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マイフェアレディ

 何分急なことだった。一報を受けたのはつい一時間ほど前のことである。
 なので宗介は必要最低限のものだけを持ってそこを訪れたのだ。しまった、と思ったのは明るい色彩で塗装された低い門を押し開けた後のことである。門の外に停めたW650の排気音を聞きつけたらしい女性保育士が小さな玄関までわざわざ出迎えに来ていて、宗介の顔を見るなりほっとした表情を浮かべるものだから、やっぱり一度出直します、などとは言えなかった。代わりにぺこりと頭を下げる。
「山崎さん、こんにちわあ」
「どうも。あの、」
 すっかり顔も名前も覚えられている。早い冬の夕暮れに保育士の弾んだ息が白く散った。
「お話は伺ってます、七瀬さんからお電話もいただいているので……櫻ちゃあん、お迎えがきましたよー」
 まだ年若いこの女性保育士は、のんびりとした雰囲気の割に自分のペースでどんどん話を進めてしまうきらいがある。このパステルカラーで統一された、全体的にこじんまりとした空間に――岩鳶保育園にはあまりにもそぐわない宗介としては勝手に話を進めてもらう方がありがたいといえばありがたい。そして同時に、保育士の性格まで把握するほどこんなところに通い慣れている現実に多少の頭痛を覚える。
 やがてほんの少しの間を置いて、保育園などとは縁遠いはずの宗介をパステルカラーの世界へ結びつける存在が現れた。
 保育士に手を引かれているのは少女である。裏ボアの真っ赤なダッフルコートに、濃紺のコーデュロイパンツ。宗介の感覚からすると大人びた格好に見えるのだが、飴色のシューズがマジックテープ式なのはせめてもの愛嬌だろうか。頭の高い位置でふたつに結わえられた髪と、イルカとサメの小さなマスコットがくっついたヘアゴムはいかにも子どもらしくて微笑ましいかもしれない。
 だがしかし、このツインテールが宗介にとっては鬼門であった。園庭に踏み込んで早々に、しまった、と思ったのはこれである。
「櫻ちゃん、今日は山崎さんと帰りだって」
 保育士の声にも少女は――櫻は無反応だった。真っ白いマフラーをぐるぐる巻いて、口元がほとんど隠れているため表情が見えにくいが、それにしても妙に俯きがちである。宗介は何となく、肩から提げたメッセンジャーバッグが重みを増したように感じた。いびつに膨らんだそれには小児用のヘルメットが詰め込まれている。
 櫻は毎朝父親に結ってもらうツインテールがお気に入りだ。ところが宗介がバイクで迎えに来ると、ヘルメットを被せられることになるのでどうしてもツインテールが潰れてしまう。櫻はまずこれにヘソを曲げる。ならばと実家で使う軽トラで迎えに来ればダサいから嫌だとごねるのだから女児とは全く理不尽な生きものだ。いずれにせよ宗介は気が利かないと甲高い声で罵られるわけである。
 しかし今日はどうしたことか。未だに嫌味の一つも飛んでこないことを宗介は不審に思った。手を繋ぐ保育士も同じような心情なのか、櫻ちゃんどうしたのと優しい声で促している。櫻は玄関先に突っ立ったまま動こうとしない。
 宗介は耐えかねて櫻に歩み寄った。成人男性の平均値を上回る宗介の上背と、その宗介の腰ほどしかない櫻の身長では表情を探るのも難しい。しゃがみ込んで櫻と同じ目線になった宗介は、自分なりに、精一杯の優しい声で問うた。
「どうした、櫻」
「……宗介くん」
 おずおずと、青みがかった大きな瞳が宗介へと向けられる。
 このませた少女らしからぬ殊勝な態度に、宗介はいよいよ何があったのかと身構えた。続く言葉を固唾を飲んで待つ宗介に、しかし少女が落としたのは誤解を招くしかない爆弾である。
「こんやはかえりたくないの」
「…………は」
 保育士の手を離し、もみじみたいな少女の手が伸びた先は小さな頭のてっぺんだ。細い指がイルカの飾りを掴み、ヘアゴムを引っ張り抜く。続けて反対側のサメの飾りも同じように取り去る。
 そうしてトレードマークのツインテールをほどいた少女は黒いつやつやとした髪を弱い木枯らしになぶらせながら、切実な叫びを絞り出す。小さな手のひらの中では、イルカとサメがきつく握り潰されている。
「おねがい、さくらをさらっていって!」
 櫻の目は心の底からの懇願を孕んでいた。
 櫻の隣に立って成り行きを見守っていた女性保育士は、文字通り目を点にしていた。
 そして宗介は――深く、深く、長く溜め息をついて、少女のまるい額にデコピンを食らわせた。きゃんっと子犬が鳴くような声を漏らして尻もちをつくが自業自得である。後でこの言葉は教えておいてやろうと思う。

「どこであんなセリフ覚えた、お前は」
「こないだ渚くんがうちに来たときに見てたテレビで言ってた」
 既に顔馴染みの店主に一応断って、宗介は櫻と一緒にバイクと建物の影に座り込んでいた。少々、結構、ませた物言いが多いとはいえ仮にも就学前の女児を吹きさらしの地べたに座らせるのもどうかと思うので、胡座をかいた足の間に座らせてやっている。お陰で宗介は尻が冷たい。
 先ほど店内で購入した紙袋を開ければ、冬の空気に真っ白な湯気がぶわりと広がった。袋の口を二、三回折って食べやすいようにしてから渡してやれば、櫻は頬を目に見えて緩める。それから両手で紙袋を抱えてから、ほかほかと湯気を立てる揚げたてのコロッケにかぶりついた。さくり、と気持ちのよい音に一層湯気が広がって、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
 宗介も自分の分の袋を開け、ミンチカツにかぶりついた。「宗介くん、さくらに衣落とさないでね」「おう」という短い会話以降、しばらくはコロッケとカツを食べ進めるさくさくという音だけが店先に響く。
「でもね、怜くんがすぐにチャンネル変えちゃったんだよ」
「あ?」
「さっきのはなし。それで、渚くんが、さっきのせりふ宗ちゃんに使ってみるといいよって」
「…………」
 凛と七瀬――遙の幼馴染である葉月渚は知らない仲ではない、程度の知り合いである。滅多に会うこともないが、とりあえず次に会ったら一言物申しておこうと宗介は堅く胸に誓った。ミンチカツの最後の一口を飲み込み、空になった紙袋をぐしゃりと握り潰す。
 熱々のコロッケを食べるのに櫻は時間がかかる。まだ半分ほど残ったコロッケにはふはふ言いながらかぶりついていた。宗介はつやつやと丸い頭を見下ろしながら、それで、と低く唸った。
「お前はそのセリフの意味がわかってんのか」
「今日はおうちに帰りたくない、宗介くんちに連れてってってことでしょ」
「俺は凛に、お前を保育園まで迎えに行って、江とおばさんのところまで連れて帰ってくれって頼まれてるんだが」
 このおばさんとは、つまり櫻の祖母にあたる。江は母親と佐野で実家暮らしを続けており、度々県外へ仕事に出る兄に代わって姪を預かり、世話をしている。仕事が遅くなりがちな江に代わり度々櫻の迎えとして派遣される宗介は実家が近いこともあって未だに松岡家との親交が深く、江やおばさんに招かれて夕食をご馳走になったりもするのだが、江と櫻は叔母と姪というよりも姉妹の関係に近いようであった。それだけに下手をすると櫻が江の特殊性癖に染まりはしないかと心配しているわけだが、今のところその徴候はないようで一安心である。
 凛の名前を出した瞬間、目に見えて櫻の頬が膨らんだ。
「パパの言うことなんて、守らなくていいもん」
「なんでだ」
「だってパパ、約束破ったもん。今日はさくらをいいとこに連れてってやるからって、楽しみにしてろって言ってたのに、帰ってこないんだもん」
 宗介は櫻の言葉に何事かフォローを入れようとして、結局、何も言えずに口を噤んだ。
 凛が岩鳶へと居を移したのは、櫻が生まれた後、三年ほど前である。競泳の第一線からは退いたものの未だにメディアや企業からごちゃごちゃと仕事の誘いがあるらしく、首都圏へと出かけることが度々だった。櫻を家に残してしまうことを気にかけてはいるようだが、だからこそその都度櫻を連れ回すのは忍びないとの考えから、どうしても家を空けがちになっている。
 櫻もこれで聞き分けがいいので、両親だけが出かけてしまうことに泣いたり怒ったりはしない。だからこそこの小さい身体にストレスを溜め込んでいるのだろう。凛が期待を持たせるような言い方で何かを約束していたのなら尚更だ。
 櫻を迎えに行ってやってくれと頼まれた宗介は、電話口の凛が酷く焦っていたことも、凛の帰宅が間に合わないのは交通機関のトラブルのせいだということも知っていた。
 しかしまだほんの四、五才の少女の孤独に、今居合わせているのもまた宗介であった。
 そして宗介は誰かに、凛に置いていかれる孤独をよくよく知っていた。
 長く長く溜め息をついた。薄く白く濁るそれに、櫻が宗介を振り返る。気丈な言葉を吐きながら、膨れっ面を萎ませてぽろぽろ涙をこぼす姿も誰かさんに似過ぎていてまた辛い。
 宗介はメッセンジャーバッグからスマートフォンを取り出した。つるつる指を滑らせて履歴を呼び出し、一番上に表示されている番号をタップして発信する。ワンコールもしない内に接続音があった。
『もしもし? どうした、宗――』
「お前の大事な娘は預かった。返して欲しければカニを用意しろ」
『は?』
「引き渡し場所は例の場所、期限は今日中だ」
『おいちょっと待て宗す』
 口早な幼馴染の言葉を最後まで聞き届けず、宗介は通話を切った。折り返しの連絡も遮断するためにそのまま電源を切り、完全に黙り込んだ端末をバッグに放り込む。
 ふんと鼻を鳴らして見下ろせば、食べかけのコロッケを抱えたまま櫻は宗介の行動に呆然としている。その口元についた衣の欠片を親指で拭ってやった。指先にくっついた欠片を舐め取って、脇の下に手を差し入れ膝の上の身体を猫の子のように抱え上げる。
「それ食ったら行くぞ」
「どこに?」
「お前が言ったんだろうが」
 櫻を下ろし、しばし風除けになっていたW650に歩み寄る。ハンドルに引っかけていたヘルメットを弄びながら、少女のセリフをそのまま返してやった。
「今夜は帰さねぇから、覚悟しとけよ?」

「――犯人はカニを要求している」
「カネじゃないのか」
「カニだ」
 投げかけられた疑問も尤もだと思いつつ、凛は空港のロビーで頭を抱えた。身代金ではなく、身代蟹。そんな誘拐事件聞いたこともない。いや、問題はそこではない。
 突然の電話の後、凛は当然折り返し電話をかけた。しかし電源が切られているらしく繋がらない。何故いきなり宗介が櫻を誘拐などしたのか。
 信頼している宗介だからこそ凛はこれまで何度も宗介に櫻の送り迎えを頼んだわけである。なのに何故今日に限ってこんな――それともこれまで宗介なりに思うところがあったのだろうか? 凛の頼みを疎ましいと思っていたのか? いやそれはないと断言できる。ならば櫻をどうにかしようと? 男子校だった高校時代はともかく、以降これまで不自然なほど浮いた話を聞かなかったがまさか宗介はペドフィリアだったのか?
 考え込む内に腰掛けたソファを壊しかねない勢いで震え始めた凛の膝を、ぱしりと隣の人物が押さえた。はっとして顔を上げる。
「落ち着け、凛。相手は山崎だ。悪戯にこんなことをする奴じゃないし、櫻をどうにかしようとなんてするわけがない。何か事情があるんだろう」
「…………ハル」
 凛を覗き込む遙の瞳が、深く落ち着いた佇まいでそこにあった。途端に肩の力が抜けていく。
 確かに遙の言うとおり、宗介は悪戯や冗談でこんなことをする人間ではない。それができるなら宗介の人生はもう少し気楽だっただろうとすら思う。そして宗介は鬱陶しがりながらも何くれとなく櫻の面倒を見て世話を焼いてくれているし、凛たちの教育方針に苦言を呈してくれることすらある。宗介も本当のところ、かなり櫻を可愛がっているのだ。
 冷静に考えなければいけない。凛はちらりと電光掲示板を見上げる。
 空港周辺の悪天候のため搭乗予定だった飛行機が欠航になって以降、運転再開をずっと待っているのだが、状況に明らかな進展はない。今日は櫻を『あれ』に連れて行ってやるつもりで朝一番の便を取ったというのにもう夕方だ。宗介の提示した期限も今日中だというし、なんとか櫻の元へ帰らなければ――
 回転数を上げる凛の思考を、頬に当てられた冷たい何かが遮った。
「うおっ!? ハ、ルっ」
「これでも飲んで落ち着け。それから岩鳶に帰る手段を考えるぞ」
 ひんやりとした何かはプラスチックのパックに入ったコーヒーだった。近くの店で買ってきてくれたのだろう、遙が差し出すストローの刺さったそれを受け取る。遙の表情も声も揺るぎなく、凛は心強さにじわりと胸が熱くなるのを感じた。
 澄ました表情で自分の分のカップを傾ける遙に、凛は感謝を込めて答えた。
「サンキュな、ハル。お前と一緒で、良かった」
「……気にするな。櫻のことはお前一人の問題じゃない」
「ああ。……それと、ハル」
「なんだ」
「口じゃなくて鼻にストロー刺さってんぞ」
 遙もこれで、かなり動揺しているらしい。
 凛の指摘でするするとストローを引き抜く姿は実にシュールだった。これがかつて競泳界で一世を風靡した七瀬遙だと知れたらと思うと頭が痛いが、現状一番頭が痛いのは宗介と櫻の件である。何より周囲の人達は皆、凛たちと同じく運行再開に気を揉んでいて遙の奇行など見咎めるべくもない。
 自分以上にパニックな人間が傍にいると逆に冷静になれるものだと思いつつ、凛はスマートフォンの路線検索アプリを起動した。

 今日は似鳥にとって、何よりも楽しみにしていた特別な日である。
 クリスマスはつい先日のことだったし、盆は教え子たちの指導を考えるのに手一杯だったし、正月にもまだ少し早い。が、これこそいわゆるクリスマスと盆と正月がいっぺんに来たような、というやつだった。この日のために一年間出番を待っていたずっしりと重たい土鍋を抱えたって、足取りは羽のように軽やかだ。
 年末の帰省のため人気のなくなった鮫柄寮の廊下をほとんどスキップする気持ちで通り抜け、似鳥は学生時代よく水泳部のミーティングに使っていた会議室へと足を踏み入れた。
 普段は長机とパイプ椅子の並ぶ部屋であるが、今はそれらを全て畳んで部屋の隅に寄せ、代わりに御座を繋げて敷いている。そこに足の短い会議用の座卓を並べたのは終業と同時に準備に取りかかった似鳥と、一番にやってきて今は人数分の座布団を並べている美波だった。
「似鳥、結局何人集まるんだっけ?」
「えっと、僕たちの代だと僕と美波くんと、中川くんで、岩清水くんは確か欠席でしょ? 魚住くんはもうすぐこっちに来るんだったよね」
「ああ、食材持ってな」
 魚住と一番連絡を取り合っているのは相変わらず学生時代仲の良かった美波である。それは美波が上京してスポーツ用品メーカーに就職し、魚住が実家の鮮魚店を継ぐべく彼の地元に残りと距離が開いても変わらないらしい。今回鮮魚を含む食材の調達を魚住に頼んでくれたのも美波である。さすが元敏腕マネージャーというべきか、主催者の似鳥よりも美波の行動は素早く的確だった。
 高校を卒業し大学に進学し、そして母校鮫柄に教師として舞い戻ってきた似鳥も満遍なく皆と連絡を取ってはいるが、この二人の親密さには舌を巻く。一応似鳥にも頻繁に連絡を取り合う相手はいるものの、先方からの一方的で返信し難い連絡を親密と呼ぶかといえば疑問である。似鳥はその人物も口に出してカウントした。
「モモくんは実家のカセットコンロ持ってきてくれることになってたし。もしかすると御子柴部長も来るかもって言ってたけど、モモくんの言うことだからなあ……」
「一応人数に入れとくか。あの人何だかんだ言ってこういう集まり来るし」
 美波が座布団を一枚追加して並べる。卒業後何年経っても一向に変わりのない御子柴家の二人は、落ち着きがないと見るか逆に安定していると思えばいいのか。土鍋を卓上に置きながら似鳥は頬を引き攣らせた。
 今回の鍋会は似鳥が発起人となったものである。自身が鮫柄学園水泳部部長をやっていた頃の部員たちに主に声を掛けているが、年末が差し迫り仕事が忙しいのはもちろんのこと、上京している者も多く集まりは然程よくない。去年も寮生の帰省に合わせて寮内の一室を貸してもらい開催したが、高校時代は椅子が足りず立って話を聞かなければならない部員もいたこの部屋が埋まる程ではなかった。
 よって似鳥が部長をしていたよりも上の代、特に世話になった先輩たちにも声をかけているのだが、兄の方の御子柴に関しては先ほどの通りである。
 そしてもちろん、プロのスイマーにまで上り詰め、今なお似鳥が一番尊敬している凛にも声をかけた。その際には快諾の返事をもらったものの、
「凛先輩はちょうど東京に出てて、雪に捕まっちゃったって。今日中にこっちに帰るのは厳しいかもって電話があった」
「うーん、タイミングが悪かったな……」
 先ほど並べたばかりの座布団を美波が無常にも回収する。しかし――未練がましく座布団を見送る似鳥に気づいたわけでもないだろうが――ふと手を止めた。
「山崎先輩は? 声かけたんだろ?」
「来れたら来る、みたいなことは言ってたけど。凛先輩があれだからなあ」
「でもあの人、結構楽しみにしてそうだったけどなあ」
「そうなの?」
 初耳である。そもそも美波は宗介にまで連絡を取っていたのかと似鳥は俄に目を瞠った。
 中途半端に座布団をぶらつかせつつ、美波は頭を傾けて記憶を辿っている。
「山崎先輩、肩の方はもう回復してるけどさ、仕事であちこち痛めたりするらしくて」
「……確か酒屋さんだっけ」
「そうそう。で、わざわざ俺に連絡くれて、ウチのサポーターとか買ってくれるんだよ」
 意外にも、まめまめしいのは宗介の方らしい。
 学生時代の宗介はといえば、三年になってから転校してきたこともあり、幼馴染の凛とは親しげに話すものの他の部員に対しては一線引いているようなところがあった。無論、当時の宗介の状況を思えばそれも仕方がないと今なら思えるし、夏の大会以降は共にリレーを泳いだ似鳥や百太郎とはそれなりに馬鹿をやったりする仲になっていたと思う。特に似鳥は部活後の宗介の指導のお陰でリレーに出場できたようなものなのだ。似鳥は未だに宗介に対し、師弟のような感覚でいる。
 それでも凛や似鳥、百太郎以外の部員とはやはり少し距離があったように思うが、いつの間に美波と連絡を取るようになっていたのだろう。年月が人を丸くしたのだろうか。似鳥はどこか感慨深い気持ちになった。
「それで、こないだ連絡取り合ったついでにさ、年末に鍋するんですけど先輩はどうするんですかって送ったら行けたら行くって。そんで酒がいるならウチから持ってくけどって言ってくれてさ。高校の寮借りるんで酒はナシなんですよって返したらそうかって返ってきて。それきりだったけど」
 それは確かに、似鳥が思う以上に前向きに参加を考えていてくれたのかもしれない。
 似鳥はズボンのポケットを漁り、スマートフォンを引っ張り出した。
「僕、ちょっと聞いてみるよ。凛先輩は来れないみたいですけど、山崎先輩は来ませんかって」
「そうだな、それがいいと――ん?」
 ふと美波が声を上げ、似鳥もスマートフォンを構えたままそちらへと視線を転じた。そしてあっと声を上げる。

「よお、久しぶりだな」
 会議室の戸口に、ライダースジャケットの宗介が立っていた。まさか準備係の似鳥と美波に次いで、いの一番に現れるとは思っていなかったが、噂をすれば何とやら、である。似鳥は顔を綻ばせ――そして見慣れない人物に気づく。
 それは随分と小さなお客様だった。赤いダッフルコートを着て、白いマフラーに半分顔を埋めて宗介の影からこちらを窺っている。濃紺のコーデュロイパンツの下の来客用スリッパは、実に不便そうにあちこちを余らせていた。
 小さな誰かにどこか既視感を覚えつつ、似鳥は宗介に駆け寄った。座布団を置いた美波も続く。
「山崎先輩、来てくれたんですね!」
「お久しぶりです、山崎先輩」
「おう。頑張ってるらしいな、似鳥」
「……っはい!」
「美波、こないだはありがとな」
「いえ、こっちこそいつもありがとうございます。それであの、山崎先輩、」
 美波の視線がついと下りる。宗介の腰にしがみつく人物はどことなく縮こまって、更に宗介の後ろへ隠れてしまった。宗介の腰程しかない身の丈で自分たちのような大の男に囲まれればそれも仕方ないだろう。
 似鳥はしゃがみ込んで、近づき過ぎない距離を保ちつつその人物の顔を覗き込んだ。大学時代は小学校教師の道も考えていた似鳥である。宗介と子ども、しかも少女という新鮮な組み合わせへの疑問はおくびにも出さず、にこりと微笑んだ。
「こんにちは。ううん、もうこんばんはかな。僕は山崎先輩の後輩で、似鳥愛一郎と言います。君は?」
 宗介は未だに独身のはずである。子どもを連れてきたというわけではないだろう。親戚の子か誰かかと考えたが、今はどこかおどおどしている吊り目がちで青みを含んだ瞳も、つやつやした黒い髪も、誰かに似ているような気がしてならない。
「お前、やっぱり初めてだったんだな」
 宗介が少女に声をかける。マフラーに顔を埋めるようにして少女が頷く。その小さい背中を宗介の手が押し、言外に促された少女はそろそろと顔を上げた。
「あの、初めまして」
 薄く開いた口元に、八重歯がちらりと光っている。
「七瀬櫻です。パパがお世話になっています」
 そう言ってぺこりと下がる丸い頭に、似鳥は目を見開いた。背後の美波などよほど驚いた顔をしているだろう。
 慌てて宗介を仰げば、どこか悪戯めいた笑みに迎え撃たれた。
「ってことだ。コブ付きだが構わないか、似鳥」
「それは全然構いませんけど、あの! この子って凛先輩と、あの、七瀬さんの!」
「七瀬凛はパパで、七瀬遙はお父さんです」
 そして当の七瀬櫻はといえば、澄ました顔でそう言ってのけた。
 七瀬遙と松岡凛が結婚したのは似鳥とて知っている。身内だけの式とも呼べない集まりに似鳥も呼ばれたのだ。それから凛が妊娠して一児を儲けたことも知っているし、産後しばらく経って凛たちの元へ出産祝いに尋ねてもいる。まだ親に抱かれるばかりのこの子にも会ってはいるが――こうして成長した姿を目の当たりにすると、なかなかに感慨深かった。美波などは凛が結婚して出産したことを話でしか聞いていないだろうから、更に衝撃だろう。実際先程から美波は一言も発していない。
 未だにマイノリティとはいえ、男性の妊娠出産は世間に周知されている。しかしそのマイノリティを差し引いても七瀬櫻という存在は強烈だ。見事に凛と遙の遺伝子を受け継いだ容姿をしているし、それが女児なのだからまた、変な話だが感動すら覚える。
「……なのに今は何か、山崎先輩が父親みたいになっちゃってますね」
 ほとんど同じことを考えていたのだろう、不意に美波がポツリと呟いた。櫻の手は先程からずっと、宗介のパンツを掴みっぱなしである。
「どちらかというと共犯者だけどな」
「はい?」
 似鳥は首を傾げるが、宗介は小さく肩を竦めて笑っただけだった。櫻はといえば唇をきゅっと引き結び、ますます宗介のパンツを握り締めている。少女らしからぬ険しい表情だが、
「とりあえず美波くん、座布団もう一枚ね」
 更に参加者が一人増えたと、そういうことで間違いないらしい。似鳥の喜色を孕んだ声に、美波は取り去った座布団を一枚並べることで答えた。