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兄の心ラッコ知らず

「ずりぃ」
 ひさびさに実家に戻った日曜日。妹が見たい映画があると熱心に言うからふたりで電車に乗って市街まで出向き、少し買い物などして楽しい気持ちで帰宅してみれば不機嫌な背中にそう言われた。
「なんだ、お前も観たかったのか。ネズミの一生」
「そんっ……な、わけわかんない映画が観たかったわけじゃねーし!」
 少し頭が浮き上がったものの、単純な弟にしては意外と引っかからない。百太郎の頭はすぐに枕へと落っこちた。
 部屋の入口で嘆息する清十郎を放置して、百太郎はベッドに横になり続けている。顔は壁のほうを向いたままだが、清十郎には隠れた弟の表情が手に取るようにわかった。眉間に皺を寄せて膨れっ面をしているか、唇をつんと尖らせているに違いない。
 もう三、四ヶ月もすれば高校生になるというのに。気づかれると更にヘソを曲げるだろうから、こっそりと苦笑して、清十郎はそろそろとベッドサイドに近づいた。
「観たかったわけじゃないならいいだろう?」
 ちょっと意地悪く問うてみる。すると弟はぐうっと喉奥で詰まるような声を漏らして、しばらく沈黙。背を向けられていることをいいことににやにやと笑いながら待てば、
「…………兄ちゃんと姉ちゃんが、ふたりだけで行ってたのがずりーの」
 予想以上に本音に近い答えが返ってきた。
「お前は入試対策の補習でいなかったんだから仕方がないだろう」
「…………」
 今度はどことなく苦い沈黙。
 クリスマスを控えたこの時期、中学三年生の百太郎は娯楽には程遠い日々を送っている。兄の後を追う形で鮫柄学園に入学予定の弟は、水泳の成績こそ申し分ないものの学力試験の方はお世辞にも安心できるとは言い難い点数だ。
 鮫柄学園は体育系強豪校には珍しく、というと世間の体育系学校に失礼だが、とにかく文武両道を掲げている。形骸的なものではなく、部活動でいい成績さえ修めていればそれでよしとはいかないのだ。定期試験で成績不良だった者には部活停止の措置が取られることもあるし、小テストの結果が悪かったからと全寮制をいいことに休日にまで再試験を科されることも少なくない。
 よって当然、入学試験もそれなりに厳しい。弟の模試の結果は海面を漂うラッコのように浮き沈みしていると聞いているし、勉強続きの日々で余計に腐っているのだろう。
 少し励ましてやるかと、清十郎はベッドサイドでしゃがみ込む。そのままベッドの端に顎を預けて、殊更明るい声を出してみる。
「意外と面白かったぞチュー!」
「…………」
 呆れたものか、再び返事がない。めげずに続ける。
「オススメだぞチュー!」
「…………」
「老若男女誰が観てもストレートに面白い、近年稀に見る良作だったチュー!」
「…………」
「特にクライマックスの……おっと、これ以上は言えないチュー!」
「…………」
「今度は一緒に観に行こうなチュー!」
「っ兄ちゃん! いいかげんチューチューうるさ――」
 がばりと百太郎が起き上がる。迂闊にも振り返った弟を見定めて、清十郎はぐっと上体を伸ばした。弟の猫のような目が丸く見開かれる瞬間、薄く開かれた唇に己のそれを触れ合わせる。
「ちゅー」
「むっ……!?
 開かれていた唇をこれ幸いと、軽く舌をさし込んだ。わけもわからずに逃げる弟の舌をべろりと舐め辿ってすっと唇を離す。
 少し顔を引けば百太郎はぽーっとした、どこか上の空な表情をした弟がそこにいる。正面から視線を合わせてにっと笑いかければすぐにはっとして、それから一瞬でゆでダコのように赤くなって顔を背けるが逃がさない。肩ごと抱き込んで腕の中に閉じ込めれば、百太郎はことばにならない呻きを上げながらじたばたと暴れまわった。
 笑いながらうりうりと頬を擦り寄せれば、直に諦めたものかぱたりと抵抗がなくなった。そのまま真っ赤になった弟の耳に、清十郎は唇を寄せる。
「また今度観に行くか。今度は二人で。な?」
「……兄ちゃんの、オゴリなら」
 蚊の鳴くような細い声で、むくれたような拗ねた口調で、けれどそっと清十郎の頬に頭を押し付けながら、百太郎は答えた。抱き締める腕にぎゅうっと、更に力を込める。
 百太郎が見れば殴られかねないほど満面の笑みを浮かべている自覚はあるが、その百太郎は今自分の腕の中なので問題ない。
「おお、もちろん!」
「昼飯もオゴリだかんな」
「任せろ、何でも食わせてやる」
「そんで、そんであと――」
 調子よく滑り出していた百太郎のことばがふつりと途切れる。お?と思って腕の中を見守れば、そろそろと百太郎の頭が持ち上がってきた。拗ねたり赤くなったり恥ずかしがったりと忙しい弟は、今は照れたようにちいさく笑っていた。
「……やっぱ、映画はいいや」
「そうか?」
「映画行くぐらいなら兄ちゃんと泳ぐ方がいい」
 そう言って清十郎を抱き返しながら、素直に笑ってみせるものだから。清十郎も殊更優しく百太郎を抱き締めて、額あたりに唇を落とした。
 試験だ補習だと忙しい弟にも、たまには息抜きが必要だろう。弟とは久しく一緒に泳いでいないし、一度思い切り身体を動かしてストレスも発散させればいい。その前にまずは妹とともに選んで買ってきた、土産のドーナッツも食べてもらわないければ。
 などと考えていたのに、くすぐったげに身を捩った弟が顔を上げて目を閉じるものだから、清十郎ももう一度弟の唇にキスをする。喜怒哀楽も表情もころころと変わって幼い弟が近いうちに高校生になってしまうのが寂しいような嬉しいような、そんな冬の一幕だった。