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さくらさく

 それがいつから見え始めるようになったのかと問われれば、真琴は確たる答えを持たない。
 間違いなく言えることはといえば、それは真琴にしか見えないことと、それから、遙と凛が深く繋がった後に見えるということだ。
(ああ、また)
 参考書の束を抱えて器用に呼び鈴を鳴らし、唯一の家人にして実質家主であるところの幼馴染に迎え入れられた真琴は、玄関先でうんざりと項垂れた。本当は頭を抱えたいところであるが、生憎と両手は塞がっている。代わりに行儀悪くスニーカーの踵を反対の足でぎゅうぎゅうと踏み潰しながら自宅と同じ程に馴染んだ七瀬家へと上がった。
 項垂れた視線の先、深い飴色の床をふわりと淡い色が舞い過ぎる。これが真琴の頭を抱えたい最たる原因だ。ひらひらと真琴の苦悩を笑うようにそれは舞い落ちて、黒い靴下の前にぴたりと落ちた。靴下からくるぶしへ、更にその上へと視線を滑らせれば家主とは別のもう一人の幼馴染が立っている。
「遅かったな、真琴」
「うん、まあ、ちょっとね……」
 歯切れの悪い真琴の言葉に軽く肩を竦める仕草。長年晒された塩素で抜けたものか生来のものか、赤茶けた髪がさらりと揺れた。そしてまたひらひらと淡い色が舞う。それが唯一見える真琴には桜の花弁として映っている。
 季節外れの桜を舞い散らし家主の代わりに客をもてなし、長年この家に住む家族のように振る舞う幼馴染。凛にはきっと見えていないのだろう。真琴の手からひょいと参考書の束を取り上げて、さっさと居間の方へ歩いていく。うーさみぃなどと漏らしながらジャージに覆われた肩を竦める後ろ姿にまたふわりふわりと薄紅色が舞って、真琴はぶるぶると頭を振った。
 もちろん真琴が雨に濡れた犬のようにかぶりを振ったとて、桜の花びらは消えやしない。あれを撒き散らしているのは凛である。
 淡い色彩を引っ張って居間へ消える凛の足取りは桜咲く季節のごとくふわふわと浮足立って見えて、真琴はそんな凛に精気を吸い取られでもしたかのようにようやっと重い足を引きずり始めた。目指す先は居間ではなく、鯖の匂いの漂う台所である。
 のれんを捲り上げて頭を突っ込めば案の定、真剣な顔で火に炙られる鯖を見つめる家主がいる。この寒いのに薄手のロングシャツにハーフパンツ姿で、使い込まれたエプロンを垂らしているのだが、今の真琴にはこの軽装すら穿って見えてしまうわけである。
「……ハルゥ」
 真琴のか細い声に、遙が目端だけで何だと問うた。
「どこでした?」
「居間」
「……換気」
「風呂に入ってる間にした」
 風呂に入る時間というのは、長いのだろうか、短いのだろうか。
 真琴は遙の足元にわだかまる薄紅の花溜まりを見るともなしに眺めながら考える。
「いいから居間行ってろ。用意ができたらメシにするから」
「鯖焼いてるけど」
「これは茶請けだ」
 真琴は本日、凛に英語を教わるために七瀬家を訪れている。受験まで後、と指を折るのも恐ろしい年の暮れ、試験でも必須のヒアリングを集中的に強化するためだった。
 更に言及すると、鮫柄の寮に住まいする凛は本日七瀬家に泊まっていくのだという。凛はもう進路を決めているし、真琴のような試験らしい試験もない。部活にはまだ顔を出しているそうだが、期末試験のため部活動停止期間に入っているのでそちらも問題ないという。真琴の勉強を見るため、という実に友情に篤いお題目だが、真琴としては自分をダシにするのはやめて欲しいという思いがないでもない。一人では対処しきれない英語のヒアリングについて手ほどきを受けられるのは嬉しいが、こうもあからさまだと一言二言物申したくもなる。
 遙は夏に来ていたスカウトの話を受け、先日進学先を決めていた。つまり遙も凛も、真琴ほどにはあくせくする必要がなく、極端に言ってしまえば暇、いや自由だ。こうして勉強を見てくれたり、ついでに三人で鍋でも食べようと申し出てくれるぐらいには余裕があった。
「ああ、でも」
 重い頭を持て余す真琴の思考を遙の声が割る。凛よりも控えめに桜を散らしながら、遙が肩越しに真琴を振り返っていた。
「コタツは片付けてる」
「……わかった」
 背後の廊下の向こうからごぉんごぉんと響く、二槽式洗濯機の唸る音に、真琴は深く頷いた。悟った。知りたくもないのにそれは日常に溶け込みすぎていて回避ができないし、生々しい。
 明確に口にはしないもののある意味雄弁な遙より、まだ遙との関係を隠し果せていると思っている凛を相手にする方がマシだ。鍋を持ってくるときは手伝うからと力なく声をかけて、真琴は台所を横切って磨りガラスの嵌め込まれた引き戸を開けた。
 がらがらと開いた先には、布団を剥がされたただの卓袱台に向かい、真琴の参考書を読み込む凛が座っている。すぐに真琴を見上げて、そして眉根を寄せた。
「ンだよ真琴、その顔。ハルと何話してたんだ?」
「いやあ、うん、大したことじゃないんだけど……ね」
 一面桜の海、いや、桜の布団だ。
 後ろ手に引き戸を閉める真琴は居間の惨状に引き攣る頬を隠し切れない。畳も見えないほどに桜の花びらが部屋の隅から隅までを埋め尽くしている。換気はした、というが、真琴の脳には噎せ返るような花の匂いが突き刺さっていた。恐ろしいことに、この惨状の真ん中に座る凛にも、換気をしたと主張する台所の遙にも、このピンクの世界が見えていないのである。
(どうして俺ばっかりこんな目に)
 叶うのならそう喚いて膝を突いてしまいたい。けれどこの春咲き誇る世界は真琴にしか見えないし、膝を突くなどすれば余計に花の匂いに中てられるのだろう。この世は全く理不尽だと憤りたい。
 遙と凛が撒き散らす桜の花びらは、真琴にしか見えないのだった。この花は遙と凛が深く繋がったときにどうやら見えるらしく、真琴の記憶にある限りでは去年の夏の大会で遙が凛に手を差し伸べた時にはもう見えていた。思い返せばもっと前から見えていたような気もするけれど、とにかく自覚したのはあの時が最初である。
 初めは、いいなあ、などと呑気に思っていたのだ。昔のように、いや昔よりもずっと仲睦まじい二人を見るのは真琴にとっても幸せだった。真琴は二人の幼馴染を祝福していた。
 ところが、ところがだ。この桜は二人が「繋がった」ときに見えるのだと真琴はいつからか気づいてしまった。
 繋がる、というのはまずは精神性が第一のようだが、心が繋がると同時に二人はどうやら物理的にも繋がっているらしい。これは衝撃ではあったが、真琴は二人の関係に納得して受け入れ、やはり心でこっそりと二人を祝福した。嫌悪はなかった。
 なかったのだが、この状況が続くのはなかなかに厳しい。例えば今ならば、真琴が訪れる前まで遙と凛はこの居間で繋がっていたのだとまざまざと見せつけられているわけである。換気はした、という遙の気遣いのようなよくわからない発言はあったが、青臭い匂いが冬の空気と入れ替えられたところで花の匂いは濃く漂い続けているし、そもそもの発生源は凛であるからして無意味だ。しかも遙の言葉を合わせて考えると、二人はコタツで……いや、これ以上は考えるまい。
「何突っ立ってんだよ真琴。大丈夫か?」
 花に埋もれた凛が沈黙に耐えかねて声を上げる。口調こそつっけんどんだが、寄せられた眉根には真琴への気遣いが見て取れた。受験を控えた真琴が体調を崩しでもしていたら大変だと、きっと案じてくれているのだろう。
 こんな凛を見ていると、激しかったんだねとかお楽しみだったねとか思わず言ってしまいたくなる、そんな意地の悪い真琴自身が消えていくのである。
 いかんせん凛は真琴の前だけに広がる圧倒的情況証拠にも気づかず、遙との関係は知られていないと思っているのだ。もしも真琴が何もかも丸っと全て理解していると知ってしまったら、凛は羞恥の余り死んでしまうだろう。
『真琴、手伝ってくれるか』
 折よく襖の向こうから遙の声が響いた。気遣う凛に大丈夫だと肩を竦める仕草で答えてから、真琴は逃げ出すように襖を開き台所へと身を滑り入れる。同時に目の前に、曰く茶請けらしい鯖の乗った皿が突きつけられる。
「これ、そっちに持っていけ」
「わかった」
「その後でいいから、カセットコンロ出しておいてくれるか」
 これにも頷く。視線でコンロの収納場所を確認する真琴に、遙はそれからともうひとつ付け足した。
「明日の放課後、買い物に付き合ってくれると嬉しい」
「何か大きいものでも買うの?」
「トイレットペーパーがお一人様二個までだ」
 主婦めいた理由に神妙に頷いた。真琴も受験を乗り切って志望校に合格すれば、春からは東京で一人暮らしだ。こういう遙の節約術を見習わねばなるまい。
 居た堪れないピンクの世界からようやく受験へと切り替わりかけた頭に、最後に遙がぼそりと漏らした一言が突き刺さった。
「ゴムもなくなったから買っておくか……」
 遙の背後からぶわりと桜が舞い散って、真琴の顔面を打った。
 遙と真琴の生活圏内で日用雑貨を購入できる店は限られている。加えて基本的に移動手段が徒歩しかない遙が買い出しに行くとなれば、なんであれまとめて買うほうが都合はいいだろう。それはわかる。だがしかし、敢えてそれを一緒に購入することを口に出す必要があるだろうか。いや、ない。遙とて真琴に聞かせようと思って口にしたのではないだろうが、例え独り言であれ人前でぽろりと零してしまう、その遙の神経に真琴は更に頭痛を覚えるのである。
 真琴にしか見えないふわふわしたそれは常に満開である。桜咲く、という言葉が暴力的にすら思えて仕方ない。幼馴染二人の幸せ満開な桜はともかく、この花弁に中てられる続ける自分の桜は果たして無事に咲くのだろうかと、己の前途を案じずにはいられない橘真琴十八歳の冬である。