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はるのあらし

 それは終業式も終え、短い春休みを迎えたばかりの日のことだった。
 蕾んだ桜を揺らし砂を巻き上げ、春一番がびゅうびゅうと引っ切りなしに海を撫でる。荒々しい春の訪れはどこからか飛ばされてきた青いポリバケツと、それから真っ赤な顔をした凛を七瀬家の玄関まで運んできた。


 窓の揺れるがたがたという音に、引き攣れるような咳の音が混じる。更にそこに潜んだピピッという電子音を耳聡く捉え、遙はそっと己のベッドに横たわる凛を覗き込んだ。
「凛、鳴った」
「んっ……」
 遙の声掛けに凛は言葉にならない音を漏らしたきりだ。冷却シートの下の眉根は苦しそうにきゅっと寄せられているし、瞼も閉ざされたままで開こうとしない。頬は林檎のように真っ赤に染まっていて、そこをつっと薄い汗が伝っていった。
 これは相当参っているらしい。見慣れない凛の弱った姿に遙は思わず喉を詰まらせて、しばらくの後にゆるゆると息を吐いた。それから凛に被せた布団をゆっくりと剥ぎ取る。寒さにか身を捩る姿をなるべく意識しないようにしながらシャツの襟ぐりを引っ張って、脇に挟まれたままの体温計を抜き取った。偶然触れてしまった肌の熱さとじっとりと濡れた感触に眉を顰め、次いでちいさなモニタに表示された数字に眉間の皺を深くする。
「三十八度五分」
 声に出してはみたものの果たして凛に届いたかどうか。うぅ、という低い唸り声が返ってきたので聞こえてはいるのだろう。意味を理解しているとは思えないけれど。
 つまるところ、凛は季節外れの風邪をもらってしまったらしい。
 突然の訪問者に扉を開いた遙に倒れ込みながら語って曰く、鮫柄の寮内で風邪が流行り始めた。同室の後輩も例に漏れず感染し、案外面倒見のいい凛も着替えや食事の世話を焼いている内にもらってしまったらしい。春休みにも入ったことだし、実家に帰省して療養するべしとお達しをもらい、そして電車に乗って帰省するその足で遙の家に来たのだという。
『どうして実家に戻らないんだ』
 と呆れる遙に、
『……久々に帰んのに、おふくろに面倒かけらんねぇ。江にも伝染したくねーし』
 と、息も絶え絶えな凛の返事である。
 言いたいことは多々あれど、真っ赤な顔に虚ろな視線の凛を前に立たせて口にすることも憚られて、ひとまず遙は一言二言だけを告げて凛を自室まで引きずっていった。凛の羽織っていた薄手のコートといつもの上着のジャージを脱がせ、シャツ一枚に下衣のジャージのみのラフな格好にしてベッドに押し込み布団を被せ、辛うじて常備されていた冷却シートを凛の額に貼り付け滅多に使わない電子体温計を凛の脇に差し込んで――そうして今に至る。
 春の嵐にがたがたと窓が鳴っている。あまりに風が強いため窓を開けるわけにもいかず、室内は暑くも寒くもない曖昧な空気が、ぼやけた春の日差しに浮き上がってわだかまっている。ただ、ぜいぜいと吐き出される凛の呼吸だけが熱い。
 これは一度着替えさせたほうがいいのだろうか。その前に汗を拭いてやった方がいいのかも知れない。
 ちょうど遙が思案したタイミングで、風に揺れる窓の音とは別の、とんとんとん、と一定に響く音が耳に届く。それは一階から上ってきて、ちょうど遙の部屋の前でひたりと止まった。真琴だな、と思って部屋の入り口を振り返るのと同時、ミルクチョコレートみたいな甘い色の頭がひょっこりと覗いた。
「ハル? 玄関に凛の靴があったけど……って凛!? どうしたの!?
「寮で風邪もらってきたんだと」
 大きな声でぎょっとして駆け寄ろうとする真琴に、しいっと指を立てて見せて牽制する。すると真琴はあっと口を大きな手で覆って、そろそろと静かにベッドの傍まで近づいてきた。恐る恐るといった体でベッドに横たわる凛を覗き込み、真っ赤な顔に驚いたのか目を剥いて遙を振り返る。
「これ、すごい熱なんじゃないの!?
 辛うじて気を遣ったのか密やかな声で、それでも狼狽は抑え切れていない。遙は黙って手にしたままの体温計を真琴の前に突き出した。うわぁ、という真琴の声を右から左に、遙はじっと凛の顔を見つめ続ける。
「凛、体調管理とかすごく気をつけてるのに」
「同室の後輩が先に倒れて、世話してる内に自分も伝染ったらしい」
「ああ、それは……凛らしいな」
 返された体温計を受け取ってケースに収め、凛の枕元へと放り投げる。
 それから真琴の訪問まで何を考えていたのか思い出して、気遣わしげに眉根を寄せる幼馴染を振り返った。
「真琴、悪いけど凛の傍にいてやってくれないか」
「え? いいけど、ハルは?」
「俺は湯を沸かしてくる。凛を着替えさせたい」
 真琴は一度瞬いて、何故か曖昧に相貌を崩した。何だと訝るより先に真琴は遙の肩を叩いてのっそりと部屋を出ていこうとする。
「おい」
「凛の傍にはハルがいてやれよ。お湯沸かして、タライに入れてタオルと一緒に持ってくればいい? それぐらいなら俺でもできるし」
「あ、ああ……いや、俺が」
「ハル、ハルはさ」
 春の日差しがぼんやりと照らす部屋の中で、真琴はふわふわと、綿毛のような軽やかさで笑っている。控えめに遙と凛を見比べて、たぶん最後に浮かべたのは苦笑だった。
「凛が実家じゃなくてハルの家に来たの、どうしてだか分かる?」
「……久しぶりの実家で、家族に迷惑かけられないって」
「うん、それってさ、すごい殺し文句じゃないの?」
 ぽやぽやとしてはっきりしないのは、春の日差しのせいだろうか。凛が薬缶のように忙しなく吐き出す熱っぽい息のせいかもしれない。あるいは温かいとも冷たいともつかない、この空気がいけないのかもしれない。ぎゅっと眉根を寄せる遙に、真琴はあけすけな笑みを残して階下へと降りて行った。
「家族には迷惑かけられない、甘えられないのに、家族でもないハルになら迷惑かけて甘えてもいいって思ってるってことだろ?」
 とんとんとん、と、再び小刻みな音が遠ざかって吸い込まれていく。
 呻いて咳き込んで、ひゅうひゅう呼吸を繰り返す凛を、今度は遙が恐る恐る覗き込んだ。相も変わらず真っ赤な顔に、きゅっと閉じられた眸子の端には涙が浮かんでいる。指先で掬い取ってやれば温水(ぬくみず)の曖昧さが絡んで、けれど凛の瞼が幾分和らいだようにも見えたからこれで良かったのだろう。ほっと息を吐いた瞬間、熱い凛の頬が差し出したままの指に寄せられた。
「……っりん」
 涼を求めてのことで他意はないと、遙とて分かっている。なのに思わず呼んだ名前に、はる、と弱々しく応えがあったものだからまた弱ってしまって、悩んだ末に手のひら全体で凛の頬を包んでやった。ふふ、と笑い声に似た吐息が落ちて、またひとつ凛の顔から苦しさが遠ざかる。
 凛のぽっぽと火照る体温に、あるいは春のぼんやりとした熱に浮かされているのだと思う。真琴の残した言葉に今更耐えかねて、俯いて、遙は余っている方の手を布団の中に差し入れた。熱を逃せずぐったりと投げ出されている手を握ってやれば、遙の体温がちょうどいいのかやんわりと握り返された。その仕草すら嬉しそうだと思うのは自意識過剰だろうか。たぶん元を正せば、こんな季節外れに盛大に風邪を引いた凛が悪い。そう思うことにして遙は掛け布団に顔を埋めた。
 真琴が湯とタオルを運び込み、いざ着替えさせようとする段になって繋いだ凛の手が離せず一苦労することになるのだが、それはもう少し後の話である。


 * * *


『……久々に帰んのに、おふくろに面倒かけらんねぇ。江にも伝染したくねーし』
『お前、うちを何だと思ってるんだ』
 熱に浮かされるがまま吐き出した台詞に、呆れた調子の遙の声が返ってきた。本当に、我ながら随分と迷惑な話だ。これでは遙になら面倒をかけてもいいと、遙には伝染してもいいと言っているのと同じだ。最悪だ。けれど凛はこの時、遙ならそれも許してくれると信じて疑っていなかった。
 遙は凛の身体を支えたまま、ふうと息を吐く。耳元を擽る呼気が冷たくて気持ちいい、ような気がした。
『年度末だし、俺の両親が帰ってくるかもとか考えないのか』
『ぁ……帰ってくる、のか?』
 ぐつぐつと煮える思考に、ほんの少しだけ水が混じってひやりとする。そうだ、凛や真琴や渚や怜が一人暮らしなのをいいことに気儘に出入りしているとしても、ここは七瀬家なのだ。遙ひとりの家ではない。いつ留守にしている遙の両親が帰ってくるとも知れないし、ましてや何かと区切りのつく年度末なら尚更だ。
 左右に揺れて安定しない頭を持ち上げて、少しだけ遙から離れる。ぐわんと思い切りよく視界が後ろに移って、大きくたたらを踏んで、あ、転ぶなと思った次の瞬間、また遙の腕に引き上げられていた。
『そういう連絡はない。言ってみただけだ』
『あ、わり……』
『いいから。とにかく上がれ、階段昇れるか』
『ん……』
 もどかしくスニーカーを脱いで、遙に引かれるまま框を踏む。腕を遙の肩に回されて、触れ合う感触の心地よさに目を細める。目の前の階段が陽炎のように揺れている。また遙の、気持ちいい溜め息。
『もし帰ってきて、お前と鉢合わせても、』
 ゆらゆらと視界が揺れる。遙に触れた部分と耳を撫でる吐息と、少し低い声が眠りを誘う。足裏で階段を踏み締める、その感触すら遠く、ふわりふわりと浮かんで乖離していく。
『……んと、親には紹介す………、俺の――な……だって』
 虫食いか、あるいは浮かんでは弾けるあぶくのように、遙の言葉は途切れている。
 けれど何か、恐らく嬉しいことを言われたのだと察して、凛の真っ赤な顔はくしゃりと綻んだ。


『……家族でもないハルになら迷惑かけて甘えてもいいって思ってるってことだろ?』
 あれは真琴の声だった。
 相変わらず煮える頭で、ああ、確かにと凛は思う。そうだ、母親にも妹にもとても見せられないけれど、遙になら構わないと思っている。甘えて、というのは意味が分からないけれど、遙にならもう散々みっともないところを見せたのだから今更だと思っている。たぶんそういうことだと思う。
 思うのだが、これでハルなら受け入れてくれると思ったのはどういうことなのだろうか。
 ぼやけた記憶に、聞いたばかりの、あるいは随分前に聞いた言葉が蘇る。ちゃんと親には紹介する、俺の、だいじな、そんな遙の声がぐるぐると脳みそを回っている。
 不意に目端に心地良い温度が触れた。水ほどではないけれど冷たくて気持ちいい。額にぺったり乗せられた無遠慮な冷却シートなんかより、よっぽど。そう思って頬で追いかけて、思わず安堵の息がこぼれた。それから、りん、という遙の声。どこか動揺した声が面白い。べたりと頬を覆う温度も擽ったくて、思わず笑ってしまう。
 苦しいばかりの熱に、気持ちいいのと心地良いのが積もっていく。それは全部遙が与えてくれているものだと知っていて、だからこそ凛は完全に意識を投げ出した。まるで子どもの頃、まだ父が生きていたぐらいのずっと幼い頃に戻ったみたいだと思った。
 投げ出していた手をいつの間にか遙が繋いでいてくれて、それが離れるのが寂しくて、夢うつつにぐずってしまった。そんな記憶は波間に漂う浮きのように頼りなくて、はっきりとしない。だからこれは都合よく忘れておこうと思う。


 * * *


 真琴とともに苦労して凛を着替えさせ、再び手を繋いで好きに眠らせておいた。そもそも凛はオーバーワーク気味なのだから、これを機にたっぷり休めばいいのだ。
 しばらく遙と一緒に凛を見守っていた真琴も、しまいには変に気を回したような春っぽい浮かれた調子で部屋を出て行った。繋いだ遙と凛の手を生ぬるく微笑んで去っていったあたり何か釈然としないが、これウチで余ってたから、母さんが食べさせてあげてって、との台詞とともにタッパーに入ったすりおろしりんごを持ってきたので深くは追求しないでおいてやる。再度七瀬家を辞す際に、やっぱり繋ぎっぱなしの手を見て微笑んでいたことも腹立たしいが不問にしてやった。
 タッパーと真琴が台所から持ってきたスプーンを持て余しながら、遙はずっと凛の寝顔を見つめていた。苦しそうに眉根を寄せたり呼吸を乱したりする度に握る手に力を込めて、すると凛はふにゃりと顔の強張りを解いて、言っては難だが少し面白かった。遙が手を握ることで幸せな夢を見ていればいい、そんなことを考えて、やっぱり春のうららかさはよくないと思った。
 いつもより真っ赤にとろけた凛の瞳が開かれたのは、夕陽の橙を引きずりながら空が紫紺に染まる、それぐらいの時間だった。
「凛」
 んん、と返事があった。昼に比べるとはっきりした声で、曖昧な焦点ながら瞳は遙を捉えている。
「何か食いたいものあるか」
 吐息だけの声が酷く辛そうに答えた。
「サイコロステーキ」
「……風邪なんだろ」
 思わず脱力して答えれば、冷却シートの下、真っ赤に溶けた瞳が不機嫌に歪んだ。せめてもの妥協にささみ入りの粥を提案すれば渋々頷く。ささみは凛のために冷凍したものがあったはずだ。食べる気力が湧いてきたなら大丈夫だろうか、最悪今晩はすりおろしりんごだけ食わせることになるかと思ったが、もう少し症状は良さそうで安堵する。
 問題はこの手だな、と思いながら、けれど遙が離していいかと問う前にきゅうっと握られた。
「サイコロ、ステーキな、おやじが」
 息を細く吸い込んで、乾いた声がぴりぴりとことばを紡ぐ。潤む瞳は真っ直ぐに遙を見つめている。そしてその向こうの、今はいない父親との思い出に手を伸ばしている。
「たぶん、好きで。おやじが漁師だったから、うちは魚ばっかりで、だから好きだったんだと思う。ちょうどおれが風邪引いて、おふくろと江は用事でいなくて、たまたま休みだったおやじがおれの面倒見てくれて。風邪引いたガキに何食わせればいいのか分かんなかったらしくて、どっかに食べに行ってよ。おやじはステーキ頼んで、凛も好きなもの食えって」
 引き攣れる声は饒舌だった。起きて食べたいものを口にするだけの元気は出てきたようだが、やはりまだ弱っている。凛がこんな風に父親の思い出を積極的に語ってきたことなんて、遙の知る限り数えるほどしかない。ましてや子どもそのもののような泣き笑いの表情と辿々しい言葉で、なんて。
 ぽかぽかと熱を孕む手を握り返す。あやすように力を込めて、抜いて、強弱をつけてやれば凛は嬉しそうに笑った。自らの語る思い出がおかしかったのかもしれない。
「おれもガキだったからよ、何食えばいいとか分かんなかったし、肉なんて滅多に食えなかったし。おやじの食ってるステーキがかっこいいなって思ってたから、ステーキ食いてぇって。おやじもほんとに分かってなかったから、凛はまだ子どもだからサイコロステーキにしようなって、頼んで。後はもう悲惨だったな」
 くすくすと笑う声に遙は目を細める。もう叶わない思い出を哀れんでいるわけでも、熱に浮かされて童心に帰る凛を憂いているわけでもなく、ただ無邪気に笑う凛が愛おしかった。
「サイコロでもステーキだしよ。よりによって完食しちまって……吐いたのが店とか車じゃなくて家に帰ってからだったからまだマシだったけど、帰ってきたおふくろにおやじと揃って怒られた。風邪なのになんてもん食ってんだ、食わせてんだって」
「……そうか」
「怒られた後に、凛が元気になったらまたステーキ食いに行こうっておやじが言ってくれて……食いに行ったんだったかなあ……」
 ふわふわとちいさくなる声にもう一度強く手を握る。それから汗で湿った凛の前髪を掻き上げて、遠くたゆたうひとみに遙は己を泳がせる。ぱちぱちと瞬く赤がゆっくりと戻ってくる様を見届けながら、ひっそりと囁く。
「凛が元気になったら、ステーキでも何でも焼いてやる。だから今日はささみ粥で我慢しろ」
「……絶対だぞ」
 できれば約束の形にはしたくなかった。ここで頷いたら何か、渚や怜や江がたまに口にする「フラグ」というやつになりそうで、脳裏に見たこともない凛の父の姿がよぎった。
 なので遙は楽しそうに恨めしそうにこちらを見上げる凛の手をするりと解き、赤く染まって汗ばんだ鼻を摘んでやった。
「っぎゅ! ……っにすんだハル!」
「それだけ元気ならいい。すぐに用意して持ってくるから、大人しく待ってろよ」
「……そんなガキじゃねーっつの」
 そうだな、とも、そうか? とも、今はな、とも言わないまま、遙は摘んだばかりの凛の鼻を柔く弾いて立ち上がった。掠れた声で喚く凛を一度振り返って笑って、更に濃く赤く染まった凛の頬は気のせいなのか他の意味があるのかと考える。
 風邪引きの凛はやたらと甘えたがりだと、恐らく今は遙だけが知っている。


 * * *


 凛がしっかりと目を覚ましたのは、恐らく七瀬家を訪れた翌日の、いつもなら朝のランニングに出ている時間だった。
 近頃は日の出も随分と早くなったものだと、ベッドに転がったままカーテン越しにこぼれる朝日を眺めて思う。しばらくそのままの姿勢でぼんやりと、春の朝日に舞い上がって光る埃を見つめて、それからやっと違和感に気づいた。
 そうだ、ここは七瀬家の、遙の部屋だ。
 そしていつも泊まって目覚めるよりも少し高い視点。これは遙のベッドに転がっているということではないか。
 熱で朦朧とした頭で遙の家に押しかけたことは覚えているし、随分と迷惑をかけたと、それでも遙の元に転がり込むしかなかったとも自覚している。遙が凛を真っ先に自分のベッドに寝かせてくれたことも、夢うつつの中汗を拭いて着替えさせてくれたことも、サイコロステーキの話をしたことも、遙の作ってくれたささみ粥を食べたこともふうふうしてあーんしてやろうか、などとほざいた遙が無表情にレンゲに掬った粥を差し出してきたことも、全部しっかりと覚えている。
 では肝心のベッドの主は。焦って起き上がろうとして、少し低い体温がまとわりついていることに気がついた。凛は恐る恐る、肩越しに振り返る。
「……ハル」
 すぐ後ろに、遙の寝顔があった。静かに名前を呼んで控えめに身体を捩れば、んん、と覚醒し切らない声だけが返ってくる。それから腹あたりに巻き付いていた腕にきゅっと力を込められて抱き寄せられて、肩口にぐりぐりと額を押し付けられた。どこか動物めいた遙の仕草に凛は身体を跳ねさせて、柔い拘束から抜け出そうとまた少しもがいて、更に抱き寄せられて、そうして最後にくたりと力を抜いた。
 遙はいつからこうしているのだろうか。ふたりで収まっているベッドは狭くて、布団の中はやけに熱が篭っている。昨日あれだけ発熱していた凛が独占してたのだから当然だろう、シーツもどこか湿り気を帯びているような気がした。
 熱はもうすっかり引いたらしく、身体は軽いし意識もクリアだ。遙の看病のおかげだろう、随分と久々にすっきりした気持ちで、だからこそ後を引く遙の体温が気になって仕方がない。どうやっても離してくれそうにはないし、さりとてずっと心配して看病してくれたであろう遙を無理に起こすこともできず、そもそも遙に風邪を伝染しはしなかっただろうか、もちろんそのリスクと迷惑も覚悟の上で来たのだけれど、とにかく、などと散々考えた末、結局どうすることもできずに再度目を閉じることにした。
 カーテンからこぼれる春の弱い朝日など瞼ひとつで闇に沈む。するとどうしても触れ合う温度と感触が鮮明になって、凛はずるずると遙の頭に己の後頭部を預け、すっと足を曲げて遙のそれに絡ませた。風邪が伝染っているなら伝染っているで今更だし、昨日の夢うつつな時分から遙の体温が心地良すぎるのもいけない。もう完治したような気もするけど、せめてしばらくこのままでいたいと思ってしまう。咎める人間もいないからもうしばらく、あの幸せな微睡みに浸っていようと思う。


 うつらうつらと春のうららに船を漕ぎ出して、果たして次にふたりで目を覚ますのはいつになることか。遠慮がちに七瀬家を訪れた真琴は遙の部屋を覗き込み、また苦笑して、眠るふたりをそのままにしておやすみだけを告げて帰ってしまうから、今は誰にも分からない。
 春風すらふたりのために荒々しさを潜めて、窓の向こうで静かに優しくそよいでいた。