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食物連鎖

 夏の地方大会を終えて以降、凛の周りは遙の目から見ても騒がしい。
 まずは渚だ。小学生の頃から懐こく凛に迫っていた渚は年を重ねて落ち着くどころ更に威勢を増してかおり、今では主に怜が辟易させられている。当然、同じ水泳部であり幼馴染である遙と真琴も渚のとんでもない発案の被害に遭っていた。近づく者を全て巻き込む小さな台風のようで、そんな渚が敵わなかったのは帰国してから地方大会までのつんけんしていた凛ぐらいだ。今の凛など言うまでもなく、最近は凛を慕っている鮫柄の一年生も渚の被害者の一人に数えてよさそうだ。
 とはいえ誰に対しても屈託なく接する渚がいたからこそ、遙と凛の今の関係があるといっても過言ではない。渚が遙たちを追って岩鳶に入学してこなければ、スイミングクラブにトロフィーを掘り返しに行くことも、水泳部を設立することもなかっただろう。凛との再会から今の和解の全てがきっと存在しなかった。遙はそれを思う度に心の底から渚に感謝するのだが、年下の幼馴染はいつでも、悪戯っぽい顔で見透かしたように笑うだけだった。
 次は江だ。凛の妹である江は渚ほど問題児的に騒がしいわけではない。剥き出しの筋肉を前にした時は別として、それ以外では今時の女子高生らしい少女である。けれど兄を前にすると、遙たちに接するのとは違う、明らかに弾んだ声で喋り、嬉しそうな表情を浮かべるのだ。遙は一人っ子なので感覚が分からないだけで、世間の兄妹とはそういうものなのかもしれない。けれど留学で長年離れていた上帰国後も連絡を絶って口を閉ざして尖っていた凛が、また柔らかく笑い、かつての幼馴染たちとともに馬鹿をやっている姿には安堵せざるを得ないのだろう。これだけは遙でも分かる。江と凛はお互いを想い合う、仲の良い兄妹なのだ。
 最後に、凛をよく慕っている後輩を含む鮫柄のチームメイト。遙が凛と彼らの人間関係を垣間見るのは大抵岩鳶と鮫柄の合同練習だが、練習を重ねるごとに凛と彼らとの距離が近く、隔たりのないものに変わっていくのを感じる。遙たちとはまた違う、いかにも今時の男子高校生らしい、部活仲間らしい雰囲気とでもいえばいいのだろうか。夏から秋にかけては後輩や引退間際の部長とばかり話していたように思うが、年も明けてしばらく経った最近では、凛と他の鮫柄水泳部員が軽口を叩き合い、談笑し、肩や背中を叩いて励まし合っている光景も珍しくなくなっている。
 昔遙の前に現れた凛は、少しお調子者で立ち回りが上手くて、クラスでも人気者のリーダー格といった少年だった。あの頃よりも齢を重ねたことや留学してからの挫折、そして恐らく存在しただろう部内での軋轢を考えると、今の凛が小学生の頃と全く同じように振る舞っているとは思わないが、凛は元々人との距離を測るのが上手い奴だ。わだかまりがなくなって以降は少しずつそういった部分を出していっているのだろう。もう二ヶ月もすればきっと、強豪の鮫柄水泳部に多くの新入部員が入ってくるだろうけれど、そこでもきっと慕われ頼られる先輩になるだろうことは想像に難くない。
 とにかく、今の凛は岩鳶高校水泳部と妹と鮫柄高校水泳部と、いろんな人間に愛される人気者なのだ。遙は自分と凛とは感覚的なところで一番深く繋がっていると自覚して疑っていないが、それでも時折もやもやしたり嫉妬めいた気持ちになったり、慣れない感情に振り回される程度には、凛はいろんな人間に愛されている。


 そんな凛の誕生日ともなれば、寄ってたかって祝われ持て囃されて、そして主役の奪い合いになるのも最早当然といえる。いつものように岩鳶高校水泳部プラスアルファの溜まり場と化した七瀬家の居間で湯呑みを傾けながら、遙は目の前の騒動をぼんやりと眺めていた。
「ええええええ、凛ちゃん、土曜日も日曜日もダメなのお?」
 白い大きな垂れ幕を上下に振りながら、渚が目一杯の遺憾の意を込めて声を上げた。
 がしゃがしゃと騒がしく揺れる幕は、恐らく真琴の誕生日の際に用いた垂れ幕と同様のものである。垂れ幕の意図に気づいた凛が恥ずかしそうに渚の手からそれを奪い、くるくると巻き始めた。
「土曜は部活があるし、日曜は実家で江と母さんが祝ってくれるって言うからよ」
「部活の後とかはダメなんですか? 前日からご実家に戻られるんでしょう?」
 頬を膨らませる渚の隣で、怜が控えめに口を挟んだ。初めの頃は凛の態度と行動に苛立っていた怜だが、今ではこうして渚と一緒に凛の誕生日会を企画する程度の仲になっている。
 同じバッタを泳ぎ、似たような理論派気質の凛と怜は反目も多いが、その分通じ合うところがあるらしい。怜もまた、遙とは違う性質のひっそりとした繋がりを凛との間に抱いているようだった。嬉しいような、もやもやするような、どうにも座りの悪い気持ちだ。現に今も、凛は羞恥で真っ赤に染まった耳を横髪で隠しながら少し眉尻を下げて、怜にだけ見せる宥めるような笑顔を浮かべている。
「いや、部活の後皆が祝ってくれるっつーからよ。日曜起きてから実家に帰るつもりだ」
「そうですか……ご家族水入らずのところを邪魔するわけにもいきませんし、残念です」
 今年の凛の誕生日、二月二日は、うまい具合に日曜日だった。お祭り騒ぎの好きな渚と、引きずられるような形になった怜は土曜日か日曜日、でなければ金曜日にでも時間を作って凛の誕生日会を開催するつもりだったらしい。が、のんびりと構えすぎていたのか既に先約で埋められてしまったという。今まで真琴や怜の誕生日やらハロウィンやらクリスマスやら、何だかんだで明確な約束なしでも集まれていたので今回もそのつもりだったのだろう。いつものように勝手に自宅を会場に設定されていた遙も、まさか断られることになるとは思っていなかった。
 遙と同じように湯呑みを傾け、真琴が苦笑めいた調子で呟く。
「俺達と違って鮫柄は冬でもプールが使えるし、部活も夏とほとんど変わらないスケジュールでやってるもんね」
「ああ。悪ィな、金曜の夜まで潰しちまってよ」
「それは仕方ないよ。残念だけど、部活でクタクタなのにここまで来てもらって次の日もまた部活っていうのも疲れると思うし」
「月曜日は普通に学校ですから、日曜にご家族で過ごされた後来て頂いてまた寮に、というのも申し訳ないですしね……」
 ガックリと項垂れる渚に続けて、怜も大きく肩を落とした。自分たちは学生で本分は学業にあり、凛にとっては部活だって大事なものだ。そこを押してまで誕生日会を無理に開くのもおかしいし、全ては先に凛の日程を押さえておかなった自分のミスだ、と怜は思っているのだろう。
 遙と同じことを考えたのか、凛はふっと笑って怜に手を伸ばした。何事かと目を丸くする怜ににっと笑いかけて、節立った指を伸ばし――きれいに前髪の分けられた怜の額を、ぴしりと指で弾いた。
「あだっ!? ったぁ~~……急に何するんですか凛さん!!
「お前らこそ何深刻な顔してんだよ。たかが誕生日だろ」
「たかがって凛ちゃん、」
 身を乗り出す渚の前に、怜の額を弾いた指がすっと差し出される。
「俺はお前らに祝ってもらえるだけで嬉しいからよ。こけちまうけど、来週の週末だったら都合もつくし、何だったらそっちで祝ってくれよ」
 な、とついでに小首まで傾げてみせる。渚と怜は言葉を詰まらせて、それから弾かれたように大きく頷いた。
 じゃあ来週ね、絶対だよ!と抱きつく渚を受け止めて、凛は楽しそうに笑っている。日はずれてしまいますが完璧な誕生日会を開いてみせますよ、と隣で怜が息巻けば、凛は期待してるぜと朗らかに返していた。遙の隣では少し残念そうに、それでも話がまとまったことに真琴が安堵の息をこぼしている。
 遙はじっと凛の横顔を見つめて、手元の湯呑みに視線を落とした。短い茶柱が底に沈んでいる。ちいさな水面には赤茶けた顔の少年が浮かんでいた。
 今の凛は、まるで昔の凛のようだ。スイミングクラブのロッカーで全く同じような光景を見た記憶がある。はしゃぎながら凛に抱きつく渚と、余裕ぶった兄貴らしい顔で渚に微笑みかける凛。二人を見ておっとりと笑う真琴。そして、仏頂面で凛をじっとりと見つめる自分。
 凛はまた、何かを隠している。凛は嘘をついている。
 今よりももっと賢しらしい、夢に夢見る少年だった凛の姿で。


 月が変わって二月になった。凛の誕生日の前日で、土曜日だ。
 プールの使えない岩鳶高校水泳部は午後から陸上トレーニングに励み、それなりのメニューをこなしてそれなりに練習を切り上げた。実にやる気のない言い回しだが、実際こんな感じだったのだから仕方がない。というのも、ずっとマネージャーの江がそわそわしていて、彼女の落ち着きのなさが遙たちにまで伝播してしまったのだ。上の空な江を見ていると、全員嫌でも凛のことを考えてしまう。今頃凛は鮫柄で、彼の仲間たちに祝われているのだろうか。明日の凛はどんな風に実家で過ごすのだろうか。休憩の合間にもそんな憶測や、あるいは来週に持ち越された凛の誕生日会の計画ばかりが話題に上った。
 練習が終わった瞬間、そわそわしっぱなしだった江は弾丸のごとく学校を飛び出した。いっそ鬼気迫るぐらいの勢いに反し、心底嬉しそうに柔らかく弾む赤茶のポニーテールを見送って、遙たちもどことなく落ち着かない気持ちで校門をくぐった。
 春の訪れを感じる、などという定型句を使い始める二月になったとはいえ寒さは厳しい。海や山からの風は頬を刺す冷たさで、日の入りだってまだまだ早い。夏のようにのんびりと寄り道や買い食いをするには不向きで、自然、遙たちも早々に別れて家路につくことになった。
 遙は真琴と一緒に他愛もない会話を交わしながら――やはり凛の話題が多かった――海の見える帰路を歩き、互いの家の前で別れた。
 休日に不在だった兄を責める双子の声を背に、遙は一度家の中へと入る。誰もいない家はしんと冷えていて、それでも閉め切っていたおかげで外気よりはまだ温かい。制服から私服へと着替え、部活で使ったウェアを洗濯機に放り込んでから、財布と、近頃は持ち歩くよう心がけている携帯電話を手に再び家を出た。目指す先は近所のスーパーで、目的は食材の買い出しだ。
 いつもなら学校帰りに、過保護にも荷物持ちを買って出る真琴と一緒に訪れることが多いのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。主婦や仕事帰りらしき人で賑わう店内を、遙はカートを突いて歩き回る。真っ先に鯖を確保して、それからいつも常備している食材で不足しているものを適当にカゴに放り込んでいく。
 ひと通り売り場を巡って、それから遙は普段はあまり近寄らない、肉売り場へと足を運んだ。魚に比べると厳選し慣れない赤い一帯を見回し、悩んだ挙句大きめのトレイに入った牛肉を一パック、カゴの中に追加した。レジで精算を済ませ、重たいスーパーの袋を抱えてまた冬の空気へと泳ぎ出す。今度は一人で海の見える道を黙々と歩き、不意に人気のない浜辺で足を止める。
 重い袋を下ろして、砂浜へ続く小さな段差に腰掛ける。上着のポケットから使い慣れない携帯電話を取り出し冷たい指先でたどたどしくボタンを操って、アドレス帳を呼び出す。キーを押して画面を上下させ、アドレス帳の中でもいっとう見慣れない、もしかすると一度も連絡を取ったことのない二人の人物の名前を見比べる。うろうろと指を彷徨わせながら先にどちらへ確かめるか悩み、結局、数時間前に見送った赤茶の尾ひれを選んだ。
 発信ボタンを押してワンコール、ツーコール。なかなか相手は出ない。明日の準備で今からバタバタしているのかもしれない。遙とて急ぎの用事なわけでもなく、のんびり待つつもりで海へと視線を転じる。海も、海に映る空も、既に夜の色を刷いていて暗い。あいつはどこにいるのだろうと思った瞬間コール音が止み、続けてぷつりと小さな接続音が遙の鼓膜に刺さった。


 買い物から帰り夕飯の支度をし、一人の食事を終えて風呂に入ってしまえば後は特にすることもない。明日は日曜日で片付けなければならない課題もないし、部活もないから急いで今日使ったウェアを洗濯する必要もない。いつもの遙なら早々に布団に入ってしまうところだが今日は違った。
 じりじりと這い寄る眠気を気合で制し、遙は日付の変わる頃になってのっそりと立ち上がった。いつもならすぐにでも横になれるラフな格好をしている時間だが、今日はまだ夕方買い物に繰り出した時と同じ格好をしている。そこにコートを羽織りマフラーを首に巻き付け手袋をはめ、最後に懐中電灯を持てば完成である。遙は近所に響かないよう、細心の注意を払いながら玄関の扉を開き、ぐっと冷え込む夜の空気に身を滑らせた。
 雪が降っていなくて本当に良かったと思う。懐中電灯のスイッチを入れ、慣れた住宅街の深夜の顔を照らしながら、夕方電話で確認した場所を目指す。
 目的地は海の見える山間だった。まばらな街灯と懐中電灯の明かりを頼りに、斜面に敷かれた細い道を登る。こんな真夜中に訪れる人間などまずいない場所だが、遙の確信の通り、そこには先客がいた。懐中電灯を擡げ、地面から足先へ、足先から腰へ、胸元へ、光を掲げる。黒っぽいその人影が動き、遙をゆっくりと振り向いた。
「――ハル」
 胸元から、目に当ててしまわないよう気をつけながら更に上へと光を移す。横に逸れた光は黒っぽい、つやつやとした四角い影を浮き上がらせた。墓石だった。先客の立ち位置のおかげで見えにくいが、確かめるまでもなく、石には「松岡家之墓」と刻まれている。
「こんな時間に墓参りか、凛」
 ここは凛の父親が眠る、墓所だった。
 白い光の輪の端で、凛が瞠目している。遙を映す瞳はぱちぱちと瞬く度にきらめいて、篝火のように揺れていた。半ば開かれた凛の唇が、なんでここに、と問いただす形で震える。
「江に、電話で聞いた。お前の様子がおかしかったから」
 墓石を傍らに立ち尽くす凛に、遙は一歩、また一歩と近づいていく。
「それから、鮫柄のお前の後輩にも聞いた。凛先輩はそちらで楽しく過ごしてますかって言われた」
 凛が部活の後、鮫柄のメンバーたちに誕生日を祝ってもらったことは間違いない。だがその後に少し誤差があった。凛は寮で夜を過ごし、誕生日当日である日曜の朝、つまり明日の朝実家に戻ると言っていたはずだが、凛の後輩の話を聞くに、凛は外泊届けを出して今晩の内に実家に戻っていることになっていた。当然、江はそんなことは言っていなかったし、遙の家に泊まりに来てもいない。凛の空白の時間がここに、凛の父親の墓にあった。
 遙が近づいて僅かに身じろぎはしたものの、凛は逃げようとはしなかった。海を望む袋小路の高台で逃げる場所もないのだが、凛はふっと吐いた息とともに全身の力を抜く。遙を受け入れる姿勢だった。
 赦された距離を厳かに詰め、遙は凛の傍らに並ぶ。凛に問いかけるよりも先に墓前で膝をついて、目を閉じて両手を合わせた。ここには凛のすべてに繋がる、彼の父親が眠っている。凛の実家がある佐野ではなくここ岩鳶に墓所を構えていることを初めは意外に思ったが、父親は岩鳶スイミングクラブに通っていたという昔の凛の話を鑑みるに、松岡家は元々岩鳶町に存在する家なのだろう。
 墓前で手を合わせ、けれど凛の父に伝えるべき内容も思い浮かばず、遙は脳内で簡単に自己紹介と自身から見た凛の近況を並べ立てた。
「……なあ、ハル」
 凛は相変わらず面倒くさいやつです、と締め括ったところで、傍らの凛が遙の名前を呼んだ。
「日付、変わってるか」
「……たぶん」
 家を出た時間とここまで歩いてきた時間を考えるに、恐らくもう、二月二日になっているだろう。今日は凛の誕生日だ。
 合掌を解いて、黙って凛を見上げる。凛は遙ではなく墓石を見つめていた。瞳の中の篝火は迷子の子供にも似て頼りない。
「おれのおやじの話、覚えてるか。メド継の前に話した、おれがお前らと泳ぎたかった理由」
 頷く。あんな傍迷惑な事の顛末も小学生らしからぬ行動力も、忘れられるわけがない。
 この暗がりで見えるのだろうかと思ったが、頷いた気配を察したらしい凛が墓石から遙へと視線を転じた。光と影に二分する懐中電灯の光の向こうで、白黒になった凛が笑っていた。
「今日は、おれがおやじを殺した日だ」
 風が吹けば飛んでいってしまうような、力のない、けれどもやさしい笑顔だった。
 遙も立ち上がる。飛んでいってしまわないようにと凛の手を握れば、いつからここにいたのだろうか、掴んだ手は氷のように冷えていた。遙は己の手袋を取り去り、凛の両手を剥き出しになった手のひらでまとめて囲う。
「おれが生まれた時、おやじはまだ二十三歳だった。選手としては伸び盛りで、たぶん一番体力も気力も充実してた歳だ。その歳に、おやじは夢を諦めたんだ」
 遙のされるがままになりながら、凛はぽろぽろと言葉を取り落としていく。遙は凛のいとけない声に耳を傾けながら、凛の手を握ったり擦ったりして温める。
「おれが、できたから。生まれるから。アテのない競泳選手じゃなくて、家族を養うために漁師になった」
 凛は今日、十七歳になった。早生まれの凛と六月生まれの遙の年齢も並んだ。
 二十三歳まであと六年もある。あるいは六年しかない。
 今の遙には二十歳は随分と大人のように思えるが、案外今と変わらないのだろうか。それとも残りの六年で、劇的に変わってゆくのだろうか。もし二十三歳で、誰かを守り育む立場になったとしたら、遙は、凛は、どうするだろうか。
 稀有な放任主義とはいえ未だ親の庇護のもとで生きる遙には、凛の父親の選択は途方もないものに思えた。途方もないなりに、先の約束されていない不安定な競泳選手ではなく、堅実な収入の見込める漁師になったのも仕方のないことだと思う。
「おれがおやじの夢を奪って、漁師にさせた。おれが生まれなきゃ、おやじは競泳を続けてて、漁師にはならなくて、嵐に遭って船が沈んで、死んじまうこともなかったんだ」
 ぽろぽろと吐き出して、凛は言葉を詰まらせる。
「だから……」
 仮定の世界は果てがなくて、甘い幻想だ。もし、もしも、もしかしてと頭に言葉をくっつけるだけで、どんな過去も未来も描けてしまう。
 今の凛は幻想に足を取られて転んで泣いている子どもだ。もし自分が生まれていなければ、もしも父親が漁師にならなければ、もしかして父親はオリンピックの選手になって、金メダルを獲っていたかもしれない。
 凛の手を掴む両手に力を込めて、遙は力強く言い放つ。
「凛は、もう死んでる」
 え、と凛が声を漏らす。うろうろと揺れていた瞳が、ようやく遙を映した。
 凛の瞳の奥で揺れる篝火を絶やさないよう、遙は言葉で薪をくべる。
「もし生まれてこなきゃ、なんて考える必要ない。父親を殺した松岡凛は、もう死んでる。もういない」
 凛は元よりロマンチストだ。大層な夢想家で、それは可能性と想像力を翼に飛んでいることに他ならない。発想が自由な分、要らない考えを見つけて拾い上げてしまうこともあるのだろう。
 飛んでいってしまいそうな凛を、言葉と両手で繋ぎ止める。
「あの夏の日に、俺が殺した」
 オリンピックを目指すのは俺の意志だと凛が言い放った、あの時。遙が凛を掬い上げた時に、凛の禍根はすべて水に溶けたのだ。
 それでも人間はすぐに変われる生き物ではない。迷いもするし、心が弱くなったりもする。すると捨てたはずの重石に容易に足を取られるのだ。今日の凛はきっと自分が生まれた日をきっかけに父親を見つめ直して、夏より前の不安に絡め取られてしまったのだろう。
 立て続けに告げる遙の言葉は、もしかすると凛にとっては意味の分からない、飛躍したものかもしれない。それでも思い悩む凛はもういないのだと、今自分の未来を目指す凛がここにいてくれて嬉しいのだと、遙はぎこちない言葉に気持ちを込める。
「――ハッピーバースデイ、凛」
 もう一度、自分の夢を選び直してくれてありがとう、と。
 少し遠い懐中電灯の光を受けて、篝火の中でぱちんと何かが爆ぜた。そのままぱちぱち、ぱちぱちと連鎖して弾け、煌き、深夜の冬の空気に火花を散らしていく。
 ずっと、凛が洟を啜った。冷えすぎたせいだろうと、届きもしないのに凛のための言い訳を見つけておく。
「……発音がなってねえ」
「だったら、凛が今度教えてくれればいい」
 少しだけ遙の熱の移った凛の手を引っ張る。取り去った手袋の片方を凛の右手にはめて、残りは遙の左手に。あぶれた左手を右手で引いて、遙は自分のコートのポケットに招き入れる。
「俺の授業料は高ぇぞ」
 戸惑って揺れる指先を待ちながら、遙は手を付けずに残してきた食卓の上の鍋を思い浮かべた。
「今から俺の家に来ればすき焼きがある」
「こんな時間にかよ」
「誕生日プレゼントのつもりだった」
 ためらっていた凛の左手が、確かな意思を持って遙のポケットに収まる。逃げないように上から自分の右手を突っ込んで、遙は狭いポケットの中で指と指を絡め合わせた。
「……じゃあ、お前も付き合えよ。ハル」
「こんな時間にか」
「お前が用意したんだろうがっ!」
 凛はちらりと墓石を振り返る。遙も静かに佇む凛の父にそっと頭を下げて、それから懐中電灯を拾い上げた。ポケットに左手を取られているせいか寒いからか、別の感傷からか、いつもより近くに身を寄せてくる凛に気付かれないように微笑む。
 ちらちらと揺れて光る凛の瞳も、きっとこれから向かう遙の家の明るい光の下で見れば赤く染まって濡れているのだろう。これもきっと寒さのせいだ。凛のための言い訳に、いつからここにいたのか、どこへ帰るつもりだったのかと説教を乗せてやろうと心に決める。
 けれど今は、二人ですき焼きをつついて温まりたいと思う。夢とともに眠る父親のもとからどうしようもなく面倒くさい息子を奪い去りながら、遙は二月の夜空に長く息を吐き出した。