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ハイドアンドシーク

 腹の上の丸い重みは、既に馴染みすぎて感覚がない。
 山崎宗介は英文で埋め尽くされた紙面から視線をほんの少しだけずらす。赤茶けた髪が適当に散らばっていて、その向こうに白皙がぼんやりと浮かび上がっていた。こちらは昔と随分趣が変わったものだと思う。幼い丸みを削ぎ落としていて、頬のラインにも目元にも涼やかな鋭さがあった。
 なのに、宗介が貸してやったトレーニングの資料を見つめながらつんと唇を尖らせる癖は昔と変わらない集中したときの癖だし、今こうして宗介の部屋に入り込んで幼馴染の腹の上に頭を預ける行動も気紛れを装って甘ったれている。総合して、松岡凛は宗介の知る松岡凛のままだった。
 転校したばかりでまだ部屋が片付いていないだろうから手伝ってやる、お前一人部屋らしいじゃねえか労力足りないだろ、などと尤もらしいことをほざいていたのはどの口だったか。片付けを始めるや否や宗介が以前の学校で使っていた資料を見つけ、早々に水泳の世界に没頭してしまった幼馴染のとんがった唇を摘んでやりたい。とはいえ凛が持ち込んだ、片付けが終わり次第一緒に読むつもりだったらしいオーストラリアの水泳雑誌に手を伸ばして読み耽っている時点で自分も同罪だと宗介は熟知しているので何もしない。今は宗介も雑誌を掲げ英文の羅列を目で追うのに忙しいのだ。だからベッドに転がって雑誌を捲っているのだし、床の上で胡座をかいていたはずの凛の頭がいつの間にやら己の腹の上に乗っかっていても邪険にせず放っている。
 ふと、時間の流れを感じた。二人で同じ空間を共有しながら黙ったまま、別の何かに没頭していることに関して、ではない。凛の手にしている事細かな指示や図解の載った紙束に、宗介がコーチから指摘されて走り書きで残したメモ、それから宗介の手にしている妙にザラザラした紙とそこに印刷された余すところのない英文たち。こうして気安く凛が身体を預けてくるのも宗介がそれを許容するのも昔のままなのに、二人がそれぞれ手にしているものは互いの成長と、離れていた時間と距離を感じさせた。
 離れていた時間は五年。たぶん小学校六年生の冬に別れるまでの、一緒にいた時間も同じぐらい。いざ転校してみれば強豪水泳部の部長なんて呼ばれて図体もでかくなって、なのに宗介の前では子どもの頃の奔放さを見せる。他の誰かの前では部長でいなければならないから尚更なのだろうか。目を眇めれば、ベッドサイドに凭れて宗介の腹に頭を預ける凛の姿が逆にもっとあどけない生きものに見えた。
 すっかり内容が頭に入らなくなった雑誌を脇に放り投げる。凛は一瞥をくれることもなく、まだ宗介の資料と見つめ合っている。ただ、空っぽになった左手を凛の頭に伸ばして散らばる髪をゆるくかき混ぜてやれば、ん、という微かな声を漏らして目を細めている。視線はまだ、宗介の走り書きから逸らされない。
 今度はもっと大胆に頭を撫でて、昔よりずっとシャープになった凛のフェイスラインを五指の先でなぞってみる。凛の図体がそれなりにでかくなったのと同じように、自身の肉体もそれなりに育ったものだと思う。ずっと水を掻くために酷使されている手のひらは凛の顔なんて丸ごと覆ってしまえそうだった。現に宗介の指の感触に凛がくすくすと笑っているのに、すっぽりと手のひらの影に隠れてしまって見えやしない。三日月の形に釣り上がった凛の口の端に左の指先が当たって、事故のようにやわらかく噛みつかれている感触だけはあった。反対側の手も持ってきて額にかかる凛の前髪を払ってやれば、あらわになった額を隠すように凛はかぶりを振った。腹の上から細かな振動が伝わってくる。凛はちいさく笑い続けている。それでもやっぱり、手から資料は離さない。
 不意に、ぐっと腹筋に力を入れて上体を起こす。感覚がないほど馴染んでいた頭が膝まで転がり落ちて、そこで強烈に凛の存在を意識した。くつくつ笑って資料で顔を隠そうとする凛の脇に手を差し入れて、逃げようとしているのか笑って捩れる身体を引っ張り上げてやる。笑い声を密やかにこぼして、頑なに顔を見せようとしない凛に思わずため息をついた。戯れではあるが、遊んでいるつもりはない。
「凛」
 宗介の資料が皺になるほど力を込めて、凛は顔を隠している。引っ張り上げた凛の身体を腕の中に囲い込んで、捩れる腰は太股の間に挟んでやった。僅かな隙間で凛はまだ顔を背けている。両手首を掴んで大きく開いてやれば、ばさりと乾いた音を立ててやっと資料が落ちた。凛が悪戯な光を湛えた瞳で宗介を仰ぐ。
 きらきらと赤茶けた瞳には、重たげに目を眇めて凛を見下ろす宗介が映っている。光の中に暗く落ちる影を塗り潰してしまいたくて、すっと凛へ顔を寄せた。もう凛の表情も見えないほどの近くへ。宗介の影が濃く落ちても、凛の瞳は光を失うことなくやさしく笑みのかたちで細められている。そうして熱が伝わるほどの距離で、凛の吐息が宗介のくちびるを掠めた。
「おやじ」
 そのみっつの音に、重なりかけた唇が動きを止めた。
 呼吸すら閉じ込められる。塗り潰そうと近づきすぎたこの距離では、やはり凛の表情は窺い知れない。凛が誰を見ているのかも、光を散らすばかりの瞳の中には見つけられなかった。
 両手に掴んでいた凛の手首がするりと抜け落ちていく。逃げ出した両手は宗介の胸に触れて、それでも押し返すことはしなかった。ただ憧れるように愛おしむように、シャツ越しに宗介の厚い胸板を撫でていく。指の先だけが留まって、心臓辺りに痛いほどのやわらかい熱を感じた。
 わだかまるそれを逃がそうと、長く細く鼻から息を吐く。凛の瞳がわずかに俯いて、今度は宗介の顎先あたりで吐息が踊った。
「は、キスなんてしねぇよ」
「……当たり前だ」
 舌先に苦く昇った何かを吐き出せば、凛は宥めるように笑ってみせた。右手を宗介の心臓のあたりに残して、左手をつるりと持ち上げてみせる。宗介程ではないものの、やはり水を掻くために存在するそれは大きくて、もうとうに子どもの甘さなんて削ぎ落としている。その右手で、俯く宗介の後ろ頭を包み込んでくる。短く残る襟足が凛の指先で持ち上げられた。
 似ている、と、遠い昔に、一度だけ言われたことがある。宗介は、おれのおやじにちょっと似てるかもしれないな。
 まだ宗介が凛に泳ぎ方を押しつけられていたぐらいの時分だった。佐野スイミングクラブで、嫌なことに凛と同じタイミングで息を吸い同じ角度で腕を上げて泳ぎ切ったフリーの百。壁にタッチして立ち上がった宗介を、プールサイドにしゃがみ込んで泳ぎを眺めていた凛がそう呟いた。
 たった一度きりのことだった。おやじはな、地元で一番泳ぐのが速くて、オリンピック選手を目指してたんだ、とか、俺がもっと子どもの頃に死んじゃったから顔も覚えてないんだけど、宗介みたいに短い髪をして、するどい目をしてた、と思う、とか。一度きりなのに、やたら強く覚えている。
 すぐに、泳いでるやつなんてごまんといるし、一番泳ぐのが速いのはおれだけどな、と笑い飛ばされたし、短い髪をしているのはキャップを被るときに邪魔だからで、むしろ凛のように長く伸ばしているやつのほうが少ないだろうと宗介が反論したから、話はそれきりになった。
 なのにまだ強く覚えているのは、ふと宗介を見つめる凛の瞳が友情以外の何かを含んでいると、幼いながらに気づいていたからだろう。スキンシップが過剰なだけだと言われればそれまでだが、凛は宗介にさり気なく、それでもやたらと甘えて、頼ってきていた。たまにお前のこと、鏡みたいによくわかって嫌になるなどと宗介を己扱いして、その言葉で自分を騙していた。凛は宗介に何かを見ていた。
 それがたった今、凛がみっつの音で呼んだ今はいない誰かのことなのか、それとももっと別の何かなのか。知りたくはない、と思う。
「俺は、お前の」
 おやじじゃない。凛は宗介に誰かを見て、宗介を凛自身のように評して、甘えて頼って宗介もそんな凛を受け入れて、なのに最後は「親父に会いたいから」と岩鳶へ、七瀬たちのところへ行ってしまった。おやじ、などではない。ましてやこんなに暗く淀む感情を持て余して、宗介は凛自身などではなかった。
 俺は、お前の。何なのか。誰なのか。きっと凛もその答えを知らない。ただ今腕の中にある体温と限りなくゼロまで近づいて、けれど決して触れ合えない距離が心地いいから、宗介も迷う言葉を飲み込んだ。
「俺はお前の、そばにいてやるよ」
 もう届かない父親ではない。父を見つけるために手を伸ばし共に泳いだ、あの七瀬でもない。道を示し守らなければならない、凛の部長という肩書を見上げている他の部員たちでもない。仮にわかり合えないとしても、凛が宗介を見ていなくても、そばにいてやろうと思う。
 誰よりも近くて遠い凛の、唇ではなくすっと通った鼻筋に噛みついて、宗介はひとりちいさく笑った。