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瓶底懐恋妖譚

 声を出してはいけないよ。
 心で叫んでもいけないよ。
 真琴くん以外の人間の前では、旦那さまの前では、お前はお人形の「遙」でいなければいけないよ。
 それが生き別れた母親が、遙に最後に伝えた言葉である。


 真琴が祭というものを見たのは、生まれてこの方初めてである。
 人や人が川のように犇き合う。流れは登りも下りも混ぜこぜで、真琴は黒い牛革の鞄を抱えて旦那さまのインバネスコートの裾を追うのが仕事であったが、てんでばらばらな流れにともすれば飲み込まれそうだった。それだけでも大変なのに、人びとの流れの両脇で所狭しと居並ぶ屋台は不思議な匂いやちかちか光る小間物で真琴を誘い、屋台の向こうや頭上高くに吊るされたぼんぼりは真琴の目を眩ませる。おまけに老若男女の弾む声、何処か遠くから響くお囃子、それからじゅうじゅうとか、がらがらとか、ちりんちりんとか、ぱぁんとか、真琴には正体の計り知れない音たちが聴覚を揺さぶるのであった。
 四方八方、光と匂いと音とに誘惑される真琴は我が身を引き裂かれる思いで、それでもようようお勤めを全うする。お社に辿り着いた旦那さまが真琴から鞄を取り上げて、ここで待っていなさい、と仰ったためだった。真琴は旦那さまの広い背がお社に消えていくのを見送って、ようやっと、深く息を吐いた。見慣れない祭の世界は歩くだけで気力と体力を吸い取ってゆく。
 真琴は大きな灯籠のそば、石段の端にそうっと腰を下ろした。
 眼下に広がる世界は墨色の夜に橙や赤や黄色の光をまぶしていて、目に刺さるようだ。空にぽつんと浮かぶ青白い月の寂しさまでもが祭の底に呑み込まれている。そうして寂しさを踏み潰して光の下をうぞうぞと、夜も更けたというのに老いも若きもがこぞって蠢いている。不思議な、実に不思議な光景だった。この眺めを、お屋敷の窓辺でひとりぽつねんと座って旦那さまの帰りを待っている、ハルにも見せてあげたい――
「君、君」
 不意に頭の上から声をかけられて、真琴は飛び上がらんばかりに驚いた。
 慌てて声のした方を振り仰げば、そこには若い男が立っている。夜の藍にもぼんぼりの橙にも青白い肌に、紅を牛の乳で溶かしたような淡い色の髪をして、死人が羽織るみたいな白く長い着物を纏っている。この世ならざる淡色の中瞳だけが生きた水の色をしていて、じいっと真琴を見下ろしていた。
「一人なの? だったら、僕のお店を見て行ってよ」
「あ、あの、一人じゃないんです。ここで旦那さまのお帰りを待たなければいけないんです」
 真琴がか細い声で告げれば、男はふうん? と首を傾げて、それから背後のお社を目の端だけでちらと振り返った。
「その旦那さまって、生きて帰れるのかな?」
「え?」
 真琴の声を掻き消すように、がらがらがらがらと大きな音が鳴った。突然の風に煽られたぼんぼりが揺れて振れて、橙の光をびかびかと瞬かせている。
 男は己の横髪を押さえて、それから、にこりと笑みを浮かべた。
「冗談だよ。旦那さまを待つ間暇だろう? いとま潰しと思ってさ、少し見て行きなよ。今晩は月が良いお祭りだから、とっておきがあるんだ」
「でも、僕は……」
「いいから、いいから」
 男は真琴を軽く手招いて、それから石段の上からふっと姿を消した。
 どうしよう。真琴はここで旦那さまを待たなければいけないのだ。なのにびゅうびゅう吹く風が真琴の心細さを煽り、そして水の色をしたひとみとやわらかいばかりの声は只管真琴を誘っている。
 散々思案した挙句、真琴は恐る恐る立ち上がった。吹き抜ける風ばかりか眼下の祭の賑わいすら不安定に真琴を煽って、それを言い訳に逃げるようにして石段を一気に駆け上がった。
 走ってしまえばものの数秒のことだ。石段の上では真新しい白木のお社が重々しくましまして、参拝する人びとと、眼下の町並みを見守っていた。そして先ほどの男はといえば、まるで神使のように神の家のそば近くに侍っていた。
「僕のお店はこっちなんだ」
 言って男はまた、ひらりと身を翻しお社の裏手へ消えていく。真琴は今度はそろそろと、足音を殺して後に続いた。
 真新しいお社の木の匂いに噎せながら、どこにいるとも知れない旦那さまに気づかれぬよう息すら殺して。そうして辿り着いた先には、眩い世界が広がっている。
 真琴は刺す光に咄嗟に目を腕で覆い、そしてそろそろと小さな異世界を窺う。 人が犇く道すがらに見た屋台と同じ、赤い布の屋根に橙のぼんぼりを灯した店があった。ほのかに、けれど木の匂いまでも覆い隠すほど強く、香か何かか不思議な匂いが漂っている。石畳に敷かれた御座の上に金銀鈍色が暖色を跳ね返して瞬いていた。
 眩む光によろめいて、そのまま真琴は御座の前にしゃがみ込んだ。燻した金色の杯や、赤毛と黒髪の双子の人形、大小色とりどりの硝子玉、瓶詰にされた何かの果実。他にも見たことのないものたちばかりが並んでいた。
「僕のお勧めは、これかな」
 思わず見惚れる真琴に、男は何か細長いものを差し出してきた。両手で受け取ったそれは底の広がった円筒形で、旦那さまの持っている望遠鏡にも似ている。 けれど手にした瞬間、たぷんと水が揺れる感触があった。筒は厚く丸みのある硝子でできていて、底は透明、上部は澄んだ青。そして青の先端は木片をはめ込んで蓋がしてある。そして硝子の筒の透明と青のあいだを、赤い魚がゆらゆらと泳いでいた。
「西の方の、砂の国から渡ってきた魚なんだ」
 するりと水を掻く尾鰭に乗せて、男は囁く声で真琴に告げた。
「こんな細長い瓶の中で、苦しくないの?」
「さあ、僕は魚じゃないからわからないな。けど水さえあれば生きていけるんじゃない?」
 瓶詰の赤い魚はひらひらと、僅かな水と夜の黒と、橙の光を散らすように泳ぎ続けている。
 真琴の不安も知らぬ気に、ひとり気儘に水を泳ぐ魚。真琴を置き去りにする姿が誰かに似ている。
 けれど硝子の青とぼんぼりの光と、魚の赤が眩しく美しいことは間違いなかった。できればこの美しい魚を、ハルにも見せてあげたい。
「できればこの魚、君たちにもらって欲しいんだけど」
「え?」
 がらがら、がらと。
 大きな音が鳴った。一段と強い風が吹いた。真琴は硝子の筒を大事に抱いて咄嗟に目を瞑る。ぼんぼりの振れるけたたましいがらがらと風は少しずつ収まって、音が完全に失せた頃に真琴はやっと目を開いた。そしてあっと声を上げた。
 そこにはもう、眩い不思議な品々も、赤屋根の屋台もぼんぼりも、淡色の男も、みんなみんないなくなっていた。ただ薄暗がりぼうっと白くお社が浮かび上がっているだけだ。そして真琴の腕の中には青を流した硝子の筒と、その中で未だ悠然と泳ぐ赤い魚が残されていた。
 あの男は何だったのだろう。今まで見ていたものは夢幻だったのだろうか。いいや手には確かに赤い魚を閉じ込めた瓶が残っている。ならば狐に摘ままれでもしたのだろうか……。
 ぱきりと小枝を踏む音に思案していた真琴は飛び上がる。振り向けば鞄を提げた旦那さまが立っていて、真琴と、真琴の手にしたものをじっと見つめていた。
「だ、旦那さま、申し訳ありません!」
 小走りに駆け寄るが旦那さまは鞄を手にしたままだ。真琴は俯き気味に、それでも旦那さまを真っ直ぐ見上げて口を開く。
「これは、その、狐に摘ままれたと言いますか……でもあの、遙に」
 瓶を持つ手に力を込める。旦那さまのピクリとも動かない表情の中、それでも海の色をした目が興味深げに波打つ様を真琴はしっかり捉えていた。
「家で待っている遙に見せてやりたいのです。きっと喜ぶと思うので……」
 真琴と旦那さまの間に、遠く祭の喧騒と、聞こえるべくもない魚の鰭の揺れる音だけが落ちた。
 やがて旦那さまは鞄をゆっくりと持ち直し、真琴に背を向けて歩き出す。真琴はぱっと顔を輝かせて鞄の代わりに硝子の筒を抱え、小走りにインバネスコートの背を追った。

 祭では踏みにじられていた月光も、この屋敷では女王として凛と夜に君臨している。
 左腕に硝子の筒を抱き、オイルランプを提げた右手で器用にノブを捻って、真琴はしんと静かなその部屋に身を滑り入れた。
「遙、……ハル、ただいま」
 返事はない。代わりに腕の中でたぷんと水が揺れ、魚がからだをくゆらせる。
 背中で押してドアを閉め、真琴は窓辺へと歩み寄る。漆黒を晒して横たわる深い木目の床を踏み、微かな軋みを立ててみるが、相変わらず静謐な離れの小部屋で動くものは真琴と腕の中の魚だけだった。窓辺に据えられた猫足の椅子には、綺麗な着物に身を包んだ幼馴染が座しているものの、髪の一筋たりとも振れることなくただ座り続けている。
 まるで飾られた人形のようで、事実その通りだった。遙は旦那さまの人形で、そして真琴は旦那さまの荷物を持ったり遙の世話する丁稚であった。
「今日はね、旦那さまのお仕事でお祭りに行ってきたんだ。ハルも一緒に行ければよかったんだけど」
 アンティークチェアと揃いの小洒落た小さなテーブルにランプを置けば、僅かながら冷たい部屋に暖が灯る。真琴は冴え冴えと映える遙の白皙を、しゃがみ込んで同じ目の高さで見つめた。
 硝子玉みたいな深い青の瞳に真琴の顔が映っていることを確かめて、そのことにほっとしながら、硝子の筒を差し出してみせる。赤い魚がひらりと身を翻して、ランプの灯りをことのほか大きく揺らした。遙の青い瞳にも魚の赤が瞬いて散る。
「ハルにお土産。買った訳じゃないんだけど、不思議なことがあってね……」
 窓辺の小棚の上に硝子の筒を置き、遙の椅子の向きもそちらへと変えてやる。遙が見ているかどうかはわからないけれど、目には入っているだろう。肩を並べて魚を眺めながら、真琴は祭の喧騒と明るさと不思議な匂いと人の多さと、それから淡い色の男と魚との出会いを語って聞かせた。遙はやはりぴくりとも動かないけれど、きっと聞こえてはいるはずだから。窓辺に飾られた筒は硝子と水に月明かりを通して、赤い魚の泳ぐ軌跡をゆらゆらと描き続けていた。
 一通りを語り終えて、真琴はゆっくりと立ち上がった。
「聞いてくれてありがとう、ハル。そろそろ冷えてきたし、もう寝ようか」
 覗き込む瞳に肯定の色を見る。真琴は背凭れと遙の背の間に右手を差し入れ、左の腕を膝裏にくぐらせて、壊れものでも扱うかのようにそうっと、遙を抱き上げた。ゆっくりゆっくり床板を踏み締め、腕の中の少し低い体温を感じながら、寝台までの短い距離を歩く。
 天蓋から垂れる紗を払いシーツの上に遙の身体を横たえて、今度は遙の着ているものを一枚一枚丁寧に脱がせてゆく。下着まですっかり取り払って、昼のベッドメイクの際に用意していた新しい下着と寝間着を着せて、最後にそっと布団を掛けてやった。
「今日は月が明るいけど、ランプはどうする?」
 言って遙の顔を覗き込む。紗で灯りから遮られてはいるものの、遙の微動だにしない瞳は雄弁だった。
「じゃあ、もう消しておくね。おやすみ、ハル」
 告げて、被せたばかりの布団の中に手を忍び込ませる。探り当てた遙の手をきゅっと握り、お互いの体温が少しばかり行き来した頃に手を離した。
 天蓋から降りる紗を細く隙間が残るぐらいまで引き、真琴は静かに遙のベッドから離れた。その足でテーブルのランプを吹き消す。部屋は闇に閉ざされることもなく、青白い月明かりで仄かに照らされていた。
 そして窓辺の瓶の中で泳ぐ魚の影が、長く伸びてゆらり、ゆらりと揺れている。
 まるで部屋全体が、あの青をまぶした硝子の瓶になってしまったようだった。
 あの赤い魚はいつ眠るのだろうか。明日の朝には餌もあげなければ。早起きをして台所から削り節のひとつまみでも分けてもらって、遙を起こしてから一緒に餌をやろう……今度のあの赤い魚は、長生きをするといいのだけれど。真琴はそんなことを考える。
 以前にも鉢に入れた金魚や、金の籠に入れた小鳥をあの窓辺で飼ったことがある。この部屋から出られない遙の慰めになればと連れられたちいさな生きものたちは、けれど皆程なくして死んでしまった。遙の瞳は何も語らなかったけれど、真琴はその度に泣きながら庭の隅に生きものたちを埋めてやるのだ。
 悠々と泳ぎ続ける赤い魚を見つめ、真琴は静かに踵を返した。不思議な男、不思議な魚。あの赤を土に埋める日は来なければいい。そう思いながら、真琴は遙の眠る部屋の扉を音もなく閉ざした。

 ぼおうぼおうと低く鳴るのは、柱時計か森の鳥か。しんしんと横たわる真夜中の狭間で、青い瞳はすうっと浮かび上がるように開かれる。
 皺一つない真っ白なシーツの上、組まれた手の指を一本いっぽんほどいてゆく。人形めいて滑らかな五指は油を差しでもしたようにするすると動いて、存外と躊躇いなく布団を払い除けた。これまた真っ白い夜着に包まれた身体がむくりと起き上がれば、紗の向こうから差す月光に少年の影が大きく揺れる。
 子どもらしくまろい頭の輪郭は影と一緒に跳ね上がる。白磁のごとき素足の踵が床を踏むぺたりと間延びした音だけが、作り物めいた夜に生きている証左だった。
 幾重かの紗を頭で割って、少年は寝台から完全に抜け出した。ぺたり、ぺたりと続く音は、月明かりを取り込む青白い窓辺へと辿り着く。そこには夜も昼も知らぬげに、只管気儘に舞い泳ぐ赤い魚の姿があった青を溶かし流した硝子の世界は、赤い魚には幾分狭過ぎるのではないかと思われた。婦人のドレスのように優雅に翻る尾鰭も、丸くふっくらとしたからだも、きょときょとと水を透かす大きな目も、全てこの縦に長いだけの瓶の中では苦しそうに見えて仕方ない。
 そしてこの魚は己の苦痛も不自由も知らず、うつくしい姿を世に知らしめることもなく、数日の後には白い腹を晒して死んでしまうのだ。浮かび上がるべき水面すらなく。それは実に、哀れなことだった。
 指を伸ばし、赤い魚と影の踊る瓶を掴む。窓辺から持ち上げる。厚く丸みのある硝子の筒はずしりとして重い。器を満たす水と、うつくしく哀れな赤い魚の命の重みだ。
 少年は青い瞳にちいさな命を捉え、見つめ、その生を漲らせた水の軌跡を焼き付けながら、硝子の筒を思い切り振り上げ、振り下ろす。硝子は鈍くも澄んだ音を響かせて砕け散り赤い魚のちいさな体躯は外の世界へ投げ出され叩きつけられる――
「お前は、俺を殺すのか?」
 少年の幻想を、男の声が遮った。
 硝子の世界を振り上げた姿勢のまま、少年はゆっくりと頭を巡らせた。長く差し込む月明かりに、筒を振り上げる己の影が歪に伸び、先ほど抜け出した寝台まで届いている。硝子の中で泳ぐ魚の影がぐるりと振れた瞬間、少年はやっと声のあるじを見つけた。
 それは紗を透かしながら、寝台の端に腰かけていた。赤い髪を青白い月にちらちらと揺らし、赤い瞳を三日月のように眇めて口の端には笑みを湛えている。
 一糸纏わぬ生まれたままの姿で両足を組んで、泰然とした様は少年などより余程その寝台の、いいやこの部屋のあるじに相応しいように思えた。
 美しい男だ。少年は訝るよりも何よりも、真っ先にそう思った。心の内を透かしたものか男は益々艶かしく笑む。そしてまた口を開く。
「なあ、どうして殺すんだ?」
「……こんな行き止まりの世界で生きてたって、しょうがない。魚も、鳥も、野鼠も、人に飼われる限り行き止まりだ」
声は案外と楽に出た。言葉はごく自然に、つらつらと吐き出せた。
「それから、お前も?」
 少年の密やかな驚嘆など、男が知るべくもない。ただ先よりもずっと楽しげに笑って返すだけだった。
「そうだ、俺もだ。ここはただの、行き止まりだ」
 たまに連れられてくるちいさな生きものたちよりももっとずっと不自由で哀れな生きものは、間違いなく少年自身だった。誰かに殺されて行き止まりを終えることもできない、ただの生きた人形として生きる人間以上に哀れなものなどいるだろうか。
 男はおかしそうに笑う。
「死ねば行き止まりが終わると、その先に行けると思うのか?」
「……少なくとも、今よりは」
「変わらねぇよ」
 凛と、揺るぎない声だった。行き止まりの果ての果てを、世界の終わりを見てきたかのような声が、青白い夜を赤く燃やして揺らしている。
 煙に巻くような笑いを潜めた男を、少年は身体ごと振り返り真正面に捉える。手にした青を溶かした硝子の中で、注がれた水がとぷんと鳴く。水の世界に赤い魚はいなかった。少年から伸びる影が交わる先に、赤い男がひとり座しているだけだった。
 確信を得ながら、それでも少年は重々しく口を開く。
「……お前は、誰だ。何だ」
「俺は凛。何だ、と訊かれると――お前が察している通りだ」
 果たして哀れな赤い魚は、そう答えて不敵に笑ってみせた。
 ゆるく足を組み替え、水底深くを覗くように赤の瞳を眇める。少年にしろ凛と答えた魚の男にしろ、行き止まりの青白い世界にはお互いしか存在しない。男が口の端を吊り上げたまま、同じ問いを返してくる。
「お前は? お前は誰で、何なんだ?」
「俺は……」
 少年の思考を、何人かの影が掠める。もう会うことのない母、唯一の幼馴染、旦那さま。そして行き止まりで相対峙する、不思議な生きもの。
 凛という男。
「俺は、遙。ハル」
 人間の前では、旦那さまの前では、お人形の遙。
 しかしこの凛は赤い魚で、人間でも、旦那さまでもなかった。ならば少年は、今は人形ではない。ただ一人の人間で、そして、
「俺は、俺だ。それ以上でもそれ以下でもない、ただの人だ」
 それが全てだった。
 凛は燃える瞳で少年を、唯一無二の遙を見つめ、そして頷いた。熱を孕んだ吐息で、はる、と遙の名前を呟く。干上がる世界の終わりで水のほとりを見つけたような、うっとりと酩酊した声だった。
「ハル。やっと会えたな」
 そしてふらりと立ち上がる。一歩踏み出せば、一糸纏わぬ裸身が惜しげもなく夜に晒される。危うげもなければ鱗もない人の足。
 もう一歩踏み出せば、恍惚とした表情が月明かりに照らされる。見たこともない鮮やかな、既視感を覚える赤い瞳。赤い髪の手触りの良さも知っている。
 そして更に一歩踏み出して、遙は凛の腕の中に捉えられた。全身で感じる凛の体温に水の冷たさはなく、熱い。
 なのに漂う清冽な水の匂い。触れる肌に漲る生。
 凛は哀れとは程遠い、傲慢なまでに美しい男だった。
 されるがまま立ち尽くす遙に凛の足が絡まる。腕が巻きつく。長く伸びる影が重なって、凛の吐息が擽ったい。
 ただ触れ合うだけの唇は水のように心地良く、遙の心の臓を燃え上がらせた。

 口づけで呪いが解ける、というのは、概ねお決まりの展開だ。
「……ハル? どうしたの?」
 まさしくたった今、そんな童話を遙に語って聞かせた真琴は埃っぽい本を閉じながら首を傾げた。
 旦那さまから遙のためにと下された本を、真琴は午後の麗らかな日差しが角度を深くし始める頃合いに読み始める。時には童話ではなく異国の写真を綴じたものであったり、大陸の地図であったり、民話を集めたものであったりもするけれど、読み始める時間と場所はいつも決まっていた。遙の座る椅子はいつも窓辺のちょうどよく日が差し込むところに据えられるし、椅子と揃いのテーブルには遙のために華奢なグラスとすらりとした水差しが置かれているし、そして窓の向こうには季節の花と常盤の木々が花や葉や枝を伸ばして彩りを添えている。
 離れの一室でも、一等日と風と景観の良い窓辺。そこが遙の定位置で、そして遙の腰掛ける椅子の隣に丸椅子を並べる真琴ともう一人、窓辺に同居人がいる。
 昼の光を透かして黒壇の床に水の波紋が青く揺れる。青の中では相変わらず悠々と、赤い魚が泳いでいた。
 赤い魚は相変わらず、赤い魚である。海の向こうの国では大抵口づけを交わした後に人ならざるものは人の姿を取り戻したり、或いは新たに人の姿を得たりするものだが、唇を交わして以降も凛は魚のままであった。
「……いいの? もう一冊なんて、珍しいね」
 遙の顔を覗き込んでいた真琴は、正しく遙の声にも表情にもならない訴えを読み取っている。
 今しがた読み終えた本を真琴が部屋の隅の小さな書架まで返しに行く気配を頭の後ろで追いながら、遙は眼球を動かさず窓辺の硝子瓶を視界と意識に捉える。
 真琴には凛のことは「伝えていない」。凛は口づけをいくら交わしても赤い魚であり、作り物めいた人の裸身を晒すのはいつも遙が床に入れられ、世話役の真琴が母屋へ引っ込んだ後、月が青白い夜だけだった。
 いずれ「話す」べき時は来るだろうが、現状真琴は凛のもうひとつの姿を見たことはない。凛は凛で夜に人の姿をとって遙と他愛もない話をしたり遙を抱き締めてきたり、触れるだけの口づけを交わしたりするぐらいで、真琴の前では狭い硝子の筒を泳ぎ回る赤い魚でしかない。
 新たな本を手に戻ってきた真琴が遙の隣に置いた椅子に腰掛ける。その向こう、窓辺で赤い影がちらついている。
 遙は粛々と真琴が本を読み聞かせ始めるのを待った。先ほどの本は王女の口づけで獣が人間の王子の姿を取り戻し、二人は末長く幸せに云々、というもの。今度選ばれた本は、女を殺す王に嫁いだ娘が千夜寝物語を聞かせる、という話である。
 遙は滔々と流れる真琴の声に、狂気の王と語り部の娘と、荒涼とした砂の国を見る。

「お前は、どこから来たんだ」
 これもまた、月の明るい夜のことであった。
 爪先で引っ掻いた程度に細い月影は執念めいた明るさを窓から室内に注いでいる。ただ水を注いだだけの青い硝子が夢幻めいた陰影を白いシーツまで流し込んで、揺らして、そこには赤い髪を散らして笑う凛が転がっている。
 凛の裸身の上に夜着のまま俯せ、笑みを描く唇から覗く凛の鋭い歯を擽りながら遙は滔々と言葉を零した。
「どこから、なあ」
 狂気の王と、寝物語を聞かせる語り部の女、千の夜。燦々と健やかな陽が注ぐ中聞いた物語が、ふしだらなこの夜に重なって、遙の身体ごと凛の腕に抱き潰される。艶かしい肌の感触と凛の熱に当てられながら、遙は只管凛のこたえを待った。
 赤い魚は猫のように遙の頬に頭を擦りつけ、それからまた、唇を合わせてくる。ちゅっとさやかに鳴らす音は独楽鼠のようだ。
 凛は遙の瞳の底に潜らんばかりに目と目を合わせてくる。凛の篝火の瞳には、窓辺の硝子よりも青い遙の瞳が映って揺れていた。
「ずっとずっと遠いところだ。海を渡ってまだ向こうの、砂ばかりの場所。西の果ての果ての、終わりだよ」
「そこも行き止まりなのか」
「世界はどこまでだって行き止まりだよ」
 西の方の、砂の国。真琴から聞いた、この魚の渡ってきた場所を思う。暮らすには不自由のない、草花の満ちるここも、砂ばかりの世界も同じ行き止まりなら、世界はなんてつまらなくて狭いのだろうか。
 黙考する遙の黒髪を、綺麗に整えられた凛の爪先が擽った。構えとでも言いたげなそれに応えて目を閉じる。
「……ハルは、見てみたいと思わないか」
 珍しく大人しい、沈んだ声のように思う。
「ハルは自分から、俺に触ってこないんだな」
 凛の声は沁々と遙の中に積もっていく。砂のように澱のように積もって、隙間からこぽこぽと淡い空気が昇っていく。水面は遙が塞いでいるのか、凛が掻き消しているのか、わからない。
「自分から何もしようとしない、お前は、もっと……」
 声と一緒に、凛の頭は遙の身体を滑って布団の中に潜り込んでいく。
 凛は何か、大切なことを黙ったまま抱えている。言ってしまいたいのに言えないような、気持ちの悪い沈黙と余韻をいつも纏っていた。
 けれどそれは遙も同じだった。赤い魚をこの部屋に迎えて、凛と閨を共にした夜はこれで何度目だろうか。
 それでも遙は最初にはぐらかされたまま口を噤み続けている。
 凛、お前は何者なんだ。俺の何を知っているのかと、問えずにいる。
 この夜を後何回重ねるのだろう。それはつまり、遙はいつまでこの部屋で、誰に愛でられることもない人形を続けるのだろうかという自問に等しかった。遙は思考を止めた、人形だった。