耳の奥に蘇った。途端、夏也は彼女を家に連れてきてこのベッドで抱いたのだろうか、なんて考えてしまう。
 夏也が抵抗してくれたおかげで、逆に冷静になれたように思う。尚は夏也に気づかれないように深く息を吐いて、指先の感覚に集中する。
 滑らかな皮膚も、筋肉の流れもうねりも、夏也の温度を分けてもらいながら指先となじませていく。
「なあ」
 尚と夏也の体温がほとんど同じになったころに、夏也が声を上げた。
「ん」
「する、のか」
「お前もそのつもり、だろ」
 強張る夏也の声に引きずられて、尚まで変にことばを詰まらせてしまう。
 ごまかすように腹筋の溝の数を数えながら、胸骨の下をなぞって横腹まで指を滑らせてゆく。夏也はまた身を捩った。
「……お、」
「ん?」
「男同士でもできるのか?」
 尚の指先が動きを止めた。
 眼下の夏也は顔を背けたままで、けれど視線だけは尚を見上げていた。
 ここまできて、今更、じゃないだろうか。
「できるよ」
 即答して、尚は夏也の逃げ道を塞いでやった。
 揺るぎない尚の声に、夏也の瞳の光が揺れた。ちらりと壁のほうを見て、次にドアのほうへと視線をやって、また尚を見上げる。ゆらゆら、ゆらゆら、水面に映る太陽のように潤んで、揺れるひとみ。微動だにせず尚は夏也を見つめ返す。
 やがて夏也は深く息を吐いた。甘くて苦いそれを間近に感じて、尚は目を細めた。
「だったら俺は…………尚とがいい」
 その逡巡の間に、いったい誰を思い浮かべていたのだろう。
 なんて、疑問に思うまでもない。夏也の寂しさを埋められる人間は二人。俺じゃないなら、もう一人だ。
 どこまでも夏也とは不可分の存在に、ふっと笑いがこぼれた。夏也はどう勘違いしたのか、むっとしたように眉間に薄くしわを寄せている。
「……本当に?」
「ああ」
 慎重な、尚からすると大切な確認だった。なのに夏也はいとも簡単に頷いてくれる。今の夏也は何も考えていない、わけではないと思う。
 一応、念を押しておく。
「初めてだと大変らしいぞ」
「なんで脅すんだよ……男に二言はねえ」
 脅したわけではないのだが、ここまで言うということは夏也ももう引く気はないのだろう。
 なぜか尚のほうが諦めるような気持ちになっている。はあ、と溜め息をつけば薄暗がりでかすかに白く濁った。観念して、最後に大切なことを確認しておく。
「おばさんは?」
「今日は遅くなるって言ってた」
「……弟は?」
 夏也の視線がまた、壁のほうを――恐らくはその向こうの、今はいない郁弥に向けられた。
「SC。……八時までは帰ってこない、から」
「そうか」
 いけないことをしているみたいだと思って、いけないことをしているのだと思い直す。
 息を吸って、吐く。スターティングブロックに立ったときと同じように。視線の先にあるのは青い水面ではなく、未知の親友の身体だった。
「夏也」
 脇腹に差し込んだ手を滑らせる。押し上げるように夏也の厚い胸の肉を寄せて、掴んだ。
 女子のような胸ではないが、泳ぐためだけにできあがりつつある肉体だ。胸筋の上には薄く脂肪が乗っている。指の先にはうっすらと尖りが触れたから、少しきつく、抉るように爪を立てた。
 滑らかな肌の、やわい脂肪の中に浅く指先が沈んだ。
「ん、ぁ……やめ、ンなと、こっ」
 途端、びくんっと夏也の腰が跳ねる。足の間に片膝を割り入れて、太腿を押しつけて抵抗を封じる。
 右手で夏也のちいさな乳首を攻めながら喘いで反った首の後ろに左手を回した。首のくぼみを撫ぜ髪の生え際をくすぐってから、最後に手のひら全体で夏也の後ろ頭を支えた。そうして喘いで開かれた口にかぶりついた。
「ん、ふぅっ……ふあ、んむっ……ぅう」
 今までの唇同士が重なるだけ、のキスではない。舌を入れれば、夏也の口の中は熱かった。不意のことに何もできないでいる夏也の舌を自分の舌で絡めとる。ぬる、と滑る感覚にやっと夏也が抵抗を思い出したらしく身じろいだが、右手で胸を揉み左手で頭を引き寄せてやればすぐに動きは止まった。
 代わりに逃げ回り始めた夏也の舌を舌で追いかける。じゅる、とお互いの唾液が交じり合ってあふれて、唇の隙間から流れていく。
 べたべたに汚れることも厭わずに夏也の舌だけを追いつめる。絡めとって、吸い上げて、舌の裏も口蓋も頬の内側も余すところなく舐め味わった。
 甘いだろうか。苦いだろうか。どちらでもない。夏也の味がする。
 ああ、変態みたいだと、内心で尚は自分の思考を笑った。尚の舌に翻弄されるばかりの夏也は鼻や唇の隙間で荒く息を継いでいる。溺れているようだと思った瞬間、夏也の声が甘く鼻から抜けた。ずくんと、腰が疼くのを自覚する。
 じゅうっと唾液を吸い上げながら唇を離す。ぷは、と息を吸う音は水面から顔を上げたときと同じ、耳慣れた夏也のものだったが、口の周りをよだれでべっとりと汚し、どこかとろんとした目で浅く呼吸をする姿はまるで見たことのない、初めて会う誰かだった。
 夏也がこんな表情をするなんて知らなかった。想像したこともなかった。
 そして夏也のこんな姿を前にして、自分が何を思うか、とも。
 右手を夏也の胸から離せば、それだけで押さえ込んだ身体はちいさく跳ねた。そのまま抜き出した指で顎を伝う唾液を拭ってやる。夏也の目が二、三度瞬いて、それから徐々に表情を強張らせた。
「今までの彼女ともこういうキス、したか?」
 不規則にちらつく夏也の瞳の中の光を見ながら問う。尚の姿を瞳に結んだ瞬間に聞き入れたらしい夏也は、尚の腕の中で器用に顔を背けた。
「し、るかっ!」
「ないんだな」
 尚のことばに返事はなく、ぐっと喉を詰まらせるような音だけが返ってきた。明かりがあれば頬を赤く染める夏也が見えただろうか。
 そういえば以前訪れたときには、ベッドヘッドに据えられた小棚の上にルームランプがあったような気がする。左腕に夏也の頭を抱えたまま、伸び上がって右手で前方を探る。
「ッお前こそ、どうなんだよ」
「何が」
 胸元でふてくされたような声が上がる。視線をやることもなく、ランプを探しながらぞんざいに答えれば、夏也はやけだとでも言わんばかりに小さく叫んだ。
「誰かとこういう……キスとか、セックスとか、したことあんのかよっ」
 指先がランプとおぼしき丸いラインに触れる。スイッチ部分だと思われるところを文字通り手当たりしだい触っているうちに、ぱちりと微かな音がして橙色の光が灯った。
 明暗の変化に尚は目を眇める。夏也も眩しそうに肩を竦めぎゅっと眉間にしわを寄せた。その頬は照明の色に紛れてわかりづらいが、やはり紅潮しているように見えた。
「どっちだと思う?」
 鼻先同士が触れ合いそうな距離まで顔を近づける。逃げ場のない夏也は申し訳程度に身体を縮こまらせて、尚から距離を取ろうとする。
「し、質問に質問で返すなっ……んっ」
 落ち着きのなくなってきた唇に自分の唇を重ねて塞ぐ。
 今度は舌を入れることもなく、触れるだけ。ただし離れ際に舌先で夏也の唇をなぞって、最後にわざとらしく音を立ててやった。ちゅっという可愛らしい音に、夏也が慌てて手で口元を覆った。
 まったく可愛らしくない仕草に、尚はにっこりと笑ってやる。
「俺もさ。男同士でのやり方は何となくしか知らないから」
 明かりに照らされた尚の表情は、夏也にはよく見えているだろう。尚にも夏也の表情の、その手の影で引きつっている頬の動きまでよく見えた。
 半端に開いていた夏也の学ランに手をかけ、あくまで優しくお願いした。
「痛い目見たくなかったら協力しような、夏也。男に二言はないんだろ?」
 まずはお互いに服を脱いで、それから夏也にコンドームの所在を尋ねるところからだ。引きつった表情の夏也に頷く以外の選択肢はない。


 避妊はしてる、と言っていたから、コンドームの心配はしていなかった。出せ、と言えばしばらくの逡巡の後、ベッドの下に伸ばされた手が小さな段ボール箱を引っ張り出してきた。こんな安易なところに隠して、母親か弟にでも見つかったらどうするつもりなのか、と思ったが、少なくとも後者に関してはそんなアクシデントが起きるならそもそも今尚と夏也がこんなことをしているはずはないだろう、という矛盾である。
 初めてセックスに臨んだときに迷いでもしたのだろうか、コンドームは未開封の小さめサイズと、開封済みで随分と中身の減った標準サイズのものがある。それから、こちらもかなり中身の減ったラブローション。ゴムよりもよほど生々しい残量のそれが今ばかりはありがたかった。
「な、おっ……尚、なお!」
「んー……」
 目の前で、肉付きの薄い尻が所在なさ気に揺れている。
 そのなだらかなラインは濡れそぼって、内腿や尻のあわいから緩慢に雫を垂らしていた。粘性の珠が肌の上を滑る度に、びくんと引き締まった腰が跳ねる。
 夏也は膝をつき尻を高く上げた格好でベッドにうつ伏せていた。しわが寄るほどきつくシーツを握りしめ、枕に顔を押しつけている。くぐもった声が弱音を吐いた。
「いやだ、もっ、うぅ……尻の、なか、……きもちわる……」
「だから初めては大変らしいって言ったろ」
 残りを全て使い切るぐらいのつもりで、夏也の後ろの穴にローションを注ぎ込んだ。夏也の下着を剥く瞬間まで、尚は嫌悪してしまうんじゃないか、とわずかばかり危惧していたのだが、夏也の全裸を見ても萎えた性器を見ても、尻の穴まで覗いても特にそういう感情はわかなかった。
 むしろどうやって安全に性交に及ぶか、そればかりを案じている。後ろを使うらしい、ほぐさないと入らないらしい、という曖昧な知識を元に、とにかく小さく蕾んだ夏也の穴を広げなければとそればかりに忙しく、今はもういやらしい目というよりも研究者のような気分で夏也の尻を見ている。
 最初、ぴったりとしわを寄せていた夏也のそこは今は赤く染まり、尚の指を二本呑み込んだふちはわずかに腫れているように見える。慎重に指を抜き出すと白く濁った糸が短く引いて、くぽ、と音を立てながら小さく開いたくちを晒した。
 まだ指は二本だ。夏也の呼吸に合わせてひくひくと閉じたり開いたりする場所は、これ以上太いものなんて到底入りそうもない。そう思ってローションを足そうとしたら、夏也が情けない声を上げた。
「な、なお、もう……いい、って」
「でも、まだ無理だと思うぞ」
 赤くふくらんだふちを指先でなぞる。爪の先だけを埋めればそこは初心に痙攣して、更に指を進めれば硬く締めつけて抵抗してくる。一度指の付け根まで埋め込んで、また一気に引き抜いた。んん、と夏也が苦しげに呻く。
 それに夏也は、気持ち悪い、と言った。男同士でもセックスできる以上、たぶん中にも気持ちよくなれる場所があるはずだ。尚は夏也のそこをまだ見つけていない。
「指、もう一本増やすから」
「ちょ、待っ……い、今、なんぼん、」
「三本目」
「ひっ――」
 人差し指と中指と薬指をまとめて穴に触れる。怯えたように硬く蕾むそこを抉じ開けるように、ローションを注ぎ足して力を込めた。
「いッ……った、ぁ……ぐっ」
「我慢しろ」
 時間さえかければ、夏也のいいところを見つけられる自信はある。知識と経験があればもっと早く、確実に、夏也が苦しまなくてもいいようにできる。でも尚はまだそんなものを持っていないから、夏也に我慢してもらうしかない。それにここで気持ちよくさせるだけではなく、まずは尚のものを受け入れられるように拡げなければいけない。
 ぬちゃ、ぬちゃ、と粘ついた音を立てながら、ゆっくり指を抜き差しする。乱れた夏也の呼吸の中に流れを探して、できるだけ同じタイミングで動かしていく。ときどき指を開いて拡げながら、隙を見つけては内側の肉を引っ掻いてみる。
「尚ぉ……」
 細心の注意を払う尚の思考に、夏也の震えた声が割り入った。
「だから、我慢しろって」
「ち、がくて! お前のやり方、怖いんだよっ!」
 叫ぶような声に、思わず尚は手を止めた。
 顔を上げれば肩越しに振り向く夏也と目が合った。夏也はぼろぼろと涙をこぼしていて、いつ泣き始めたのかも知らないことに気づく。恥ずかしいのか、痛いのか、怖いのか、そのへんの感情を全部ないまぜにして夏也は尚を睨みつけていた。
 力が入らないのか、時折崩折れながら夏也は肘をつき、緩慢に起き上がった。蠢く内側の感覚に思わず指を抜けば、夏也は腰を揺らしびしょ濡れの尻を伝う感覚に眉根を寄せながら身体を返し、正面から尚を捉える。
 そうして呆然と見つめる尚の腕を取り、自分の方へと引き寄せながらベッドに仰向けに倒れ込んだ。なさるがままの尚に顔を近づけ、そして夏也から唇を合わせてくる。
「んっ……」
「っ、なつ、……ッ」
 ぬる、と舌が入り込んでくると同時に、下肢に触れるものがある。それは明確に意思を持っていて、まだ兆していない尚の性器をそろそろと撫でている。
 お互いに相手の舌を自分の舌で追いかけて、貪って、どちらからともなく唇を離す。舌と舌の間をつうと唾液が結び、その向こうで網膜が夏也の像を結んだ。切なげに眉を下げたその表情にどきりとする。
「もっと、お前も……」
 そう呟きながら、尚の性器を擦っていた手を片方離し、夏也は尚の手を取った。そろそろと夏也の萎えたままの性器まで導かれて、やっと合点がいった。
 尚は夏也の性器に指を絡め、ゆっくりと擦り始める。夏也も再び両手で尚のものを包み、擦り、そうやってどちらからともなくまた唇を合わせた。
 手の動きを速くしたり、遅くしたり、裏筋をなぞったり、ときには先端を抉りながらお互いに高め合っていく。
 顔の角度を変えたり舌で唾液を交換したりしながら、ああ、確かにさっきまでの自分は怖かっただろうな、と思った。夏也はきっと実験動物か何かの気分だったに違いない。わずかに離れた唇の合間に、夏也がちいさく「童貞」と罵ってきたが、それも仕方がない。さすが、ほぼ日替わりの彼女とのセックス漬けの日々に溺れていたやつは違う、なんて皮肉って、自分を慰めてみる。
 口と、下肢と、お互いに気持ち良いところを見つけて育てていく。気づいたらお互いに腰が揺れていて、先走りに濡れる夏也のものが腰や尚自身に当たっていた。尚も夏也の手淫ですっかり立ち上がったものを誇示するように、腰を押しつける。
 する、と、尚の足をさすりながら夏也の足が開いた。そろそろと膝を立て、尚は腰を浮かす。離した唇の先で夏也はぷは、と息を吐いて、それからまっすぐに尚を見つめた。
「尚」
 夏也が立てた膝を、大きく左右に開いている。
 夏也のものか尚のものか、先走りに濡れた腹が呼吸とともにうねっている。尚が育ててやった夏也の性器は勃ち上がって先端に雫を結んでいた。そして少し浮かすようにして突き出された夏也の尻は、ローションに濡れて穴をひくつかせている。
 そのすべてに、橙色の明かりが落ちて陰影を作っている。夏也の呼吸とともにゆらめくそれは生々しくて、そしてたぶん、興奮するものだった。
 すうっと夏也が息を吸う音が、聞こえた。
「痛くても、いいから……来い、よ」
 酷い殺し文句だと思った。
 脇に放っていたコンドームの小袋を取って封を切り、性急な手つきで自分の性器に被せた。夏也のためにもきちんとしなければ、なんて思う余裕はもうない。後ろの穴に先端を押しつけて、夏也の両膝を掴んで、開かせて、辛うじて声を絞り出す。
「後で、文句、言うなよ……!」
「んっ……んんっ! ぐう、ぅ、ぁ、あ!」
 ほぐしていたときにはあれだけ気を遣っていたのに、今はもう、単なる力技だった。
 閉ざそうとする抵抗ごと捩じ込んで、夏也の中に押し入る。指で感じたよりももっと強い締めつけに持っていかれそうな感覚を覚えて、一度腰を止めた。奥歯を噛んでやり過ごそうとするが、それでもきつい。ぎゅっと眉間にしわを寄せて耐える。こめかみを汗が伝った。
 ふと、夏也の腹が波打った。はっとして顔を見れば、夏也も同じように眉間にしわを寄せていて、それでも何とかして力を抜こうと深く息を吐いている。
 汗に濡れる夏也の額に、自分の額をごちりと当てる。夏也の呼吸をそのまま感じながら、楽なタイミングを探し出す。
「ゆっくり、動く、から」
「んっ……」
 夏也の呻き声を肯定だと捉えて、少しだけ腰を引いた。夏也の内壁が吸いついて追いかけてくるような感覚に乱暴な感情が湧き上がりかけるが、押さえ込んでまた少し、腰を進める。
 揺する程度の微細な動きを夏也の呼吸に合わせて繰り返して、少しずつ、少しずつ深くを抉っていく。
 気持ちいいところがどこにあるかなんて知らないから、奥も、中ほどのところも、浅いところも、上も下も、わずかに角度を変えながら自分の先端で押していく。夏也はシーツを掴み目を伏せて耐えていたが、尚が腹側を突き上げた瞬間、甲高い声を上げた。
「はっ、は……っあ!?
「ここ、か?」
 確かめるようにそっと、同じところを小突く。また悲鳴を上げて、大仰に夏也の腰が跳ねた。
「な、なに」
「夏也の、気持ちいいところ」
 見開かれた夏也の目が、不安げに揺れていた。取り繕うことが上手な夏也は、あまりこういう表情は見せない。今、尚だけが知っている顔だと思うと、ぞくぞくと興奮が背筋を奔るようだった。
 目端に残る涙のあとに、尚はそっと唇を寄せた。できるだけ優しい所作で――恐らくここから先は、優しくしてやれないだろうから。
「いっぱい突いてやるから、な」
「だっ……ゃめ、ああっ!」
 今までゆっくりと動いていた分を取り戻すかのように。尚は先端だけを残して性器を引き抜き、それから一気に押し込んだ。夏也の悲鳴を聞き入れる余裕はなかった。
 先端で先ほど見つけた箇所を抉り、ぎゅうぎゅうと締めつける夏也の内壁を巻き込んで引きずりながら腰を引き、また押し込む。ぶつかる二人の肌が次第に大きく濡れた音を立てて、夏也の部屋の中に響いていた。
 熱に浮かされたような夏也の声が、内側と同時に尚の奥深くを責めてくる。
「いっぱいはっ、変にっ……なる、変に、なぁ、や、ぅあぁ!」
「っそれ、やめろ、夏也っ」
 かぶりを振れば滲んだ汗が散っていく。こっちのほうが変になりそうだ。
 甘く裏返った夏也の声をどうにかしたくて叱咤したが、夏也はわけがわからなくなっているのか、子どもみたいな仕草で首を左右に振るだけだった。開いた足が溺れるみたいに無様にシーツを蹴り、波を作っている。
 ふくらはぎのあたりを蹴り飛ばされて、どうしようもなくて、尚もわけがわからなくなりそうだった。ただ確かなことは夏也が目の前にいることと、夏也の中がたまらなく気持ちいいことだけ。数少ないわかるものを手繰り寄せてみれば、夏也を抱き寄せる格好になっている。
「なつ、やっ、夏也、なつや」
「ぅ、あっ、なお、なお、ぁ、なおっ!」
 背中に夏也の手が回されて、小さく爪が立てられた。痕が残るかも、とほんの少しの冷静な思考が懸念したが、しばらく泳ぎもしないし病院の診察でも背中は関係ない。
 そんな心配よりも、縋りついてくる夏也の姿がどうしようもなく尚の感情を波打たせて、そちらのほうが問題だった。衝動のまま抱き寄せて、縋りつかれて、隙間がないくらいくっつけば暴れていた夏也の足も尚の腰に巻きついてくる。息をするのと同じように、唇を重ねて舌を絡める。
 腹の間に硬く濡れた感触があった。尚が腰を揺する度に腹筋で擦れるそれは、置いてけぼりの夏也の性器だ。右手を腹の間に差し入れて握ってやれば、夏也も尚の腹に性器を擦りつけるように腰を揺すり始める。夏也の中では尚に挿入しているつもりなのかもしれない。
「ぁ、くぁ、なお、尚っ! もう、いっ……く、あ!」
「ああ…………っ!?
 ふいに。
 異質な音が聞こえた気がした。お互いに止まらない身体がぶつかる音でも、扱かれた性器がびしょびしょに濡れていく音でも、ぐちゃぐちゃにほころんで擦れて熱を上げていく音ではない。尚の低く堪える声でも夏也の裏返りがちに喘ぐ声でもない。
 男同士でもできると答えたとき、家族はいつ戻るのかと尚が尋ねたときに向けられた、夏也の視線。恐らくはドアの向こう側。
 この部屋の外から、自分たちではない誰かの足音が聞こえた。
 聞き間違いではないだろうかと、今更止められない濡れた音の向こうに耳をそばだてる。ぎしぎしとベッドが軋む音も窓の外で低く風が唸る音も聞こえるが、ドアの向こうには何の音もないようだった。
 その分、不自然な空白を感じるのは――気のせいなのだろうか。
「……ぉ、なおっ!」
 夏也の足がきつく巻きついて、背中に回された腕が強く尚を抱き寄せた。
「お、れっ……から、」
 尚の気が散じていたことを感じ取ったのだろうか。夏也が尚の首筋に顔をうずめながら、叫ぶ。
 それは尚の聞いた、廊下の向こうの空白とは乖離してゆくものだった。もしかすると誰かにとっては別れに聞こえるかもしれない、道を塞ぐ尚を肯定する声だった。
「離れ、るな、よ! ぁ、一緒、にっ! んんっ、は! ぁ、泳、げ!」
 誰に向けたことばだろうか。
 夏也を今揺さぶって、泣かせて、繋がっているのは間違いなく自分なのに。
 ――なんてもう、微塵も思えなかった。夏也の寂しさを埋められるのは自分だけだと思わせる、強い夏也の声だ。
 それこそがたぶん、尚が惚れ込んだ、桐嶋夏也という男の声だ。
「俺を、見てろ! 目ぇ離したり、なんか、ぁ、したらっ! 置いてっちまうっ、から、な、ぁっ! ッあ! あ、あ! あひっ!?
 ぐっと、夏也の奥の奥まで貫く。自分を刻みこむように深く、きつく、腰を揺らして夏也を犯す。ほころんだ内側は尚自身を締めつけてきたが、今は抵抗ではなく、呑み込まれていると思った。
 また限界まで腰を引いて、押し入れて、夏也が悲鳴を上げる。びくびくと震える身体はきつく抱きしめて、首筋にはきっと夏也の涙だろう、濡れた感触が広がっていく。
「……ああ」
 荒い動きとは裏腹に、尚の心は穏やかだった。子どものように泣きわめく夏也を左腕で固く抱き、湿り気を帯びた髪に口づける。右手では自分が一番気持ちいい方法で夏也の性器を扱いてやる。
 夏也の痙攣が激しくなって、お互いの限界がすぐそこまで来ていることを知って。尚は温度の高い夏也の耳元でささやく。
「一緒に、いこうな」
 そうして夏也が一番気持ちいいところを強く突いて、尚は腰を震わせた。
 長く尾を引いて、夏也の喘ぎ声が消えていく。
 右手の中で熱が弾けた。夏也の精液が尚の手のひらをべったりと汚していく。同時にがくんと崩れ落ちる夏也の身体を左手で支える。ぜいぜいと、夏也の荒い呼吸が部屋の中を満たしていく。
 ドアの向こうの空白の気配はもう、なくなっていた。


「……まだ入ってるみてぇ」
 うう、と呻く夏也は、未だにベッドの上に転がっている。初めての場所で無理やり受け入れていたせいか尚の腰に足を回していたためか股関節も痛いらしく、解剖実験のカエルのようにガニ股気味に足を開いて仰向けに転がるさまは文句なく情けなかった。
 夏也を引っ叩いた元彼女がこの光景を見たら溜飲が下がるんじゃないだろうか、なんて思いつつ、夏也の指示通り生ゴミを片づけた尚はベッドの端に腰かけた。
「柔軟のメニュー、見直したほうがいいかもな」
「いらねぇ。セックスのためにやってんじゃねえんだぞ」
 仰向けは仰向けで今度は尻のほうが落ち着かないらしく、夏也はもぞもぞとうつ伏せへと姿勢を変える。尚は階下にゴミを捨てに行っていたためそれなりに衣服を整えているが、夏也は未だに全裸のままだった。
 間接照明ではない、白々とした蛍光灯の下で見るとなお一層、色気がない。男なのだから当然だ。今夏也の全裸を見てもまったく興奮もしない。むしろよく夏也相手に勃起して射精して、セックスができたなと感心すらする。
 それでも自分が桐嶋夏也に惚れ込んでいることは間違いない。今はそう素直に認めることができた。その感情が恋愛に準ずるものかはわからないけれど。
 往生際悪くベッドの上で転がる夏也を端に押しやって、湿ってしわだらけのシーツを引っ張る。
「これ、洗濯しないとまずいんじゃないのか? あと風呂も。誰か帰ってくる前に」
 壁にかけられた時計は七時過ぎを示している。ちなみに尚が生ゴミを捨てに行った際には、まだ誰も帰ってきていない様子だった。
 ドアの向こうの物音は空耳だったのか。それとも誰かが帰ってきていて、尚たちが気づかないうちにまた出て行ったのか。今は確かめるすべもない。夏也に伝えるつもりもなかった。
 尚のことばに観念したのか、不細工に呻きながら夏也が上体を起こしている。尚を押しのけながら床に足を下ろし、立ち上がろうとして――そのまま膝から崩れて、ベッドに倒れ込んだ。
「……尚」
 夏也は決して尚と視線を合わせないようにしながら、天井を睨みつけていた。
「起こせ」
「はいはい」
 明日は部活が休みでよかった。この状態で陸上トレーニングなど拷問だろう。尚は何の痛痒も感じないが、いちいち横で悶える夏也を想像するとやはり憐れむべきものがある。
 夏也の腕を引っ張って自分の肩に回させる。担ぐ要領で立たせてやった。両足が床についた途端、夏也が声なき悲鳴を上げるが尚が支えているため崩れ落ちることはなかった。ただし前にも進まないので、無理矢理引きずっていく。
「だいたい、セックスって男のほう……突っ込んでるほうが体力使うんだぞ」
「ばかか、負担を考えろ」
 などと言い返してくるが、尚が押し倒して尻にローションをぶちまけても抵抗しなかったのは夏也だし、受け入れる側であることに文句を言わなかったのも夏也だ。二言はないんだろう、ということばで封殺したような記憶もないではないがそれはそれである。
 ドアを開けて、一応誰の姿も見当たらないことを確認してから廊下に踏み出す。不健全な湿度の倦む室内と違い、ひんやりとした空気が気持ちいい。夏也は完全に全裸だが、触れる体温の高さを思うに寒くはないだろう。とにかく家人が帰るよりも先に、まずは浴室に辿り着かなければいけない。ああ、そういえば部屋の換気もしないと。
 つらつらと考えていると、肩に回った夏也の腕に力がこもった。ぐいと引っ張られて、夏也と顔を突き合わせるかっこうになる。
 きょとんとして見返せば、夏也がにやりと笑った。
「次は俺が押し倒してやるから覚悟してろよ、ナ・オ・ちゃん?」
「……ふうん」
 猫っ毛で隠れがちなこめかみに脂汗が浮いている。それを見逃す尚ではない。
 ただしあくまで気丈に取り繕う夏也に敬意を払って、尚はにっこりと微笑み返すだけにとどめた。
「次もあるのか?」
「えっ」
 ここで返答に詰まって固まるあたり、夏也である。
 問い返しておきながらではあるが、尚も次があるのかを考える。夏也はもう、彼女を取っ替え引っ替えはしないだろう。この様子では三日はまともに動けないだろうから、ではなく、そういう影がない。尚がまだそばにいることを約束したのだから。
 じゃあ、尚とのセックスが夏也にとって必要であるか。今日のこの行為は、夏也の寂しさを埋めるための儀式みたいなものだったと尚は思っている。精神的に寄り添えることを、肉体的に証明してみせただけだ。じゃあたぶん、二回目はいらない。
 そう思うのに。夏也は尚に引きずられながら、さっきよりもよほど露骨に脂汗を浮かべて考え込んでいるようだった。ごく自然に、次のセックスがあるものだと思っていた。夏也は。
 そして夏也が口にするまでは、尚も二回目を漠然と疑っていなかった。それは、だから、どういう意味なのか。
「楽しみにしてるよ」
 明確な答えは、今は出さなくていい。いずれは決めなければならない日がくるかもしれないけれど、今はまだ。
 そのつもりで言ってやれば、ばっと夏也が顔を上げた。目を丸くして、次に細めて、最後には完全に疑惑の視線を向けてくる。心外だ。
「お前、馬鹿にしてないか?」
「してない、してない」
 わりと真剣に、楽しみにしている。
 そんなことを真面目に答えてやるつもりもなく、尚は辿り着いた階段を一段下った。続いて足を下ろした夏也が絶叫して、尚も声を上げて笑った。
 冬の教室の中、一人霞んで消えてしまいそうになっていた夏也はいない。今は二人で隣にいて、しっかりと尚の目に映っている。触れ合っている。夏也の寂しさがひとつ埋まってしまった喜びと不幸を、今だけは笑っていたかった。
 片腕で担いだ夏也の身体は、思っていたよりも軽かった。
    2015.12.9 x 2015.12.13