×
秋より赤し
一年前はまだ、母は海の向こうの国にいた。
ちょうど一年前の祝日に、父は昼食の傍ら昼のニュースを見ていた。楽しくも嬉しくもない事件や事故のニュースの締めくくりは今日はいいふみの日です、という和やかなもので、遠くに住むおじいちゃんに、都会で一人暮らしの息子にとはにかんだ笑みを浮かべ封筒を持った人たちが画面に映った。
父は澄んだ目で画面を見ていた。それからニュースが終わって早々に、食器も片付けないまま二階の自室に上がって、程なくして居間に戻ってきた。手には赤青で縁取られた白い封筒と、飾り気のないレターパッドと、万年筆を持って。
縁の窓を開け放ち柔らかい秋風を頬に受けながら、昔父の祖母から譲られたという万年筆を手に卓袱台に向かっていた。僕は父のいとおしげな横顔と、すっと伸びた背筋を庭から眺めていた。
父の手紙は実に淡々とした、それでいて情熱的な手紙だった。まるで庭から見守る僕や、この家や海や港を見守る山々の裾野の赤のような情熱だった。
拝啓、から母の名前を綴り、どこか畏まった調子で手紙の向こうの相手を気遣う文や己の近況をしたためる。そうして静かなことばで埋め尽くされた手紙は最後、この一文で締め括られたことを覚えている。
凛、会いたい。
父は赤い情熱とは程遠い涼やかな目をしていたけれど、その心の内側に押し込まれた切ないものがこの一文にめいっぱい、不器用に詰め込まれていることを僕はよくわかっていた。会いたい、という気持ちは僕と同じものだったからだ。
そのまま便箋をきれいに折って封をしようとした父に、僕は慌てて手を振った。秋の風に僕の思いが乗って、縁側に一枚の真っ赤な葉っぱが滑り込んだ。少しハートの形に似ていたのは偶然だ。
父は畳に鮮やかに照る赤に目を瞬いて、それから真っ赤な葉っぱも封筒に入れてくれた。
父と僕の気持ちは赤青に縁取られた封筒に収められて、海を渡って、それから無事に母の元に届いたらしい。数週間後、冬が深まる頃に母からの返事が届いた。そこに記されていた一文の嬉しかったことといったらこの上ない。母の手紙はこう締め括られていた。
俺たちの子どもが満開になるころに、帰る。
そして母は手紙の届いてから季節がひとつ過ぎる頃、僕が淡い花を咲き誇らせる春に帰国した。
昨日ご近所さんからお裾分け、と沢山の白菜を貰ってきたのは父だった。
年季の入った冷蔵庫にはとても収まりきらないそれを前に、じゃあそろそろ寒くなってきたし、明日の晩は鍋にしよう、そう決めたのは父と母の二人だった。
それから、仕事帰りに職場近くのスーパーでちょっと値の張る牛肉を買ってきたのは母だし、たまの仕事の休みに家中を掃除していたところ近所の子どもに請われて自転車のパンクを修理して、その父親である漁師から立派な鯖を貰ったのは父だった。
恐らく肉ときのことネギの入ったスーパーの袋を下げて立ち尽くす母と、じゃらじゃら波打つ氷と鯖の入った発泡スチロールの箱を前に畳の上で正座する父を、僕は庭から見つめていた。
「……肉」
「鯖」
「肉!」
「鯖!」
単語だけの応酬を何度繰り返しただろうか、ご近所に響きそうな程の大声で二人は肉と鯖を叫び――最後に折れたのは母だった。卓袱台の上にスーパーの袋をどんと置いて、どすどす音を立てながら畳を踏み、父に背を向ける格好で縁に座って膝を抱えた。そうして僕の方をじいっと見ながら、恨めしげににく、と呟いて、年甲斐もなく頬を膨らませる。
木の実を頬に詰めるげっ歯類のような母の顔は父には見えていないだろう。ただ「にく」という拗ねた声にちょっとだけ片眉を跳ね上げて、それから畳から腰を上げた。母は父に背を向けているし、父は母の後ろ姿しか見ていない。だんだん冬めいてきた夕暮れに、まだ縁側の窓を開け放っているから、僕だけは二人の顔がよく見える。
「肉の鍋でいいよなって、俺ちゃんと聞いたよな」
「聞いた。でも鯖は貰い物だから早く食べてやりたい」
卓袱台の上の袋を持ち上げて、父は台所へと向かう。襖も全開なので、この庭からは台所までよく見えた。父は肉が入っているであろうトレイを冷凍庫にしまい、他の食材を袋から取り出している。
えのき、しめじ、しいたけ、ネギ。狭い調理台に順に積み上げ始めると、僕からは父の背中しか見えなくなる。豆腐、しらたき、にんじん。そこまで取り出して、だいぶ細くなったスーパーの袋に手を突っ込んだ姿勢のまま父は動きを止めた。それからゆっくり、縁側の母を振り返る。手には小ぶりでちょっとおしゃれなパックを持っている。
「凛」
名前を呼ばれた母は抱いた膝の頭に顔を突っ込んだ。赤茶けた髪が冷たく潮を孕んだ秋風に揺れる。ちらりと覗いた耳は僕に負けず劣らず赤い。父からあの耳は見えているだろうか。
「このケーキ、」
「たまたま! 安売りしてただけだ!」
父は母の後ろ姿と、手にしたケーキのパックと、何故か、居間の片隅で沈黙しているテレビを何度か見比べた。それから今度は父まで頬をちょっとばかり赤らめる。僕よりはまだ薄い赤だけれど、照れたり恥ずかしがったり、そういう感情の起伏の少ない父の赤い頬はなんだか不思議な感じだった。
そろり、と父が母に近づいて、母は膝頭に顔を押し付けて小さく丸くなる。母の背後で膝を突いて、父は手にしていたパックを縁側に置いた。半透明の袋に入っているのはまあるいロールケーキだった。真ん中に真っ白いクリームがたっぷりと、それから真っ赤ないちごが詰まっている。
まっかな秋とはよく言ったものだなあ、と、僕はお互いに照れまくる父と母と、季節外れないちごを眺めて赤い葉をそよがせた。
「凛」
どうしても顔を上げない母を、父が後ろから抱き締める。縁を開け放つには寒い季節だろうに、庭から眺める僕は嬉しいけれど屋内の二人は寒くないだろうか、なんて心配していた自分が馬鹿らしくなってくる。僕の両親はもう三十路も回ったのにお熱いことである。
「このケーキ、テレビのCMで見た。コンビニで売ってたやつだろ」
「……たまたま、だっつの」
「うん。お前、甘いもの好きじゃないのに」
甘酸っぱいいちごとふわふわのクリームが詰まった小さなロールケーキ、母には甘すぎるそれも鍋の後に二人で半分こすればちょうど、と、そういう考えだったらしい。
まだ母は俯いたまま。その少し冷えた後ろ頭に、父がそっと唇を寄せた。
「いいふうふの日だから、買ってきてくれたんだろ」
母は黙ったままで、だからこそ図星なのだとわかる。
赤茶けた頭が持ち上がって、赤い頬がおずおずと覗く。鼻の頭も少し赤く見える。年末の近づくこの時期、冷えゆくばかりの夕暮れに半ば外気に晒されていれば当然だろう。父も同じことを思ったらしく、拗ねたようにとんがる唇に口づけ、赤い鼻の頭にやわらかく噛みつき、それから赤い前髪を掻き分けて剥き出しの額と自分の額をこつんと合わせた。
「鍋、やっぱり肉にするか」
「……鯖でいい」
やさしい声にようやくほどけたのか、ぼそりとした声で母が答える。
それから触れ合ったままの額をうりうりと突き合わせて、最後に母は父の頬に軽く口づけた。こういう仕種をする母はちょっと調子づいていることを僕は知っている。
「たまには奥さんに譲ってやんねーと。いいふうふだからな」
「……お前のほうが奥さんだろ」
「お前だろ。家事ほとんどやってくれてるし、古き良きおふくろって感じ」
「お前だって休みの日はだいたいの家事やってくれるだろ。それに夜は――」
父の声を遮るように母がわあっと大声を上げた。そしてむくれる頬に今度は父から口づける。その手が縁側の窓に伸びる様に、僕はやれやれと呆れて溜め息を吐いた。赤く染まった葉が擦れ合って、さわさわと音を立てる。僕の葉音では到底掻き消せない、照れ隠しのつもりで逆に近所中に響きそうな母の大声は父の閉めた窓ガラスで遮られた。
僕には二人のああいうこだわりはわからない。父、母と呼ぶもののそれはどちらがどちらでもよくて、ただ昔僕をこの庭に植えてくれたのが二人で、二人の区別をつけるためにそう呼んでいる。だから二人が夫婦だろうが夫夫だろうが二夫だろうが、僕にとってはどうでもいい。
ただ、あの二人がささやかな犬も食わない何とやらを繰り返しながら、いつまでも仲良く僕の見えるところで暮らしている、それだけで幸せだった。去年の今頃はまだ父一人でどこか寂しかった。今は違う。二人のためなら僕は一等鮮やかに葉を赤く染めてみせるし、春にはどの蕾もきれいに咲くようにがんばった。夏の緑も瑞々しくなるよう心がけたし、うんと枝を伸ばして二人のための影も作った。僕の幹にセミたちが止まれば、大音声が堪えると言いながらも二人は夏を喜んでくれた。これから迎える冬には僕はどうしても眠くなって元気がなくなってしまうけれど、二人がいてくれるなら暖かい春を安心して待つことができる。
縁側の窓はもうぴったりと閉じられてしまって、母の喚く声も微かにしか聞こえない。結局夕飯の鍋が肉になるのか鯖になるのかは家の中から漂ってくる匂いを嗅ぎ分けるしかないけれど、あの真っ赤ないちごの詰まったケーキがきれいに二等分されることはもう間違いがないから、結局気にするだけ無駄というものだ。
これから夕飯の支度を始める二人に僕はごちそうさまと合掌して、そうしてハートの形に似た真っ赤な葉っぱが一枚、ひらりと落ちて秋風に舞い上がった。
ちょうど一年前の祝日に、父は昼食の傍ら昼のニュースを見ていた。楽しくも嬉しくもない事件や事故のニュースの締めくくりは今日はいいふみの日です、という和やかなもので、遠くに住むおじいちゃんに、都会で一人暮らしの息子にとはにかんだ笑みを浮かべ封筒を持った人たちが画面に映った。
父は澄んだ目で画面を見ていた。それからニュースが終わって早々に、食器も片付けないまま二階の自室に上がって、程なくして居間に戻ってきた。手には赤青で縁取られた白い封筒と、飾り気のないレターパッドと、万年筆を持って。
縁の窓を開け放ち柔らかい秋風を頬に受けながら、昔父の祖母から譲られたという万年筆を手に卓袱台に向かっていた。僕は父のいとおしげな横顔と、すっと伸びた背筋を庭から眺めていた。
父の手紙は実に淡々とした、それでいて情熱的な手紙だった。まるで庭から見守る僕や、この家や海や港を見守る山々の裾野の赤のような情熱だった。
拝啓、から母の名前を綴り、どこか畏まった調子で手紙の向こうの相手を気遣う文や己の近況をしたためる。そうして静かなことばで埋め尽くされた手紙は最後、この一文で締め括られたことを覚えている。
凛、会いたい。
父は赤い情熱とは程遠い涼やかな目をしていたけれど、その心の内側に押し込まれた切ないものがこの一文にめいっぱい、不器用に詰め込まれていることを僕はよくわかっていた。会いたい、という気持ちは僕と同じものだったからだ。
そのまま便箋をきれいに折って封をしようとした父に、僕は慌てて手を振った。秋の風に僕の思いが乗って、縁側に一枚の真っ赤な葉っぱが滑り込んだ。少しハートの形に似ていたのは偶然だ。
父は畳に鮮やかに照る赤に目を瞬いて、それから真っ赤な葉っぱも封筒に入れてくれた。
父と僕の気持ちは赤青に縁取られた封筒に収められて、海を渡って、それから無事に母の元に届いたらしい。数週間後、冬が深まる頃に母からの返事が届いた。そこに記されていた一文の嬉しかったことといったらこの上ない。母の手紙はこう締め括られていた。
俺たちの子どもが満開になるころに、帰る。
そして母は手紙の届いてから季節がひとつ過ぎる頃、僕が淡い花を咲き誇らせる春に帰国した。
昨日ご近所さんからお裾分け、と沢山の白菜を貰ってきたのは父だった。
年季の入った冷蔵庫にはとても収まりきらないそれを前に、じゃあそろそろ寒くなってきたし、明日の晩は鍋にしよう、そう決めたのは父と母の二人だった。
それから、仕事帰りに職場近くのスーパーでちょっと値の張る牛肉を買ってきたのは母だし、たまの仕事の休みに家中を掃除していたところ近所の子どもに請われて自転車のパンクを修理して、その父親である漁師から立派な鯖を貰ったのは父だった。
恐らく肉ときのことネギの入ったスーパーの袋を下げて立ち尽くす母と、じゃらじゃら波打つ氷と鯖の入った発泡スチロールの箱を前に畳の上で正座する父を、僕は庭から見つめていた。
「……肉」
「鯖」
「肉!」
「鯖!」
単語だけの応酬を何度繰り返しただろうか、ご近所に響きそうな程の大声で二人は肉と鯖を叫び――最後に折れたのは母だった。卓袱台の上にスーパーの袋をどんと置いて、どすどす音を立てながら畳を踏み、父に背を向ける格好で縁に座って膝を抱えた。そうして僕の方をじいっと見ながら、恨めしげににく、と呟いて、年甲斐もなく頬を膨らませる。
木の実を頬に詰めるげっ歯類のような母の顔は父には見えていないだろう。ただ「にく」という拗ねた声にちょっとだけ片眉を跳ね上げて、それから畳から腰を上げた。母は父に背を向けているし、父は母の後ろ姿しか見ていない。だんだん冬めいてきた夕暮れに、まだ縁側の窓を開け放っているから、僕だけは二人の顔がよく見える。
「肉の鍋でいいよなって、俺ちゃんと聞いたよな」
「聞いた。でも鯖は貰い物だから早く食べてやりたい」
卓袱台の上の袋を持ち上げて、父は台所へと向かう。襖も全開なので、この庭からは台所までよく見えた。父は肉が入っているであろうトレイを冷凍庫にしまい、他の食材を袋から取り出している。
えのき、しめじ、しいたけ、ネギ。狭い調理台に順に積み上げ始めると、僕からは父の背中しか見えなくなる。豆腐、しらたき、にんじん。そこまで取り出して、だいぶ細くなったスーパーの袋に手を突っ込んだ姿勢のまま父は動きを止めた。それからゆっくり、縁側の母を振り返る。手には小ぶりでちょっとおしゃれなパックを持っている。
「凛」
名前を呼ばれた母は抱いた膝の頭に顔を突っ込んだ。赤茶けた髪が冷たく潮を孕んだ秋風に揺れる。ちらりと覗いた耳は僕に負けず劣らず赤い。父からあの耳は見えているだろうか。
「このケーキ、」
「たまたま! 安売りしてただけだ!」
父は母の後ろ姿と、手にしたケーキのパックと、何故か、居間の片隅で沈黙しているテレビを何度か見比べた。それから今度は父まで頬をちょっとばかり赤らめる。僕よりはまだ薄い赤だけれど、照れたり恥ずかしがったり、そういう感情の起伏の少ない父の赤い頬はなんだか不思議な感じだった。
そろり、と父が母に近づいて、母は膝頭に顔を押し付けて小さく丸くなる。母の背後で膝を突いて、父は手にしていたパックを縁側に置いた。半透明の袋に入っているのはまあるいロールケーキだった。真ん中に真っ白いクリームがたっぷりと、それから真っ赤ないちごが詰まっている。
まっかな秋とはよく言ったものだなあ、と、僕はお互いに照れまくる父と母と、季節外れないちごを眺めて赤い葉をそよがせた。
「凛」
どうしても顔を上げない母を、父が後ろから抱き締める。縁を開け放つには寒い季節だろうに、庭から眺める僕は嬉しいけれど屋内の二人は寒くないだろうか、なんて心配していた自分が馬鹿らしくなってくる。僕の両親はもう三十路も回ったのにお熱いことである。
「このケーキ、テレビのCMで見た。コンビニで売ってたやつだろ」
「……たまたま、だっつの」
「うん。お前、甘いもの好きじゃないのに」
甘酸っぱいいちごとふわふわのクリームが詰まった小さなロールケーキ、母には甘すぎるそれも鍋の後に二人で半分こすればちょうど、と、そういう考えだったらしい。
まだ母は俯いたまま。その少し冷えた後ろ頭に、父がそっと唇を寄せた。
「いいふうふの日だから、買ってきてくれたんだろ」
母は黙ったままで、だからこそ図星なのだとわかる。
赤茶けた頭が持ち上がって、赤い頬がおずおずと覗く。鼻の頭も少し赤く見える。年末の近づくこの時期、冷えゆくばかりの夕暮れに半ば外気に晒されていれば当然だろう。父も同じことを思ったらしく、拗ねたようにとんがる唇に口づけ、赤い鼻の頭にやわらかく噛みつき、それから赤い前髪を掻き分けて剥き出しの額と自分の額をこつんと合わせた。
「鍋、やっぱり肉にするか」
「……鯖でいい」
やさしい声にようやくほどけたのか、ぼそりとした声で母が答える。
それから触れ合ったままの額をうりうりと突き合わせて、最後に母は父の頬に軽く口づけた。こういう仕種をする母はちょっと調子づいていることを僕は知っている。
「たまには奥さんに譲ってやんねーと。いいふうふだからな」
「……お前のほうが奥さんだろ」
「お前だろ。家事ほとんどやってくれてるし、古き良きおふくろって感じ」
「お前だって休みの日はだいたいの家事やってくれるだろ。それに夜は――」
父の声を遮るように母がわあっと大声を上げた。そしてむくれる頬に今度は父から口づける。その手が縁側の窓に伸びる様に、僕はやれやれと呆れて溜め息を吐いた。赤く染まった葉が擦れ合って、さわさわと音を立てる。僕の葉音では到底掻き消せない、照れ隠しのつもりで逆に近所中に響きそうな母の大声は父の閉めた窓ガラスで遮られた。
僕には二人のああいうこだわりはわからない。父、母と呼ぶもののそれはどちらがどちらでもよくて、ただ昔僕をこの庭に植えてくれたのが二人で、二人の区別をつけるためにそう呼んでいる。だから二人が夫婦だろうが夫夫だろうが二夫だろうが、僕にとってはどうでもいい。
ただ、あの二人がささやかな犬も食わない何とやらを繰り返しながら、いつまでも仲良く僕の見えるところで暮らしている、それだけで幸せだった。去年の今頃はまだ父一人でどこか寂しかった。今は違う。二人のためなら僕は一等鮮やかに葉を赤く染めてみせるし、春にはどの蕾もきれいに咲くようにがんばった。夏の緑も瑞々しくなるよう心がけたし、うんと枝を伸ばして二人のための影も作った。僕の幹にセミたちが止まれば、大音声が堪えると言いながらも二人は夏を喜んでくれた。これから迎える冬には僕はどうしても眠くなって元気がなくなってしまうけれど、二人がいてくれるなら暖かい春を安心して待つことができる。
縁側の窓はもうぴったりと閉じられてしまって、母の喚く声も微かにしか聞こえない。結局夕飯の鍋が肉になるのか鯖になるのかは家の中から漂ってくる匂いを嗅ぎ分けるしかないけれど、あの真っ赤ないちごの詰まったケーキがきれいに二等分されることはもう間違いがないから、結局気にするだけ無駄というものだ。
これから夕飯の支度を始める二人に僕はごちそうさまと合掌して、そうしてハートの形に似た真っ赤な葉っぱが一枚、ひらりと落ちて秋風に舞い上がった。
- 2014.11.23
戻