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真っ赤な恋

 昔から、赤い色が好きだった。
 お絵かきに使うクレヨンや色鉛筆は赤い色が真っ先になくなっていたし、今日はどの服を着ようか、と母に訊かれれば必ず赤色の服を選んでいた。幼稚園に入りたての頃は淡い水色のスモックが嫌で泣いて、母を困らせた記憶もある。
 それから戦隊物のテレビで一番好きなのはやっぱり主人公のレッドだった。赤いし、強いし、かっこいい。誕生日やクリスマスにもらうおもちゃは必ずレッドの人形とか、レッドの乗るロボだった。
 ただ、選択を迫られることもあった。俺には三つ離れた兄がいて、兄も一緒にテレビを見ていた。兄も主人公のレッドが好きだった。赤色が好きなのも同じだったけれど、どちらかというと兄は赤いから、ではなく、強くて優しくてかっこいい、弱きを助け強きをくじくヒーローだからレッドが好きなようだった。
 兄と一緒にテレビを見るのは楽しかったし、ごっこ遊びもよくやった。俺はもちろんレッドがやりたくて、兄もやっぱりレッドをやりたがったけれど、じゃあ俺がレッドをやるから百太郎は他の役をやれ、とは兄は絶対に言わなかった。レッドが二人いたっていいだろうと笑って、二人でレッドになって遊んでいた。俺と兄の戦隊ごっこを見ていた姉はレッドが二人いることについて首を傾げていたけれど、二人が楽しいのだからそれでよかった。
 選択を迫られる、というのは融通の効かない両親によるものだ。たまにおもちゃ屋やスーパーで戦隊物の小さなおもちゃとか、シールが付録のお菓子を買ってもらえることがあった。もちろん俺も兄も二人ともレッドを買って欲しいと言うのだけれど、両親たちは二人で同じものを持っていたって仕方がない、交換して遊べばいいんだからどっちかは別のものにしなさい、という訳だ。
 三つ年上の兄は、ごっこ遊びのとき俺に他の役をやれとは言わなかった。兄は俺に優しかった。だからそんなときは兄が俺に譲ってくれて、じゃあ俺はブルーにするから百太郎はレッドにしろ、と言ってくれるのだ。
 俺は兄にそう言われて、おもちゃ屋で、スーパーで、大泣きした。
 兄は本当に優しかった。何かあればすぐに駆けつけてくれた。近所の飼い犬に吠え立てられたりすれば前に立って歩いてくれたし、転んで膝を擦りむいたときにはおぶってくれた。それから幼稚園の友だちに、よく名前のことでからかわれることがあったのだけれど、そんなときも兄が誰より先に慰めてくれた。お前の名前は昔話のヒーローと同じ名前なんだぞ、レッドと一緒なんだ。優しくてみんなを守る、強い男の名前だ。泣くことなんてない、俺の弟なんだから、堂々としてろ。兄は強くて、かっこよかった。
 俺にとって兄はレッドみたいな、ヒーローみたいなものだった。だからそんな兄がレッドじゃないことが嫌で、俺は泣いたのだけれど、兄ちゃんがレッドじゃないと嫌だ、なんて泣いたって両親は首を傾げるばかりだし、じゃあ俺がレッドを兄に譲れるかというとそれもできなかった。子どもなんてそんなものだ。結局最後には両親が根負けして、俺と兄にレッドのおもちゃやお菓子を買ってくれた。兄は泣きじゃくる俺の頭を撫でて、泣き疲れた俺をおぶってくれた。それから俺の弟なんだからすぐに泣くな、とまた言うのだけれど、そんなときの言い方はいつもよりもっと優しかったことを覚えている。
 兄はまちがいなく、俺のヒーローだった。俺は兄のことが好きだった。

 小学生になって、兄はスイミングクラブに通い始めた。兄と遊べる時間が少なくなるのは嫌だったし兄と同じことを自分もやってみたい歳だったし、両親も二人が同じスイミングクラブに入っていれば手間がないと踏んだのか俺も一緒にクラブに通わせてくれた。とはいえ俺と兄は三つも離れていたから当然のように初回のコースは別で、入会直後それを知った俺が涙ぐむのを兄が一喝したエピソードもあったのだけれどそれは今は置いておく。
 ともかくそこでほんの少し、俺と兄の距離が開いた。同じ時間同じスイミングクラブに通っていても、兄がどんな練習をしているのか俺は知らなかったし、兄も俺の泳ぎを知らなかった。ただ練習が終わって一緒に着替えて、今日はどんなことをしたどれだけの距離を泳いだと語る兄は心の底から楽しそうだった。俺はそんな兄を見ると嬉しくなって、兄のように泳ぎたいと思った。辛いことや苦しいこともあったけれど、兄に追いつくために練習した。どうしても弱音は吐いてしまったけれど、兄が激励してくれるから辞めようと思ったことはなかった。
 そうして二人でクラブに通って、初めて兄の泳ぎをまともに見たのは、クラブ内での記録会だった。大会形式で行われたそれで、俺はたぶん、初めて『兄』でも『ヒーロー』でもない、御子柴清十郎を見た。
 俺はまだ四泳法を学んでいる途中だったけれど、兄は育成コースに進んでいた。同じ小学生とはいえ一つ二つ年上の子どもたちと兄は競って泳いで、だから当然といえば当然なのだけれど、兄はクラブで一番速いわけではなかった。レースでも一番は獲れなくて、おもちゃみたいなちゃちな金メダルも貰えなかった。兄が他の子どもに遅れてゴールする姿を、俺は観覧席でじっと眺めていた。
 たぶん、ショックだった。俺にとって兄はヒーローで、あんなに楽しそうに泳ぐことを語っていて、だから一番を獲るんだと漠然と信じていた。そうじゃなかった。クラブには兄よりもっとずっと速く泳ぐ子どもがたくさんいて、兄はまだ大勢の中の一人でしかなかったのだ。俺は一緒にレースを見ていた他の子たちやコーチと話をすることもなく、呆然としてプールを眺めていた。
 競技を終えた兄は照れ隠しみたいに頬を掻きながら俺のもとにやってきた。そのときの屋内プールの照明の眩しさを、兄の体を伝い落ちる雫のきらめきを、兄の向こうで執り行われるささやかな表彰式、そこでちかちか光るメダルの色を、俺はまだ覚えている。
 兄はヒーローだった。戦隊物だとレッドだ。兄には赤がよく似合っていた。でもきっと、あのひとつも届かなかったメダルの金色だってよく似合うはずなのだ。兄は太陽みたいな人だから、真っ赤で眩しくて光り輝く、俺の太陽だったから。
 おもちゃの金色に背を向けた兄が、何も言えずに観覧席に座っている俺を不思議そうに見ていた。百太郎、と首を傾げながら名前を呼ばれて、そこで俺は大声を上げて泣いた。おもちゃ屋よりもスーパーよりもずっと大きな声で泣いて、情けない俺の泣き声はプール中にわんわんと響いた。
 兄は慌てふためいて俺を宥めすかして、頭を撫でて、肩を抱いて、あの手この手でもみくちゃにされてやっと俺は泣き止んだ。俺が泣き止んでようやく、兄はすぐに着替えてくるから待ってろよ、と俺の傍を離れた。
 俺は受付ロビーのソファですんすん鼻を鳴らして、でもやっぱり待ち切れなくて、兄を追って更衣室へと向かった。そこで、御子柴清十郎を見た。
 プールから更衣室へ続く通路の途中、二階の観覧席へ続く階段の影に兄がいた。もうすっかり着替えていて、俺は兄の名前を呼んで駆け寄ろうと思って、だぁんと大きく響いた音が恐ろしくて足を止めた。
 兄だった。俯いて肩を震わせて、壁に拳を打ち付けていた。押し殺した細い声が聞こえて、それが兄の嗚咽だと俺が気づいたのはだいぶ時間が経ってからだった。それぐらい長い時間、兄はひとりで泣いていた。俺はひとりで泣く兄に、何の言葉もかけられなかった。俺にできたのは足音を殺してその場を離れ、ロビーのソファに戻ることだけだった。
 兄は、俺なんかより兄のほうがずっと悔しかったのだ。わんわんバカみたいに泣く俺よりもずっと、兄のほうが泣きたかったのだ。兄はヒーローではなく、御子柴清十郎という一人の人間だった。
 しばらく時間が経って帰ってきた兄は、泣いたことなんて少しも悟らせない顔をしていた。遅くなって悪かったな、帰ろうか。そう言って俺の手を握ってくれた。俺は兄に守られて慰められるばっかりで、何もできない小さな弟だったけど、少しでも何か伝わればいいと思って兄の手を強く握った。泳いだ後の冷たさと、悔しさに打ち付けられた拳の熱さを持った、ふしぎな手だった。
 その日から俺は、弱音を吐くのをやめた。泣くことも我慢するようになった。
 兄はヒーローではなくなって、俺は御子柴百太郎になろうと思った。

 スイミングクラブに通う内に学年も上がっていって、俺も直に育成コースに入った。年齢や級が違うから兄と同じコースでいられたのはほんの少しの時間だったけれど、そのとき御子柴清十郎は兄ではなく、同じコースの仲間の御子柴清十郎だった。俺と兄の距離は少しずつ、少しずつ離れていった。
 ヒーローではなく、太陽ではない俺の兄は、火の玉になった。プールという水の中を燃えながら突き進む炎だ。兄の泳ぎは技術や丁寧さよりも力強さが勝る泳ぎだった。あの記録会の、初めて俺が見た兄の悔しさをバネにしたものか、兄は大会でも記録を残すようになった。大会で一緒になる同年代の選手で、兄より速いやつは数えるほどしかいなかった。俺は何度も兄の泳ぎを観覧席で見たけれど、兄のように燃える泳ぎをするやつは一人もいなかった。炎の尾を引っ張ってゴールして、勝利に咆える男に俺は惚れ込んでいた。弟として、ではなく、同じ選手として。あるいは、一人の人間として、水の中を真っ赤に燃え尽き進む背中を俺は追い始めていた。
 転機は兄が中学二年の頃、岩鳶地区大会に出場した日に訪れた、のだと思う。中学生の大会だから小学校五年生の俺はその日完全に応援として観戦していた。兄はその大会で百メートル自由形に出場して、準優勝を収めた。着水からずっとトップを泳いでいたけれど、五十メートルのターンで隣のレーンの選手に抜かれ、そこから差を取り戻すことができなかったのが敗因だ。兄は表彰式で銀メダルを受け取っていた。嬉しそうに笑ってはいたけれど、きっと本当は、あの記録会のときみたいに悔しかったんだと思う。兄に似合うだろう金メダルは隣のレーンの選手、燃える火の玉みたいな兄とは対照的に水みたいに静かな、兄より一つ年下の中学一年生が首に下げていた。
 大会の後、まっすぐ帰宅した兄はすぐに自分の部屋にこもってしまった。俺はどうにも落ち着かなくて、自分の部屋でクッションを殴ったり部屋中をぐるぐる歩き回った挙句、そっと兄の部屋に忍び込んだ。
 兄は俺が部屋に入ってきたことにも気づかず、ベッドの上で仰向けになって眠っていた。今までの練習の成果を全て出し切って全力で泳いだのだから疲れもするだろう。それからたぶん、眠ることで気持ちを切り替えているんだろうな、とも思った。
 俺は兄を起こすこともできず、なのにすぐに部屋を去ることもできず、ベストを尽くして泳いだ御子柴清十郎という男の寝顔を、ベッドの傍で眺めていた。おおらかな兄らしからぬなんだか気難しそうな寝顔で、薄く開いた唇からはときどき呻き声みたいなものが漏れていた。タンクトップにハーフパンツで眠る兄の素肌は、うっすら汗をかいて湿っていたから、暑かったのもあるだろう。どこか憔悴した兄の寝姿に、俺はだんだん胸が締めつけられるみたいな苦しい気持ちになって、兄の部屋のエアコンを作動させてから部屋を出た。入ったときと同じように静かにドアを閉めて、その場にへたり込んだ。日焼けして薄く湿った肌と、うっすら開かれた唇と、縦皺を刻んだ眉間が頭の中をちらついて、苦しくて仕方なかった。

 その年の冬、兄は鮫柄学園に進学したいと両親に話をした。あの水泳強豪校の、全寮制の学校だ。兄はそれまで中学の水泳部とスイミングクラブを掛け持ちしていたけれど、中学三年生の夏にはどちらも辞めて受験勉強に打ち込み始めた。俺は兄のいなくなったスイミングクラブに通いながら、遠くを見据え始めた兄の背を見つめていた。受験勉強の最中にも兄は弱音なんて吐かなくて、俺は受験当日の朝「兄ちゃんなら絶対受かるって、大丈夫!」と笑いながら告げるのが精一杯だった。兄は笑って頷いてくれたけれど、昔兄が俺を励ましてくれたほどの力なんてきっとなかったと思う。
 兄は無事に鮫柄学園に合格して、俺は無力なまま、胸に苦しさだけを抱えて家を出る兄を見送った。旅立ちの日に百太郎もがんばれよ、と頭を撫でてくれた兄の、男の手のひらが、寂しくて堪らなかった。
 とはいえ、兄とは別に今生の別れを果たしたわけでない。家を出て全寮制の鮫柄学園に入学したといっても、御子柴家から鮫柄学園までは電車で小一時間ほどの距離だ。兄も長期の休みには帰省してくれたし、帰省の度に鮫柄の練習がどれだけハードなのかを語ってくれた。そうして話の最後には必ず、お前はどうだと訊いてくれた。俺も中学生になったばかりだったし、今の自分の泳ぎがどんなものかを話して聞かせるのに精一杯だった。まるで子どもの頃、スイミングクラブに入会してすぐのときのようだった。
 違うのは高校生になった兄の大会へ応援に行っても、兄は大勢の中の一人なのだと絶望することはなくなったことぐらいだ。兄はあれだけの人数を擁する部に属していながら、いくつかの種目で選抜メンバーに選ばれていた。身長や肩幅が帰省の度に大きくなっていることには気づいていたけれど、プールの中で一等目立つ火の玉を見たときには無償に泣きたくなった。俺もやっぱり子どもの頃とは違ってわんわん泣くこともなく、ただ俯いて唇を噛み締めていた。
 けれど俺にはやっぱり、兄の気持ちに気づく余裕なんてまだなかった。厳しい練習の合間を縫ってこまめに帰省してくれているのだと気づいたのは、兄が二年になってからだった。
 兄が帰省する頻度はだんだん少なくなっていった。祝日を挟んだ連休程度じゃ帰ってこなくて、思えばまともに帰省したのはゴールデンウィークとお盆と年末年始と年度末ぐらいだ。帰ってきたら帰ってきたで、大会の直後のように自分の部屋にこもってまず眠ってしまう。俺はそんな兄がもどかしくて、でも声をかけることはできなくて、進級する目前の春休み、三月のあの日も、いつかのように兄の部屋に忍び込むぐらいしかできなかった。
 まじまじと見つめると、兄は随分と立派になった。身長や肩幅には気づいていたが、体つきのほとんどがもう、プロの競泳選手のそれと見劣りしない。だらりとベッドの上に投げ出された手もゴツゴツとして筋張っていて大きくて、大人だった。兄は少しずつ、俺の知らないところで、御子柴清十郎というひとりの大人の男になろうとしているようだった。薄く開かれた唇や、じんわりと汗の浮いた肌、微かに上下する厚い胸、すうっと深く筋の浮いた首を見つめて、俺は唾を飲んだ。
 心臓がずきずきと痛くて、頭がガンガンと鳴っていた。
 兄が遠いところで、男になっていくのが寂しいと思った。今ここにいる兄に、触れたいと思った。
 気づけば兄の精悍な顔に暗く影が落ちていて、俺が覗き込むようにして兄に覆い被さっているのだと気づいたのは兄の吐息が鼻先に触れてからだった。
「百太郎」
 影が、みっともないくらい大きく揺れた。視線の先で、ぽっと小さな火の玉が灯っていた。
 兄は静かに俺を見つめて名前を呼んだきり、何も言わなかった。何してる、とも。退け、などとはもちろん。それから来い、とも言うはずがなくて、俺はただ兄と見つめ合った。だんだん息が上がっていって、視界がぶるぶると震え始める。震えているのは俺自身だった。堪らず俯けば、腕を掴まれた。大きくてゴツゴツした、大人みたいな、御子柴清十郎というひとりの男の手のひらだった。
 薄く汗の浮くその皮膚と、俺の皮膚が触れ合っている。途端、ぞくりとした何かが尾てい骨から背筋を這い上がって、頭のてっぺんまで辿り着く。びりびりと全身が痺れて目が眩む。真っ赤に染まった視界に倒れ込めば兄の胸の中に迎え入れられて、息が詰まった。心臓の痛みも最高潮で、苦しくて苦しくて、喘ぐように顔を上げた。一瞬赤い世界が和らいだから細く目を開けば、そこにはいつもよりもっと、もっと優しい光をした俺の太陽がいた。渇くと知っていて求めた唇に、ゆるしてほしい、なんて傲慢な願いを乗せる。舌先に落ちたしずくはあの日兄が落とした悔し涙の味がした。飲み干してしまいたくて夢中で吸い込んだ。
 ゆるされたのかどうかはわからない。唇を離した後、兄は何も言わなかった。ただ昔からそうされているのと同じように頭を撫でられて、俺は静かに目から水をこぼした。兄が、御子柴清十郎が『好き』だと自覚したのは、兄とキスをした後だった。

 兄が好きだった。それはずっとずっと昔からだった。でも俺がこのとき自覚した『好き』はそういう好きじゃない。でもたぶん、女の子に向ける『好き』と同じでもない。兄が好きだからといって男が好きなわけでもなく、やっぱり俺は普通に女の子が好きだった。部活とクラブと、水泳に忙しい中学生なりに何人かの女の子と付き合ったこともある。女の子はちっちゃくてふわふわで柔らかくて、なんとなく甘い匂いがして、手を繋いだり抱き締めたり、そっと触れ合って大事にしてあげたいと思う。結局付き合った女の子たちはみんな、俺のことを退屈だからとか、水泳ばかりの毎日でまともに遊ぶ時間もないからとか言って直に別れてしまったのだけれど、スイミングクラブがない日は部活の後一緒に下校してみたり、予定の合った休みの日にはデートみたいなことをしたり、それから数えるほどだけれど、キスだってした。俺なりに、中学生らしく、女の子たちと付き合っていたのだ。
 兄に感じる『好き』は、女の子たちに向ける好きとは全然違う。そっと触れ合うだけなんてとてもできそうにない。めちゃくちゃに触って、触られて、暴いて暴かれたい。唇が重なるだけじゃなくて、兄を飲み干してしまえるぐらいのキスをしたい。大事にしてあげたいとか、そういう優しくて穏やかな気持ちとは全然逆だ。もっともっと激しくて苦しくて痛い、凶暴な気持ちだった。兄からは甘い匂いなんて全然しない。薄い汗と微かな塩素の匂いで胸がいっぱいになる。
 そんな自分が怖くなった。そうさせる兄のことも怖かった。ふわふわして幸せなはずの『好き』は、春先のプールの水みたいにやわらかく冷たく、俺の心臓を刺していた。そこから兄によく似合う赤がどろどろと流れ出して、やがてプールの中に溶けていってしまうような幻想を見ていた。

 やがて兄は高校三年生になって、ついにあの強豪鮫柄学園水泳部の部長になった。兄は多忙を極めているのかいよいよ帰省しなくなった。もしかしたらあのキスから、俺のことを避けているのかもしれない。考えたくなくて俺は一層泳ぐことに打ち込んだ。俺は俺で引退や進学を迫られる中学三年生になったから、ごくごくたまに兄が帰ってきてもほんの一瞬顔を合わせるぐらいで済んでいた。元気か、調子はどうだ、そう尋ねる兄は昔と変わらない溌剌とした笑顔で、だから俺も何もなかったみたいに笑うことができた。ばっちり、絶好調、次の大会でも日本海のラッコの実力見せてやるよ。つるつるとよく滑る舌がそう喋って、兄はまた愉快そうに笑った。がんばれよ、とは言ってくれたけれど、もう頭を撫でてきたりはしないことに俺は気づいていた。進路はどうするんだ、とも、兄は言わなかった。
 俺は体力と気力の限界まで泳ぐ日々を続けながら、この夏を最後にもう、競泳は辞めようと思っていた。兄と繋がるものを手放したいと思った。進学について具体的なことは考えていなかったけれど、夏の大会が終われば三年生は嫌でも部活を引退することになる。どうせスイミングクラブも受験を理由に辞めることになるだろうから、きっとそんなにおかしなことじゃない。
 そんな不健全なことを考えながら、俺の夏は終わった。結果は県大会止まりだったけれど、自己新も出せたし、悪くない夏だったと思う。大会の後、俺たち三年生は引退して、そして受験を控えた夏休みを迎えた。
 担任との面談もあったけれど、俺はまだ進路を決められないままだった。水泳で記録も持っているみたいだし、お兄さんと同じ鮫柄学園もありなんじゃないか、などとは言われた。兄も三年前に同じ中学校に通っていたから、担任を含め兄の人柄や実績を知っている教師は多かった。
 漠然として曖昧で見通しが立たないまま、夏のあの日、俺は兄率いる鮫柄学園が出場した地方大会を観に行った。兄には告げずに、こっそり。応援ではなく、これで競泳と、兄への気持ちに区切りをつけようと思ったのだ。
 兄が県大会の四百メートル自由形で大会新記録を出したことは知っていた。兄からではなく、部活やスイミングの仲間たちから聞いたのだけれど、とにかく部長の兄は当然個人種目に出場していた。
 水の中を真っ赤な彗星みたいに泳ぐ兄は、きれいだった。それからあれが俺の兄で、俺のヒーローで、御子柴清十郎という手の届かない男なのだと思った。またあの凶暴な『好き』の気持ちが俺の心臓を切り裂いた。歓声の響く会場で、兄の最後のターンから俺はずっと俯いていた。だから結果までは見ていない。全国には行けなかったから、きっとそういうことだと思う。御子柴清十郎は、大勢の有望な選手たちの中のひとりなのだった。
 ゆっくり心臓から流れていく赤に添うように胸の痛みが治まっていく。俺はようやく顔を上げて、もうとっくに兄のいなくなったプールを見た。そこで初めて、あの男を見た。
 大会常連の、屈指の水泳強豪校鮫柄学園の名前と、声援を背負った男だった。
 とても鮫柄の部員とは思えないような、溺れるような無様な泳ぎだった。兄が赤い炎を引いて泳ぐのなら、あの男は真っ赤な血を引きずって泳いでいる。
 俺と、同じだ。

 地方大会の次の土曜日、ひさびさに兄が帰省した。大きな大会を終えた兄はやっぱり疲れているようで、いつものように自室にこもってしまった。俺はずきずき痛む心臓だけを抱えて、兄の隣の部屋で迷って、迷って、迷って、結局また、兄の部屋に忍び込んだ。あわよくば兄への気持ちに区切りを、なんて思って大会を観に行ったのに、全然意味がない。遠くへ遠くへ泳いでいく兄が手の届く距離へ戻ってきたらすぐにこれだ。どんなに怖れても離れたくても、俺はどうしようもなく、兄が好きなのだった。
 兄は例によって、気難しい寝顔をしていた。けれど今までよりももっと安らいでいるようにも見えた。きっと部長としての大きな役目が一つ、終わったからだと思う。
 俺は兄のベッドの傍で座り込んで、赤い舌を覗かせて薄く開いた唇を眺めていた。このまま吸い寄せられて吸いついて、穏やかに眠る兄の夢を暴いてしまいたいと思った。でも俺の理性とか、恐怖心とか、踏み切れない気持ちがかろうじて俺を繋ぎ止めていた。もうきっと、またあんなキスをしてしまったら、俺は兄に何か、取り返しのつかないことを言ってしまうに違いなかったから。二人ともがことばにしないまま、曖昧に離れた距離を壊して戻れなくなってしまいそうだったから。それはたぶん、嫌だと思う。だったらこの何も言えない空気のまま、大人になってしまいたい。俺はそう思っていた。
 ぎゅっと目を瞑って、ぶんぶんと首を横に振る。兄は目の前にいるのだからあまり意味はなくて、部屋を出て行くことができない俺の未練そのものだった。その未練の端っこに、微かに、けれど鮮烈に飛び込んでくる赤があった。
 兄の首筋に、小さな赤いあとがあった。ふだんなら気づかないような、気づいても虫刺されだと思うようなそれが無性に気になった。そういえばこの夏の真っ盛りに、兄はよく見るタンクトップやTシャツではなく、襟の大きなジャージを羽織っている。いつものように薄く汗をかいているのだから脱いでしまえばいいのに。そう思って俺は兄の首筋を覗き込んで、どきっとした。
 ジャージの襟に隠れるぐらいのところに、あとがあった。赤い虫刺されなどではない、ぎざぎざした、肉を裂かない程度の深さのあと。ゆるく弧を描くあとは、まるで誰かが兄に食いついたあとのようだった。俺はそこに流れ出す赤い幻を見た。
 俺は、兄のことが好きだった。たぶん兄も俺のことが好きだった。
 でもきっと、俺と兄の好きは、ちがうものだった。あのキスがゆるされたのかどうかも俺は知らないのだ。兄の、御子柴清十郎のことを俺はまだちっとも知らなかったのだ。本当にバカなことに、俺の知らない届かないところで兄が誰かと好き合っているかもしれない、なんて、そのときまで微塵も考えてはいなかったのだ。
 俺は兄の眠るベッドからそろそろと離れて、静かに部屋を出た。ふわふわした足でなんとか自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んで、泣いた。わんわんなんて大声は出さなかったけれど、兄がレッドを譲ろうとしたときよりも、兄が記録会でメダルを逃したときよりもずっとずっとずっと、たくさんの水が目からあふれて、止まらなかった。

「百太郎は、進路はどうするんだ」
 その日の晩、家族が揃った食卓で、初めて兄が俺にそう訊いた。兄が両親と姉と進学について話している流れで、ごくごく普通の口調だったけれど、兄はずっとこのタイミングを待っていたのだと思った。
 俺もようやく心が決まった。咀嚼していた米を飲み下して、初めて兄に、家族に希望する進路を伝えた。
「俺、鮫柄に行こうと思う」

 そうして次の年の春、俺は鮫柄学園の門をくぐることになった。新品の真っ白い学ランはぱりぱりしていて肩が凝ったけれど、制服を買いに行ったときたまたま居合わせた女の子が浮足立ったようにこの学ランを見ていたから結構気に入っている。鮫柄学園、というのは、女子高生にとって男のステータスらしい。ほんの少しの汚れも目立ってしまう真っ白い学ランは血気盛んな男子高校生の天敵だと思っていたけれど、女の子たちにも目立つのなら悪くない。
 俺の新しい高校生生活はここから始まる。水泳に打ち込んでろくに女の子とデートもできなかったような中学時代からは心機一転、積極的に彼女を作ってやるのだ。俺はもう、水泳も、部活もやらないから、時間はいくらでもあるはずだ。それにやっぱり女の子はかわいい。ふわふわでちっちゃくて甘い匂いがする女の子と知り合う機会は、全寮制の男子校である鮫柄では難しかったけれど、たぶんこの制服を着て休みの日に市街の方まで行けばそれなりに楽しい出会いがあると思う。もう硬くて大きくて汗と塩素の匂いばっかりして、でもやさしい手のひらのことは、忘れるのだ。
 鮫柄学園を選んだのは競泳を続けるためでも、兄の通っていた学校で学びたかったからでもない。全寮制、という点だけを俺は考慮した。高校生になったばかりのころの兄と同じだ、大学に進学した兄の方も環境が大きく変わってそれどころではないだろうが、全寮制なら俺が帰省しない限り兄と会う確率はぐんと低くなる。俺は兄への気持ちを完全に捨て去るつもりで、ここに来た。
 この制服を買いに行くときも、母にお兄ちゃんのお下がりがあるじゃない、などと言われたけれど、サイズが違うことや兄の制服はもうくたびれていることを理由に突っぱねた。制服だって安くないのよ、という母には悪いと思ったけれど、兄の匂いの染みついた兄の制服を着て高校三年間を送るなんて考えるだけでも恐ろしい。いつかのように根負けした母の、昔はやめなさいって言っても泣いて聞かなくて、お兄ちゃんと同じおもちゃを持って喜んでたのに、という一言だけはちくりと胸に刺さった。
 そんな棘も、兄も、競泳も捨てるように。俺は休日、新しくできた友人と町中までナンパに繰り出そうと颯爽と構内を駆け抜けて、駆け抜けようとして、
「ちょっと待った!」
 もうすっかり忘れていた、あの日の俺に、俺がこぼした赤に捕まった。


 つまるところ俺は、兄が好きで、そして水泳が好きだったのだ。
 無理矢理引っ張り出されたよくわからないイベントのリレーで、俺たちは負けた。悔しかった。思えば去年の夏に部活を引退してからずっと泳いでいなかったから体だって鈍っていて、全然理想の泳ぎについてこなくて、でも気持ちだけは泳ぐことに歓喜していた。兄と一緒に始めた水泳は俺の中で兄とは切り離せないもので、兄への気持ちを忘れるなら捨てる他ないものだったけれど、俺の本能的な部分がもうずっと、水を求めていたらしかった。兄とキスをしてからずっと渇いていた心は、泳ぐことで埋められていたのだ。
 俺は結局差し出された手を取った。あの日真っ赤ないろを流しながら泳いでいた男。松岡凛、という、兄のあとを継いだ男。今はもうすっかり傷は塞がっているようで、どこか兄に似た、ちりちりと燃える光を宿して泳ぐ男だった。おおらかな兄とは随分雰囲気が違う、ささいなことにも気を配る男だ。
 他の一年部員とはタイミングのずれた新入部員である俺と、それからたまたま同じようなタイミングで転校・入部してきた三年生の部屋割を早々に決めてしまうと、今度は半年ほど競泳から遠のいていた俺のためにいろいろと細かな指示、というには弱い、アドバイスみたいなものをくれた。自主練のメニューを組み立てついでに部屋に押しかけてみれば、息をするようにアイアンクローを食らわされた。気を配るくせに結構手が出る。これが兄なら一緒になって騒いでくれるのに、とか、今顔面を鷲掴みにしているこの手のひらで頭を撫でてくれるのに、なんてほんの一瞬でも考えてしまって、またちくりと心臓が痛んだ。細い糸のような赤が流れ出しているに違いなかった。だから凛先輩の手のひらが兄と同じ、ゴツゴツして筋が浮いていて、大人そのものみたいな大きな手のひらをしていることには気づかないふりをしていた。
 いずれにせよ、ひさびさの本格的な練習で俺は疲労困憊していて、兄のことをぐるぐる考える暇なんてないに等しかった。水泳は全身に負荷のかかるスポーツだし、そこにブランクも合わさるともう、部活後の入浴や食事はほとんど気力だけでやっているようなものだった。大浴場の浴槽で居眠りして沈みかけたことなんて数えるのもバカらしいぐらいだし、夕飯の味もメニューもほとんど覚えていない。記憶が飛んでいる。
 風呂に沈みかけたり箸を握ったままぐらぐら船を漕ぐ俺を助けてくれるのは、大抵似鳥先輩だった。鮫柄の寮は部活によって部屋割が決まるから当然といえば当然なのだろうけれど、俺は似鳥先輩と一緒に行動することが多かった。何くれとなく世話を焼いてくれる似鳥先輩には迷惑をかけてばかりで申し訳なく思うのだけれど、それを謝る余裕もないぐらい毎日眠い。いつの間にか電池が切れてしまう。風呂や食堂にいたはずなのに気がついたら自室のベッドにいたりするのだから我ながら重症だと思う。
 これはもう、兄がどうとか考えていられない、いやこのまま兄を忘れられて逆にいいのか、いいやよくない何とかしなければ……そう考えていたはずの俺ははっとした。ついさっきまで食堂にいたはずなのに、気がつけば誰かの背中にいた。目の前で赤が揺れていた。
「おう、起きたか」
「……凛先輩」
 だった。俺は先輩に背負われていて、先輩は人気のない寮の廊下を歩いていた。
 凛先輩の背中は広い。専門はフリーとバタフライだと聞いているが、なるほど良い肩をしている。どっしりした背中が歩く度に上下するのが心地よくて、俺はまたとろとろと目を閉じる。なんだかずっと小さいころ、兄におぶってもらっているときのようだった。またはっとした。
「ぅあ、いや、先輩すいません! 俺もう一人で大丈夫ですから! 歩けますから!」
「あ? ……まあ、お前らの部屋までもうちょっとだからよ。いいからおぶられとけ」
「ああ、いや、そういうわけには……」
 凛先輩には妹がいる。ちっちゃくて柔らかそうで、見ているだけで大事にしたくなるような妹さんだ。あんまり長いこと見ていたり話しかけたりするとすぐにアイアンクローが飛んでくるのでイメージでしかないけれど、とにかく妹がいるということは凛先輩は兄だということだ。この面倒見のよさとか、世話焼きな感じは兄ゆえだろう。
 口では否定したものの、練習後の体は重いし揺れる背中のリズムは気持ちがいいし、結局俺は先輩の背中から無理矢理下りることもできずされるがままになっていた。すぐに脱力した俺に気づいて、凛先輩が低く笑った。
「ったく、飯食いながら寝るなんてせいぜい小学生までだぞ」
「うっ……すいません……」
「俺は別にいいけどよ。その箸、明日でもいいからちゃんと食堂に返しとけよ」
 言われて初めて気づいた。俺の右手には固く箸が握られていた。確かに箸を持ったまま、食事中に寝落ちるなんて、許されるのは小学生までだろう。そういえばスイミングクラブに通い始めてすぐのころも、こうやって食事中に眠くなっては兄におぶられて部屋に連れて行ってもらったような気がする。
「似鳥がよ。何やってもお前が起きねえし自分じゃ運べねえからって泣きついてきて」
「す、すいませ……」
「そんなにキツイか、部活」
 ゆらゆら揺れていた世界が止まった。凛先輩は俺を背負ったまま立ち止まって、肩越しに俺を振り仰いでいた。
 この人は本当に、よく見て、よく考えてくれている。今の練習メニューだってこの人に言われて自分で考えて、またこの人にアドバイスを貰って組んだものだ。だからもしかしたら責任みたいなものを感じているのかもしれないけどそれは見当違いだ。
「キツくは、ないです。だいたい受験にかまけて半年俺がサボってたのが悪いんですし」
「水泳、もう辞めるつもりだったんだろ」
 赤い光が、俺を見ていた。ぎくりとした。凛先輩の声に、兄の声が重なって聞こえたのだ。
 もう水泳をやるつもりはないと話したのは俺からだ。水泳はモテないから、というのも嘘じゃない。男同士芋洗い状態で部活に打ち込んでも出会いなんてないし、練習に次ぐ練習の日々じゃあナンパにもデートにも行けない。本当のことだった。
 なのに凛先輩は、何かを見抜いているようだった。そういえばこの人は部長である以前、去年の夏の大会で、素人みたいなボロボロの泳ぎをしていた。真っ赤な色を引きずって傷ついていた。関係があるのかもしれない、けれど、あまり踏み込みたくはない。
 この人は似ている。俺に、それから今はもっと、兄に。広い背中も、大きな手も、触れ合う温もりも、汗と塩素の匂いも兄にそっくりで、堪らない。忘れていた心臓の痛みが目を覚ましそうになる。
 だから敢えて手放そうと、口にした。甘えるみたいに先輩の首の後ろに額をくっつければ、くぐもった声が先輩の背中を叩いた。
「凛先輩、兄ちゃんみたいです」
「……――そ、うか」
 あ、と思った。
 顔を上げた。兄の匂いがした。汗と塩素だけじゃない、兄からしかしない、兄の匂い。そして見上げた先で、凛先輩の耳がほんのりと赤く染まっていた。後ろから微かに見える表情が、優しくて、穏やかで、大事にしたくなる何か、みたいだった。
 凛先輩は、好きなのだ。
 俺はついさっき額を預けていた凛先輩の首筋を見た。見えない虫刺されのあとと、やわい噛みあとが見えるようだった。
「俺もあのひとみたいになりてえって、思ってる」
 そんなにいとおしい声で、言わないでほしい。あの日の俺が思ってもみなかった、兄と好き合っている誰かのことをどう思えばいいのか、俺はまだひとつもわかっていないのに。
 体力と一緒に、気力も砂のように抜け落ちていきそうだった。あの日たくさん失くした水のせいで渇いてしまった、俺自身が抜け落ちてしまう。俺はせめてこれ以上なくさないように目を閉じた。噛みあとの幻を覆い隠すように先輩の鍛え上げられた肩に頭を預けて、いつかのように願いを舌に乗せた。ゆるしてほしい。
「先輩、俺ね」
「ん?」
「兄ちゃんと、きす、したことあるんです」
「…………」
「ねえ、せんぱい」
 ねえ、ともう一度呼んだのだろうか。閉じた世界はふわふわしていて、俺にはよくわからなかった。ただ何もかも、寝ぼけていたとか、夢だったとか、そうやってなかったことにできるんじゃないかと、力尽きかけた脳みそで考えていた。
 だから、だったら、と続いたことばも、俺か、もしくは凛先輩の作り上げた都合のいい幻だったんじゃないかと思う。
「お前とキスすれば、あの人みたいになれっかな」
 俺の体から離れた左手が、器用に、優しく、俺の肩を揺すった。
 誘われるまま重い頭を持ち上げれば、赤い光が俺を見つめている。兄とは違う、同じ赤。俺は昔から、赤い色が好きだった。
「なあ、百」
「……いーですよ、先輩なら」
 兄のように、キスをしても。俺が好きだった兄を、委ねても。俺がどちらの意味で答えたのか、あるいは両方だったのか、はたまたこの会話自体が夢だったのかは定かではない。それでもたぶん、俺の目の前で瞬いて光る赤と、唇にそっと触れるだけの温度は本物だったと思う。
 俺は燃えるような、流れて果てるような、真っ赤な恋をした。