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ほのほとゆくるうたかたの話

 人は砂である。
 風の前の砂である。荒れ乱れる風になされるがまま、千々に舞う砂である。地に数多満てる砂である。横臥して大地となる尊い砂である。
 人は星である。
 空に煌めく星である。朝な夕なその身を燃やし、光にもなれぬ星である。月に雲に掻き消える星である。墜ちることも止められぬ哀れな星である。
 砂も風も星も光も、全てに宿るものは神である。森羅に在りて無となるものである。
 像なく世を成す理である。己なく三界を育む要である。人を護り人を殺し人に屠られるものである。


 詩人が詠っていたのかもしれない。あるいは書物で呼んだのかもしれない。おぼろげな記憶に霞む言葉は正しいものではないかもしれない。が、大意としては間違っていないだろう。ずっと自分の中で息づいている、人と神と世界の言葉を思い出す。
 人は砂、人は星。神は全てに宿るもの。
 ならば今、目の前に坐す方は何なのだろう。
 真琴は不敬にも考える。顔も天井も映すほど磨き上げられた大理石の床に膝をつき、指を据え額を擦り、跪拝の姿勢でいつもそんなことを考えてしまう。姿見と見紛うほどに磨き込まれた床ではあるが、ここまでべたりと伏せていれば相手にも、そして真琴自身にも表情は見えない。例え不敬が面に出ていたとしても見咎められることはないはずだ――目の前の存在が、真琴の思考を読めるものでもない限り。
 しゃらり、涼やかに金属が鳴る。真琴は跳ね上がりそうになる肩を意思だけで抑え、ひたすらこうべを垂れ続ける。しゃらり、しゃらりと勿体ぶって近づいてくる音。
 軽やかで美しいこの音が、真琴一人よりも重く価値のあるものだということはとうに知っている。拳ひとつにも足りない量の金属が、人間ひとりよりもずっと値が張るのだ。装身具に使われることは殆どないが、この国では特に鉄の価値が高い。
 そして伏せる真琴を睥睨する目の前の存在こそが、金属と人の命の価値を定めていると言っても過言ではなかった。
「顔を上げろ」
 しゃらしゃらと鳴る音が目の前で止む。代わりに朗々と落ちるのは一山いくらの人間などとは比べものにならない、尊ぶべきものの声である。
 逆らうことなど許されない。真琴はゆっくりと額を床から離し視線を持ち上げ、そうして視界に入り込んできたものにどきりとした。
 砂の国には珍しい白い肌だ。つるりとしてなめらかで、およそ過酷に燃える砂の大地を歩いたことなどないのだろう、貴人にのみ許される美しい足。爪の先まで整え磨き上げられていて、甲に浮いた骨と血管の隆起すら芸術品のように完璧だった。そしてしなやかな足首には、市井の人間何人分の価値があるのだろう、精緻な細工のなされたアンクレットが嵌められている。
 どうしても目を奪われずにいられない足の先がすうっと浮かび上がった。気づいて謝を述べるよりも早く、不可侵の爪先が真琴の顎を掬い上げる。畏れ慄く間すら与えられず、無理から視線を上へと向かされる。
「上・げ・ろ」
 紅を引いたような鮮やかな唇が、真琴のためだけの命令を紡ぐ。その一音一音を刻む様を見せつけられて、真琴は反り返る喉から辛うじて声を絞り出した。
「はっ……い、申し訳ありません、凛様」
「よし」
 殆ど喘ぐような真琴の声を、それでも目の前に立つ貴人――果たして人なのか、神なのか、凛と呼ばれる存在は寛大に頷き、許した。
 機嫌が良いのか、凛は獣を愛でるように爪先で真琴の喉と顎を擽って、ようやく解放する。自由を許された喉に細く酸素を送り込みながら、真琴は膝をついたまま凛を見上げた。
 凛は美しい男であった。ほんのりと紅を差した白磁の肌は見目にも滑らかで、細められて光を宿す瞳は磨き上げられた紅玉のようである。無造作に巻かれた――けれど真琴のような身分では一生をかけても手にすることのできない、上等な仕立てのクーフィーヤから溢れる髪はさらさらと揺れていて、地平に沈む夕陽のようだ。いつ見てもぞっとする、凄艶な美しさだ。
 美しい凛が身につけるものは彼に優るとも劣らない一級品ばかりだ。身体に細かな意匠の金糸銀糸を織り込んだ黒い衣を纏い、先の足首に始まり手首、首元、耳朶まで金銀や玉石で飾り立てている。
 あの飾りに嵌めこまれた小さな宝石ひとつで、どれほどの人間が救われるだろうか。この国は酷く貧して、渇いている。全てはこの凛のために、だ。
 そんなことを考えるのは随分と前にやめてしまった。
「それで――真琴?」
 深く染み入るような声が真琴の名前を呼ぶ。絶対の響きで以って、否を許さない天上人の声。
 だからこそ、凛が足を組み替えた瞬間に鳴るしゃなりと澄んだ音が真琴の耳に残った。
「今回お前が持ってきた水は、あれだけか」
「……はい」
 凛の剥き出しの爪先が大理石に大きく円を描き、少し離れた場所に置かれた水瓶を示してみせた。
 項垂れることも許されず、真琴は低く答えた。
 真琴は商人である。宮殿を擁する王都に居を構える商家の生まれだ。真琴の家は代々、街を訪れる隊商から異国の工芸品や珍しい食べ物などを仕入れては市井に下ろす仕事をしていた。
 しかし真琴が物心ついた当たりからそんな商いは廃れてしまった。今は専ら水を扱っていて、そして手に入れた水は全てこの宮殿に、正しくは凛に納めている。水を凛に納めることで量に見合った金銭と、少しばかりの温情が与えられるのだ。
 この国ではオアシスというオアシスが少しずつ涸れていて、緩やかな死に瀕している。いくつもの人工池を有し、水の流通を管理している宮殿ですら水不足だった。真琴のような下々の者は言うに及ばず、本来は納める水どころか自分たちが日々を生きるための水すら危うい。けれどこうして宮殿に水を納めなければ、自分たちが使うだけの水を確保することすら許されないのだ。
 初めから矛盾した仕組みに従える人間は限られている。現に真琴も商家の生まれで、代々培ってきた国外との繋がりがなければとうに宮殿の温情から見放されていただろう。真琴が今回献上した水瓶は三つ。真琴の幼い弟妹がすっぽり隠れられるだけの大きさの瓶に、辛うじていっぱいと言えるだけの水が封じられている。
「前回は水瓶が五つあったように思うんだが?」
「それは、」
 焦って見上げるものの、凛の表情は案外と穏やかだった。
 真琴が初めて水を献じたときは、二台のロバ車に積めるだけの水瓶を献上した。次は一台と荷台に半分、その次には一台分と、だんだんと宮殿に納める水の量は減ってきている。
 真琴が懇意にしている隊商によればオアシスが涸れているのはこの国だけではなく、徐々に渇きが広がっているようだという。いずれ大陸中から水が消えてしまうのではないか、乾いた髭を撫でながら隊長の男は危惧していた。
 凛とてそれは把握しているのだろう。
「安心しろ、血反吐吐いて親兄弟売ってでも水を持ってこい、なんて言うつもりはねえよ」
 白い長衣の裾をなびかせて、凛は軽やかに水瓶へと傍寄った。明日の天気を占うような気軽さで、けれど含む言葉には剣呑なものがある。まるでこの国そのもののようだ。水のために人を売り買いすることが、少しずつ罷り通りつつある。
 ぞっと背筋を這い上がる悪寒に、真琴はほんの少しかぶりを振った。真琴の恐怖を汲んだのか、凛はくすりと笑って瓶の縁を撫でた。紅玉の瞳で膝をつく真琴をじいっと見つめて、朗らかに、そうやって言葉の刃を真琴の喉元に突きつける。
「けど真琴、お前の家にはお前とお前の家族が使うより多くの水が残ってたりはしないよな?」
「それは勿論です」
 凛は人だろうか、神だろうか。どちらであっても意味はない。人を護り殺し屠るもの、真琴にとって、この国の殆ど全ての人間にとって、凛はそういう存在だった。
「宮殿のお達しの通りの水しか我が家には残っておりません。他の水は全て、そちらの瓶に――凛様に」
「そうか」
 凛はちいさく頷いて、嬉しそうに笑った。
 人であれ神であれ、間接的に人の生死を握る凛は畏怖と恐怖の対象だ。この国では子どもだって知っている。けれど凛とこうして顔を合わせて話のできる人間は少なく、真琴はその数少ない人間のひとりだった。
 果たして凛に拝謁を許された人間のどれほどが、この笑顔がいとけなく、寂しいものだと見るだろう。
 まるく磨かれた爪で凛は羊革の蓋を剥がす。菓子を前にした子どもと大差ない仕草で瓶の中を覗き込む。初めは口まで波々と注がれていた水が目減りしている様にほんの少し眉を跳ね上げて、それからもう一度真琴を振り返った。
「無理に持って来いとは言わねえ、けど余ってる水があるなら持ってこい」
 頷く真琴に微笑んで、凛の指先が瓶の中に沈んだ。
 来る。真琴はぎゅっと眉間に力を込める。同時にぶわりと白く視界が染まり、炎天下の砂上よりも熱い空気が頬を殴りつけてくる。
「水がなきゃ、お前らは死んじまうかも知れねえけど」
 真っ白く巻き上がるのは蒸気だった。凛の指が触れた瞬間、瓶に収められた水が一瞬で蒸発したのだった。
 初めて見た時こそ正気を疑ったが、今はもう慣れてしまった光景。それよりもまだ見慣れぬ、どうしても拝しておきたい姿がこの白の向こうにある。真琴は熱気に噎せながらも目を眇める。白い空気にぼんやりと赤い影が映っている。
「俺は本当に死んじまう。それは困るだろ?」
 なあ、真琴。
 黒い衣と白い長衣の目立つ凛の影に、ゆらりと赤い色が揺らめいた。太陽から生まれた不死鳥が翼を広げる姿に似ているかもしれない。不死鳥なんて想像上の生き物を信じているわけではないが、真琴の目の前で起こっていることは現実である。
 凛の背から、大きく広がる一対のつばさが伸びている。それは炎でできていて、凛の指に触れて立ち上る蒸気をも飲み尽くし覆い尽くす。
 人であるか、神であるか。凛は炎を生む生き物であった。この国の人間は凛の生む炎で鉄を作り、武器を鍛えているのだ。
 けれど凛から生まれる炎はあまりに強く、大き過ぎて、凛自身をも燃やそうとする。凛に炎を御することはできない。だから炎を抑えるために、国中から水を集めて納めさせているのだ。
 真琴は人にあらざる凛の姿に深く息を吐いた。神々しいと見る感嘆の息か、金属を精製するためだけに宮殿に縛られ足首に輪をかけられ、己の炎に溺れそうになっている姿を憐れむものか。
 肺にわだかまっていた真琴の熱はただ流れ出て、それすら凛に燃やされる。



 宮殿を辞す頃には日はすっかり沈んでいた。
 空の荷台をロバに引かせ、真琴は一度振り返る。青白く冴えた月が藍の空に浮かんでいて、ただでさえ大きな宮殿の影を黒々と長く引き伸ばしている。
 まるでこの国を食い尽くす魔物の影だ。
 ぶるりと身を震わせて、背筋を這い上る悪寒を払うようにかぶりを振る。砂漠の国は太陽が登っている時間こそ干乾びるほどの暑さだが、夜になれば昼の熱が嘘のように冷えるのだ。
 夜の冷気に中てられただけで、決して悪寒や恐怖に囚われたわけではない。あの人でなく、神とも知れない生きものを恐れているわけではない、はずだ。
 凛は炎を生み一瞬で水を蒸発させてしまう人智を超えた存在ではあるけれども、子どものようにあどけなく笑い、己の炎に焼き尽くされることを恐れている。往来など歩いたこともないのだろう白い足首に豪奢な輪を架せられて、宮殿から出ることも許されない。燻ぶる熱を持て余し身悶える、籠の中の火の鳥だ。一介の商人である真琴が考えるのもおかしな話だが、いっそ哀れだとすら思う。
 けれどいつか、この国からも大陸からも、水という水が尽きてしまうのではないか。
 いつか凛の熱を冷ます水もなくなって、あの尊く哀れな生きものは死んでしまうのではないか。
 なくならないまでも水のために人が売り買いされつつある世情だ。こんな生活がいつまで続くのか、いずれ大きな争いや略奪が起きるのではないか。そんな果てのない不安は確かにあるのだ。
 例えば今現在、真琴がロバ車を引いて歩く大通りに人の姿はない。日が落ちて闇に沈んだ街中では物騒なことなんていくらでも起きうる。立ち並ぶ家々は固く扉を閉ざし、明かりすら落として息を潜めているようだった。
 真琴がもっと幼い頃、父に連れられて歩いた夜の大通りはまるで祭りのような賑やかしさだった。一日の仕事を終え食事や酒を求める男たちで溢れ、彼らを呼び込む行商人や料理人の声が絶えることなく往来にこだまして、時には行きずりの旅芸人が奏でる音楽で溢れ返っていた。たまに混じる喧嘩の声やそこに混じる野次さえもが楽しそうだった。当時は子どもだったから早く帰らなければならなかったけれど、一日の終わりに笑い、歌い、騒ぐ彼らの姿は眩く目に映ったものだ。
 けれど今の通りにはもう、そんな光景なんて微塵も見えやしない。死んだように重い夜に、真琴とロバの足音と、荷台の車輪が回る音が虚しく響くだけだった。
 思考も足取りも酷く重い。両親と幼い弟妹の待つ家に早く帰らなければと思うのに、急ぐ気力すら湧かなかった。疲れていたのかもしれない。だから気づかなかったのだろう、と初めは思った。
「――止まれ」
 唐突に、頭のすぐ後ろで声がした。
 まだ若い男の声だ。真琴は反射的に振り返ろうとしたが、それより早く視界の端を裂くものがある。目を瞠って息を呑んだ。青白い月光を映す刃先がいつの間にか喉元に突きつけられている。護身用によく持ち歩かれている、三日月のかたちをした短剣だ。
 背後に迫る何者かは真琴の腕を後ろ手に拘束した。恐れていたことが起きたのだろうか、真琴は唾を飲むが、そんな動作すら許されない緊迫した空気があった。ただ真琴の傍らで足を止めたロバだけが、のんきな瞳で主を見上げている。
「お前はさっき、あの建物から出てきたな」
 夜の重い冷たさとはまた違う、ひやりと澄んだ声である。突きつけられるジャンビーヤを凝視しながら、それでも真琴は気丈に声を上げる。尤も、語尾は情けなく震えてしまっていたけれども。
「そ、そうだけど、この荷台にはもう持っていけるようなものは残ってないよ。積み荷は全部宮殿に納めてきた、その帰りなんだ」
「……勘違いするな」
 むっつりと、緊迫にそぐわない拗ねた響きが落とされる。首を傾げるロバの呑気にも似ていた。
 鋭い刃先がするりと下ろされる。まだ腕は取られたままだが、どうも剣は収められたようだった。背後でもぞもぞと動く気配に目を白黒させて、真琴は恐る恐る、ゆっくりと振り返ってみる。
「俺は物盗りじゃない」
 月を落として沈めた、深い水の底があった。
 もちろんこんな渇いた街の真ん中に水などあろうはずもない。そこにあったのは青い瞳だった。頭にも顔にも布を巻きつけた旅人めいた出で立ちで、強い瞳だけが布の隙間から覗いている。虹彩に冴え冴えと光を宿し、じいっと真琴を見つめていた。
 どこか人を厭うような色をしているくせに、決して逃がすものか、離すものかと気迫をひっそりと宿して見えるのが不思議だった。
「お前があそこに出入りできる人間だと見込んで、頼みがある」
 決して初対面の人間に頼み事をする態度でも行動でもない。胡乱な真琴の視線にも気づいていないのか、気づいていても気にしないのか、物盗り紛いの人物は真摯な声で続ける。
「俺をあそこに入れてほしい」
「あそこって、宮殿に? そんな、怪し……身元の分からない人間を連れて行くわけには」
 未だに腕を取られている事実を思い出し、婉曲に言い換える。それに、と真琴は尤もらしく付け足した。
「俺だってあそこに入れるのは水を納めるときだけなんだ。もう納められる水はないから、次の水を用意するまでは俺だって入れないよ」
「……水ならある、いくらでも」
 ところが返ってきたのは、予想もつかない言葉だった。
 とんと軽く押し出されて拘束から開放される。真琴はたたらを踏みながら、改めて物盗りではない誰かを振り返った。何者かはぐるぐると巻きつけられた口元のターバンを剥ぎ取っている。顔立ちが月光のもとに晒されて、真琴は尚の事困惑した。
 深い水に似た瞳を持つのは男だった。年の頃は真琴と同じぐらいだろうか、黒曜石のような髪に、肉食獣のしなやかさを持った体つきで、そして身につけているものは衣服と先のジャンビーヤぐらいだ。人は見た目で判断できるものではないが、特に水不足のこの国でいくらでも水を用意できるような身分にも、職にも見えない。
 青年は剣を腰帯に収め、不審を露わにする真琴の前に手をかざした。今度は何をされるのか真琴は咄嗟に身を縮こまらせ――そして目を見開いた。
 始めは疲れのせいで目がおかしくなったのだと思った。しかし真琴が何度目を擦ろうと見えるものは変わらない。青年の手の上に少しずつ、まるく水の球が膨れ上がっている。椀に雨粒が溜まるような速度でゆっくりと集まっていた水は徐々に加速し、そして突然蛇のように伸び上がった。
「あとは身元が分かればいいんだったな。だったら俺の話をしてやる」
 手の中から首を回ってゆるやか足先へ。水でできた大蛇を纏う青年の姿は、性質こそ真逆だがつい最近どこかで見た景色に重なる。驚く真琴を捨て置いて淡々と続ける様も、奔放に振る舞う尊く哀れな誰かに似ているかもしれない。答えはすぐにもたらされた。
「あの建物、宮殿に、凛という男がいるだろう」
 炎を生む凛。焼きつくされることを恐れる緋色の姿に、月光を背負う青年の姿がぴたりと重なった。
 真琴はすぐに理解した。この男は凛とは逆に、水を生む生きものなのだ。
「俺は凛のつがいの遙だ」
 長く尾を引く水の蛇を空に放ち、遙と名乗る男は背後を仰ぐ。視線の先には遠く夜空に聳え立つ、魔物の影に似た宮殿があった。
 遙は透き通った瞳で影を睨みつける。忌々しげに呟かれた言葉は真琴の耳にもしっかりと届いた。
「俺は、凛を取り返しに来たんだ」