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つごもりのパラベラム

 日時と便名と地元の名を冠した空港名。たったそれだけが記されたメールを受け取り、山崎宗介は何の疑問もなく全てを察する。父に断ってその日の仕事に都合をつけるついで、仕事で使っている軽トラックを借りる約束まで取り付けてしまえば、山崎宗介はたった一人の客だけを運ぶタクシードライバーに変身するのであった。
 時間に余裕を持って空港に到着してみれば、宗介の待つ飛行機は機体整備のため予定より遅く出発地を発ったとアナウンスされていた。腐ることもなく空港内の自動販売機で購入した缶コーラ片手にのんびりと待つことにする。コーラも飲み干してしまえば戯れに送迎デッキに上がってみたり、売店をひやかしてみたり雑誌を立ち読みしてみたりした。中でも某有名人に熱愛発覚、結婚秒読みか、などと無責任な見出しで如何にも下らないスクープをさも神妙そうに書き連ねる週刊誌は興味深く、つい読み耽ってしまったのは誤算である。到着を告げるアナウンスにハッとして、手にした雑誌を急ぎ購入してから到着ロビーに向かった。
 急ぎ、などと言ったところで小さな空港だ。然程時間を要することもなくロビーに辿り着けば、宗介を身も蓋もないメール一通で呼びつけた張本人が海外旅行用のスーツケースを引っ張って現れたところだった。
 地方の悲哀を漂わせる閑散としたロビーに、その男は実に浮いている。子ども一人ぐらいなら余裕で入りそうな大きなスーツケース然り、ボストン型のサングラス然り、寒さの厳しいこの時期に見目の良さを優先したかのような空気の読めない薄着然り。
 しかし宗介はそれらを気にすることなく、丸めた週刊誌を持った手を軽く持ち上げた。
 同じように軽く手を上げて、本日のお客様も応える。スーツケースを引きながら反対の手でサングラスを外す姿は全く以て場違いなほどに決まっている。サングラスを外すついでに頭を振って前髪を払う仕草は気障ったらしいが、芸能人もかくやの決まりっぷりだ。これが素の仕草なのだから恐ろしいものである。
 昔よりも短くなった襟足の揺れが収まるのをたっぷりと待って、宗介は相手と向かい合った。
 話すには遠い距離でお互い睨み合う。そして一歩を、踏み出す。相手も全く同じタイミングで一歩を詰め、お互いが同時に拳を繰り出した。
 完全に一撃を入れるつもりの勢いだったが、全く同じ速度で突き出された相手の拳がぶつかる。続けて腕と掌とを打ち合って、最後にもう一度ゴツリと拳を突き合わせた後、宗介は噴き出した。また同じタイミングで噴き出す声が重なる。子どものような屈託のない二人の声はロビーの天井に高らかに響いた。
「久しぶりだな、宗介」
「俺の方は久しぶりって感じもしないけどな。……凛」
 テレビ、雑誌、ネットニュース、それから凛が不定期に更新するブログなど、宗介はこまめにチェックしていた。少なくとも競泳選手・松岡凛の動向ならそれなりに把握している。敢えて調子はどうだと連絡を取ることはないものの、それぐらいの希薄さこそ昔から変わらない凛との繋がり方だった。ニュースの類や凛が選手として公に発信する情報がある分、そして中学時代にふつりと途切れた手紙のように心配することなく凛を信じられる分マシだと言える。
 それがだ。今回の帰国と、実に簡素なあのメール。そして宗介が手にした丸めた雑誌である。
 ん、と首を傾けて、それから八重歯を見せて笑う。松岡凛は相変わらず、己の欲望に忠実なアクティブさと不審さで地元の土を踏んでいるのであった。
 邪気のない仕草に肩を竦めるだけで返し、宗介は凛の手からスーツケースのハンドルを掠め取ってさっさと歩き出す。過ぎる視界の端にあっと口を開いた凛が映り、そこから案じる言葉が飛び出す前に先手を打つ。
「ゴロついてるし、左で引っ張るから問題ねえよ。それよりお前、言うことがあるんじゃねえか」
「……飛行機が遅れちまって、待たせて悪かったな」
「そこに気を遣うよりもっと大事なことがあるだろーが」
 隣に並んだ凛の声に混ざる、拗ねたような響きを聞き逃す宗介ではない。伊達に十年二十年来の幼馴染をやっている訳ではないのだ。
 ゴロゴロと呑気な音を響かせながら二人してターミナルビルを出れば、冷たい空気がきんと宗介の思考を冷やしてくれる。先日の雪の名残に昼の黄色っぽい光がちらついて、宗介は目を細めた。まだ何も言わない凛を伴って駐車場までを歩く。
 お互いに黙ったまま軽トラまで辿り着けば、凛は無言のまま宗介からスーツケースを取り返し、自分でさっさと荷台に載せた。その間に宗介は運転席に乗り込んでエンジンを吹かす。遅れて凛が助手席に乗り込む。
 すぐには発進させず、宗介は冷たいハンドルに顎を乗せて声を上げた。
「りーん」
「……迎えに来てくれて、ありがとな」
「おう」
 観念したような凛の声は、助手席側の窓ガラスに当たって跳ね返っている。
 まだ素直に吐かない凛に半ば呆れつつ、宗介は続く言い訳を待った。車内暖房がじわじわと効き始めた頃になってもまだ沈黙は続いている。ちらりと横目で窺う幼馴染の横顔は気温のためかはたまた別の理由か、痛ましい程に赤らんでいて、目端に妙な潤みさえ見て取れた。
 思っていたよりも重症らしい。呆れの溜め息は凛に聞こえないように吐く。代わりに腕を伸ばして、凛の身体を強引にこちらへ向けた。
「凹んでんのか?」
「るせー」
「わかりやすいんだよ、お前は。いつもだったら東京の七瀬のとこに寄って一緒に帰省するだろ」
 真正面に捉えた凛の眉間がきゅうっと寄って、深い縦皺を刻んだ。
 当たりかと呆れるのも馬鹿らしい。高校二年の夏を超えた凛はもう、泳ぎに関して迷いを見せることはない。もちろんタイムの伸び悩みやスイマーとしての行く末に悩むことはあるだろうが、弱さがないのだ。誰も彼もを巻き込んで引っ張るような強さで日本の、そして世界の水泳界に己の存在を知らしめている。
 そんな競泳選手松岡凛が泣き虫リンリンに戻ってしまう理由の大半はといえばもう、今の日本の水泳界で松岡と双璧を成すと評されるあの男しかいない。ついに目尻に水玉をぷっくり溜めて、隠しようもなくぶるぶる震える凛に今度こそ溜め息は隠せなかった。
 ドアポケットに突っ込んでいた週刊誌を引っ張り出し、丸めて凛の頭をポコンと叩く。ぼろりと涙が飛び散ったのを見届けてから宗介はようやく車を発進させた。空港の駐車場から無骨なタクシーは滑り出し、たった一人のお客様を然るべき家へ届けるべくごとごとと走り出す。
「お前、そんなの今更信じてるのか」
「……そうじゃねーけど」
 そんなの、とは、凛の膝にそのまま放置された週刊誌である。凛はずびっと洟を啜り、けばけばしい表紙のそれを手に取ったようだった。垢抜けた凛の手に俗っぽい週刊誌。ミスマッチだが今の凛には手に取るだけの理由があるだろう。
 安全運転を心がける宗介はフロントガラスの向こうだけを見ているが、凛が開いているページもその見出しも見ずともわかる。
「『競泳・七瀬選手に熱愛発覚!?』」
「…………」
 凛の答えはない。神妙に書き連ねられた下らないスクープ記事を黙々と熟読しているようである。
 宗介が空港で読み耽っていた記事は正に、競泳選手・七瀬遙の熱愛報道である。お相手は有名女性タレントのAさん、深夜にAさんのマンション前を二人で歩いているところを本紙記者が激写、二人は以前CMで共演したことがあり、などなど。宗介にしてみればありきたりでほとんど言いがかりのような内容がつらつらと連ねられているものである。
 たっぷりと時間をかけた末、凛は雑誌をめしゃりと握り潰した。ついでにほとんど叩きつけるようにしてドアポケットに突っ込む。狭い軽トラの助手席で器用に足を組み腕を組み、そして最後にフンと鼻を鳴らした。開き直ったようで大変よろしい。
「ハルの奴、適当にでっち上げられやがって」
「なんだ、わかってるんじゃねえか」
 てっきりゴシップを鵜呑みにして妙に思い詰めた挙句、七瀬を避けて帰郷したのかと思ったがそうでもないらしい。
 先ほどまでの泣き虫リンリンのしおらしさに代わり、沸々と苛立ちを滾らせ始めた様子である。ならばいいだろうかと、宗介は記事の最後に記されていた『結婚秒読み!? 本紙記者は七瀬選手に直撃インタビューを試みた』あたりを諳んじる。
「『七瀬選手といえば寡黙でストイックなイメージでしたが、恋愛方面には意外と情熱的なのでしょうか?』『情熱的かどうかはわかりませんが、自分になりに誠実に付き合っているつもりです』『ということはもしかして結婚を前提に、という……?』『近々プロポーズも考えています』ってのは」
「…………たぶんお前が考えてるとおりだよ」
 我ながら気持ちが悪いぐらいの記憶力だが、それにすらツッコミが入らない。ついに凛は両手で顔を覆い、狭い車内で天を仰いだ。気の毒だとは思うが、多少笑えてくるのは仕方がない。
「実際のインタビューがどうだったかは知らねえけど、誰が、誰にプロポーズを考えてるのか、主語がないもんな?」
「ホント、馬鹿正直っつーか、馬鹿っつーか……」
 赤信号に引っかかり、宗介はブレーキを踏む。ここの信号は長かったはずだ。頭の隅で冷静に考えつつも、喉の奥からこぼれる笑い声を抑え切れない。思わず揺れる左肩に八つ当たりのように拳が飛んでくる。
「他人事だと思って」
「思わねえよ。大事な幼馴染の結婚だからな」
「笑ってんじゃねえか! あーっ、くそ!」
 ばしばしと続く肩への衝撃に辟易すると同時、苛立ちと羞恥で頭を掻き毟る凛が笑えて仕方がない。七瀬の天然っぷりもここまで来ると一芸に数えていいのではないかと思うが、当事者である、恐らく七瀬がプロポーズを考えている相手たる凛からするとデリカシーがないと映るらしい。
 だからと言って黙って里帰りをしたところで七瀬が反省するとは到底思えないのだが、面白いので黙っておく。どうせすぐに種明かしはされるのだ。
 散々人の肩を叩いても尚、凛の憤りは収まらないようだった。あー! というこれまでで一番の大声に苦笑して、視線だけで凛を呼ぶ。眉間に縦皺を刻んだ凛が少し顔を傾けて、そして宗介はむっつりととんがった唇に口づけた。ちゅっと鳴るリップ音すら拗ねて聞こえる。宗介の思考を察したものか、重なっただけで離れていく唇についでとばかりに凛の歯が立てられた。
「あーあ。ハルじゃなくて宗介と付き合おうかなー」
「付き合うか?」
「冗談」
「だな」
 飛び交う軽口の隙間で信号が青に変わる。宗介がアクセルを踏めば、緩やかに窓の向こうを景色が流れ始める。数ヶ月ぶりの故郷の景色をぼんやりと眺めながら、凛はぼそぼそと言い訳めいた言葉を吐き出していた。
「悪気があるわけじゃないのは当然だし、ハルがああだってのはわかってんだよ」
「おう」
「けどな、俺のいないところでそのへんのゴシップ記者にぽろっと言っちまうっていうのがこう、カーっときたっつうか」
「だろうな」
「なんで俺より先に週刊誌がすっぱ抜いてんだよとか、タレントじゃなくて俺の話だっつうのとか、さあ」
「でも嬉しいんだろ?」
「…………おう」
 視界の端で凛の頭がきっぱりと上下した。
 つまりこれは惚気みたいなものだ。週刊誌や自分を巻き込んだ、盛大な惚気だった。
 凛や七瀬は破局の予感に焦っていたり、そこまで行かずとも痴話喧嘩だとか遠距離恋愛のすれ違いだとか、何か劇的なものにハッピーな頭で変換しているのかもしれないが、全てを知っている宗介からすれば完全に惚気であった。恐らく橘がこの場に居合わせたなら、深々と頷いて同意してくれただろう。
 助手席側の窓ガラスを曇らせつつ、凛は未だにぶつぶつと恋愛脳をひけらかしているようだったが、宗介は構わず進路を変えた。己の世界に浸る凛は例えガラスが曇っていなくたって気づきやしまい。
 軽トラは長閑な田舎の道を軽快に走り抜けてゆく。結局凛が気がついたのは、どことなく寂しくせせこましい町並みに入り込んでからだった。
「……おい、宗介。佐野に帰ってんだよな」
「お前が家までの足にするつもりで俺を呼んだんだろうが」
「そうだけどよ、いや、それは悪かったって思ってるし埋め合わせもするけど、お前、こっちは」
「はーい、お客さん着きましたよー」
 焦り始めるのが遅すぎる。宗介はわざとらしい口調で凛を遮って、路肩に寄せて車を停車させた。ついでに凛のシートベルトを無理矢理引っぺがし、さっさと凛を車外に追いやる。
 放り出された凛はドアを閉めることも忘れてその場に立ち尽くしている。冷たい外気が車内に雪崩れ込むのも構わず、宗介は凛の背中を見える範囲で見守っていた。幼馴染の向こうには古めかしい作りの岩鳶駅の駅舎、それからこの外気にもかかわらず凛の帰りを駅の前で待っていたのであろう、渦中の男が一人。
「凛!」
「は、る……なんで……」
 凛の呆然とした声に、溜飲が下がる思いだった。
 宗介が七瀬に連絡を取ったのは、簡潔に過ぎるメールを受け取ったその日のことである。あの時は七瀬選手の熱愛報道など露とも知らなかったわけだが、どうせ凛が突発的な行動を取る理由の十中八九は交際相手の七瀬遙絡みだろうと決めつけてかかって正解だった。
 ドラマで見るようなありきたり且つ、本人たちは至って真剣だろう擦れ違いカップルの定番のやり取りをBGMに、宗介は運転席で欠伸を噛み殺した。
 確かにお前の家に、七瀬のところに送り届けてやったぜ、凛。貸一つだからな、七瀬。そう言ってこのまま軽トラで走り去れたらなかなかスマートなのだろうが、宗介には生憎と恋愛ドラマの世界の登場人物になる気はないし、現実的に考えて荷台の凛のスーツケースを置いていくわけにも持ち帰るわけにもいかない。
 この後追いかけて帰郷した七瀬に感極まった凛が泣いて抱きつくとか、七瀬はその流れで件のプロポーズに臨むのではないかとか、それでもこのカップルの片方を助手席に、もう片方をスーツケースと一緒に荷台に載せて七瀬家まで運んでやらなければならないのだろうなとか、宗介はそこまで考えて一人で笑った。
 ともかく今は凛と七瀬の感動のやり取りが終わるのを待つしかあるまい。果たして今回のタクシー代はどう埋め合わせてもらおうか、などと考えながら、宗介は目を閉じた。