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フラグメントオブイヴ

 死んだように静かな夜だった。
 しゅんしゅんと温かく満ちていた音もない。火を落とされたストーブの上の薬缶はとうに冷たくなって黙っている。隣の台所の隅で冷蔵庫が唸る音や天井にぶら下がり遙たちを見下ろす蛍光灯の爆ぜる音、壁にかけられた古時計が一秒を刻む音、普段は聞こえることのない音だけが大きく響いている。その中でひときわ大きくこだまする音がひとつ。
 凛の静かな、静かな寝息が、遙を苛んでいる。
 本当ならきっと、もう少し賑やかな夜になるはずだった。凛とふたりで夕飯を食べて、交代で風呂に入って、遙はベッド、凛は客用の布団に――あるいはふたりでひとつの寝床を分かち合って、寒い夜に熱を共有して、やさしい気持ちで眠ったのだろう。合間合間にくだらない話をしたり、あるいは凛は真面目だから、残り少ない時間をどう活用して赤点を回避するかを話したり、もっと違う話がしたい遙が適当に返事をして凛をちょっと怒らせてみたり、それでも眠りに落ちる間際には慣れない愛のことばを囁いてみたりしたのだ。
 そのはずだったのに、凛は先にひとりで眠っている。真っ白い頬を冬の夜気に晒して、細く呼吸を繰り返している。
 だったのに、なんて。遙は布団に横たわる凛の傍らでひとり、うっすらと自嘲した。
 先にひとりでこんこんと眠り続ける凛を咎めるような考えだ。実際無神経な凛を責めることができたならどんなに楽だっただろう。
 凛は決して安らかに、健やかに眠っているわけではない。遙の酷い行為に気を失ってそのまま目を覚まさないだけだ。そして遙はじっと座り込んで何もできないまま、死にゆく様を看取るように凛の寝顔を見守っていた。
 ――大丈夫だよ、ハル。
 数分前か、数十分前か、数時間前か。それともほんの先程か、遙の肩を励ますように軽く叩いて、微笑みながら去っていった、見知らぬ誰かの声が蘇る。
 ――凛は、ハルが相手ならどんなことだって嬉しいんだから。
 ――はる……すき、だ……
 ぶるりと身を震わせる。やさしいふたりの声がまとわりついて遙の背筋を撫でる。腕を掴み、引きずり込む。それは昼間ノートを添削したり、あるいはいつもプールサイドで練習メニューやフォームについて話したりするのと変わらない気安さで遙を呼んでいる。どうすることもできずどうすればいいのかも分からず、呆然として、悔いて、あるいは絶望している遙のほうがおかしいのだと笑っている。
 短く息を吐き出せば、蛍光灯の下、目の前がうっすらと白く濁った。遙の背後で古い壁掛け時計は針を何周させただろう。沈みそうに重い体を動かして、遙は蛍光灯から伸びる紐を引いた。ぼんやりと暗い橙の明かりだけを残し、ほとんど崩れ落ちるかたちで凛の隣に潜り込む。
 凛はいつもと変わらない寝顔で深い呼吸を繰り返している。掛け布団の下の胸が上下して、そっと身を寄せればほんのりとあたたかい。死体などではなく、きちんと生きて眠っている。
 元々赤茶けた髪が、ナツメ球の明かりの下では流れ出す血液のようにどろりとして赤く見えた。睫毛をふちどる暗い影を遙は息を殺して見つめて、ふと気づく。
 凛の寝顔は別段いつもと変わらない。けれど凛は寝付きが悪く眠りも浅いから、こんなふうにじっくりと寝顔を晒すことはほとんどない。
 遙は眠る凛の体に縋りついて、ゆっくりと上下する胸に顔を埋めた。触れる熱も頬を擽る凛の鼓動も確かにここにあるのに遠い。ふたりの距離か、あるいは現実感か、遙ひとりを残して世界がひっくり返ってしまったようで、何もかもが頼りない。
「…………」
 吐息だけで紡いだ名前は音にならず、冬の夜にほどけていった。


 その夜見た夢で、凛は笑っていた。桜色に頬を染めて恥ずかしそうに、けれどはっきりと遙の名前を呼んでいた。
 ――ハル、
 ――ハル、好きだ。
 普段の凛はなかなか気持ちを言葉にしない。だからこれは夢だとわかった。凛は何度も何度も好きだと声を上げて、愛を囁いていた。春風に舞うような柔らかな響き。
 ――優しいばっかでつまんねーって思ってたんだよな。
 あのときと同じ、遙への愛情だけを湛えた優しい声だった。
 ざわざわと、どこかで梢がないていた。遙は頷いて、微笑む凛に手を伸ばした。涙の代わりに桜の雨が降って、光って弾けて火の粉になった。掴んだ凛の手は死体には遠い、火傷をするような熱を抱いている。


 冷凍庫を覗き込む。調理されずじまいの鯖が凍りついて腹の内側を晒しているが、遙は隣の鮭の切り身を取り出した。脂の乗った鯖は今の凛には重いかもしれない、そう思っただけで他意はない。
 トレイに入ったまま未開封の鮭の切り身を流水に晒し、次にコンロに乗せられたままの鍋へと手を伸ばす。辛うじて被せていた蓋を取って中を覗けば、鰹出汁は鈍い黄金を揺らして朝日を映している。たぶん味は変わっていない。一晩だけのことだったしまだ大丈夫なはずだ。
 ずっと放置されていた出汁を沸騰させて、近所のおばさんに頂いたまま鯖に添えられることのなかった大根と、それから冷蔵庫の油揚げも短冊に切って鍋に放り込んだ。乾燥ワカメもひとつまみ足して、最後に目分量の味噌を溶かす。
 味噌汁の鍋は火を落としたコンロにかけたまま、次に遙は次に冷蔵庫から卵を取り出す。今朝は甘い卵焼きがいい。醤油と塩はほんの少し、代わりに砂糖を多めに溶いてふんわりと焼き上げるあれだ。買ったばかりでまだ開封もしていない醤油の瓶はいつも以上に重く、遙はにわかに歯を食いしばった。
 卵を焼いただけでなぜか痺れた右腕を引きずって、辛うじて流水で解凍された鮭を塩だけで焼いた。合間に冷蔵庫の中から真琴の母親に分けてもらった漬物を取り出して、後は皿に盛れば終わりというところで遙は菜箸を置く。一応炊飯器の中を確認すれば、少し乾燥した米が手つかずで残っている。昨夜のうちにつやつやと白く、遙と凛の腹に収まるはずだった炊きたての米は朝日に黄色く濁って見えた。
 再度蓋を下ろし、恨めしげな米たちを視界から追い出す。手を洗って、エプロンを外して、そのへんに引っ掛けて、昨夜凛を殴って押し倒した事実なんて知らぬ気に居座る床を踏む。短い台所はすぐに障子で突き当たり、遙は静かにそれを引いた。かろりという楚々とした音がぼんやりと明るい居間に響いた。
 居間の真ん中には薄く盛り上がる布団が敷かれている。寝返りも打っていないのではないだろうか、いくらか前に遙が起き出し、隣を抜けだしたときと寸分違わぬ姿で凛は眠っていた。眠りの浅い凛は普段なら遙より先に起き出し家主を置いて走りに行っているか、遅くても遙が起きる気配を察して目を覚ますというのに。
 遙は凛の眠る布団を回り込んで、廊下に面した障子を開いた。既に廊下の窓のカーテンは開けているため、遮られていた冬の朝日と冷たい空気が流れ込んでくる。起床と同時に遙が火を入れておいたストーブはささやかに暖気を吐き出すばかりで、外気にほど近い空気とぶつかって押し負けそうになっていた。
 障子に手をかけたまま布団を振り返る。薄い朝日にも冷たい空気にも凛が目を覚ます気配はない。遙は息を潜めて布団に近づき、昨晩と同じ位置で座り込んだ。そうっと凛の顔を覗き込む。睫毛が作る影は薄く、赤茶けた凛の髪は健やかな色を晒していた。肌も夜に見たものよりずっと血色が良い。死体とはほど遠い寝姿だった。
 遙はまだ、黙って凛を見つめている。思えば凛を起こしたことがない。
「……りん」
 とりあえず名前を呼んでみる。怯えを含んだ声は我ながら細く、覚醒を促すには至らない。
 白い朝日の下で、ちりちりと、凛の睫毛が光っている。薄く開いた唇からは赤いいろをした口の中が覗いていて、静かに呼吸を繰り返していた。遙への愛を囁いて好きだと訴えた舌と、あられもない声を上げて、だらだらと涎を垂らしていた唇が、朝の光に無防備に晒されている。
 手を伸ばして、ほんの少しだけ掛け布団を剥いでやった。薄く上下する胸から視線を辿り、遙は凛の肩をやわく掴んで揺さぶる。
「凛」
 凛の睫毛が、煩わしそうにひとつ震えた。
「朝だぞ、凛」
 吐息が落ちる。ゆっくりと凛の目が開いて、茫とした様子で天井を見つめる。
 半ばほど覚醒したらしい凛の肩から手を離し、遙は自分の膝の上へと現実感を手繰り寄せた。ゆるく拳を握って、努めていつも通りの声を出す。ただいつも通りの声がどんな声なのか、そればかりが曖昧だった。
「凛、おはよう」
 意思を持って、凛の睫毛が震えた。
 赤茶けた髪が凛の白い額と頬を、さらりさらりと流れて落ちる。傾いだ頭は遙を仰いで、ぼんやりと、どことなく潤んだ瞳に少しずつ像を結んでいく。凛の瞳に映る遙は、いつも通りの無愛想な顔をしていただろうか。
 確かめるよりも先に、凛がゆらりと身体を起こした。くぁ、と欠伸をこぼして、下半身は温かい布団に埋めたまま、上半身の寒さにぶるりと一度震えて目元を擦る。
「ん……はよ」
 遙の着せてやった寝間着では寒かっただろうか。
「大丈夫か」
 寒さに対しての質問のつもりだった。なのに問いかけた瞬間、昨夜の出来事がひと息に遙の脳裏を通り過ぎ、背筋を撫で上げていった。
 いつも通り、を保てているだろうか。内心で酷く狼狽するのと同時、まだぼんやりとした様子の凛と目が合う。柔らかく刺すような瞳だった。けれど凛は問いただすこともせず、欠伸と同時に目尻に浮いた涙を拭って頷いた。
「ん」
 疑問の行く末に気づかなかったのかもしれない。寝起きゆえの鈍さを祈りながら、遙は必死で平静を装う。
「朝飯、できてる。食うか?」
「はる」
 遙の狼狽も自身の寝起きの茫洋も切り捨てる声で、凛ははっきりと名前を呼んだ。
 遙が苦心したいつも通りを緩やかに打ち壊して、凛の手が伸びてくる。布団の傍に落ちた遙の膝を辿り、太腿から内股をなぞる。そうして行き着く先は遙も気づいていなかった、あるいは気づかないふりをしていた緩やかにわだかまる熱へ。
 ジーンズ越しにやんわりと遙自身に触れて、凛はちいさく笑った。
「たってる」
 楽しそうに耳を擽る声に、遙は密やかに戦慄する。背筋を這い上がるぞわりとしたものは恐怖なのか、快感への期待なのか。判じようとする遙の理性を笑うように、凛はちらりと上目でこちらを窺っていた。遙の眼下、朝の白い光の中、清いシーツの上でぺたりと四つ這いになって悪戯っぽく笑ってみせる。
 凛は、こんな表情を浮かべるような人間だっただろうか。
 確かに昔はお調子者を装っていて、遙の嫌がる領域に勝手にずかずか踏み込んでくる人間だった。けれどあの時も、そして今は尚更、用心深く慎重なところがあって――確かに夏の大会を終え、ふたりが晴れて結ばれてからは少しずつ遠慮めいたものはなくなっていたけれど、でも、ああ、やはり。
 冬場の乾燥が気になると言っていた。薄い唇を凛はするりと舌でねぶる。朝日の下では強烈すぎる赤い色の舌が閃く。
「朝だからか? ……それとも、昨夜のじゃ足りなかったか」
「凛」
 手を繋ぐのももどかしくて、唇を触れ合わせるにも不器用で、じっくりと時間をかけて身体を重ねて、手探りで恋人と言える関係を作り上げてきたのに。
 さかしまに裏表に、白黒に反転する。真琴に後ろから貫かれて、うっすらと笑っていた凛。昨日までの凛も昨日の凛も、すべて今目の前にいる現実の凛として存在している。
「抜いてやるよ」
 ジーンズのジッパーが下ろされる、ジジッという微かな金属音。遙の心の内側が開かれて、どろりと何かが溢れ出す音に似ていた。
 ストーブで温めていたとはいえ朝の室温はまだ少し低い。唐突に外気に晒される感覚に顔をしかめれば、すぐに凛の両手が縮こまる遙の陰茎を包み込んだ。寝起きのせいだろうか、凛の手は子どものようにぽかぽかと温かい。朝から淫事に及んでいるとは思えないあどけない温度を感じて、遙は僅かに己のものが昂る様を自覚する。
 当然、両手に捕らえて目の前で愛撫している凛が気づかないわけがない。嬉しそうに目を細め、先ほどよりも少しばかり熱心に手を動かしてくる。遙の意思など捨て置いて、やわいだけだった熱が確かな角度で勃ち上がり、凛の手が上下するのに合わせて水音が混ざり始める。凛、と、意味もなく呼んだ声は吐息に紛れて掠れていた。
 果たして遙の囁きをどう受け取ったのか。凛の指先が雁の部分を柔らかく擽って離れていく。短く引いた水の糸が途切れてしまうすんでのところで、子どもめいた凛の手よりも熱い何かに包まれる。遙の腰が反射的に跳ねた。
「っ……! り、んっ」
「ふっ……はぁ、っん」
 何か、など、考えるまでもない。遙の股ぐらに凛が顔を埋めていて、勃起した陰茎をずっぽりと咥え込んでいる。起き抜けの口の中がこんなに熱いものだと、遙は初めて知った。知らなくてもよかったのに。そんな思考すら、直に与えられる快感と、凛の陶酔した表情を前に霧散した。
 せめてと遙は顎を反らす。朝のどこかぼやけた光の中、幼い頃から慣れ親しんできた天井の木目が遙と凛を見下ろしている。いたたまれなくて腕で視界を覆った。途端、遙自身を絡め取ってしゃぶりつく凛の舌の動きと、ふうふうと忙しなくこぼれて鼻に抜ける、凛の吐息と、凛の喘ぎと、そんなものばかりが朝の空気に満ちていく。
 本当は、凛とこの天井の下で性交に及んだことだってある。朝から色事に耽ったこともある。今更いたたまれない、なんてことはないのだ。
 けれど今日は違う。ボタンを掛け違えたような、裏表を間違えたような――けれど本当は、今のこの姿こそが正しかったのだとでもいうかのような、奇妙な感覚が遙を侵している。
 必死で冷静を手繰り寄せる遙の耳に、じゅうっと湿った音が届いた。同時に強く亀頭を吸われて、ひくりと遙の喉が空気を飲む。
「っく! ぅ……」
「ふぁ、う」
 奥歯を噛み締めて腕を解けば、ぺったりと居座る甘い果実がそこにいる。滴る蜜を垂れ流して、まるで罪の味をしたあの果実のような赤い舌を見せつけていた。
 凛の目はすうっと細くなって、真っ直ぐに遙だけを見つめている。赤い舌が硬く反り返る幹をぞろぞろと舐め上げて、張り出した部分を抉るように擽って、今はもうべたべたに濡れた唇で甘く先端を食む。ちゅっと音を立てて鈴口を吸ったそれは、朝の青空に浮かぶように薄く三日月の形をとった。
「出せよ、はる」
 宥めるような、悪戯を甘く咎めるような声。
 凛の声はまた、淫事にそぐわない優しい声だった。
 そして大きくあぎとを開く。果実を齧るように赤い口を開いて、赤い舌を差し出す。子どもの熱を湛えた指で遙の陰茎を捧げ持ち、決定打を待つ先端に吸いついた。伏せられた凛の睫毛が朝日にちらりと光る。息を呑む。
「……――ッ!!
 そうして、遙は熱と欲を吐き出した。
「んっ……ふ、くぅ……ん、ん」
 柳眉をきゅうっと寄せて、それでも凛はうっとりと目を細めていた。昨夜乱暴に性を吐き出したせいもあるのか、吐精の量は多くない。わずかばかりの白濁を凛は大事そうに舐め啜って、未だ咥えたままの遙の亀頭に擦りつけながら口の中で転がしている。
 微かに乱れた呼吸を遙はゆっくりと取り戻す。名残惜しげに口内の精液を凛が飲み下すのと、遙が疲れた声を漏らすのはほとんど同時だった。
「なあ、凛」
「んぅ……?」
 己の口の中を舌で緩やかに掻き混ぜながら、凛はことりと首を傾げた。どこか幼いその仕草と、口内に残る遙の残滓を集めて飲み下す姿のギャップが見ていられない。遙は目を閉じて天井を仰ぐ。
「なんで、真琴に抱かれたりしたんだ」
「ハルが好きだからだよ」
 一瞬の隙間も挟まずに凛は答えた。
 いとけなさなど微塵もない声にハッとする。同時に倦怠のわだかまる腰にのしかかってくる、馴染んだ重み。寝起きの温度をシーツの波間に引きずりながら、凛は遙の膝を跨ぐような格好で乗り上げてきていた。
「ハルが好きだから。ハルにもっと好きになってほしいから。なあ、ハル」
 するりと凛の腕が巻き付いてくる。水を掻くために鍛え上げられた凛の腕には、いとけなさもなよやかさもない。確かに遙の知っている、禁欲的に水泳に臨む男の腕だ。
「今、なんでって訊いただろ。そういうことだよ」
 その腕が遙の背を抱く。水のようにひたひたと、凛の温度が遙の背筋を愛撫する。この温度が熱いのか低いのかは分からない。
 遙は何も答えることができない。ただ凛の言葉と体温に絡め取られる。遙の様子に気づいているのか、いないのか、凛はふっと笑って遙の鼻先に唇を寄せた。そうして秘密を明かすようにして囁く。
「ハルも興奮してただろ。頭に血ィ上って、俺のことばっかりになって、無茶苦茶に俺のこと犯して。なあ?」
 凛の言葉に責める響きはひとつもない。嘲る色も揶揄う響きもなかった。
 プールの温度を確かめるように至って普通に、心地良さそうに凛は目を眇めている。朝日が眩しいのかもしれなかった。春の陽気のように柔らかい声で囁いて、微笑んで、そんな遙が好きなのだと訴えている。
 そんな、頭に血が上って、目の前が真っ赤になって、凛を殴って押し倒して、犯すような遙が好きなのだと。そんな遙でもいい、理性も焼き切れて、そうして凛のことだけしか頭にないような遙がいいのだと、凛は笑っているのだ。
 確かに最中はそうだったかもしれない。言い訳だってできない。遙が凛に酷いことをしたのは事実で、凛はそれも受け入れたいと言う。
 けれど最後に残ったのは、酷い虚無感と後悔だけだ。
 遙はすうっと息を吸い込んだ。緩やかに抱きつく凛の背中を抱き返して、朝日にぼやけて消えていきそうな思考から言葉を拾い上げる。
「凛、俺は、凛のことが好きだ。ずっと」
「ん……」
 凛は心地良さそうに目を閉じて、遙の腕に収まっている。
 遙はその様に安堵して、ゆっくりと続ける。
「だから――もう二度とあんなことするな。真琴でも誰でも、俺以外の誰かとあんなこと」
「……わかった」
 凛の声は静かで、けれどはっきりとして朝の居間に響いた。
「ハルがそう言うなら、もうしねぇ」
 するりと凛が額を擦りつけてくる。猫のような甘える凛の仕草に遙は目を細めた。首筋あたりに鼻先を埋めて目を閉じる凛の姿はいとけなく、いとおしい。
 凛は本当に、心の底から遙のことを好きでいてくれる。
 薄い皮膚をくすぐる凛の吐息を咎めるようにやわく後ろ髪を引く。不満気に鼻を鳴らしてつんと上を向く凛の額に口づけて、それから唇同士を触れ合わせる。薄い凛の上唇に吸いつけば、ちゅっと可愛らしい音がふたりを繋いで、離した。凛の唇に薄く残る苦い味が、痛いくらいに現実だった。
「凛、あいしてる」
 離れたくない、放さないでとささやく凛の腕が、遙の背中を抱き締める。
「俺も愛してる」
 愛を返して嘘をつく凛を咎めることもせず、遙はもう一度、今度は深く凛の唇を塞いだ。
 凛はきっとまた、遙以外の誰かに、遙に捧げたからだを明け渡すのだ。
 聞き分けのない子どものように振る舞って、次は「約束を破った凛を前にした遙」を欲しがって。その次も、そのまた次も「もうしない」を嘘にする。
 分かっていながら凛を放さない遙は不毛だろうか。遙のすべてが欲しいとねだって他の誰かに抱かれる凛は不実なのだろうか。跪くように祈るように、落ちるようにこうべを垂れて、遙は再び凛と共に布団に縺れ込んだ。清い朝日の中にいながら真っ白い絶望の海に沈んだようで恐ろしく、けれど凛とふたりなら怖くはない。ふたりでいればもう何もない、何事もない。
 互いの視界を遮るように凛の唇を塞ぐ。遙の放ったものの名残で青く苦い凛の口内を舌先でまさぐれば、押し倒した身体は擽ったそうに身悶えた。
 瞬間、見計らったようなタイミングで玄関からチャイムの音が響く。
「――ふ、はる」
 無視して凛の身体を擽るが、当の凛がやんわりと遙を押し返して上体を起こす。それこそ聞き分けのない子どもに向けるような瞳で遙を見つめて、笑っている。
 互いに訪問者が誰なのかは察していた。こんな時間から七瀬家を訪れる人物など他にいない。いつもは一度だけ響くチャイムが、今朝はもう一度鳴らされた。
「ハル、まこと」
「……ああ」
 押し返されるがまま、遙はゆっくりと身を起こした。本当に名残惜しくて、身を起こしざま凛の髪を弄ぶ。凛は滅多にない遙の仕草に嬉しそうに笑って、それでも叱るように遙の手を押し返す。
 鈍く勝手口の開く音がした。殊更ゆっくりと廊下を踏む音が続き、居間の前で静かに止まる。そしていつもは問答無用で開け放たれる襖越しに遠慮がちな声。
『……ハル、凛? 開けていい?』
「……ああ」
 凛の傍らまで退いた遙が答えれば、ほんの少しだけ襖が開いた。狭い隙間に甘く垂れがちな瞳だけが見え隠れする。
 瞳は狭い隙間から居間を見渡し、布団で胡座をかく凛と、凛の傍らで膝をつく遙を二、三度ほど確かめて、それからやっと大きく開かれた。何故か気恥ずかしそうに、遙と凛の幼馴染は居間の敷居の向こう側で立ち尽くしている。
 頬を染めて俯き加減で、真琴は朝の挨拶を口にした。
「おはようハル、凛」
「おー、はよ」
「……おはよう」
 いつも通り気さくに返す凛と、恐らくいつも通り、低く返す遙を真琴は忙しなく見比べる。そうしてこの期に及んで「俺、邪魔じゃない?」などと小首を傾げるものだから、遙は立ち上がりながら照れた様子の幼馴染を一瞥してやった。
「入るなら早くしろ。寒い」
「あっ、ご、ごめん」
 敷居に爪先を引っ掛けながら、ようやく真琴が室内へと入ってくる。畳の真ん中に敷かれた布団とその上に座る凛、居間の端に無理矢理寄せられた卓袱台、所在なさげに正座をする真琴に立ち尽くす遙と来て、なかなか部屋が狭い。
 最初この居間に踏み入って、凛を起こしたのは何のためだったのか。ゆっくりと思い出しながら、遙は台所へと足を向けた。ついでにやたらと居住まいを正している真琴に声をかける。
「真琴も食うか、朝飯」
「いいの? 俺、うちで食べてきたし……」
 真琴の視線は凛を捉えていてふたりの時間を邪魔していいのか、と言外に問うている。
 確かに真琴の分の鮭も卵焼きもない。しかしここで遙と凛が朝食の席を構えて、真琴を捨て置くのも追い返すのも忍びない。本来の予定では今日も特別臨時教師・松岡凛に、不出来な生徒ふたりは英語を教わる予定だったのだ。
 それに、変に気を遣って遠慮するのなら、今更ではないのか、あらゆる意味で。もっと七瀬家を訪ねる時間を遅らせるとか、昨夜のようにメールで先に連絡を入れるとか――そもそも、凛を抱くべきではなかっただろう、とか。
「何遠慮してんだよ。お前、普段からハルんちで飯食ったりしてんだろ」
 遙が答えるよりも先に、凛が口を挟んだ。真琴は視線をうろうろと彷徨わせている。
「それは……そうだけどさ」
「人数多いほうが飯もうまいだろ。な、ハル」
 楽しそうに遙を仰ぐ凛はいつも通り、幼馴染たちと接する凛の姿だ。昨日までの自分にならきっとそう見えたし、何を疑うこともなかったのだろう。
 遙はふっと息を吐いた。
「凛は布団畳んで端に寄せて、それから顔洗って来い。真琴は卓袱台を元の位置に戻しておいてくれ」
「おー」
「あ、わ、分かった」
 慌てた様子で立ち上がる真琴と、夜の名残を孕んだ布団に手をかける凛の姿を見届けて、遙は今度こそ台所へと踵を返した。味噌汁と焼き鮭と卵焼きの匂いがふわりと鼻先を掠める。少し冷めてはしまったものの、夕食と違って無駄にせずに済みそうだ。
 ゆるやかに朝日の差し込む居間はいつも通りで、昨夜遙が抱いた絶望感とはほど遠い。凛とふたりならば怖くないし、何も見えなくていいのだと肯定されているようですらある。
 例えば台所へ向かう遙の目を盗みながら、見せつけるようにして唇を重ねている凛と真琴なんて見なくてもいいのだ。
 真琴の唇に吸いつく凛の赤い舌が、つい先ほど遙への絶対の愛を囁いて、遙のものを舐め回して飲み下していた。ただそれだけのことだ。
 遙が今振り返ればきっと凛は喜ぶだろう。凛は昨夜と同じ、「幼馴染と不貞を働く恋人を目撃した遙」が欲しいのだ。仮に遙が振り返らなくても凛は「恋人の不貞に気づかなかった遙」を手に入れることができる。
 そして遙は恋人を試して、ひとつひとつの姿を欲しがる凛を手に入れている。
 凛はそれほどまでにつぶさに、丁寧に、すべてを欲しいと思うほど遙のことを好きでいてくれている。これ以上の好きのかたちが他にあるだろうか。遙には凛しかいないから分からない。
 だからきっと、これを愛と呼んでもいいのだろう。少なくとも凛と遙、ふたりの間では。遙は背後で唇を交わす凛と真琴に見えないよう、静かに微笑んだ。




  了