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エピクロスの箱庭でおやすみ

 夏の大会が終わってしまえば、三年生は気楽なものである。
 もちろん大会で思う通りの記録を残せなかったとか、これきりで競泳をやめてしまうとか、悔しいとか、寂しいとか、誰しも何かしら思うことはあるだろう。しかし競泳を続けるにしろやめるにしろ、自分たちは高校水泳だけが全てではない。競泳をやめたって卒業後の進路や未来は迫ってくるし、競泳を続けるなら続けるでまだまだ己を鍛え、新たなフィールドで競い泳がなければいけない。ただこれでもう、高校生としての大きな大会はないのだと、次の未来が来るまではほんの少しだけ肩の力を抜いてもいいという気楽さが生まれる。
 全国レベルにも名を連ねる、強豪鮫柄高校水泳部を率いてきた部長である御子柴清十郎としては、その気楽さはもしかすると他の部員よりもう少しどっしりと己の裡に落ちているのかも知れなかった。夏の大会でそこそこ納得のできる成績を残した清十郎には夏の大会後、水泳強豪と呼ばれる大学からスカウトがかかっていた。熟慮の末、断る理由もないと判断した清十郎はそのスカウトを受けたため、厳しい受験戦争に身を投じる必要はない。三年生の引退は年度末ということになっており、まだ少し部長としての責任を果たさなければならいし、そろそろ次の部長を見定める必要もあるのだが、まだしばらくはゆっくりしていられそうだった。
 そして今、夏休みの終わりを控えた午後のプールサイドで清十郎は一、二年生たちの泳ぎをじいと眺めていた。
 つい先日まで盆休みでプールは閉鎖されていて、大半の部員は帰省から戻ったばかりだ。副部長や三年を含め、まだ帰省中の者も多いため部員の数もまばらだ。そのせいかプール全体にどことなくのんびりした空気が流れている。少し締めなければ、とも思うのだが、まだもう少し甘やかしておいてもいい気がする。それにここで自主的に厳しい空気へ持っていこうとする二年生が何人かいてくれなければ困る。そこも見極めておきたい。
 こう考えられるあたり、やはり大会という緊張の糸が緩んだことは大きい。四月に編入してからずっと己の殻に籠もり、地方大会あたりから徐々に荒れ始めて、県大会でいよいよダメになってそこから這い上がった、二年の男の泳ぎなどまさにそれだ。あのときは顧問や、ときには学園長と共にあちこちに謝罪することになったものの、その甲斐あって今は憎らしいほど清々しい顔で良い泳ぎをしている。
 自分がいなくなった後の鮫柄を任せるならやはり。思いながら目を眇めたところで「部長」と声をかけられた。ふと顔を上げれば、今日帰省することになっていた一年の中川翔太が小走りに近づいてきている。着替えたばかりなのか、濡れた感じもなくジャージを小脇に抱えていた。
「すいません、遅れました」
「気にするな、お前は今日こっちに戻ってくる予定だったんだろ? 俺は明日から部活に出てくるかと思ってたよ」
「折角間に合ったので、一時間だけでも泳げたらと思って。それより部長、あの、更衣室で」
「ん?」
 清十郎の座るベンチの傍で翔太は足を止めた。困惑した様子で眉尻を下げ、更衣室へ続く出入口の方を視線だけで振り返る。
「更衣室でケータイ鳴ってて。よくないかなって思ったんスけど、ずーっと鳴ってるから誰かに緊急の電話だったら大変だしと思って見てみたらたぶん、部長のロッカーからで……あ、もちろんロッカーは開けてないスけど!」
「……わかった、ありがとう。ちょっと見てくる」
 はい、という翔太に笑いかけ、清十郎はベンチから立ち上がった。その後すぐに、すっと険しい表情へ変わったことに翔太は気づかなかっただろう。
 プールサイドをほんの気持ち足早に歩き、更衣室へと向かう。短いプールサイドの道中で先ほどまでハイペースで泳いでいた例の後輩、松岡凛が休憩を取ろうとしていたため、これ幸いと清十郎は声をかけた。
「松岡!」
「ハイ、何すかぶちょ――」
「プールの鍵、預かっておいてくれ。戸締まりも頼んだ」
「は?」
 プールやシャワー室、更衣室などの鍵がまとめて束ねられたキーリングをジャージのポケットから取り出し、凛に突き出す。訝しむ表情ながら半ば反射的なものか、差し出された凛の手に鍵束を落とせば、じゃらりと重たい音がした。
「あと、部活が終わったら俺の外泊届出しておいてくれ。俺からも寮に連絡は入れておく」
「それは構わないすけど、急にどうしたんですか?」
 口早に告げる清十郎のただならぬ様子を察し、凛が心配そうに声を上げた。
「ちょっと実家の方で急な用事ができてな」
 帰省から戻ってきたばかりだが、下手をするとまた一週間程実家に籠もることになるかも知れない、とは、黙っておく。三年の少ない今の状況で部活を休むのは心配だが、清十郎一人がいないぐらいで立ちゆかなくなる鮫柄水泳部ではない。顧問にも連絡を入れておけば何とかなるだろう。
 実家の言葉に納得したのか、凛は鍵を握り締めて半歩下がった。固く頷きながら、気をつけて帰って下さい、と告げる言葉に清十郎も頷きだけで返す。やはり来年の鮫柄水泳部を任せるのはこの男が適任かも知れない、と考えたのはほんの一瞬だけで、清十郎はすぐに踵を返して更衣室へと向かった。
 今日はあまり泳いでいないし、プールサイドに上がってそれなりに時間が経っていたため身体も乾いている。シャワーを浴びる間すら惜しく、清十郎はまっすぐ更衣室へ辿り着き、ドアを開けた。途端、初期設定のままの無機質な電子音に迎え撃たれる。
 静かに不穏に鳴り続ける音を辿れば、翔太の言うとおり、音源は清十郎のロッカーだった。急いで扉を開き、先ほどよりもクリアになった音に目を細めながら鞄をもどかしく開き、携帯電話を取り出す。着信ランプがチカチカと光るそれを開き、着信元も確認しないままイヤホン部分を耳に当てた。
『……――ぃちゃ――……っ――……』
 ガザガザと、籠もったようなノイズ音が鼓膜を刺す。
 不快に思う間もなく、ノイズに紛れたか細い声を聞き届けた清十郎は通話相手の名前を呼んだ。
「百太郎」
『……――……――ぁ……』
 返事らしい返事はない。代わりにノイズ音が更に大きく、鋭くなる。
 このノイズの原因はわかっている。声も出せないほどの熱に浮かされている通話相手――弟の百太郎が、只管苦しい呼吸を繰り返している音だ。今まで数度、最近だと三ヶ月ほど前にも全く同じような電話を受けた記憶がある。
 声なき返事を受け止めながら、清十郎は電話を肩と頬で挟む。そうしてフリーになった両手で急いで着替えながら、一方的に喋り始める。
「今からすぐ戻る。途中で病院に寄って薬を貰ってから帰るから、とりあえず家にある薬を――飲めるならでいいから、飲んで待ってろ。わかったら大きく息吐け」
 最初から返事はできないだろうと踏んでそう言えば、少しの間を置いて強くノイズ音が響く。聞き届け「じゃあ、切るぞ」とだけ続け、反応も待たずに通話を切った。
 そのままはあと大きく息を吐き、電話越しながら弟の熱に中てられそうになっていたことを痛感する。そんなことあるはずがないのに、ノイズの向こうの熱い吐息と自分を呼ぶ微かな声、そして電話では見えないはずの潤んだ表情まで思い描いて、清十郎は強くかぶりを振った。今は早く着替えて、百太郎の元へ向かわなければならない。通話中に着替えた水着をバッグに詰め込み、清十郎は慌ただしく更衣室を去った。

 携帯電話や財布といった最低限の貴重品はバッグの中に入っていたため、清十郎はプールを出たその足で学園を出た。
 道中で顧問や寮監に急な用事で実家へ帰省することになったと連絡を入れ、弟と自分のかかりつけである実家の近くの病院へと向かう。受付で診察カードを提示して用件を伝えれば、すぐに必要な薬を処方してもらえた。くれぐれもお大事に、という含みある受付事務の言葉に頷く間も惜しく、薬を貰ってすぐに病院を出た。あとは一路実家を目指し、家の門まで辿り着く頃には空はすっかり茜色になっていた。
 人の気配のない御子柴家は夕暮れの中、どこか異様な佇まいを見せている。そう思ってしまうのは中で何が起こっているかを知っているからだろう。清十郎は一度大きく息を吸い、それから静かに、玄関の扉を開けた。
 途端、薄っすらと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
 反射的に眉を顰め、踏み留まりそうになる足を叱咤して靴を脱ぐ。それなりに広い玄関には百太郎が愛用しているスニーカーしかない。妹は部活の合宿で不在だし、両親は仕事の都合で揃って海外に出張中のはずだ。つい先日、御子柴の帰省中家族五人が揃った席で確かそんな話をした。
 つまり今、この家には百太郎しかいない。それが果たしてよかったのか、悪かったのか。清十郎は階段を上がり、弟の自室のある二階へと向かう。階段を一段上がるごとに脳を鈍らせるような甘い匂いが強くなってきつく奥歯を噛んだ。辿り着いた弟の部屋の前では一層匂いが濃くなり、ノック後、返事も待たずに開いた扉の中で最高潮になる。
「帰ったぞ、百太郎」
 ここでもまだ返事はない。見ればベッドの上にこんもりと丸い山ができていて、そこに弟がいるのだろうと知れた。夏だというのにエアコンも点けず、ピッタリと窓を閉め切りすっぽりと布団に包まる姿は事情を知らない人間からすると異様な光景に見えるだろう。清十郎は訝ることもなく担いでいた荷物を適当に落とし、薬の入った紙袋だけを持ってそちらへと向かう。
 部屋の空気はもはや匂いも感じないほど濃密なものとなっている。甘くはちみつのように粘る空気の中、御子柴は泳ぐような気持ちで歩く。一歩進むごとに強くなる己の心臓の音に理性で蓋をして、どこか湿った掛け布団を無理から剥いだ。
「ふ――ぁ、はっ……ハ、あ」
「……百太郎」
 むわりと、酩酊するような空気に中てられる。
 布団の中には案の定、弟がいた。バケツの水を頭から被ったように汗にびっしょりと濡れ、橙がかった前髪は額にぴったりと貼り付いている。前髪の下の瞳はどこか虚ろで、真っ赤になって潤んでいた。荒い呼吸を繰り返し半開きになった口からは薄く涎を垂らしていて、相当重症なのだと知れた。
 一見すれば高熱にうなされているようにも見えるだろう。だがそうでないことを、清十郎は知っている。
 汗に濡れた赤いタンクトップは濃く色を変え、百太郎の肌に貼り付いている。そのためまだ薄い、筋肉の未発達な弟の身体のラインがいつもよりあらわになっているのだが、胸の頂きがつんと尖っているのが露骨に見て取れた。下半身は更に酷く、ゆったりした砂色のハーフパンツは粗相をしたようにぐっしょりと濡れ、股間にはきつくテントを張っている。
 想像した通りの惨状に御子柴は目眩を覚えそうになり、辛うじて足裏で強く床を踏み締めた。そのままそろそろとベッドサイドに膝をつき、弟と同じ目線の高さまで身を屈める。
 弟は、発情期を迎えている。
 世間の人間はある基準において三種に分類される。ある基準とは、人間が獣として群れを成して生きていた時代の名残が遺伝子に刻まれているのだとか何とか、保健体育で習ったような気がするが、記憶も真偽の程も確かではない。ただ日常生活で必要となるのは、オメガ性と呼ばれる、発情期を迎え男女を問わず妊娠が可能となる人間がいることと、発情期のオメガ性が発するフェロモンに発情し男女問わず妊娠させることができるアルファ性と呼ばれる人間がいる、という知識ぐらいだ。
 日本では中学二年の保健体育でこの性別について学ばされ、同時に自分がどの性の人間なのか検査を受けることになる。ほとんどの人間はベータ性と呼ばれる、先に挙げた二つの性のどちらにも属さない、いわゆるノーマルな人間と診断されるらしい。
 弟の百太郎は、その検査でオメガ性だと診断された。検査は学校を通して行われ、ホームルームで検査結果の記入された用紙をもらってくるという形だったが、結果を持ち帰った百太郎は酷く落ち込んでいたらしい。らしい、ではなく、実際落ち込んでいた。既に鮫柄学園で寮生活を送っていた清十郎に百太郎がわざわざ電話をかけてきて、清十郎も弟を慰めるためにわざわざ実家に帰省したという経緯があるぐらいには深刻な落ち込みようだった。
 オメガの人間は男性であろうと発情期中であれば妊娠が可能となる。三つの性に関する授業後、クラスの男子たち、そして弟自身が少なからずこの事実を面白おかしく話していたのに、実際に自分もそのオメガだと知ってショックを受けたらしい。
 歴史的にも、アルファ性はリーダー気質の優秀な人間が多く、オメガ性は子作りのためだけに存在し他に能のない、劣等な人間だと判じられ蔑まれてきた事実がある。更に、初めての発情期を迎えると以降は女性の月経のように定期的に、ちょうど今の百太郎が当てはまるがおよそ三ヶ月に一度の頻度で発情期が訪れることになる。発情期の間は日常生活にも支障が起こり、仕事や学校も休みがちになるため社会的地位も得にくいのだと教科書には添えられていた。
 そんなことをわざわざ授業で教えるからこういう弊害が起こるのではないかと、清十郎は弟を慰めながら内心憤ったものである。更に妊娠のできる男だと考えれば、男子中学生の話のネタになるのも仕方がないだろう。
 そもそも清十郎も授業で習った記憶があるが、オメガの人間は世界的に見ても人口のほんの数パーセントしか存在していないのだと言う。実際清十郎も百太郎以外のオメガの人間には鮫柄に入学するまでは会ったことがなかったし、まるで架空の存在のように教師も語っていた。オメガ性の人間にはそのような性質がありますが決して蔑まれるようなものではなく、人間的社会的に大切な役割を持っているのです、などと語った教師の口調の空々しさを、清十郎は未だによく覚えている。
 オメガ性、そしてアルファ性と診断された生徒は病院へ行き、専門医から更に詳細な説明を受けること、それから専門医をかかりつけ医に持つことが義務づけられている。百太郎も当然かかりつけ医を持っており、清十郎が帰宅前に立ち寄った病院がそれだった。
「百太郎、薬飲んだか」
「はっ、あ……ぁ、兄ちゃん……?」
「ああ」
 弟の頬を軽く叩きながら尋ねれば、ようやく喘ぎの隙間に返事があった。苦痛を孕んで潤む瞳が確かに焦点を結ぶ前に、清十郎は目を逸らす。逸らした先でベッドサイドの小さな棚と、その上に置かれた水の入ったペットボトルと空のグラス、そしてPTP包装の空に気がついた。一応、家に常備されている薬は飲んだらしい。
 オメガの人間だけが服用する薬、というものが、主に二種類ある。御子柴家に常備されている薬はこの内の片方、発情を抑える抑制薬だ。定期的に服用することで効果のある薬で、恐らく百太郎も正しく服用していたはずだが、それでもこんなふうに動けなくなるほど発情するのだ。もしこれを服用していなかったら、と思うとぞっとするが、ともかくこのタイプは即効性のある薬ではない。一応飲むように指示はしたものの、効果は焼け石に水程度のものだろう。
 痛むこめかみを押さえながら、清十郎は病院で受け取ってきた袋を開ける。処方された薬は二つ。その内即効性のある抑制薬の方を取り出し、パックを押してカプセルを取り出した。ぱちぱちと瞬きを繰り返す百太郎の薄く開いた唇にそれを押しつける。
「抑制薬、貰ってきたから飲んでおけ」
「ん……は、むっ……」
 涎でベタベタに濡れた唇が、震えながらカプセルを食む。しかしうまく捉えることができず、百太郎はもどかしそうに呼吸を繰り返すばかりだった。それでも何度か繰り返すものの、百太郎の唇が清十郎の指を唾液で汚していくばかりでうまく口に取り込めそうにない。
 ついにはか細く泣きながら身体を震わせる百太郎に、清十郎はきつく目を瞑った。それから何度か深呼吸を繰り返し、百太郎に与えようとしていたカプセルを口に含む。棚の上のペットボトルから直接水を呷り、カプセルと水を口に含んだまま、清十郎は弟に口づけた。
「ふっ、ふ……ん、んん、んくっ」
「ん……ふ、もも……っん」
「ぁふ、はっ、あ……ぃちゃ、にいちゃあ……」
 喘ぎを塞ぎ、自分に比べると頼りない輪郭を晒す百太郎の頬を捉える。合わせた唇を舌で割り開き水ごとカプセルを送り込めば、ふるりと身体を震わせて甘く舌で押し返してくる。蹂躙するように無理矢理押し込めば、百太郎は時間をかけてやっとカプセルを嚥下した。
 酩酊しそうになる思考を振り切ろうと、清十郎は百太郎から唇を離す。けれど百太郎は溶けて流れ出してしまいそうに潤んだ瞳にしっかりと己の兄を捉え、泣き濡れて甘えた声で唇を追いかけてくる。全身から垂れ流す淫靡な気配に反して、子どものような、唇を押しつけるだけのキスで迫り、清十郎の唇を震える舌先でなぞる。肩に縋りついてくる手の頼りなさと、きつく張った股間を持て余し、両足を艶めかしく擦り合わせ尻を揺らす仕草にいよいよ目眩が強くなる。
 百太郎に初めての発情期が訪れたのはオメガ性だと診断を受けた年の冬、奇しくも百太郎の誕生日の頃だった。一般的にオメガの発情期は十代後半から訪れることが多いとされるため、十四歳で発情期を迎えた百太郎はいささか早く成長を遂げたことになる。
 そのせいだろうか、身体の、あるいは本能の成長に精神の方が追いついていないようなところが百太郎にはある。百太郎は本来闊達で、競泳にも気になる女子にも虫捕りにも全力でぶつかるような明るく歳相応の、もしかすると歳よりも少し幼いぐらいの子どもだ。平生と発情期のギャップが大きく、だからこそ普段の弟からは考えられないような凄絶な色気に、健やかに焼けた肌を滑る汗に、兄の名前しか知らない生きもののような甘えた声に、欲濡れた目に清十郎だけを映す様に、清十郎は――清十郎の本能が、煽られる。
「ふ……にい、ちゃん……」
 どろりとして甘い唾液の糸を引きながら、百太郎はようやく唇を解放する。
 続く言葉はもう、わかりきっている。こめかみでどくどくと脈打つに心音に流されないよう、清十郎はきゅっと眉根を寄せた。
 発情して前後不覚となっている百太郎は兄の些細な表情の変化には気づかず、本能に流されるまま、濡れて貼り付く下着をおぼつかない手つきで膝まで引き下ろす。そのまま濡れて重たげに色を変えたグレーの下着も引きずり下ろし、清十郎は奥歯を噛み締めた。下着から解放されて跳ね上がった弟の性器は腹につくほど張り詰めていて、下着との間にねっとりといやらしく糸を引いている。可哀想なほどに真っ赤になって腫れ上がる性器が甘い空気の中でひくりと震えた。まるで清十郎の視線を受けて、期待しているようにすら見えた。
「兄ちゃっ……ん、ぁ、さわって、おれの……し、て」
 もう抑えられないのだろう、百太郎の腰がびくびくと不規則に跳ねている。完全に勃ち上がった陰茎はその度にふるふると頼りなく揺れて、先端にぷくりと溜まったカウパーを涙のように撒き散らしていた。
 これは義務だ。兄としての義務だ。この家は今、清十郎と百太郎の二人きりだ。百太郎を救うことができるのは兄である自分だけなのだ。
 清十郎は強く強く己に言い聞かせ、先ほど飲ませた抑制薬が早く効くことを願いながら、そっと百太郎のまだ幼いペニスへと手を伸ばした。昂りすぎて熱を持ったそれに指を絡め、竿をゆるく撫で上げる。
「んあああ!! ぁ、兄ちゃんの、手っ……きもち……!!
 途端、背中が浮くほど百太郎の腰が跳ね上がった。そのまま悶えるように腰を揺らすが、決して快楽から逃げるための動きではない。百太郎はむずがる子どもそのものの仕草で激しくかぶりを振りながら、それでも勃起した陰茎を清十郎の手のひらに擦りつけている。
 このギャップが本当に、いけない。清十郎は弟のためだと強く念じながら、百太郎のペニスを扱いてやる。裏筋をくすぐり、雁首を弾くように愛撫し、汗でたっぷりと濡れた薄い陰毛を掻き混ぜて陰嚢を揉み込む。そこで百太郎のでたらめな腰の動きで指が滑って、陰嚢の更に奥、会陰を強く擦ってしまった。ぬるりと、陰茎に絡む先走りよりもよほど粘度の高い液体が指に絡む。
「ッヒ――ぁ、あぁ、そこぉ……!」
 百太郎が不安定な姿勢で尻を浮かせる。今度は水から上がったかのごとく濡れた臀部を清十郎の手に押しつける。
 奥歯を噛もうと眉間に力を入れようと、これ以上は耐えられそうにない。清十郎はこめかみの拍動が強くなり、眼球の裏から脳みそを揺さぶられるような感覚を覚える。霞んでぐらぐらと振れ、明滅する視界の中で、弟が泣きながら訴えてくる。
「兄ちゃん、いれてっ、ぁ、俺んなか、なかこすって、突いてっ……兄ちゃんのせーし、欲しッ――」
「百太郎!」
 一瞬、目の前が真っ赤に染まった。咆えるような声が喉を裂いた次の瞬間に、清十郎ははっとする。
 気づけば自分の下に、百太郎がいた。ベッドサイドにいたはずの自分がベッドに乗り上げていて、百太郎の手首を掴んで、濡れて震える太股を跨いで押し倒している。清十郎の被さる影の中で、百太郎は涙と涎で顔をぐちゃぐちゃに汚しながら――嬉しそうに眉を下げて、あどけなく微笑んでいた。
 咽返るような性の匂いを撒き散らしながらおかしな話かもしれないが、それは酷く無垢な笑顔だった。
 まだアルファとかベータとかオメガとか、そんな性別なんて知るはずもなかった幼いころ、兄ちゃん、兄ちゃんと自分を呼んで、一緒にクワガタを探して走り回った。プールを目指して競争した。あのころの百太郎のひまわりみたいな笑顔が今の百太郎に重なった。
 ――ぞっとした。
「もも、たろう。それは駄目だ」
「やっ……あ、兄ちゃん、なんで、やだぁ」
 焼き切れる寸前の理性が、真冬の水を被ったように急速に冷やされる。ガンガンと痛む頭に俯きながら百太郎の上を退こうとするが、百太郎の手が清十郎の腕を掴む。震えて使いものにならないように見える手の、縋る力は何よりも強く、振りほどけない。それは清十郎が百太郎から離れてゆく強さに等しく、結局今の距離のまま留まってしまう。腰に巻きつく弟の両足だけは、辛うじてやんわりと押しのけることができた。
 いかないで、いやだと臆面もなく縋り泣く百太郎に歯噛みしながら、清十郎はそっと、百太郎の尻のあわいの奥、ひたひたに濡れた後孔へと指を滑らせた。
「あっ……」
 すると一気に百太郎の表情が安堵のそれへと変わる。同時にまた、湧き上がる本能に従順に動き始める。清十郎が触れやすいよう、自ら胸につくほど膝を持ち上げて、恥ずかしげもなく股を開いてみせた。早く薬が効くことを祈ることで何とか理性を保とうとする。本能に抗う清十郎の前で、百太郎の秘めた場所が全て晒される。
 そこにあるのは排泄器官ではなく、女の膣と同じ役割を持った立派な性器だった。真っ赤に熟れて孔から愛液をこぼし、期待に満ちてひくひくと震えている。清十郎がそっと孔の周りを撫でれば、ちゅうと音を立てながら貪欲に吸いついてきた。本当はもっと太く、熱く、種をくれるものが欲しいのだという訴えを無視して、清十郎は一気に二本の指を挿しこんだ。
「あああああ! あっ、あっ、あ、あッ、ふあ――」
 ボロボロと、可哀想なぐらい涙をこぼしながら百太郎が喘ぐ。清十郎が指を突き入れるタイミングで腰を振り、ひくんと内腿を震わせながら、百太郎はゆるんで溶けそうな笑みを浮かべていた。肉壷も歓喜に打ち震え、清十郎の指に吸いつきながら襞をうねらせている。にゅるにゅると酷く生めかしい肉の動きを振り切るように指の動きを速くすれば、ぴゅっと潮まで噴いてみせた。
 発情期とは子を成すために訪れるものだ。オメガ性の男は発情期が訪れると、肛門が女性の膣と同じように変化する。先天的に直腸の奥に子宮と同様の器官を有しているため、受精と妊娠が可能なのだ。膣に変わった後孔に精子か、もしくは発情期のオメガに発情したアルファ女性が分泌する精子に似た分泌液を受け入れることで子どもができる。
 なので発情中の百太郎は陰茎よりも後孔への刺激と快楽を求める。それは清十郎もわかっていた。刺激と快楽ではなく、精液を求めていることもわかっている。
 しかし理性が焼け落ち本能に突き動かされるがまま、それを与えるわけにはいかなかった。
 指が少し抜ける度に潮を噴く。更に前では陰嚢がぱんぱんに膨らんでせり上がり、真っ赤に反り返るペニスが白濁混じりの先走りをこぼしている。清十郎だけを映す瞳からは絶え間なく涙を溢れさせて、身体全体が壊れた蛇口のようになってしまった百太郎に心臓が締めつけられた。
 清十郎は一度荒く息を吐き、左手でペニスを、右手で後孔を攻め立てた。
「やっ、いやだ兄ちゃ、それ、それだめ、だめだめ、ぁあっ……!」
 一段と激しく百太郎がかぶりを振る。組み敷いた自分よりひと回り小さな身体が、まだ十四の弟があまりの快楽に痙攣している様が辛い。
 清十郎は終わりにするつもりで鈴口を爪先で抉る。後孔に突き入れた指で、前立腺と呼ぶのか、はたまたGスポットと呼ぶのか、百太郎の一番いいところを擦り立ててやった。
「ぁあ、あ……ひッ……~~~~!!」
 真っ赤に泣き濡れていた百太郎の瞳が大きく見開かれ、一度びくん! と大きく震えて静止した。それからぶるぶると小刻みに身体全体を震わせる。
 快感に喘いでゆるく弧のかたちに反る百太郎の喉が、ひくんと震える。艶かしい生の動きに最後の目眩がした。そこにかぶりつきたくなる衝動に、清十郎は只管耐えた。痛むこめかみを脂汗が伝い、落ちた。
 しばらくひくひくと痙攣を繰り返した後、長く尾を引いて百太郎は絶頂を迎えた。反り返っていたペニスが白い放物線を描いて射精する。肉壷が痛いぐらい清十郎の指を締め付けて収縮し、そしてゆっくりと弛緩した。
 同時に百太郎の身体も湿ったシーツに沈んでいく。その背が落ち切る直前に、清十郎は弟の背中に腕を回し、胸の中へと抱き込んだ。いくらシーツの上とはいえ、不安定な姿勢で落ちれば背中を痛めるかもしれない。競泳、特に背泳を専門にしている百太郎にとって、それは望ましくないだろう。
 清十郎はベッドの上で胡座をかき、あらゆる液体で濡れた百太郎の身体を腕の中に収める。ふうふうと荒い呼吸に震える背中をとんとんとゆっくり、できるかぎり優しく叩いて、呼吸が落ち着くのを待つ。一度射精と絶頂を迎えたせいか、百太郎から漂う咽返るような匂いもだいぶ治まっていた。
 震えが微弱なものになり、代わりにうつらうつらと百太郎の身体が揺れ始めたところで声をかける。
「……どうだ、少しは落ち着いたか?」
「ん……」
 喉奥から漏れる程度の微かな声。眠りに落ちる寸前の様子にも似ている。それでもほんの少し橙がかった頭が上下したから、聞こえてはいるのだろうと思う。
 実際、もう体力の限界なのだろう。あるいは先ほど服用させた薬の効き目が現れ始めているか。恐らく両方だろうと思う。
 清十郎は百太郎の身体をそっと、眠りを暴かないよう静かに横たえる。
 その途中でやわく腕を掴まれた。
「にい、ちゃ……」
「ん? どうした?」
「……んで、俺にこれ、挿れてくんねーの……?」
「――っ」
 これ、と言って百太郎が触れてきたのは、ジャージを押し上げるほど硬く勃ち上がった清十郎の陰茎だった。胡座をかいて抱き込んだ際に気づいたのだろうか。
 オメガは発情中フェロモンを発している。そのフェロモンに発情を促されるのはアルファの人間だが、ときにはベータの人間をも引き寄せるのだという。オメガ自身も相手に関係なく無差別に誰かの精子を求めるようになるのだ。発情中は妊娠の確率が非常に高いことも重なって、理性を取り戻したときには自然望まない相手との望まない妊娠、などという最悪の事態が起こりやすくなる。
 それを防ぐための手段は二つある。一つは薬物による発情と妊娠のコントロールだ。薬物とは抑制薬ともう一つ、避妊薬だった。清十郎が病院で貰ってきた、紙袋に残された薬。発情期に入ったオメガはこの両方を服用し、発情期が終わるのをじっと待つ。ただし世の中に絶対という言葉がないように、この避妊薬を服用していれば必ず妊娠を防げるかというとそうではない。
 発情中のオメガは高確率で妊娠する。避妊の術は存在しても、絶対ではない。百太郎はまだ中学三年生で、そして清十郎は百太郎の実の兄だった。
「……わかるだろう、百太郎」
 ジャージ越しに拙く清十郎のものを撫でる百太郎の手をやんわりと外し、諭す。とろとろと微睡み始めた瞳で百太郎は不安げに見上げてくる。
「でも、避妊薬ももらってる……」
「薬は絶対じゃない。それにお前はまだ十四歳だ。あまり薬を服用するのも身体によくない」
 今まで訪れた数回の発情期は、すべて抑制薬だけを服用して耐えさせてきた。百太郎はまだ幼いせいか、発情中に一度オーガズムを迎えればすぐに体力が尽きる。すると即効性の抑制薬が効きやすくなるのか、以降は比較的穏やかな性衝動だけで過ごせるらしかった。
 薬を飲まずに済むならその方がいい。発情中で理性を失った百太郎からすれば欲求不満なのだろうが、発情期を終えて理性を取り戻せば必ず性に乱れた浅ましい身を嫌悪するのだから。
 ぽた、と、密やかな音が落ちた。
 百太郎が静かに涙をこぼしている。落ちた涙が湿ったシーツに落ちて、ぽた、ぽたと寂しくないていた。
「百太郎?」
「に、いちゃんも、俺のこと、きもちわるい?」
「そんなことあるわけないだろう。なんだ急に」
「だっ、て」
 もともと百太郎は感情の起伏が激しいところがあるが、発情期中はそれが余計に目立つようになる。快楽を求めて泣いていたのとは全く違う、ぽろぽろと静かに落ちる涙を拭ってやれば、百太郎は震える声でことばを紡いだ。
「みこしばの家は、アルファの家系、だって」
「……百太郎」
「兄ちゃん、も、アルファだろ。アルファはオメガの発情で、発情する、のに……それは、本能だから、あらがえないって、なのに、兄ちゃんは俺のこと――ふっ……!?
 それ以上は聞いていられなかった。清十郎は涙に濡れた百太郎の両目を片手で塞ぎ、己の唇で弟のそれを塞いだ。
 濃く香る匂いに疼く熱を理性で抑えながら、呼吸ごと百太郎の舌を吸う。百太郎は一瞬、驚いたようにちいさく身体を跳ねさせたが、すぐにとろりと脱力して舌で清十郎の舌を追いかけてきた。
 確かに清十郎は、中学のときに受けた検査でアルファ性だと診断された。
 御子柴の家系にアルファ性が多いらしい、というのも知っている。父もアルファだし、百太郎にとっては姉となる一つ下の妹もアルファだ。だから百太郎は自分がオメガだと知ったとき、わざわざ清十郎に電話をかけてきた。過度に劣等感を覚えていることも清十郎なりに察しているつもりだ。
 例えば百太郎は水泳において、非常に調子のいいときと全く泳げないときがある。これには本人の精神面が大きく影響しているが、オメガ性ゆえ、発情の周期に左右されている点も多少あるらしい。発情期は周期的に訪れるが、精神と相互に影響し合っているのは女性の月経と同じだと、清十郎もかかりつけの医者から聞いていた。
 だから自分には能力がないのだと、どう頑張ってもある程度より上には行けないのだと、百太郎は明るい振る舞いの裏に諦めを隠している。兄である清十郎には並べない。初めて自分がオメガだと知ったときの電話で細く泣いていた声はまだ、清十郎の耳に残っていた。
 ふ、と、甘い吐息が清十郎の鼻先を掠める。合わせた唇の奥、百太郎の口の中は発情のためか、それとも睡魔に侵されているせいか、酷く熱い。互いの唾液を交換しながら、己の舌に絡むそれにまた、清十郎は幼いころの弟の姿を思い出す。
 オメガだとか、アルファだとか、そんなもので弟が何かを諦めるのは辛かった。生まれ持ってたものなどきっかけでしかなく、能力は己の努力があって初めて実を結ぶものだと競泳に臨む清十郎はよく知っていた。現に鮫柄水泳部の中には、ベータ、そしてオメガであっても優秀な記録を持っている人間は何人もいる。
 だから百太郎が何かを諦める必要はない。過度に自分を貶めて、オルファでなくオメガの弟が気持ち悪いから清十郎は抱かないのだ、という百太郎の思考はあまりにも飛躍している。
「……もも」
「ん……んく、ぅ……」
 キスの合間に名前を呼ぶ。子犬のような声で弟が泣いている。
 清十郎が百太郎を抱くことは、許されることではない。病院の受付で薬とともに添えられた、くれぐれもお大事に、ということばが示している。例え発情が本能的なもので、男同士の性交や妊娠が容認されていたとしても、血縁者同士で交わることは最大の禁忌だ。ましてや子を成すなど、到底世間に顔向けができない。
 だから清十郎は、危うい理性を必死に押し留めて百太郎の欲を慰めている。本当は清十郎もかなり危ないところまで弟に対して発情している。今日も一瞬意識が飛んで、気がつけば弟を組み敷いていたのだから。優秀だの何だのといわれるアルファなど、発情期を迎えたオメガの前では腰を振るだけの生きものでしかない。アルファの方がよほど浅ましい、ただの獣だ。
 そう思うから、清十郎はギリギリの綱渡りを続ける。未来を諦める百太郎が大事だからこそまだ十四の弟に万が一が起きてはいけないと、発情期の間は極力実家に戻り、百太郎の世話をしてやっていた。
 このキスが精一杯だった。兄弟であるラインを曖昧に引く、本能とは別の衝動を呼んで遠ざける行為。お前のことが大切だからこそ抱けないのだと、幼いわからず屋に伝える声のないことば。
 散々に唇を合わせ、最後に弟の舌先をちゅうっと吸い上げて解放すれば、百太郎はくたりとシーツに崩れ落ちた。目を塞ぐ手だけをそのままに清十郎は語りかける。
「しばらく寝とけ。ちょっと気持ち悪いだろうが、お前が起きるまでにシーツと寝間着の替えは用意しておく」
「うん……兄ちゃんありがと、せっかく学校、戻ったとこだったのに」
「気にするな。お前がそろそろ発情期に入るのはわかってたしな」
 だからこそ清十郎は、電話が、とプールサイドで聞いた時点で帰省することを決めたのだ。
 そして御子柴家の家族も皆、百太郎が今日あたりに発情期を迎えることは知っていた。だからこそ妹は合宿に行き、不在にしている。アルファ性である妹も百太郎のフェロモンに中てられてしまえば、否応なしに発情することになる。つまり下手をすれば、姉が弟を孕ませることになるのだ。
 両親の不在は完全に偶然である。父はアルファだが百太郎のフェロモンに中てられることはないし、百太郎と同じオメガである母もまったく影響を受けない。百太郎の発情による姉弟間の抑止になりうる両親がいない、このタイミングで妹の属する部が合宿に行くことになっていたのはまさに渡りに船だったといえる。
「兄ちゃん」
「ん?」
「おれ、にいちゃんとなら……つがい、……」
 ふわふわと眠たげな声は、そこで不透明に途切れた。
 そっと百太郎の目を覆っていた手を退ける。懐こく吊り目がちな目は伏せられて、涙のあとだけが色濃く残っている。
「……参った、な」
 ひとりごちて、清十郎は百太郎の目を覆っていた手でがじがじと後ろ頭を掻いた。
 アルファ性の人間とオメガ性の人間は、つがいになることができる。清十郎と百太郎の両親がそれだった。つがいは恋人や結婚とは違う、本能的な、ロマンチックな言い方を装うなら運命的な繋がりだ。結ばれれば死ぬまで続くし、仮に恋人や妻、夫がいたとしても、自分だけのつがいに出会ってしまうとそれまでの相手と別れてしまうことも多いと聞く。
 つがいになればオメガはフェロモンを発することがなくなり、発情期は訪れなくなる。アルファの方もつがいのオメガ以外のフェロモンに惹かれることがなくなるのだ。これが抑制薬や避妊薬以外とは別の、望まない妊娠を回避する方法だった。
 百太郎は恐らく、そのつがいの話をしていた。清十郎ならつがいになってもいいのだと。
 もちろんそんな関係が許されるはずがない。つがいになる、ということは、お互いとの間に子どもを儲けるという前提が存在する。清十郎と百太郎が兄弟である以上、叶い得ない繋がりだった。
 弟の真意を図ることはやめて、清十郎はベッドに背を預けるかたちで床に座り込む。発情の熱に浮かされただけのことばで、きっと意味はないはずだ。
 アルファとオメガの間では、欲も繋がりも恋情や愛情とイコールではないことなどザラだった。例えばつがいになる方法は、発情期の性交中、アルファがオメガに挿入した状態でオメガの喉元、あるいは項に噛みつくことで成立する。それでホルモンの質が変化し、互い以外に性欲を覚えなくなるということらしいが、これは仮にオメガが繋がりを望まなくてもアルファの一存だけで成立させることができる。そしてつがいの解消も、アルファが一方的に行うことができた。アルファに本能的な繋がりであるつがいを解消されたオメガはストレスを負い、他の誰ともつがいを作れないまま発情期だけを迎え続けることになるらしい。
 だからつがいという関係は、軽々しく成したり、口にしたりしていいものではない。百太郎はそれをまだ理解していないのだと思う。発情期を止めるだけの手段だと思って、他のことは考えていないのかも知れない。普段ならともかく、発情中の思考は理性や常識を上回る本能で支配されているから十分ありうる話だ。
 そうとでも思わないと、不毛だろう。
 清十郎は静かに眠る弟を横目に、するりとジャージを引き下ろした。幾分萎えたとはいえ、まだ十分に角度を持ったペニスを下着から取り出し、扱く。ついさっきまで弟に触れていた手で、弟の痴態を眠る姿に重ねながら只管擦る。ちくちくと粘った小さな音が上がって、幾分もしない内に呆気なく射精を迎えた。
 手のひらを白く汚す自分の精液を見つめ、自嘲する。本能に従ってしまえば、百太郎も自分も満たされるのだろう。あの熱くねっとりとうねる弟の性器に挿入する快感を、その奥の奥まで深くペニスを突き挿れて、弟の腹が膨れるほど射精し、種つけをする悦びを思い描く。それは一体どれほどのものだろうか。
 許されないとわかっていて、百太郎を大切にしたいのだと口にし、身体によくないから、などと詭弁を吐きながら、清十郎は今日も弟に避妊薬を服用させることができない。本能に支配された嫌悪すべき獣の欲で弟を犯し、あってはならない万が一が起こることを、頭の片隅、心の裏側の自分が昏く望んでいる。
 大切な弟だからこそ抱けない。大切な弟だからこそ、家族にも誰にも見えない腕の中に囲って、自分のものにしてしまいたくなる。
 叶わない運命の相手を傍らに清十郎は目を閉じた。汚れた手はそのまま、瞼の裏にはただ、幼い兄弟の思い出だけがちらついて濁っていく。