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❀ドロップ
腹の上に漬物石が乗っている。
遙は目を閉じたまま、幼いころ祖母が抱え上げていた大きな石塊を思い出す。皺くちゃで細い祖母の手は折れてしまいそうなのに大きな石を難なく持ち上げて、遙はそれが不思議だった。こっそり持ち上げてみようとしたこともあるが当時の遙ではとても持ち上げられなくて、樽の中の石を恨めしく見つめた記憶がある。
でもそれも十余年、いや、もう何十年も昔の話だ。今の遙なら漬物石程度軽々と持ち上げられる。だから遙はまだ目を閉じたまま、とにかく腹の上の漬物石へと手を伸ばした。持ち上げることはできるが重いものは重いのだ。しかも眠っている腹の上に乗っているのだからたちが悪い。一体誰がこんな嫌がらせをしたのだろう、今は遙一人で暮らすこの家で、誰がこんなことを。
そして遙の指先が漬物石に触れた。
「ふぁ、」
「……?」
漬物石にしては柔らかい感触だった。
加えて石特有の冷たさがない。なんだかやけに温かくてぽかぽかとしている。
これは漬物石ではないのかもしれない。遙は眠りに引きずられる瞼と戦いながら、とにかく指先の感触だけで腹の上の重石の正体を探る。
「ふ、ふふ、く……っすぐたい」
重石が腹の上で転がる。指先から逃げていく。手探りで追いかけているうちに何かと指先がくっついたり離れたり絡まったりして、最後にどすんと腹に衝撃が起こった。
「おじさん、起きて」
「…………おじ、」
少々聞き咎める単語を反復するには至らない。腹の上の漬物石もどきはどすんぽすんと跳ね続け、遙はごほりと咳き込んだ。息苦しさに耐えかねたのか、ようやく夢の使者を振り切った瞼が持ち上がる。
障子を透かして朝の光が差し込んでいる。ぼんやりとした光の中、埃がチラチラと舞っていた。子どもの頃は無責任に綺麗だと思っていた光景だが、掃除を怠っている証のようで今はあまり感心できない。
腹にもう一度衝撃があった。埃と埃は立ち上り、あるいは下降して、遙の腹の上の何かが掻き混ぜた空気の中をあちらへこちらへ彷徨っている。畳の上に敷いた煎餅布団で転がる遙からは舞い上がる埃とその向こう、年季の入った木目の天井ぐらいしか見えないはずなのだが、ふと視界の下方を何かが閃いた。
「なあ」
ぽすん。控えめな衝撃をひとつ挟んで、遙の腹から胸の上にぬくい塊が伸し掛かる。遙は己の上で腹ばいになる誰かの全貌をようやく捉える。
舞い上がる埃にも負けない、強く光る瞳があった。くりくりとして闊達そうなそれが真っ直ぐに遙を見つめている。勝ち気に見えるこの瞳が、つい昨日まで暗く濁って沈んでいたことを、寝起きで呆けた遙の頭はようやく思い出し始める。
ぽすん、また軽い衝撃があった。腹ではなく、今度は遙の足の上だった。細くしなやかな足が剥き出しになってリズムを刻んでいる。遙の上で腹ばいになって、右足を上げては左足を下ろし、左足を折っては右足を落としている。いかにも退屈そうな仕草だった。
「おれ、お腹すいた」
遙の腹の上で伏しているのはまだ幼い少年だった。
一昨日初めて出会い、昨日連れ帰ってきたばかりの少年――凛は、遙の腹の上で遠慮もためらいもなく訴えた。
ぱたぱたと足を打つ少年を横に転がし、ひとまず顔だけを洗って台所に踏み込んだ遙は冷蔵庫の中身を検分する。冷凍しておいた鯖がちょうど二切れと、殻に印字された賞味期限ぎりぎりの卵がこれまたぴったり二つ。豆腐が半丁、しなびたほうれん草が半束。米だけは昨夜のうちにタイマーで予約しておいたので炊飯器がしっかり炊き上げてくれている。
手持ち無沙汰にまとわりついてくる凛を意識しながら、遙は貧相な食材を掻き集めて朝食の準備をした。鯖は焼いて、ほうれん草はおひたしに。豆腐は賽の目に切って乾燥ワカメと一緒に味噌汁に。卵は溶いてフライパンに流し込んでくるりと巻いて、ちいさな卵焼きにする。
卵焼きは甘いほうがいいのだろうかとぼんやり考えて、遙は今更自分以外の誰かと食卓を共にする事実を噛み締めた。料理とも呼べない作業の合間にちらりと振り向けば凛は大きな瞳をきらきらさせて遙の手元を見ていた。そんなに楽しいものだろうか。
できあがった料理を皿に盛り、居間の卓袱台に運んで凛と向かい合わせに座った。冷めないうちに食べようと遙が箸を構えたところで、向かいから待ったがかかった。
「なんだ」
「いただきます、は?」
凛は両手を合わせて、じっと遙を見つめている。
くりくりした大きな目に狼狽する。早く、とでも言いたげな凛の視線に負けて、遙は卓袱台の上に箸を置いた。凛と同じように手を合わせる。
「……いただきます」
「いただきます」
遙の声に重ねて凛が深く頭を下げた。それから礼儀正しく合わせていた手を解き、待ち切れないとばかりに卵焼きへと箸を伸ばす。
遙も再び箸を取り上げ――ふと、今までは少し持て余す大きさだと思っていた卓袱台が手狭に見えた。
今日は二人なのだ。遙一人だけではなく凛もいる。だから食器の数も今までの二倍で、なるほど手狭に見えるわけである。凛用の食器はないので客用の皿を引っ張り出したのだが、まだちいさな凛にはそれこそ持て余す大きさだ。今日のうちに買い揃えてやろうと思いながら、遙は対面の凛を見つめた。大人用の箸は扱いにくそうに見えるが、案外と綺麗に焼き鯖をほぐしている。
箸もそうだが格好も考えものだ。凛の衣服は分かるだけ持ってきたのだが、寝間着らしきものが見当たらなかったので凛のTシャツを寝間着代わりに着せてやった。まだ就学前の子どもには大きく、裾は尻まですっぽり覆える長さだ。胴回りがあまりに違いすぎるため遙のハーフパンツは貸してやれないし、ひとまずこれでいいだろうと判断したのだが、ちょっとばかりかわいそうな見た目になっているような気がする。
ちょこちょこと動く凛の手つきを見るともなしに眺めながら、遙は今日のうちに買うべきものを頭の中でリストアップしていく。
あれもこれもと右往左往する思考の真ん中に、するすると何が入り込んできた。瞬いて見下ろせば、傍に寄ってきた凛が俯きがちに空の茶碗を差し出している。
「なんだ」
「……おかわり」
朝からよく食べるなと感心が半分、案外と遠慮がないなという気持ちが少し。
けれど遙は昨日、厄介は御免だとばかりに凛を押し付け合う親戚たちの前で「俺が引き取る」とはっきりと公言した。半ば勢いのようなものだったし、三十を過ぎてもまだ独り身の遙には親になるなんて覚悟もできていない。同情だけで買って出た、間違った判断だったのかもしれない。
それでも凛は、来いと言って伸ばした遙の手を選んだのだ。
しっかりと握り締めてくる丸みを帯びた手の柔らかさと、大人よりも幾分高い温度を、遙はしっかりと覚えている。そして忘れるつもりも、やっぱり無理でした、などといって無責任に手放すつもりもない。その日がいつになるのかは分からないが、凛がもう遙の手は必要ないと判断するときまで、あるいは然るべき誰かが凛を迎えに来るその日まで、ずっと傍にいたいと思っている。
だから昨日から、この家は遙の家ではなく、遙と凛の家で、凛は遙の家族なのだ。家族ならば遠慮など必要ない。どちらかというと、両手で控えめに茶碗を捧げ持っている姿にこそ苦言を呈すべきだろう。
ひとまず遙は空の茶碗を受け取って、のっそりと立ち上がった。迎え入れた遙自身、まだ遠慮がないなと思ってしまっている。一昨日初めて会ったばかりの大人と子どもが家族の姿になるには時間がかかるはずだから、敢えて急く必要はない。どちらかというと空腹の子どもを満たしてやることのほうが急務である。
とはいえ、冷蔵庫の中は先ほど見た通りである。
「もう米しかないぞ」
炊飯器を覗き込みながら呟けば、後ろをついてきた凛が背伸びをしながら答えた。
「いいよ、おにぎりにするから」
「おにぎりの具になるものもない」
「塩おにぎりにする」
子どもにしては渋い答えである。
遙は炊飯器の米を空の茶碗によそい、ついでに食卓塩を差し出す。凛は爪先立ちでシンクに身を乗り出して手を洗い、濡れたままの手に塩を少しだけ振って、それから茶碗の米を鷲掴みにした。
「おい、熱いぞ」
「大丈夫」
もくもくと湯気を立てる米を、凛は右手に左手に往復させる。子どもの小さな手のひらはもみじのように赤くなっているが、凛は熱がる様子もなく米を握っていた。きっと手馴れているのだろう。瞬く間にちいさな俵型のおにぎりがひとつできあがった。
つやつやと凛の手の中で輝く真っ白な米は、具も海苔もない。本当に塩だけのシンプルなおにぎりである。
「本当に塩だけでいいのか」
「でも、やさしい味になる」
できたばかりのおにぎりを、凛は遙に向けて差し出した。
これはお前が食べるために握ったんじゃないのか。俺はまだ自分の分が残ってるから。脳裏に過ぎった言葉は声にならず、代わりに遙は身を屈めて口を開いた。凛が更に手を伸ばしておにぎりを差し出し、遙はぱくりと小さな俵を口内に収める。
黙って見上げてくる凛を見つめ返しながら、遙はちいさなおにぎりをゆっくりと咀嚼する。口の中いっぱいに味わって、飲み込んで、それから思ったままを口にした。
「……うまい」
遙の一言に凛が破顔する。初めて見る凛の満面の笑みだった。
噛み締めた米はあたたかく甘く、ほんのりと塩っぱくて、今まで食べたどんなものよりもやさしい味がした。
遙が完食する姿を見届けて、凛はまた米を手に取って握り始める。できあがったちいさな俵を口の中に押し込んで、もぐもぐと咀嚼しながら再び手を洗っていた。爪先立ちで手を伸ばす姿は不器用そうに見えるのに、器用なものだと思う。遙が凛の年の頃はどうだったか、なんて思い出せないが、この歳の子どもが率先しておにぎりを握るのは普通のことなのだろうか。とにかく近いうちに踏み台になるものを用意してやろうと思う。
凛の丸い後ろ頭がくるりと動いて遙を見上げた。
「おじさんももう一個食う?」
「……おじさんはやめろ」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
確かに遙は三十も回り、若いと言われる歳ではない。世間的に見てもそろそろ「おじさん」と呼んで差し支えないのかもしれないし、遙自身まだ若いと反駁するつもりもない。凛ぐらいの歳の子からすれば世間の三十路たち哀愁など理解し得ないものだろう。
が、悪意なく真正面からおじさんと呼ばれるのもいただけない。しかも凛とはこれから一緒に暮らして毎日顔を合わせるのだから、その度に「おじさん」と呼ばれることになる。それに遙からすれば祖父の隠し子らしい凛の方が文字通り「叔父さん」なのだが、そんな大人の事情は凛が知らなくてもいい話だ。少なくとも、今はまだ。
脱線しかけた思考をおにぎりを握り続ける少年に戻す。遙はほんの少し考えた結果、
「おじさん、以外で好きに呼べ」
投げやり気味に返した。
お父さん、と呼ばせるのも何か違う気がするし、遙にもまだその覚悟はない。幼い凛が今の状況をどう考えているのかはおいおい確かめていかなければならないところだが、結局最後は凛次第だ。「おじさん」も「お父さん」も頂けないが、遙が凛に強要できるものでもないのかも知れない、とも思う。
凛は首を傾げ、くすんだ木目の天井を見上げた。んー、と喉の奥から声を漏らして、指先で固まりかけている米を舌でねぶって、最後に「あ」と声を上げる。赤茶けた頭が大きく上下して遙を見上げた。
「ハル!」
「…………」
「おばちゃんたちが呼んでた!」
確かに祖父の葬儀に集まった年嵩の親戚の女性たちは、軒並み遙のことを「ハルちゃん」と呼んでいた。
遙ももう三十路を超えたのにちゃん付けで、女の子のように名前を呼ばれるのは勘弁してほしいと思っているのだが、如何せんめったに会わない親戚たちに強く言うこともできない。疎遠だからこそ恐らくおばたちの中では遙はまだ小さな「ハルちゃん」で、そして遙にとってもおばたちは頭の上がらない「大人」なのだ。
そしてこの凛の、曇りのないきらきらとした瞳である。ちゃんが付いていないだけおばたちよりもマシだとは思う。凛自身も女の子みたいな名前だから、子どもなりに考慮してくれたのかもしれない。
「おじさん」は嫌で、「お父さん」も重たい。ついでに「お兄さん」と呼ばせようとは端から考えなかった。それはちょっと図々しいように思う。
「なあ、ハル」
家族を示す語でもなく、他人に向けるには気安い呼び方で、凛は遙をじっと見上げて待っている。
期待に満ちた瞳に、子どもで呼び捨てで呼ばせるなんて教育上よろしくないのではないか、そんな考えも消え失せた。ふっと息を吐いて、少し冷めたおにぎりを大事そうに抱える凛に答える。
「何だ、凛」
凛は大きく頷いて、またおにぎりを差し出す。受け取って口に放り込めばやっぱり少し冷めていて、けれどさっきよりずっと、やさしいやさしい味になっているような気がした。
遙は目を閉じたまま、幼いころ祖母が抱え上げていた大きな石塊を思い出す。皺くちゃで細い祖母の手は折れてしまいそうなのに大きな石を難なく持ち上げて、遙はそれが不思議だった。こっそり持ち上げてみようとしたこともあるが当時の遙ではとても持ち上げられなくて、樽の中の石を恨めしく見つめた記憶がある。
でもそれも十余年、いや、もう何十年も昔の話だ。今の遙なら漬物石程度軽々と持ち上げられる。だから遙はまだ目を閉じたまま、とにかく腹の上の漬物石へと手を伸ばした。持ち上げることはできるが重いものは重いのだ。しかも眠っている腹の上に乗っているのだからたちが悪い。一体誰がこんな嫌がらせをしたのだろう、今は遙一人で暮らすこの家で、誰がこんなことを。
そして遙の指先が漬物石に触れた。
「ふぁ、」
「……?」
漬物石にしては柔らかい感触だった。
加えて石特有の冷たさがない。なんだかやけに温かくてぽかぽかとしている。
これは漬物石ではないのかもしれない。遙は眠りに引きずられる瞼と戦いながら、とにかく指先の感触だけで腹の上の重石の正体を探る。
「ふ、ふふ、く……っすぐたい」
重石が腹の上で転がる。指先から逃げていく。手探りで追いかけているうちに何かと指先がくっついたり離れたり絡まったりして、最後にどすんと腹に衝撃が起こった。
「おじさん、起きて」
「…………おじ、」
少々聞き咎める単語を反復するには至らない。腹の上の漬物石もどきはどすんぽすんと跳ね続け、遙はごほりと咳き込んだ。息苦しさに耐えかねたのか、ようやく夢の使者を振り切った瞼が持ち上がる。
障子を透かして朝の光が差し込んでいる。ぼんやりとした光の中、埃がチラチラと舞っていた。子どもの頃は無責任に綺麗だと思っていた光景だが、掃除を怠っている証のようで今はあまり感心できない。
腹にもう一度衝撃があった。埃と埃は立ち上り、あるいは下降して、遙の腹の上の何かが掻き混ぜた空気の中をあちらへこちらへ彷徨っている。畳の上に敷いた煎餅布団で転がる遙からは舞い上がる埃とその向こう、年季の入った木目の天井ぐらいしか見えないはずなのだが、ふと視界の下方を何かが閃いた。
「なあ」
ぽすん。控えめな衝撃をひとつ挟んで、遙の腹から胸の上にぬくい塊が伸し掛かる。遙は己の上で腹ばいになる誰かの全貌をようやく捉える。
舞い上がる埃にも負けない、強く光る瞳があった。くりくりとして闊達そうなそれが真っ直ぐに遙を見つめている。勝ち気に見えるこの瞳が、つい昨日まで暗く濁って沈んでいたことを、寝起きで呆けた遙の頭はようやく思い出し始める。
ぽすん、また軽い衝撃があった。腹ではなく、今度は遙の足の上だった。細くしなやかな足が剥き出しになってリズムを刻んでいる。遙の上で腹ばいになって、右足を上げては左足を下ろし、左足を折っては右足を落としている。いかにも退屈そうな仕草だった。
「おれ、お腹すいた」
遙の腹の上で伏しているのはまだ幼い少年だった。
一昨日初めて出会い、昨日連れ帰ってきたばかりの少年――凛は、遙の腹の上で遠慮もためらいもなく訴えた。
ぱたぱたと足を打つ少年を横に転がし、ひとまず顔だけを洗って台所に踏み込んだ遙は冷蔵庫の中身を検分する。冷凍しておいた鯖がちょうど二切れと、殻に印字された賞味期限ぎりぎりの卵がこれまたぴったり二つ。豆腐が半丁、しなびたほうれん草が半束。米だけは昨夜のうちにタイマーで予約しておいたので炊飯器がしっかり炊き上げてくれている。
手持ち無沙汰にまとわりついてくる凛を意識しながら、遙は貧相な食材を掻き集めて朝食の準備をした。鯖は焼いて、ほうれん草はおひたしに。豆腐は賽の目に切って乾燥ワカメと一緒に味噌汁に。卵は溶いてフライパンに流し込んでくるりと巻いて、ちいさな卵焼きにする。
卵焼きは甘いほうがいいのだろうかとぼんやり考えて、遙は今更自分以外の誰かと食卓を共にする事実を噛み締めた。料理とも呼べない作業の合間にちらりと振り向けば凛は大きな瞳をきらきらさせて遙の手元を見ていた。そんなに楽しいものだろうか。
できあがった料理を皿に盛り、居間の卓袱台に運んで凛と向かい合わせに座った。冷めないうちに食べようと遙が箸を構えたところで、向かいから待ったがかかった。
「なんだ」
「いただきます、は?」
凛は両手を合わせて、じっと遙を見つめている。
くりくりした大きな目に狼狽する。早く、とでも言いたげな凛の視線に負けて、遙は卓袱台の上に箸を置いた。凛と同じように手を合わせる。
「……いただきます」
「いただきます」
遙の声に重ねて凛が深く頭を下げた。それから礼儀正しく合わせていた手を解き、待ち切れないとばかりに卵焼きへと箸を伸ばす。
遙も再び箸を取り上げ――ふと、今までは少し持て余す大きさだと思っていた卓袱台が手狭に見えた。
今日は二人なのだ。遙一人だけではなく凛もいる。だから食器の数も今までの二倍で、なるほど手狭に見えるわけである。凛用の食器はないので客用の皿を引っ張り出したのだが、まだちいさな凛にはそれこそ持て余す大きさだ。今日のうちに買い揃えてやろうと思いながら、遙は対面の凛を見つめた。大人用の箸は扱いにくそうに見えるが、案外と綺麗に焼き鯖をほぐしている。
箸もそうだが格好も考えものだ。凛の衣服は分かるだけ持ってきたのだが、寝間着らしきものが見当たらなかったので凛のTシャツを寝間着代わりに着せてやった。まだ就学前の子どもには大きく、裾は尻まですっぽり覆える長さだ。胴回りがあまりに違いすぎるため遙のハーフパンツは貸してやれないし、ひとまずこれでいいだろうと判断したのだが、ちょっとばかりかわいそうな見た目になっているような気がする。
ちょこちょこと動く凛の手つきを見るともなしに眺めながら、遙は今日のうちに買うべきものを頭の中でリストアップしていく。
あれもこれもと右往左往する思考の真ん中に、するすると何が入り込んできた。瞬いて見下ろせば、傍に寄ってきた凛が俯きがちに空の茶碗を差し出している。
「なんだ」
「……おかわり」
朝からよく食べるなと感心が半分、案外と遠慮がないなという気持ちが少し。
けれど遙は昨日、厄介は御免だとばかりに凛を押し付け合う親戚たちの前で「俺が引き取る」とはっきりと公言した。半ば勢いのようなものだったし、三十を過ぎてもまだ独り身の遙には親になるなんて覚悟もできていない。同情だけで買って出た、間違った判断だったのかもしれない。
それでも凛は、来いと言って伸ばした遙の手を選んだのだ。
しっかりと握り締めてくる丸みを帯びた手の柔らかさと、大人よりも幾分高い温度を、遙はしっかりと覚えている。そして忘れるつもりも、やっぱり無理でした、などといって無責任に手放すつもりもない。その日がいつになるのかは分からないが、凛がもう遙の手は必要ないと判断するときまで、あるいは然るべき誰かが凛を迎えに来るその日まで、ずっと傍にいたいと思っている。
だから昨日から、この家は遙の家ではなく、遙と凛の家で、凛は遙の家族なのだ。家族ならば遠慮など必要ない。どちらかというと、両手で控えめに茶碗を捧げ持っている姿にこそ苦言を呈すべきだろう。
ひとまず遙は空の茶碗を受け取って、のっそりと立ち上がった。迎え入れた遙自身、まだ遠慮がないなと思ってしまっている。一昨日初めて会ったばかりの大人と子どもが家族の姿になるには時間がかかるはずだから、敢えて急く必要はない。どちらかというと空腹の子どもを満たしてやることのほうが急務である。
とはいえ、冷蔵庫の中は先ほど見た通りである。
「もう米しかないぞ」
炊飯器を覗き込みながら呟けば、後ろをついてきた凛が背伸びをしながら答えた。
「いいよ、おにぎりにするから」
「おにぎりの具になるものもない」
「塩おにぎりにする」
子どもにしては渋い答えである。
遙は炊飯器の米を空の茶碗によそい、ついでに食卓塩を差し出す。凛は爪先立ちでシンクに身を乗り出して手を洗い、濡れたままの手に塩を少しだけ振って、それから茶碗の米を鷲掴みにした。
「おい、熱いぞ」
「大丈夫」
もくもくと湯気を立てる米を、凛は右手に左手に往復させる。子どもの小さな手のひらはもみじのように赤くなっているが、凛は熱がる様子もなく米を握っていた。きっと手馴れているのだろう。瞬く間にちいさな俵型のおにぎりがひとつできあがった。
つやつやと凛の手の中で輝く真っ白な米は、具も海苔もない。本当に塩だけのシンプルなおにぎりである。
「本当に塩だけでいいのか」
「でも、やさしい味になる」
できたばかりのおにぎりを、凛は遙に向けて差し出した。
これはお前が食べるために握ったんじゃないのか。俺はまだ自分の分が残ってるから。脳裏に過ぎった言葉は声にならず、代わりに遙は身を屈めて口を開いた。凛が更に手を伸ばしておにぎりを差し出し、遙はぱくりと小さな俵を口内に収める。
黙って見上げてくる凛を見つめ返しながら、遙はちいさなおにぎりをゆっくりと咀嚼する。口の中いっぱいに味わって、飲み込んで、それから思ったままを口にした。
「……うまい」
遙の一言に凛が破顔する。初めて見る凛の満面の笑みだった。
噛み締めた米はあたたかく甘く、ほんのりと塩っぱくて、今まで食べたどんなものよりもやさしい味がした。
遙が完食する姿を見届けて、凛はまた米を手に取って握り始める。できあがったちいさな俵を口の中に押し込んで、もぐもぐと咀嚼しながら再び手を洗っていた。爪先立ちで手を伸ばす姿は不器用そうに見えるのに、器用なものだと思う。遙が凛の年の頃はどうだったか、なんて思い出せないが、この歳の子どもが率先しておにぎりを握るのは普通のことなのだろうか。とにかく近いうちに踏み台になるものを用意してやろうと思う。
凛の丸い後ろ頭がくるりと動いて遙を見上げた。
「おじさんももう一個食う?」
「……おじさんはやめろ」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
確かに遙は三十も回り、若いと言われる歳ではない。世間的に見てもそろそろ「おじさん」と呼んで差し支えないのかもしれないし、遙自身まだ若いと反駁するつもりもない。凛ぐらいの歳の子からすれば世間の三十路たち哀愁など理解し得ないものだろう。
が、悪意なく真正面からおじさんと呼ばれるのもいただけない。しかも凛とはこれから一緒に暮らして毎日顔を合わせるのだから、その度に「おじさん」と呼ばれることになる。それに遙からすれば祖父の隠し子らしい凛の方が文字通り「叔父さん」なのだが、そんな大人の事情は凛が知らなくてもいい話だ。少なくとも、今はまだ。
脱線しかけた思考をおにぎりを握り続ける少年に戻す。遙はほんの少し考えた結果、
「おじさん、以外で好きに呼べ」
投げやり気味に返した。
お父さん、と呼ばせるのも何か違う気がするし、遙にもまだその覚悟はない。幼い凛が今の状況をどう考えているのかはおいおい確かめていかなければならないところだが、結局最後は凛次第だ。「おじさん」も「お父さん」も頂けないが、遙が凛に強要できるものでもないのかも知れない、とも思う。
凛は首を傾げ、くすんだ木目の天井を見上げた。んー、と喉の奥から声を漏らして、指先で固まりかけている米を舌でねぶって、最後に「あ」と声を上げる。赤茶けた頭が大きく上下して遙を見上げた。
「ハル!」
「…………」
「おばちゃんたちが呼んでた!」
確かに祖父の葬儀に集まった年嵩の親戚の女性たちは、軒並み遙のことを「ハルちゃん」と呼んでいた。
遙ももう三十路を超えたのにちゃん付けで、女の子のように名前を呼ばれるのは勘弁してほしいと思っているのだが、如何せんめったに会わない親戚たちに強く言うこともできない。疎遠だからこそ恐らくおばたちの中では遙はまだ小さな「ハルちゃん」で、そして遙にとってもおばたちは頭の上がらない「大人」なのだ。
そしてこの凛の、曇りのないきらきらとした瞳である。ちゃんが付いていないだけおばたちよりもマシだとは思う。凛自身も女の子みたいな名前だから、子どもなりに考慮してくれたのかもしれない。
「おじさん」は嫌で、「お父さん」も重たい。ついでに「お兄さん」と呼ばせようとは端から考えなかった。それはちょっと図々しいように思う。
「なあ、ハル」
家族を示す語でもなく、他人に向けるには気安い呼び方で、凛は遙をじっと見上げて待っている。
期待に満ちた瞳に、子どもで呼び捨てで呼ばせるなんて教育上よろしくないのではないか、そんな考えも消え失せた。ふっと息を吐いて、少し冷めたおにぎりを大事そうに抱える凛に答える。
「何だ、凛」
凛は大きく頷いて、またおにぎりを差し出す。受け取って口に放り込めばやっぱり少し冷めていて、けれどさっきよりずっと、やさしいやさしい味になっているような気がした。
- 2014.2.21
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