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にゃ×にゃん=しーっ!
凛先輩は旧校舎で猫を飼っている。
見つけてしまったのはたまたまだった。似鳥はその日部活の後に買い出しに出て、帰り道の途中で凛の背中を見かけた。じめじめと陰鬱な梅雨時のことだった。学校指定の黒いジャージ姿が道端に座り込んでいて、透明なビニール傘には凛の赤茶けた髪とシャープな横顔が透けて見えた。
あのときの凛はまだ抜身の刃物みたいで近寄りがたくて、なので似鳥は声をかけることもできずに近くの自動販売機の影に隠れた。自分の差した傘が目立たないように注意を払いながらそっと凛を窺った。
しゃがみ込む凛の前には、濡れて汚れてひしゃげた段ボール箱が置いてあった。凛は己の背が濡れることも厭わずビニール傘を箱を覆うようにして捧げ持ち、何事かを語りかけている様子だった。暗い雨模様越しにも凛の表情はよく見えた。慈しみに溢れた、優しい横顔だった。初めて見る棘のない表情に、似鳥は口をぽかんと開いて魅入ってしまった。
やがて凛は箱の中の黒い何かを抱き上げて、自分のジャージの胸元にそうっと差し入れて立ち上がった。自動販売機の影の似鳥に気づくこともなく鮫柄学園の方向へと歩き出す。立ち尽くして凛の背を見送った似鳥はしばらくの後にハッとして、慌てて凛の背を追った。ゆっくり歩く凛に追いつかないよう、一定の距離を置いて。
凛は真新しい大きな校舎も体育館も、屋内プールも通り過ぎ、めったに人の通らない裏手へと回った。そこには今は物置扱いとなっている旧校舎がある。一応生徒は許可がない限り立入禁止となっているが、旧校舎を覆うフェンスに穴が空いていることも窓や扉の鍵が一部壊れていることもだいたいの生徒が知っていた。あまり周囲になじまない凛にとっても既知の事実だったようで、広げた傘を持て余しながら破れたフェンスをくぐり抜けガタついて開きっぱなしの扉から校舎の中へ入ってしまった。
遅れて追いついた似鳥は校舎内に立ち入らず、廊下の窓からそうっと中を窺う。ちょうど廊下を挟んだ先の教室に凛の姿があった。凛はその辺に無造作に置かれていた段ボール箱をひっくり返し、中に入っていたガラクタを教室の隅に積み上げ、空になった箱の中に胸に入れていた何かを映していた。みゃあう、というか細い声が、雨音の向こうから似鳥の耳に届いた。
似鳥は凛に気づかれる前に寮の自室へと戻り、遅れて帰ってきた凛にいつも通り「おかえりなさい、先輩!」と声をかけ、用意しておいたバスタオルを差し出した。凛もいつも通りそっけなく返事をして似鳥のバスタオルを受け取り、がじがじと頭を拭いて、それからじっとバスタオルを見つめた。
その日の寮の夕飯は焼き鯖だった。これまたいつも通り、凛と連れ立って似鳥は食堂へ行き、一方的にこちらから喋るばかりの食卓についた。やっぱりいつも通り凛の返事はそっけなくて、それよりもいつも以上に上の空のようだった。半分ほどほぐした鯖をじっと見つめて、席を立ってカウンターへと向かった。似鳥の前に戻ってきた凛は食堂のおばちゃんから貰ってきたのだろう空のトレイを片手に持っていて、食べ残した鯖をその中に詰めた。食事を終えて自室に戻った凛は鯖の入ったトレイと自分のバスタオルを片手に、食後のロードワーク、と呟いて部屋を出て行った。
どこへ向かうのか、向かった先に何がいるのか。悟った似鳥は大きく頷いて、雨が降ってますけどお気をつけて、それだけを告げて凛を見送った。急いていた凛に似鳥の声が届いたのか否かは定かではなかったが、とにかく似鳥はどこか微笑ましい気分だった。
梅雨の時期が終わり、初夏が来た。大会を前に凛はプールでの練習にもロードワークにも、より一層精力的に取り組んでいた。岩鳶高校、七瀬遙。彼に必ず勝つという凛の気迫が伝わってきたが、そのロードワークの内の幾度かは旧校舎通いに費やされているようだった。
凛は二ヶ月ほどの間に大きく頑丈な段ボール箱や猫用のミルク、鯖缶、下ろしたての大きなバスタオルなどを片手にロードワークに出ていたのだった。
地方大会が終わり夏休みが終わり、秋が来て、冬になった。
凛は鮫柄高校水泳部にとって禍根とも言える事件を起こし一度は退部を申し出たが、部長である御子柴はそれを許さなかった。あの最高の泳ぎを鮫柄高校水泳部員として見せてみろと言い放ち、それを贖いとして凛は部に留まった。大会の直後は部内でも何とも言えない、嫌な空気が漂っていたが、御子柴のとりなしと凛自身の努力と、果たして役に立ったのかは分からないが似鳥のフォローもあり、徐々に円満に、打ち解けた雰囲気へと変わっていった。岩鳶高校との合同練習も定期的に行われるようになり、あの賑やかしい人たちと凛が馬鹿をやっていても冷めた目で見る部員はいなくなった。
凛が打ち解けて心を開いたのは似鳥に対しても同様だ。大会の会場で、夕暮れに染まった凛が「愛」と呼んでくれたあの瞬間、あの喜びといったら。言葉にできるものではない。それからの凛は岩鳶の部員たちと遊びに行く際、ときどき似鳥に「愛も行くか?」と誘ってくれるようになった。夏前までが信じられないぐらい、楽しい日々だ。
もちろん夏の大会が終わり凛が柔らかい雰囲気を纏うようになっても、ストイックな練習は続いた。また少し違う方向に加熱したのかもしれない。ロードワークの時間なども調整しているようだった。
ある日の夕食後、走りに行ってくると凛は似鳥に告げた。そろそろ凛のロードワークにお供したいと告げるべきか、それとも先に基礎体力をつけるべきか、悩んだまま言い出せない似鳥は結局いつも通り送り出そうとして、ふと凛が小脇に抱えているものに目を留めた。
「凛先輩」
「ん?」
扉の前、ロードワーク用のウェアを着込んだ凛がノブに手をかけたまま振り返る。きっちりとしたスポーツマンの格好だからこそ、もう一方の腕に抱えたものが余計に目を引く。
「それ」
「あ? あー……」
凛はバツが悪そうに目を逸らした。寮の部屋に一人一枚として配られている、らくだ色の薄い毛布だった。凛の行く先はすぐに察しがついた。練習時間の変更など調節をしていたせいであまり似鳥の意識に上らなくなっていたが、恐らく旧校舎の猫のところだ。そろそろ寒くなる季節だから、毛布を持ち込んでやろうとしているのだろう。
まさか凛の分の毛布を持ち出すのだろうか。似鳥は一瞬心配したが、すぐにそれが杞憂だと気づいた。凛の抱える毛布はやたら薄くて毛玉が浮いていて、どう見ても使い古されたものだった。
「ランドリーで、捨てるっていうからよ。貰ってきた」
「猫に持って行ってあげるんですね」
読みを裏付けるように凛が答え、似鳥はついに頷いて返した。今ならきっと、凛が旧校舎で猫を飼っていることを話題にしてしまって大丈夫だろうと思ったのだ。
似鳥の言葉に凛がさっと頬を赤らめた。少しまごつきながら小さな声で続ける。
「……ンで知って」
「すいません、前見ちゃったんです。凛先輩が猫を拾って、旧校舎に連れて行くところ」
素直に答えれば、似鳥の言葉に凛が瞠目した。似鳥は「あれ?」と思った。
こっそり猫を拾って保護していることを恥ずかしがっているのかと思ったが、見開かれた凛の瞳がどんどん無機質に、赤らんでいた頬が青白くのっぺりと変わっていく。
不安だった。凛の突然の様変わりが理解できなかった。似鳥はおかしなことなど言っていないはずなのに、凛の纏う空気があの梅雨の日の雨よりも冷たく、夏の大会で見せた絶望にも似て重く沈んでいく。
先輩、と声をかけるが凛は毛布を固く握りしめたまま答えない。空気を変えるように、似鳥は努めて明るい声を出した。
「どんな猫なんですか?」
これにも返事はないのだろうか。似鳥は心配したものの予想外に返事があった。
ただし、低く這うような声だった。
「……黒い毛並みに、青い目の、」
凛はそこまで呟いて、大きくかぶりを振った。くたびれた毛布を抱えて扉を開き、逃げるように出て行ってしまった。
似鳥はしばらく部屋の真ん中で立ち尽くしていた。どうして凛の様子が急に変わってしまったのか、理解できない。猫の話のせいだということは分かる。分かるのだが、始めは普通に恥ずかしがっているように見えた。なのに、似鳥が拾ったところを見かけたと告げた後のあの虚ろな表情、あれは何だ。
似鳥はざわめく気持ちをごまかすように自分の机に向かって教科書を広げてみたり、ベッドに転がって落ち着かせようとしてみたり、凛の真似をして腹筋をすることで気を紛らわせようとしてみたが、無駄だった。脳裏に強く、凛の淀んだ表情がこびりついて離れない。そもそもあんな凛を一人で行かせてしまってよかったのだろうか?
不安が募るうちに時間だけが過ぎ、次第に似鳥はどうしようもない焦燥に駆られていく。ロードワークを終える時間を過ぎ、消灯の点呼まであと少しの時間になっても、凛はついぞ帰ってこない。
似鳥は決意してベッドから跳ね起き、足元に丸めて放っていたジャージを羽織った。部屋を飛び出しできるだけ足音を立てないよう廊下を走り、寮生御用達の抜け道となっている勝手口を通って外へと出る。途端打ち付ける夜風に思わず身震いした。
マフラーぐらい巻いてくればよかったと思ったが、そんな余裕はない。通気性の良いジャージは寒いことこの上ないがそれはどこにいるとも知れない凛も同じだ。似鳥は襟を立てながら旧校舎へと向かう。
私道を挟んだ先にある旧校舎は真っ黒でおどろおどろしい。文化祭などの催事に使われることもあるためまだ電気や水は通っているようだが、普段は立入禁止となっているため非常灯すら落とされている。ライトの類を持ってこなかったことを悔やみながら、似鳥は月明かりだけを頼りにフェンスをくぐり、いつかも張り付いた窓の下へと向かった。
初めて凛が猫を連れてきたあの日は、この窓から廊下を挟んで向こうの教室に寝床を据えていたはずだ。今もこの教室で飼っているのだろうか、凛はここにいるのだろうか。似鳥は窓から中を覗き込み――蠢く影を認めて動きを止めた。
猫にしては大きな影が、薄く月明かりの差し込む教室で蠢いている。凛だろうか。しかし目を凝らせば、蠢く影はふたつある。
にゃあ。
猫の声が突如響いた。似鳥はぞくりと身を震わせた。
にゃあ、にゃあ……にゃあ、にゃあ。
人気のない夜の校舎に、あられもなく猫の声が響き渡る。何かがこぼれ落ちるのに耐えるような声、切なく震える声だった。誰かに縋るように高くないて、ひっくり返って、そして色を含んで響く声だ。声は覗き見る似鳥の背筋を、腰を撫でて、ざわざわと忙しない熱を宿してゆく。
にゃあ、あ、ふにゃあ、ふあ、ふ。
だんだんと声の間隔が短く、加速してゆく。上り詰めていく。似鳥は窓枠をぎゅっと掴んで、耐えるように固く目を瞑った。同時に声が弾ける。
にゃーあ……あぁ……
夜に長く長く尾を引いて、床を柔らかく打つようにぱたりとやんだ。
薄い月明かりに弱く鳴き声が、あるいは獣の荒い吐息がわだかまる。似鳥は深く俯いて耳に残る音を追い出そうとするが、うまくいかなかった。視覚を遮った分聴覚が過敏になるらしく、少し離れたところにいるはずの猫の吐息、水を舐めるような濡れた音まで拾ってしまう。
それでも響く音はやがて密かなものとなり、似鳥の腰にわだかまっていた熱も冬の空気に浚われて消えてゆく。無意識に詰めていた息を吐き出せば、目の前が白く濁った。
その時を狙い澄ましていたかのように、
「にゃあ」
予想外の鳴き声に、似鳥は思わず跳ね上がった。すっかり鍵が壊れてしまっている窓に腕が当たり、ガタンと大きな音が響く。
先ほどまであえかに響いていた声とはまた違う、低い声だ。隠れるべきか、否か。鳴き声の正体と気づかれたことに混乱する似鳥の視線は反射的に校舎の中へと吸い寄せられる。
薄く白んで伸びる月明かりの中、濃く陰影を宿しながら猫のつむりが似鳥を振り返る。黒い毛並みを透かして、青い、海の底のように青い瞳が、似鳥をあやまたず捉えた。
「そんなところにいて、寒いだろう。入ってきたらどうだ」
そんな、自分の家に招き入れるいつもの調子で言われても。
ここは鮫柄高校の旧校舎なのに、この黒猫の我が物顔はなんだろう。そもそも窓も扉もあちこち壊れた旧校舎で、中だろうが外だろうが寒いことには変わりないのではないか。
似鳥は恐々としながら、それでも素直に猫の――否、七瀬遙の言葉に従った。
扉まで回るのもまどろっこしかったので、鍵が壊れていることを幸いに似鳥は窓から乗り上げて校舎内に侵入する。埃っぽい廊下を渡って、教室の入口でぴたりと足を止めた。猫、ではなく、七瀬遙が不思議そうに似鳥を見上げる。
「入ってこないのか」
「僕はここまでで結構です」
どこかカビ臭い据えた匂いと、そこに混じる青い臭いに眉を顰めながら似鳥は答える。
遙はそれ以上追求する気もないらしく、そうか、とだけ答えて腕の中に視線を落とした。そこには自らが持ち出した古びた毛布を被った凛がいる。遙は愛おしそうに、凛の湿って見える髪を撫でている。くたびれた毛布に収まる凛の身体は薄く、ついでに凛を腕に抱く遙の傍らにはぐちゃぐちゃになったジャージが放り出されていて、ここで何が行われていたのかを如実に物語っていた。
鼻先をかすめる臭いと耳に残る声を振り払うように、似鳥はぶんぶんと首を振る。それからできるだけ凛と、脱ぎ捨てられたジャージを視界に入れないようにしながら遙を見返した。
「つまり、凛先輩はここで七瀬さんを飼ってたってことですか?」
「……なんでそうなる」
「だって――凛先輩の、拾った猫は」
この教室のどこにも、猫の姿はない。ただ、以前覗いた時よりも更に荒れた教室には、ぐちゃぐちゃに潰れた段ボール箱と教室の隅に放られた汚れたバスタオルと、ひっくり返ってひしゃげた金属製の皿ぐらいしか、猫を思わせるものはなかった。他は凛が隅に寄せたガラクタや、新たに持ち込まれたのだろうか、どす黒く汚れた角材が積まれているぐらいだ。
遙は黙って頷いて、似鳥の足元を指さした。似鳥は俯いてそこを確認する。教室の入口から続くように、どす黒い汚れが床に広がっている。夜の暗闇に透かし見ているせいかも知れないが、まるでドラマでよく見る殺人現場の血痕のようだと思った。
「ま、まさか」
「死んでない」
「……あ、そうなんですか」
だったらどうしてこんな恐ろしい痕を示してみせたのか。先ほどの猫の鳴き真似といい、この人は自分を揶揄っているのだろうか――内心憤りながら、似鳥は遙へと視線を戻す。が、遙の表情にすぐに考えを改めた。
遙は厳しい顔で床の痕を見つめ、それから腕の中の凛を抱き締めていた。殊更優しく髪や、毛布に包まれた背中を撫でる。凛は眠っているのかぴくりとも動かない。
「秋ぐらいに、たまたまここに来た。そしたら凛が、血塗れの猫を抱いて、泣いてた。自分のせいだって」
淡々とした遙の言葉に、似鳥の中でざわざわと疑問が這う。
岩鳶に住む遙がたまたまここを訪れるだろうか、ではなく、血塗れの猫を凛が自分のせいだと称したことについて。
「急いで近くの動物病院を探して、夜だったけど無理矢理診てもらった。酷い怪我だったけど生きてたし、今は元気で俺の家の庭にいる」
「猫は、七瀬さんが岩鳶に連れて帰ったんですか」
「もうここに置いておけないって凛が泣いたからな」
酷い怪我を負って血塗れの猫と、ここに置いておけない、自分のせいだと泣いた凛。
猫が怪我をする状況といえば、交通事故が妥当だろうか。けれどここは一応学校の敷地内で、少なくともこの近辺で事故に遭う確率は低いように思う。何より凛の自分を責める言葉に繋がらない。
遙は秋ごろだと言った。夏の大会が終わって、凛が少しずつ部に打ち解けていった頃だ。まだ凛のことを良からぬ目で見ている部員も少なからずいた時期で、些細な陰口や嫌がらせもあった。だからこそ凛は尽力し、御子柴や似鳥も手を貸したのだ。
凛が一人でロードワークに出ていることは水泳部の人間のほとんどが知っている。オーストラリア帰りは違うよな、とか、皮肉交じりに誰かが呟いているのも聞いたことがある。
似鳥の考え過ぎかも知れないが、もしも凛の行動を知って、凛の飼っている猫を知って、憂さ晴らしか、嫌がらせか、誰かが酷いことをしたとしたら。
「な、七瀬さッ……!!」
「言うな」
強い遙の口調に、似鳥は口を噤んだ。遙は右手で優しく凛を撫でながら余った左手の人差し指を一本立て、口元に当てる。七瀬遙らしからぬ仕草に見えた。
「凛が起きる」
「あ、す、すいません」
「それにもう、終わったことだろ」
確かにその通りだ。去年の秋に起こった話を蒸し返したって仕方がない。似鳥は凛がそんな悲しい思いをしていたことなんて気づかなかったし、御子柴を含む三年生が引退し年も明けた今となってはもう、凛に陰口を叩く人間などいない。部の人間関係は極めて良好だと思う。
ただ、似鳥が納得できないだけだけなのだ。
「でも、僕、凛先輩が――凛先輩と、先輩の猫が、そんな目に遭ってたなんて……僕には話してくれなかったなんて」
「お前に心配かけたくなかったんだろ」
「それも分かりますけど、でも」
凛が優しい人間だと、似鳥はとうに知っている。いいか悪いかは別にして個人主義なところがあって、年子の妹がいるせいか年下の人間に気を使うところがあって、そして悩みを一人で抱える質だということも知っている。すぐには無理だろうし、自分はそれに足る人間ではないかもしれないけれど、似鳥としてはもっと凛に頼りにされたい、悩んでいることがあるなら話して欲しいと思う。
俯く似鳥の耳に、ふっと柔らかな遙の声が届いた。
「今でもたまに、今日みたいにあの時のことを思い出して落ち込んだりするらしいから。そんな時は傍にいるお前が支えてやれ」
「七瀬さん」
「凛が鮫柄で一番頼りにしてるのは、たぶんお前だ」
力強い遙の言葉に、似鳥の目頭がじんわりと熱くなった。遙がこう言っているだけで、実際凛がどう思っているのかは分からない。けれど誰よりも凛と分かり合っているだろう遙がこう言ってくれるのだ。似鳥にはそれだけで十分だった。
心強く思いながら、似鳥は俯いていた顔を上げる。同時に遙の「それに、」という声が重なった。
「お前の分も、俺がやり返しておいたから」
「……はい?」
遙はちらりと、意味ありげに教室の隅を見、それから似鳥の足元を見た。似鳥もゆっくりと遙の視線を辿る。どす黒く汚れた角材と、殺人現場に残された血痕のような黒い染み。
関係のないことだが、秋ごろ階段から派手に転んで大怪我をしてしばらく休部していた部員がいた。似鳥はぼんやりとそんなことを思い出す。そういえば彼は復帰したのだっただろうか。
似鳥の口元が引き攣る。柔らかく凛を腕に抱いたまま、遙はしいっと指を立てている。
「七瀬さん、は、今日はどうしてこちらに……?」
「凛が呼んでる気がした」
即答だった。言っていることは曖昧で、何かオカルトの類いのようにも思えるのに、遙の目は真っ直ぐで揺るぎなくて、よく分からない自信みたいなものに満ちている。きっと怪我をした猫を抱いて凛が泣いている時も、こんな予感に突き動かされて鮫柄を訪れたのだろう。
埃の舞う薄闇の中、遙はずっと凛を腕に囲っている。場所のせいか、時間のせいか、言葉のせいか、それとも裸の凛を抱いているせいか。似鳥には目の前の遙が、いつものプールサイドで見る遙とはどこか違って見えた。
「凛を泣かせるのは、俺だけでいい」
先ほど校舎に響いていた、色を含んだ猫の声を思い出す。
「……七瀬さん、何もしてない、ですよね」
恐る恐る発した似鳥の疑問は、疑問になりきれない曖昧な調子で、どす黒く汚れた床に落っこちた。遙は荒れた教室を背に、薄く笑った。
にゃあ。
見つけてしまったのはたまたまだった。似鳥はその日部活の後に買い出しに出て、帰り道の途中で凛の背中を見かけた。じめじめと陰鬱な梅雨時のことだった。学校指定の黒いジャージ姿が道端に座り込んでいて、透明なビニール傘には凛の赤茶けた髪とシャープな横顔が透けて見えた。
あのときの凛はまだ抜身の刃物みたいで近寄りがたくて、なので似鳥は声をかけることもできずに近くの自動販売機の影に隠れた。自分の差した傘が目立たないように注意を払いながらそっと凛を窺った。
しゃがみ込む凛の前には、濡れて汚れてひしゃげた段ボール箱が置いてあった。凛は己の背が濡れることも厭わずビニール傘を箱を覆うようにして捧げ持ち、何事かを語りかけている様子だった。暗い雨模様越しにも凛の表情はよく見えた。慈しみに溢れた、優しい横顔だった。初めて見る棘のない表情に、似鳥は口をぽかんと開いて魅入ってしまった。
やがて凛は箱の中の黒い何かを抱き上げて、自分のジャージの胸元にそうっと差し入れて立ち上がった。自動販売機の影の似鳥に気づくこともなく鮫柄学園の方向へと歩き出す。立ち尽くして凛の背を見送った似鳥はしばらくの後にハッとして、慌てて凛の背を追った。ゆっくり歩く凛に追いつかないよう、一定の距離を置いて。
凛は真新しい大きな校舎も体育館も、屋内プールも通り過ぎ、めったに人の通らない裏手へと回った。そこには今は物置扱いとなっている旧校舎がある。一応生徒は許可がない限り立入禁止となっているが、旧校舎を覆うフェンスに穴が空いていることも窓や扉の鍵が一部壊れていることもだいたいの生徒が知っていた。あまり周囲になじまない凛にとっても既知の事実だったようで、広げた傘を持て余しながら破れたフェンスをくぐり抜けガタついて開きっぱなしの扉から校舎の中へ入ってしまった。
遅れて追いついた似鳥は校舎内に立ち入らず、廊下の窓からそうっと中を窺う。ちょうど廊下を挟んだ先の教室に凛の姿があった。凛はその辺に無造作に置かれていた段ボール箱をひっくり返し、中に入っていたガラクタを教室の隅に積み上げ、空になった箱の中に胸に入れていた何かを映していた。みゃあう、というか細い声が、雨音の向こうから似鳥の耳に届いた。
似鳥は凛に気づかれる前に寮の自室へと戻り、遅れて帰ってきた凛にいつも通り「おかえりなさい、先輩!」と声をかけ、用意しておいたバスタオルを差し出した。凛もいつも通りそっけなく返事をして似鳥のバスタオルを受け取り、がじがじと頭を拭いて、それからじっとバスタオルを見つめた。
その日の寮の夕飯は焼き鯖だった。これまたいつも通り、凛と連れ立って似鳥は食堂へ行き、一方的にこちらから喋るばかりの食卓についた。やっぱりいつも通り凛の返事はそっけなくて、それよりもいつも以上に上の空のようだった。半分ほどほぐした鯖をじっと見つめて、席を立ってカウンターへと向かった。似鳥の前に戻ってきた凛は食堂のおばちゃんから貰ってきたのだろう空のトレイを片手に持っていて、食べ残した鯖をその中に詰めた。食事を終えて自室に戻った凛は鯖の入ったトレイと自分のバスタオルを片手に、食後のロードワーク、と呟いて部屋を出て行った。
どこへ向かうのか、向かった先に何がいるのか。悟った似鳥は大きく頷いて、雨が降ってますけどお気をつけて、それだけを告げて凛を見送った。急いていた凛に似鳥の声が届いたのか否かは定かではなかったが、とにかく似鳥はどこか微笑ましい気分だった。
梅雨の時期が終わり、初夏が来た。大会を前に凛はプールでの練習にもロードワークにも、より一層精力的に取り組んでいた。岩鳶高校、七瀬遙。彼に必ず勝つという凛の気迫が伝わってきたが、そのロードワークの内の幾度かは旧校舎通いに費やされているようだった。
凛は二ヶ月ほどの間に大きく頑丈な段ボール箱や猫用のミルク、鯖缶、下ろしたての大きなバスタオルなどを片手にロードワークに出ていたのだった。
地方大会が終わり夏休みが終わり、秋が来て、冬になった。
凛は鮫柄高校水泳部にとって禍根とも言える事件を起こし一度は退部を申し出たが、部長である御子柴はそれを許さなかった。あの最高の泳ぎを鮫柄高校水泳部員として見せてみろと言い放ち、それを贖いとして凛は部に留まった。大会の直後は部内でも何とも言えない、嫌な空気が漂っていたが、御子柴のとりなしと凛自身の努力と、果たして役に立ったのかは分からないが似鳥のフォローもあり、徐々に円満に、打ち解けた雰囲気へと変わっていった。岩鳶高校との合同練習も定期的に行われるようになり、あの賑やかしい人たちと凛が馬鹿をやっていても冷めた目で見る部員はいなくなった。
凛が打ち解けて心を開いたのは似鳥に対しても同様だ。大会の会場で、夕暮れに染まった凛が「愛」と呼んでくれたあの瞬間、あの喜びといったら。言葉にできるものではない。それからの凛は岩鳶の部員たちと遊びに行く際、ときどき似鳥に「愛も行くか?」と誘ってくれるようになった。夏前までが信じられないぐらい、楽しい日々だ。
もちろん夏の大会が終わり凛が柔らかい雰囲気を纏うようになっても、ストイックな練習は続いた。また少し違う方向に加熱したのかもしれない。ロードワークの時間なども調整しているようだった。
ある日の夕食後、走りに行ってくると凛は似鳥に告げた。そろそろ凛のロードワークにお供したいと告げるべきか、それとも先に基礎体力をつけるべきか、悩んだまま言い出せない似鳥は結局いつも通り送り出そうとして、ふと凛が小脇に抱えているものに目を留めた。
「凛先輩」
「ん?」
扉の前、ロードワーク用のウェアを着込んだ凛がノブに手をかけたまま振り返る。きっちりとしたスポーツマンの格好だからこそ、もう一方の腕に抱えたものが余計に目を引く。
「それ」
「あ? あー……」
凛はバツが悪そうに目を逸らした。寮の部屋に一人一枚として配られている、らくだ色の薄い毛布だった。凛の行く先はすぐに察しがついた。練習時間の変更など調節をしていたせいであまり似鳥の意識に上らなくなっていたが、恐らく旧校舎の猫のところだ。そろそろ寒くなる季節だから、毛布を持ち込んでやろうとしているのだろう。
まさか凛の分の毛布を持ち出すのだろうか。似鳥は一瞬心配したが、すぐにそれが杞憂だと気づいた。凛の抱える毛布はやたら薄くて毛玉が浮いていて、どう見ても使い古されたものだった。
「ランドリーで、捨てるっていうからよ。貰ってきた」
「猫に持って行ってあげるんですね」
読みを裏付けるように凛が答え、似鳥はついに頷いて返した。今ならきっと、凛が旧校舎で猫を飼っていることを話題にしてしまって大丈夫だろうと思ったのだ。
似鳥の言葉に凛がさっと頬を赤らめた。少しまごつきながら小さな声で続ける。
「……ンで知って」
「すいません、前見ちゃったんです。凛先輩が猫を拾って、旧校舎に連れて行くところ」
素直に答えれば、似鳥の言葉に凛が瞠目した。似鳥は「あれ?」と思った。
こっそり猫を拾って保護していることを恥ずかしがっているのかと思ったが、見開かれた凛の瞳がどんどん無機質に、赤らんでいた頬が青白くのっぺりと変わっていく。
不安だった。凛の突然の様変わりが理解できなかった。似鳥はおかしなことなど言っていないはずなのに、凛の纏う空気があの梅雨の日の雨よりも冷たく、夏の大会で見せた絶望にも似て重く沈んでいく。
先輩、と声をかけるが凛は毛布を固く握りしめたまま答えない。空気を変えるように、似鳥は努めて明るい声を出した。
「どんな猫なんですか?」
これにも返事はないのだろうか。似鳥は心配したものの予想外に返事があった。
ただし、低く這うような声だった。
「……黒い毛並みに、青い目の、」
凛はそこまで呟いて、大きくかぶりを振った。くたびれた毛布を抱えて扉を開き、逃げるように出て行ってしまった。
似鳥はしばらく部屋の真ん中で立ち尽くしていた。どうして凛の様子が急に変わってしまったのか、理解できない。猫の話のせいだということは分かる。分かるのだが、始めは普通に恥ずかしがっているように見えた。なのに、似鳥が拾ったところを見かけたと告げた後のあの虚ろな表情、あれは何だ。
似鳥はざわめく気持ちをごまかすように自分の机に向かって教科書を広げてみたり、ベッドに転がって落ち着かせようとしてみたり、凛の真似をして腹筋をすることで気を紛らわせようとしてみたが、無駄だった。脳裏に強く、凛の淀んだ表情がこびりついて離れない。そもそもあんな凛を一人で行かせてしまってよかったのだろうか?
不安が募るうちに時間だけが過ぎ、次第に似鳥はどうしようもない焦燥に駆られていく。ロードワークを終える時間を過ぎ、消灯の点呼まであと少しの時間になっても、凛はついぞ帰ってこない。
似鳥は決意してベッドから跳ね起き、足元に丸めて放っていたジャージを羽織った。部屋を飛び出しできるだけ足音を立てないよう廊下を走り、寮生御用達の抜け道となっている勝手口を通って外へと出る。途端打ち付ける夜風に思わず身震いした。
マフラーぐらい巻いてくればよかったと思ったが、そんな余裕はない。通気性の良いジャージは寒いことこの上ないがそれはどこにいるとも知れない凛も同じだ。似鳥は襟を立てながら旧校舎へと向かう。
私道を挟んだ先にある旧校舎は真っ黒でおどろおどろしい。文化祭などの催事に使われることもあるためまだ電気や水は通っているようだが、普段は立入禁止となっているため非常灯すら落とされている。ライトの類を持ってこなかったことを悔やみながら、似鳥は月明かりだけを頼りにフェンスをくぐり、いつかも張り付いた窓の下へと向かった。
初めて凛が猫を連れてきたあの日は、この窓から廊下を挟んで向こうの教室に寝床を据えていたはずだ。今もこの教室で飼っているのだろうか、凛はここにいるのだろうか。似鳥は窓から中を覗き込み――蠢く影を認めて動きを止めた。
猫にしては大きな影が、薄く月明かりの差し込む教室で蠢いている。凛だろうか。しかし目を凝らせば、蠢く影はふたつある。
にゃあ。
猫の声が突如響いた。似鳥はぞくりと身を震わせた。
にゃあ、にゃあ……にゃあ、にゃあ。
人気のない夜の校舎に、あられもなく猫の声が響き渡る。何かがこぼれ落ちるのに耐えるような声、切なく震える声だった。誰かに縋るように高くないて、ひっくり返って、そして色を含んで響く声だ。声は覗き見る似鳥の背筋を、腰を撫でて、ざわざわと忙しない熱を宿してゆく。
にゃあ、あ、ふにゃあ、ふあ、ふ。
だんだんと声の間隔が短く、加速してゆく。上り詰めていく。似鳥は窓枠をぎゅっと掴んで、耐えるように固く目を瞑った。同時に声が弾ける。
にゃーあ……あぁ……
夜に長く長く尾を引いて、床を柔らかく打つようにぱたりとやんだ。
薄い月明かりに弱く鳴き声が、あるいは獣の荒い吐息がわだかまる。似鳥は深く俯いて耳に残る音を追い出そうとするが、うまくいかなかった。視覚を遮った分聴覚が過敏になるらしく、少し離れたところにいるはずの猫の吐息、水を舐めるような濡れた音まで拾ってしまう。
それでも響く音はやがて密かなものとなり、似鳥の腰にわだかまっていた熱も冬の空気に浚われて消えてゆく。無意識に詰めていた息を吐き出せば、目の前が白く濁った。
その時を狙い澄ましていたかのように、
「にゃあ」
予想外の鳴き声に、似鳥は思わず跳ね上がった。すっかり鍵が壊れてしまっている窓に腕が当たり、ガタンと大きな音が響く。
先ほどまであえかに響いていた声とはまた違う、低い声だ。隠れるべきか、否か。鳴き声の正体と気づかれたことに混乱する似鳥の視線は反射的に校舎の中へと吸い寄せられる。
薄く白んで伸びる月明かりの中、濃く陰影を宿しながら猫のつむりが似鳥を振り返る。黒い毛並みを透かして、青い、海の底のように青い瞳が、似鳥をあやまたず捉えた。
「そんなところにいて、寒いだろう。入ってきたらどうだ」
そんな、自分の家に招き入れるいつもの調子で言われても。
ここは鮫柄高校の旧校舎なのに、この黒猫の我が物顔はなんだろう。そもそも窓も扉もあちこち壊れた旧校舎で、中だろうが外だろうが寒いことには変わりないのではないか。
似鳥は恐々としながら、それでも素直に猫の――否、七瀬遙の言葉に従った。
扉まで回るのもまどろっこしかったので、鍵が壊れていることを幸いに似鳥は窓から乗り上げて校舎内に侵入する。埃っぽい廊下を渡って、教室の入口でぴたりと足を止めた。猫、ではなく、七瀬遙が不思議そうに似鳥を見上げる。
「入ってこないのか」
「僕はここまでで結構です」
どこかカビ臭い据えた匂いと、そこに混じる青い臭いに眉を顰めながら似鳥は答える。
遙はそれ以上追求する気もないらしく、そうか、とだけ答えて腕の中に視線を落とした。そこには自らが持ち出した古びた毛布を被った凛がいる。遙は愛おしそうに、凛の湿って見える髪を撫でている。くたびれた毛布に収まる凛の身体は薄く、ついでに凛を腕に抱く遙の傍らにはぐちゃぐちゃになったジャージが放り出されていて、ここで何が行われていたのかを如実に物語っていた。
鼻先をかすめる臭いと耳に残る声を振り払うように、似鳥はぶんぶんと首を振る。それからできるだけ凛と、脱ぎ捨てられたジャージを視界に入れないようにしながら遙を見返した。
「つまり、凛先輩はここで七瀬さんを飼ってたってことですか?」
「……なんでそうなる」
「だって――凛先輩の、拾った猫は」
この教室のどこにも、猫の姿はない。ただ、以前覗いた時よりも更に荒れた教室には、ぐちゃぐちゃに潰れた段ボール箱と教室の隅に放られた汚れたバスタオルと、ひっくり返ってひしゃげた金属製の皿ぐらいしか、猫を思わせるものはなかった。他は凛が隅に寄せたガラクタや、新たに持ち込まれたのだろうか、どす黒く汚れた角材が積まれているぐらいだ。
遙は黙って頷いて、似鳥の足元を指さした。似鳥は俯いてそこを確認する。教室の入口から続くように、どす黒い汚れが床に広がっている。夜の暗闇に透かし見ているせいかも知れないが、まるでドラマでよく見る殺人現場の血痕のようだと思った。
「ま、まさか」
「死んでない」
「……あ、そうなんですか」
だったらどうしてこんな恐ろしい痕を示してみせたのか。先ほどの猫の鳴き真似といい、この人は自分を揶揄っているのだろうか――内心憤りながら、似鳥は遙へと視線を戻す。が、遙の表情にすぐに考えを改めた。
遙は厳しい顔で床の痕を見つめ、それから腕の中の凛を抱き締めていた。殊更優しく髪や、毛布に包まれた背中を撫でる。凛は眠っているのかぴくりとも動かない。
「秋ぐらいに、たまたまここに来た。そしたら凛が、血塗れの猫を抱いて、泣いてた。自分のせいだって」
淡々とした遙の言葉に、似鳥の中でざわざわと疑問が這う。
岩鳶に住む遙がたまたまここを訪れるだろうか、ではなく、血塗れの猫を凛が自分のせいだと称したことについて。
「急いで近くの動物病院を探して、夜だったけど無理矢理診てもらった。酷い怪我だったけど生きてたし、今は元気で俺の家の庭にいる」
「猫は、七瀬さんが岩鳶に連れて帰ったんですか」
「もうここに置いておけないって凛が泣いたからな」
酷い怪我を負って血塗れの猫と、ここに置いておけない、自分のせいだと泣いた凛。
猫が怪我をする状況といえば、交通事故が妥当だろうか。けれどここは一応学校の敷地内で、少なくともこの近辺で事故に遭う確率は低いように思う。何より凛の自分を責める言葉に繋がらない。
遙は秋ごろだと言った。夏の大会が終わって、凛が少しずつ部に打ち解けていった頃だ。まだ凛のことを良からぬ目で見ている部員も少なからずいた時期で、些細な陰口や嫌がらせもあった。だからこそ凛は尽力し、御子柴や似鳥も手を貸したのだ。
凛が一人でロードワークに出ていることは水泳部の人間のほとんどが知っている。オーストラリア帰りは違うよな、とか、皮肉交じりに誰かが呟いているのも聞いたことがある。
似鳥の考え過ぎかも知れないが、もしも凛の行動を知って、凛の飼っている猫を知って、憂さ晴らしか、嫌がらせか、誰かが酷いことをしたとしたら。
「な、七瀬さッ……!!」
「言うな」
強い遙の口調に、似鳥は口を噤んだ。遙は右手で優しく凛を撫でながら余った左手の人差し指を一本立て、口元に当てる。七瀬遙らしからぬ仕草に見えた。
「凛が起きる」
「あ、す、すいません」
「それにもう、終わったことだろ」
確かにその通りだ。去年の秋に起こった話を蒸し返したって仕方がない。似鳥は凛がそんな悲しい思いをしていたことなんて気づかなかったし、御子柴を含む三年生が引退し年も明けた今となってはもう、凛に陰口を叩く人間などいない。部の人間関係は極めて良好だと思う。
ただ、似鳥が納得できないだけだけなのだ。
「でも、僕、凛先輩が――凛先輩と、先輩の猫が、そんな目に遭ってたなんて……僕には話してくれなかったなんて」
「お前に心配かけたくなかったんだろ」
「それも分かりますけど、でも」
凛が優しい人間だと、似鳥はとうに知っている。いいか悪いかは別にして個人主義なところがあって、年子の妹がいるせいか年下の人間に気を使うところがあって、そして悩みを一人で抱える質だということも知っている。すぐには無理だろうし、自分はそれに足る人間ではないかもしれないけれど、似鳥としてはもっと凛に頼りにされたい、悩んでいることがあるなら話して欲しいと思う。
俯く似鳥の耳に、ふっと柔らかな遙の声が届いた。
「今でもたまに、今日みたいにあの時のことを思い出して落ち込んだりするらしいから。そんな時は傍にいるお前が支えてやれ」
「七瀬さん」
「凛が鮫柄で一番頼りにしてるのは、たぶんお前だ」
力強い遙の言葉に、似鳥の目頭がじんわりと熱くなった。遙がこう言っているだけで、実際凛がどう思っているのかは分からない。けれど誰よりも凛と分かり合っているだろう遙がこう言ってくれるのだ。似鳥にはそれだけで十分だった。
心強く思いながら、似鳥は俯いていた顔を上げる。同時に遙の「それに、」という声が重なった。
「お前の分も、俺がやり返しておいたから」
「……はい?」
遙はちらりと、意味ありげに教室の隅を見、それから似鳥の足元を見た。似鳥もゆっくりと遙の視線を辿る。どす黒く汚れた角材と、殺人現場に残された血痕のような黒い染み。
関係のないことだが、秋ごろ階段から派手に転んで大怪我をしてしばらく休部していた部員がいた。似鳥はぼんやりとそんなことを思い出す。そういえば彼は復帰したのだっただろうか。
似鳥の口元が引き攣る。柔らかく凛を腕に抱いたまま、遙はしいっと指を立てている。
「七瀬さん、は、今日はどうしてこちらに……?」
「凛が呼んでる気がした」
即答だった。言っていることは曖昧で、何かオカルトの類いのようにも思えるのに、遙の目は真っ直ぐで揺るぎなくて、よく分からない自信みたいなものに満ちている。きっと怪我をした猫を抱いて凛が泣いている時も、こんな予感に突き動かされて鮫柄を訪れたのだろう。
埃の舞う薄闇の中、遙はずっと凛を腕に囲っている。場所のせいか、時間のせいか、言葉のせいか、それとも裸の凛を抱いているせいか。似鳥には目の前の遙が、いつものプールサイドで見る遙とはどこか違って見えた。
「凛を泣かせるのは、俺だけでいい」
先ほど校舎に響いていた、色を含んだ猫の声を思い出す。
「……七瀬さん、何もしてない、ですよね」
恐る恐る発した似鳥の疑問は、疑問になりきれない曖昧な調子で、どす黒く汚れた床に落っこちた。遙は荒れた教室を背に、薄く笑った。
にゃあ。
- 2014.2.22
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