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澪標のまもの

 連綿と続いた支配も極めた栄華も、終焉は一瞬だ。
 がらんどうの宮にはもう、価値のあるものなど残っていない。金も銀も眩い宝石も、剣も槍も弓も盾も、兵も、女も、調度品も、水も。そして襤褸のように転がる己の命さえ。
 焦げ臭い空気だけがわだかまり、どこかでまだ炎が爆ぜる音だけが響いている。冠を剥ぎ取られた王は独り、血溜まりの中に仰臥していた。
 近くこうなることはわかっていた。父王が急逝して数年、弱冠にして王位を継いだ己の周りには、常に欲望と陰謀が纏わりついていた。命を狙われたことなど数知れず、潰した謀反や平定した動乱も覚えていられない程度に。そして最後の政変は抑え切れなかった。ただそれだけのこと。
 ちりちりと、床を舐める炎の音に、己の生が尽きる様が重なる。
 悔いも未練もない。常に気を張り、王、王よと笑みを浮かべて手を捏ねる者たちを端から疑ってかかる日々は終わったのだと思えば清々しくすらあった。
 ただ一つ、心残りがあるとすれば――最期まで側仕えていた臣下たちと、最愛の妹はどうしただろう。無事に逃げ延びただろうかと、今はそればかり思う。
 霞み始めた役立たずの眼球を動かす。ごろりと石の転がるような重みで、それでも何とか望むものを視界に捉えた。焼け落ちた天井の向こうに広がる、抜けるように青い空。
 長閑だった。その下に虐殺と略奪の限りを尽くされた、最早瓦礫の山と化した王宮が静かに燃えながら死を待っていようとも、石塊と下火の隙間に濁々と血を流すだけのかつて王と呼ばれた道化が息絶えようとも、空は実に無慈悲で美しく、長閑だった。
 零れゆく血と、ひゅうひゅうとか細くなる呼吸のままに死を待つ。仰臥し濁りゆく赤い瞳で天を見つめ、無慈悲故に慈愛溢れる無情な空をただ映して――そこにきんと冴えた色が、藍を湛えた瞳が映り込んだ。
 ぽつりと、水が落ちる。
「おい、人間」
 ぽつ、ぽつ。ぽたり。ぽた、ぽた……
「お前、死ぬのか」
 ぽた……ぽた、ぽっ、ぽ……
「つまらないな」
 さああああああああ……
 霞む瞳の、長閑な空に、ただただ剣呑な藍が揺らめいている。
 それは水面の瞳であった。ぐちゃぐちゃで血塗れの王だった襤褸を無感動に映し、ゆらゆらと揺れている。死を待つだけの亡国の王に、冥土の土産と醜態を突きつける。
 つまらない。全く以てつまらない。一国の王の息子として生まれ、若くして王位を継ぎ、まだ何も成せぬまま周囲の陰謀に翻弄されるばかりだった。王として国に、民のために政を執ることもままならず、最愛の妹と臣すら守り切れず、躯と化した城の中で死んでいく。つまらないとしか言いようのない一生だ。
 さあさあと、藍の瞳とそこに映る己の向こう、穿たれた穴から雨が降り注いでいる。陽光は未だ長閑に降り注ぐまま、雲一つない青い空が水を撒く。不可思議と思うこともなければ、成程死に際に見る幻か、などとも思わなかった。注ぐ水に潤った唇が、舌が、死に損ないにほんの僅か言葉を取り戻した、それが肝要であった。
 王はろくに動きもしない唇を雨で湿らせ、呪いを吐いた。
「つまらない……ああそうだ、その通りだ。己(おれ)にはまだ野心がある、まだまだ死ぬつもりなんざねえ。どうしてあんな老いぼれた、利権と金に目を眩ませた蛆共に殺されてやらなきゃならねえんだ!」
 滴る雨が潤滑となったものか、あれだけ重々しく役立たずだった眼球がぎょろりと天を睨んだ。その末期の視線は己をつまらないと、心底つまらなさそうに断じた藍の瞳の持ち主をも射抜く。
 ゆったりと、水面が大きく波紋を広げた。相変わらず中心に襤褸にしか見えない、今は無様に喚くだけの王だった己を映し、そうして興味深そうに一度瞬いた。冴えた藍の真ん中で、己の赤い瞳が血走って光を放っている。
「……それは、きれいだな」
 ほうと嘆息したのは、一見すると若い男だった。
 見る者をまず惹きつけるであろう、ゆらゆらと不思議に、怪しく揺れる藍の瞳。雑に巻かれたターバンからは砂漠の夜より尚深く冷たい、黒い髪が覗いている。浅黒い肌を漲らせ、短刀だけを佩いた、旅人然とした格好の若い男。己と同い年ほどにも見える。市井の民の中に見つけたとて、瞳以外に惹かれるものはないだろう、凡庸とした成の男だ。
 だがしかし、あちらこちらに死体が転がり、未だ火も消えぬ城の中に踏み入り、あまつさえ腹からわたをこぼす王を前につまらないと言い切る男がただの男であるだろうか。
 答えは最初から、藍の中にある。男は赤を見つめて、どこか当然と呟いた。
「それはきっとうまいだろう。他も少しは食えそうになった。抗いもせず死ぬだけの魂なんて食えたものじゃない。みっともなく苦しんで恨みつらみを吐かれるよりはまだマシだが」
「……お前は、おれを食うのか」
「そのつもりで来た」
 男は眉を歪めてみせた。下らないことを喚く口はあまりうまそうじゃないなと添えながら。
 藍の中の赤が大きくなる。男の顔が吐息が触れるほど近くまで迫って、襤褸の身体に覆い被さる。獲物を見つけた猫のように、きらきらと興奮を隠しもしない藍の目で血塗れの頭のてっぺんから潰れた足の先までを検分する。そうして最後にまた、赤い瞳を見つめて頷いた。手を伸ばした。
 無骨に節くれ立った指が眼球に触れる。意外にまるく整えられた爪が、かりかりと瞼を引っ掻いてくる。
「おい、化け物」
 返事はない。しかし指先がひたりと動きを止めて、藍の瞳が静かに己を見下ろしてくる。
「取引しろ。おれを生かしてくれたら、身体のどこでも、好きに食わせてやる」
「必要ない。そんなことをしなくても、俺は俺の好きなようにお前を食える」
「取引に応じないなら、おれはこの目を自分で潰して、お前の腰の剣で喉を掻き掻っ裂いて、苦痛激痛を恨みながら死んでやる」
 みっともなく死ぬ人間はまずいんだろう。そう付け足して男を睨んだ。
 男は藍の瞳を丸めて、それからすうっと和ませる。この男の何気ない言葉が真実なら、まるきり滑稽な話でもないだろう。仮に滑稽だとして、己はもう、とうの昔から道化として生きている。それが死ぬ間際に化け物に蔑まれたとて、何の問題があろうか。
 死を受け入れていたこの身に、最後に灯ったこの憤りを、生を繋ぐ微かな縁を、手繰り寄せられるというのなら文字通り化け物にだって魂を売ってやる。
 しばし、さあさあと雨が注ぐ音だけが亡国の王と男を繋いだ。
「……じゃあせめて、この赤い目玉をよこせ」
 やがて笑いに似た弾んだ吐息で、男はそうっと赤い目玉のふちをなぞった。
「きらきらして、甘くて、一番うまそうだ」
 それは幼子の無邪気に、あるいは獲物を押さえた獣の唸りに似ていた。馳走を前にうっとりと目を細め、溢れる唾液を舌に取り唇を湿らせる。
 これは戯れだろうか。死にゆくだけの人間の、足掻く様を楽しんでやろうと、そんな化け物の温情だろうか。ぼたぼたとはらわたをこぼす己はもう起き上がることもできやしない。それでいて生にしがみついて言葉を弄している。
 うまそうだと嬲られる、赤い瞳に精一杯の力を込める。唇を伝う雨水を飲み込んで、藻掻くように言葉を繋いだ。
「……いいぜ、これは契約だ。まずおれの目玉のひとつをお前にやる。だからお前はおれを生かせ。おれの生が終われば、残りの目玉と、身体の他の全てを全部お前にやる」
「いいだろう。だが俺がもらうものは肉体だけじゃない、お前の全てだ」
 男の顔がすうっと離れてゆく。死にゆくだけの王の前に、俄に光が差した。
 昼の月のように唇を撓らせて、化け物は謳う。肉としてのていをなさない腹を跨いで、襤褸同然の身体を改めて検分する。ひたひたと血の落ちる音と、熟れてはみ出すわたと、足先から覗く骨の白さと、それから最後に、生来赤い王の瞳を捉えて化け物は紡ぐ。
「魂を肉体ごと食らうんだ。お前のその高潔で不遜な魂も俺のものになる。その魂は輪廻転生の輪から外れて、永劫俺の中に留まって、闇の中に閉ざされる。次の生を得ることもない。お前にその覚悟があるのか」
「この身体に、これ以上失って困るものなんてない」
 肉体だけでなく、魂をも食らう。魂が永劫閉ざされる。それは人であれば知りようもない転生の行方である。宮廷での教えで、転生や魂の昇格などは学んだが、今となっては何の意味もない。
 例えこの魂のまま次の生を得たとて、今この生をつまらぬ道化の王として閉ざした事実は揺るぎない。そして己である以上、例え知らずに生きられるとしても、前世の愚など到底許せるものではないだろう。それは魂と共に在る、憤りの根の――僅かな誇りである。
 即答すれば男は満足気に頷いた。それから節くれ立った指をねろりと舌でねぶる。男の舌は瞳の藍に反して、血の通う赤い色をしていた。
 唾液でてらてらと光る指が伸びる間に、つと口を開く。
「お前、名前は」
「化け物に名前を尋ねるのか」
「おれの目玉をひとつくれてやるんだ。化け物だろうが何だろうが、そんな大層な奴なら名前ぐらい知っておきたい」
「……お前は確かに、死ぬには惜しい人間かもな」
 そこで初めて、亡国の王は目にした。
 化け物が屈託なく、心から笑う姿を。そうして笑みをかたちどる唇からこぼれる、人にあらざる音の連なりを耳にする。
「***」
「……わからない」
「人間には聴き取れないか。なら――ハル」
 これなら聞こえるか、そう重ねられて頷いた。はる。ハル。
「ハル」
「ああ」
「おれは、凛だ」
「凛。気高くて、うまそうな響きだな」
 再び化け物の指先が瞼に触れる。ぬるく濡れた感触でまるい眼球のかたちを皮膚の上からなぞる。それは閨で受けたどの女の愛撫よりも優しく心地よく、死に損ないの身体に俄に熱を宿していく。獣に食い千切られる瞬間の獲物は快楽を得ていると話半分に聞いたことがあるが、その瞬間に相違ないのかもしれない。
 くるくると眼球のかたちを楽しんだ指先は離れ、それからまた吐息の触れる距離に男の顔が迫った。否、吐息が触れる、ではない。男のかたちのよい鼻先や薄い唇が血塗れの顔に重なる。先ほど目にしたあの赤い舌が伸びて、散々指でなぞった瞼を唾液で濡らし、目のふちを尖らせた舌先でこじってゆく。霞がかっていた視界が男の唾液で溢れ、潤み、涙のように目尻から流れ落ちていった。
「あまい」
 あまいのは、お前の唾液ではないか。
 ちゅぱ、とさやかな雨音を割る水音。溢れる唾液をやわく吸い、時に赤い眼球を丸ごと吸い出すように強く。その緩急にぐずぐずになった腰が震えた。恐怖なのか、快楽なのかはわからない。
 化け物は気紛れに、散々に右の眼球をねぶり、吸い、唾液で濡らした。まるで右目が海になったようだとぼんやり思う頃になって、再び男の指先が迫ってくる。国を亡くした王はその指先を瞬きもせず見つめていた。
 舌先がこじっていた上の瞼のふちに、二本の指が触れる。まるい爪の先でやさしく、やさしく入り込んでくる。異物感と閉ざされてゆく視界に、神経など千切れたと思っていたからだ全体がガタガタと震え始める。
「ぁ」
 ぐうっと、目の奥に、誰も触れたことのない場所に男が触れる。びくんと背が弾む。
 ぐ、ぐぐと、化け物の指が奥を目指す。やさしく、女を善がらせるように、自分本位に挿入する。閉じてゆく視界を繋いでいる眼球は潰れてはいない。あやすようにやさしく抉りこんでゆく。
「あぁ、ア、っあ」
 頭が仰け反る。追って男は、指は、眼窩の奥を目指す。口の中が乾いてゆく。震えすぎて痺れる舌が突き出て、びくりびくりと痙攣している。
 やがて二本の指は奥の奥で、細い糸をひたりと挟んだ。儚い糸を爪弾くようにやさしく辿り、男はふっと笑みを吐いた。吐息は恍惚を孕んで熱い。そして最奥を犯した男の指は糸を伝い――繋がる眼球まで辿り、ひと息に。
「あ!」
 ぶつり、
「ぁあっ……ああああああああああ!!
 と。
 引き千切った。
 つるりと、濡れた眼窩をまろび出るものがある。白い糸を引きずるそれが赤くちかりと光る様を、かつて王だった凛は残った左の目で見ていた。
 やわらかくまるい眼球を引きずり出した化け物はかすかに降り続く雨と、青い空に凛の眼球を掲げていた。うっとりと見上げる姿は硝子球を手にした童のようだ。愛おしそうに大切そうに手のひらへと乗せて、赤い色を藍の瞳にたっぷりと映して――ハルは、そっと口を開いた。
「ぁ……」
 赤く、熱い舌で眼球をねぶる。それから名残惜しそうに口づけて、ぱくりと、あっさりと口に含んだ。
 凛はターバンから微かに覗くハルの、浅黒い喉仏が隆起し、己の眼球を飲み下す様を見ていた。
 己の右の眼窩に嵌っていたはずの眼球は、ハルの喉を通り食堂を抜け胃に落ちて、溶けてゆくのだろうか。あの得体の知れないいきものの一部となるのだろうか。
 ずくんずくんと耳の奥が鳴って、先ほど宿った熱が燃えるように脈動している。からだ全部が炎になっているかのようだった。熱い。熱い。みずがほしい。だれか。
「凛」
 愛おしそうに呼ばれる名前。
 あの化け物が、ハルが、凛を抱き上げていた。とれてしまったからだの一部やこぼれるものはそのままに、おおよそ身体らしい部分を胸に抱く。血塗れの頭を上向かせて、凛の眼球をねぶり飲み込んだ唇で名前を呼ぶ。
「凛」
「ハ、ルっ……!」
 そして、眼球を食んだ唇を、凛の唇に重ねた。
 炎になって燃える身体に、水が流れ込んでくる。受け入れて飲み下した。かたちを持たないそれは瞬く間に凛の身体の隅々までゆきわたり、どろどろと渦巻く炎と絡み合ってひとつになる。ふたつの熱が凛の肉の中で暴れ狂い、膨れ上がり、縮んでゆく。
 そうしてうちがわから犯されて、ああおれはまだ生きている、生きてゆくのだと、肉が五体満足な人のかたちを得たときにようやく凛は実感した。
 同時に人の理を外れたことを、このハルという化け物にこの身の半分ほどを明け渡したことを、悟った。


 その男は、赤い悪魔と呼ばれているらしい。
 悪魔だと? いいやこの男は悪魔などではない。亡霊だ。彷徨える死体だ。
 歴戦の将と呼ばれて久しい男は、無防備に歩み寄る若い男を前に口の中が乾いてゆくのを認めざるをえなかった。それは間違いなく、恐怖である。国随一の猛将と兵卒に慕われる己が、腰帯に護身用と思しき短刀を差しただけの若輩にこれほど恐怖しているなど、傍から見れば滑稽でしかないのだろう。
 しかし、しかし。
「何故お前が、生きて――!」
「残念だったなァ」
 噂には聞いていた。攻め滅ぼした一国の、まだ若くして討ち死にした王が、仇を求めて大陸を渡り歩いている、などとは。
 戦乱の続く世には絶えない、市井で流行りの流言だ。戦続きの世への不満を民草は下らない捏ち上げに変えて昇華する。まだ若い、見目麗しい王が殺されたとなれば尚更だ。一人の男の死はあれよこれよと喜劇めいた悲劇の物語に変わり、おいたわしい、と面白がる言葉に乗って砂を巡り消えていく。
 そうであるはずだ。口伝いの噂であったはずだ。よもやまさかひとり歩きしていたのは悲劇の王の死ではなく、悲劇の末に死んだ王自身であろうなどと。こんな馬鹿げた話が――
「あって堪るか、この亡霊め!」
 男は壁に飾られていた剣を執る。目の前の亡国の王を屠った際、己の王より賜った宝剣である。もちろん男は武人であるからして、下賜された剣をただの飾りと埃被せていたわけではない。鞘から抜き放てば、刀身は赤い灯りに鋭く光を散らした。
 抜身の剣を突きつけられても、若い男の亡霊は微動だにしなかった。薄く貼り付けた笑みを弛ませることなく、灯火に艶かしく照る唇をゆっくりと動かす。
「あの時首を獲っておけば、こんなことにはならなかったろうに」
 そうして黒く塗られた爪で、己の首を掻き切るような仕種をしてみせた。
 かつて男は王の下知によりある城に攻め入り、部隊と兵を指揮して虐殺の限りを尽くした。そしてこの若き王は自らの手で屠ったのである。奇襲に鎧うことすら叶わなかった腹に剣を突き立てわたを引き、逃げ惑う足は切り飛ばした。見せしめにでもなれば良いと、特別惨く殺した。
 だが確かに、捨て置くだけ捨て置いて首を獲ることはしなかった。
 いずれ死ぬだろうと崩れ落ちる城にそのまま投げ捨てた。
 だが目の前の男の姿はどうだ。男が剣を突き立てる前の姿と相違ない。五体満足で、己の両足でしっかと屋敷の床を踏んでいる。しゃらりしゃらりと鳴る装飾品をぶら下げるだけの手はしっかりと動いている。
 あの時虫の息だったこの男は今、たった一人でこの屋敷に踏み入り、並み居る兵たちを殺して主の居室までやって来たのだ。剣すら抜かず鎧も纏わず、あの時と同じ、無防備極まりないこの姿のままで。
 いいや、一つだけ当時と異なるものがある。
 男は背筋を伝う冷や汗に奥歯を噛み締め、剣を正眼に構えた。切っ先の向こうには、怪しく赤く光る亡霊の右目がある。左の目と比べて明らかに妖気めいたものを纏うあの目こそが、彷徨える死体の正体なのかもしれない。
 男が歴戦の将と呼ばれる由縁である。まことしやかに国に蔓延る儀式や呪術を男は一度たりとて侮ったことはなかった。戦とこれらは無縁ではなく、不審あらばすぐに呪いや魔性の存在を疑った。例え目には見えねども、神も呪いも化け物も世には存在しているのだ。王族や神官の中には時を迎えて神の加護を授かる者がいるが、あれらは決して形式だけのものではないと男は信じてやまない。
 朧な記憶を辿るに、あの時殺した若き王は炎の加護と洗礼を受けていたはずである。となればあの禍々しい赤い瞳は、いずれかの炎の精によるものかも知れない。
 猛将が疑い睨むその先で、王の亡霊はくつりと笑った。
「見上げた心意気だ、将軍閣下。形のない力を否定した者には無残な末路しかないだろうよ」
「戯言を」
「だが、無意味だったな」
 死したる王は気怠げに呟き、己の右目に指を伸ばした。艶やかな爪の先で眼球を弾く。かんと、どこか間の抜けた、鈍い硝子の鳴る音がする。
 そうして弾けた指先と瞳の間に唐突に炎の塊が膨れ上がった。
 炎の渦中で熱に喘ぐこともなく、化け物は笑い続けている。その細身の全てが呑み込まれるほどに炎が膨れ上がろうとも、尚。白く輝く炎は天井を舐めるほどに伸び、そこで猛将は窓に向かって駆け寄った。
 主の居室は見晴らしの良い、池を臨む二階にあった。この窓さえ開いて飛び降りれば、すぐにたっぷりと蓄えられた水の中へ逃げ込むことができる。
 剣を携えた肩でぶつかり、男は迷わず窓を開いた。窓の向こうには漆黒の帳に無数の星が散る、砂の国の夜空が広がっている。それから――伸び上がり大きく顎を開く、水の塊が。
「――は」
「ハル」
 背後で淡とした声がする。炎の中にいるだろう亡霊その声は、清々しくあっさりと、夜に響いた。
「殺せ」
 宙空で静止していた水が伸びる。黒々とたゆたいうねる水が目の前に迫り、そして。
 次の瞬間に見えたのは、ぐうるりと周る夜の空と、窓際で間抜けに立ち尽くす首を失くした己の身体と、そして部屋の奥で口の端を歪める、若き王の形をした魔性の姿であった。
 ばあんと、水の塊が池に落ちて叩きつけられる音。轟音の向こうに聞こえた声を最後に、猛将と呼ばれた男はただの首と相成った。
「だから、首を落とせって言ったんだよ」


 凛はあれからハルについて、いくつか知ったことがある。
 ハルの本質は、不定形の水の化け物であるということ。
 それから何事にも無関心そうでいて、案外と根に持つたちだということだ。
「お前の『生かせ』が、こんなに面倒なことだなんて聞いてない」
 転がる頭を蹴り飛ばしながら、ハルは人のかたちを取るや開口一番にそう言った。拗ねたような、うんざり、という言葉がしっくり来るような口調である。そしてこれは凛がハルを取引を交わしたあの日から、それこそうんざりするほどぶつけられた言葉だった。
 凛は子どもの不満に対するように、慈しみと嘲りを孕んで笑う。
「もう契約は成立済みだ、お前は俺の目玉を一個、もうその腹ン中に入れちまったんだからな。契約した以上、不履行は許さねえ」
 許さないも何も、もしこの魔物が一方的に契約を破棄したとして、不都合があるのは凛の方だ。何せ凛はどうやってか、この化け物に死ぬ間際だった命を生かされている。もしも契約を破棄されたが最後、凛はこの場で即座に事切れてもおかしくない。
 尤も、このハルという魔性は騙りや人を食らうことには疎いらしい。その杜撰という他ない契約の穴にも気づかず、こうして凛に人ならざる膨大な力を貸し続け、復讐に付き合わされるがままになっているのだから。
 心なし頬を膨らませるハルから視線を逸し、己の右目へ指を伸ばす。ごろごろと座りの悪いそれは、ハルがどこからか持ってきた義眼であった。一体何でできていてどうやって作られたものかも知らないが、ハルに食わせた右目の穴にこの義眼は具合良く収まっている。そして化け物の話を信じるに、ハルに食われて眼球を失くしたこの虚ろに、ハルの魔力のようなものが貯まっているらしい。
 ハルは水の魔物で、炎は凛の力である。王位に就くと同時に炎の加護を受けるには受けたが、あんなものは形だけだとばかり思っていた。実際、ハルの話を信じるならそんな加護あってないようなものらしいが、ハルの魔力を得たことで虚仮威し程度には炎を操れるようになっている。少なくとも市場で仕入れた肉を焼くぐらいの役には立っている。
 嵌め直した義眼の先で、胴体から離れた後ろ頭が転がっていた。ハルは生首など知らぬ気に、心底つまらなさそうに池の傍で凛を待っている。この魔性にとってみれば、つまらない、ということこそ憎悪すべき悪らしい。
 ハルという化け物に生かされている凛も、魔性の概念に染まりつつある。無意味な復讐のために誰かを殺すことに躊躇いも罪の意識もなくなったし、蔑み嫌悪すべきはつまらない人生とつまらない死に方である。
「次へ行こうぜ、ハル」
「……お前の残りの目玉はいつになったら食えるんだろうな」
 化け物のくせに溜め息のようなものをつくハルの背中を、小走りに寄った勢いで凛は叩いた。拍子に蹴飛ばした死体の頭が転がって池に落ちたが、既に死んだものに興味はない。凛が望む道は、ハルという魔性とゆく先にこそある。