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うつくしく揺れる

 うつくしく揺れる、青い、蒼い、碧い海があった。
 やわらかくあおくかがやく海では、色とりどりの魚たちがゆうゆうと舞い泳ぎ、きんと冴えた色の珊瑚たちが気ままに腕を伸ばしていた。
 凛は海をいつくしむ神さまだった。魚たちと一緒に海を泳ぎ、珊瑚のうてなで大の字になって眠るのが好きだった。海の底から太陽を見上げて、ちいさく昇ってゆくあぶくを眺めるのがとても楽しくて、いつまで経っても飽きなかった。
 うつくしい海には、ときどき人間がやってきた。遠い陸地から飛んでくる木の葉に似たかたちの器に乗って、魚をつかまえてはまた陸へと去っていくのだ。
 海の神さまである凛は良き友である魚たちをさらっていく人間があまり好きではなかったが、この世のことわりには理解があった。なのであまりにもたくさんつかまえないかぎり、そっと珊瑚の影にかくれて何もせずにいた。

 あるとき、いつものように魚をつかまえにやってきた人間の木の葉が、ふいの高波にさらわれて引っくり返ってしまった。
 木の葉の中にとらえられていた魚たちは我先にとおどり出て、七色のひかりを散らしながら海へと逃げ帰っていった。凛は魚たちがさらわれずにすんだことに胸をなでおろしたが、魚たちのあいだをただよう見慣れない影に気づいてぎょっとした。木の葉に乗ってやってきた人間だった。
 凛はたいそうあわてて、あわてて、あわてた。そうこうするうちに人間はぶくぶくとあぶくを散らしながら底へ底へと落ちていく。凛はおろおろとうろたえた末に珊瑚の影から飛び出し、人間を海の上まで引っぱり上げてやった。
 さかしまになっている木の葉を、うんしょ、うんしょと引っくり返し、担いでいた人間を器の底に押し上げてやった。凛は海の神さまだったが、体は大きくはなく、自分の倍ほどの大きさの人間を押し上げるのには苦労した。
 器の底にどすんと落っこちて、人間はぱっちりと目を開けた。しばらくごほごほと咳き込んで水を吐き出して、ゆっくり息ができるようになってから凛にお礼を言った。
 凛は初めてまともに人間を見たので、恥ずかしくなって海の底に潜ってしまった。
 突然いなくなった凛に人間はびっくりして、しばらく木の葉を揺らしながら海の上をぐるぐると回っていたが、やがてあきらめたのか陸へと帰っていった。
 凛は珊瑚の影から抜け出して、そっと波間から木の葉のゆくえを見送った。
 それから人間は、何度か凛のいる海へとやってきた。凛はやっぱり姿を見せなかったが、人間は魚をとることもせずどこにいるとも知れない凛にお礼を言って去っていった。
 何度も何度もそんなことが続き、人間はお礼だけでなく、他の話まで海に向かって語り始めた。人間は魚をとる漁師で、この海から少し離れた、白い砂のうつくしい陸に住んでいて、この海にも負けないうつくしい妻がいて、海に落ちる夕日よりもまぶしく、かわいらしい娘がいるのだという。
 人間は妻や娘の話を、やっぱり姿を見せない凛に語るようになった。魚をとるのもそこそこに、楽しそうに話をしていった。
 やがて人間は、妻と娘のことだけでなく、自分のことを話し始めた。泳ぐのが好きで、泳ぐのが得意で、誰よりも速く泳ぐのが『夢』だったのだと話した。
 海の神さまである凛にとって、泳ぐことは息をすることと同じだったので、『夢』というのはちょっとばかりちんぷんかんぷんな話だった。
 けれどどうしてもおかしなことがあって、凛は思わず声を出してしまった。
 凛の口からこぼれた音はあぶくになり、ぷくぷくと水面まで昇り、人間の乗る木の葉の真ん前でぱちんとはじけた。
「初めてあったときは、引っくり返って沈んでたのに」
 人間はぽかんとして、それからすぐに大きな声で笑った。
 凛は恥ずかしさにさっと頬を赤く染めて、けれどなにかおかしくって、ちいさな声で笑った。笑い声もあぶくになって、波のあいだでぱちぱちとはじけた。
 それから凛は少しずつ、人間の『夢』の話を聞いた。やっぱり凛にはちんぷんかんぷんだったけれど、人間のとびうおのように跳ねる声や、水の向こうに見える表情がとっても活き活きとしていたから、凛もだんだんと『夢』のことが好きになった。ずっと珊瑚の影に隠れていた凛は人間が来るのが待ち遠しくなった。海の上に顔を出して、まるい水平線の向こうに木の葉の先っぽが見えるのをじっと待っているようになった。
 あるとき、大きな嵐がやってきた。海と同じ真っ青な空は黒くよどんで、ぶ厚い雲が太陽を覆い隠してしまった。雨が強くうちつけて、いつもは穏やかな海も大きくあぎとを開くようにうねって暴れまわった。
 凛は海の底で、嵐が過ぎるのを待った。嵐は三日三晩続いた。
 嵐が去った次の日、凛は海の上に顔を出した。海はすっかり凪いでいて、さらさらと流れる風の下、いつも通り気ままにたゆたっていた。凛と同じように珊瑚や岩の影に隠れていた魚たちもすいすいと海の中を舞い泳ぎ、やっぱりいつも通り、色とりどりにうろこをきらめかせていた。
 海がいつもの姿を取り戻したのに、凛の心は落ち着かなかった。あんなに頻繁にやってきて、凛にたくさんの話を、『夢』の話をしてくれた人間が、ぱったり姿を見せなくなったのだ。
 凛は三日三晩、波間をただよいながら、水平線の向こうに木の葉の影が差すのを待った。待てど暮らせど、水平線はまるいかたちで頑固に居座っていた。
 それから凛はもう三日三晩待って、また三日三晩待って、もう三日三晩待ってみた。
 やっぱり木の葉は、人間はやって来なかった。
 凛はついに決心して、いつも木の葉のやってくるほうへ、白い陸を目指して旅立った。
 ひどく時間をかけて決心したのに、凛の旅は太陽がちょっと居眠りをして、肩を落っことしたぐらいの時間で終わった。白い砂の陸地はすぐに見つかったのだ。
 凛が遠巻きに陸をうかがっていると、白い砂の上に、人間たちが白い列を作り、白い長細い箱を抱えて歩いていた。
 凛はあれはなんだろうと首を捻り、白い列の頭から尻尾まで、まじまじと眺めた。そうして、あっと声を上げた。
 白い列の尻尾の先で、海に落ちる夕日よりもまぶしい、赤い娘が歩いていた。人間が凛に語った娘に違いなかった。凛は海の底でも海の上でも、あんなにまぶしい赤を見たことがなかったからだ。
 凛は人間たちに見つからないように、そうっと陸へと近づいた。ぎりぎりまで近づいて、凛は自分の行動が無駄だったとすぐに気づいた。
 白い人間たちの列はみんな、ひどくくらい顔をして、そろってうつむいて歩いていた。誰も海のほうなんて、凛のほうなんて見やしない。じっと白い砂を見下ろしながら進んでゆく。あんなにまぶしい赤の娘も、このあいだの嵐の空よりも、光の届かない深い海の底よりもくらい顔でうなだれていた。娘の夕日を閉じ込めたみたいなひとみからは、色のない水がこぼれていた。
 娘はうつむいたまま、白い砂に向かってぽつりと呟いた。
「お父さん、どうして死んじゃったの」
 人間はあの嵐の夜に、海で溺れて死んでしまったのだ。
 凛は白い陸を離れ、いつもの海まで戻った。珊瑚のうてなに顔を埋めて、おおきな声で泣き叫んだ。凛の声にびっくりした魚たちが珊瑚の周りに集まって、七色にうつくしく輝きながら、どうしたの、泣かないでと声をかけたが、凛の泣き声はあんまりにもおおきくて、ひとつも凛の耳まで届かなかった。
 凛の泣き声はおおきなあぶくになって、あの木の葉がいつも浮かんでいた場所まで昇って、ぱちんぱちんと絶えずはじけた。けれどそれを見て笑う人間はもういなかった。凛の涙は海に混じってとけて、あっちへこっちへ流れていってしまった。
 凛は泣いて、泣いて、泣いた。三日三晩泣き続けた。
 ついには声も涙も涸れ果ててしまって、ひくりと喉からこぼれた声があぶくに、ぽろりと目尻からこぼれた涙が光になった。
 凛はこぼれた光をこぼれたあぶくにつかまえて、お気に入りの珊瑚のうてなの真ん中にそっと乗せた。
 凛はこれを『夢』と呼んで、叶えられなかった人間の代わりに、おおきく、おおきく育てることにした。天国は空の上の、ずっとずっと高いところにあるそうだから、遠い天国からでも見えるように、おおきく育てることにしたのだ。

 数年後、『夢』は水平線の向こうからでも見えるぐらい、とてもおおきく育った。
 あまりにもおおきく育ったものだから、凛の育てた『夢』は遠い陸からでも見えるようになった。おまけに凛が大事に大事に育てて、ぴかぴかにあぶくを磨くものだから、人間たちがこぞって『夢』を一目見ようと海を訪れるようになった。
 初めのうちは『夢』に触れないのならばと見守っていた凛だが、次第に訪れる人間たちは『夢』を引っぱって陸まで持ち去ろうとするようになった。凛は怒って高波を作り、人間を追い払った。そんなことが何度も何度も続いた。
 人間は何度も追い返される内に、凛の育てた『夢』を金銀財宝のように思い始めた。
 ――海の向こうのあの光は、宝の山が光っているのさ。荒れる波を乗り越えて辿り着けば、あの大きな宝の山をすべて自分のものにできるんだ。
 ついにはそんな噂がついて回り、今までよりずっとたくさんの人間が凛の『夢』を奪おうとやってくるようになった。
 凛は珊瑚たちに頼んで、『夢』を覆う大きな壁を作ってもらった。
 けれど人間たちは大きな木の葉で高波を超え、炎を吹く枝や鋭く尖ったうろこで珊瑚の壁を壊し、『夢』を我が物にしようと絶えず押し寄せてきた。
 ついに凛は酷く怒って、大きな大きな波で人間たちを押し流し、押し潰し、壁にへばりつく人間を珊瑚の腕で串刺しにして殺してしまった。
 凛はすっぽりと『夢』を覆う、大きな珊瑚の城を作り上げて、『夢』と一緒に城の中に引きこもってしまった。
 それでも人間たちは、いつまでもいつまでも、『夢』を奪いにやってきた。

 ある日また、『夢』を目指して一人の人間がやってきた。
 凛はいつものように大きな波と珊瑚の腕で人間を追い払ったが、その人間はちっとも怯む様子を見せず、何度凛が遠ざけても、そのたびにまた珊瑚の城へやってきて壁を乗り越えようとした。
 凛は何度も何度も追い払ったが、あまりにもその人間がしつこくやって来るものだから、ある日珊瑚の隙間からそっと人間の顔を覗いてみた。
 そうして、ちょっと、どきっとした。
 何度もひどいやり方で追い返したのに、人間はけろりとした顔で珊瑚の壁をよじ登っていた。人間の瞳は凛がいつくしんでやまない海よりももっと澄んだ青をしていて、なのになんだか、風も波もない、不吉の前触れみたいな色だった。
 あんまり覗いていると瞳の中に吸い込まれてしまいそうで、凛は慌てて珊瑚の間に顔を引っ込めた。それからいつも通り、大きな波で人間を押し出した。
 やっぱり、次の日も人間はやってきた。あいかわらずけろりとした顔で珊瑚をよじ登っていて、けれどどことなくくたびれた様子だった。
 凛は人間を不憫に思って、背中を撫でるみたいな弱い波で人間の体を洗ってやった。その日人間は押し流されずに、珊瑚の隙間で眠りについた。
 次の日、人間が目を覚ますと、頭の近くにちいさな食べられそうな魚が数尾、並べて置いてあった。人間は不思議に思って、それでも腹が空いていたので懐から火をつける道具を取り出し、焼いて食べた。腹を満たした人間はまた、珊瑚の壁を登り始めた。
 凛は珊瑚の影からそっと、人間の姿を見つめていた。
 次の日も、その次の日も、同じことを繰り返した。そうして三日三晩ののちに、人間はついに珊瑚の城の内側へと辿り着いた。
 人間は珊瑚の内側に広がる景色に思わず息を呑んだ。
 まぶしい光を閉じ込めたぴかぴかのあぶくが、雲にも届かんばかりの高さまでふくらんでおおきくゆれていた。『夢』の光はあたりの珊瑚をやさしく照らして、この世のものとは思えない、うつくしい色でたゆたっていた。
 凛は『夢』に目を奪われている人間を、お気に入りの珊瑚のうてなの影からそうっと覗いていた。けれどもっと近くで人間を見てみたいと思ったせいか、うっかり動いてしまい、ついに人間に見つかってしまった。
 気づいた人間は、びっくりして凛を追いかけた。凛は慌てて逃げ出して、まばゆくかがやく『夢』の後ろに隠れた。
 人間は凛から少し離れたところで足を止めた。凪の海みたいな瞳に、ちかちかと光がまたたいていることに凛は初めて気づいた。
 人間がしずかに凛に語りかけた。
「俺は、見たことのない景色を見に来たんだ」
 海に染みこむ雨みたいな、すうっと心地のよい声だった。
 警戒をとかない凛に、人間は遙と名乗った。そうしてお前の名前はとたずねられ、凛は少し迷って、それからかなり迷って、最後にそっと口を開いた。
「…………凛」
 凛の唇からこぼれた音はちいさなあぶくになって、ぱちんとその場ではじけた。

 遙は不思議な人間だった。
 最初に凛に告げたとおり、遙は『夢』を一目見たいと思ってこの海を訪れたのだった。他の人間のように『夢』を宝の山だとは思っていなかったし、持って行こうともしなかった。それどころか指一本触れることなく、『夢』から少し離れたところに座り込んで、きらきらとかがやく様を黙って見つめていた。
 凛は初めこそ遙のことを警戒して遠巻きにしていたが、やっぱり追い返すことはできなかった。それに遙は何もせず、かつて凛がそうしていたように、じいっと『夢』に釘付けになっているばかりだったのだ。釘付けになるあまり食べることも忘れているものだから、凛はいつかのように魚を近くに置いてやったりした。
 そうして、次第に、凛は遙に近づいていった。
 最後には隣に座って、これは以前亡くなった人間から受け継いで、凛が大事に育ててきたのだと話をした。遙は無言で頷いて、じっと『夢』を見つめていた。凛は遙と一緒に『夢』を見上げるようになった。
 ある日、『夢』を見上げていた遙が凛のほうへと視線を向けた。突然のことだったから凛はどきりとして、けれどやっぱり突然のことだったから逃げることもできず、遙のあおい瞳を見返していた。
「きれいだな」
 遙が初めて、ちょっと笑みを浮かべてみせた。
 凛はどきどきしながらちいさく頷いて、それからそっと、遙に向かって微笑みかけた。

 こうして凛は遙と一緒に、珊瑚が『夢』を覆う海で暮らすようになった。
 遙はやっぱり不思議な人間で、海に潜れば海の神さまである凛にもひけをとらないぐらい、しなやかに水の中を泳いでみせた。ひけをとらないどころか、凛は遙ほどうつくしく泳ぐ人間を、こんなにうつくしく泳ぐ生きものを見たことがなかった。遙があまりにも自然に海で泳ぐものだから、凛は自分の知らない海の生きものがいたのかと一晩悩んでしまった。
 凛は遙と、魚たちと一緒に泳ぎ、珊瑚のうてなで手を取り合って眠り、海の底から太陽へ向かって昇るあぶくを見上げた。ぷくぷくと昇るあぶくが凛ひとりのときよりも多くて、凛はなぜか気恥ずかしくなった。
 それから珊瑚の城の中で、きらきらとかがやきの絶えない『夢』を並んで眺めた。凛は光を包むあぶくを磨くのを日課にしていたけれど、遙が手伝ってくれるようになって、凛の日課は二日に一度のものになってしまった。

 けれど遙と一緒に穏やかに過ごす日々は長くは続かなかった。
 いつまでも手に入らない『夢』に業を煮やし、人間をことごとく追い返す凛にいきどおったどこかの国の王様が、珊瑚の城を壊しにやってきたのだ。
 凛が今まで木の葉だと思っていたものとは違う、もっと大きくて恐ろしいたくさんの何かが、幾重にも列を作って押し寄せてきた。それから雷が落ちたような轟音が響いて、珊瑚たちはびりびりと震えた。
 何度も何度も音が続き、揺れが大きくなって、ついには珊瑚の城が崩れ始めた。
 凛は『夢』だけはなんとか守ろうと、崩れる珊瑚の中を進み、『夢』を抱えて逃げようとした。
 けれどおおきくおおきく育った『夢』は凛には抱えられなかった。今まで見たことがないぐらい慌てた様子の遙が凛の元へやってきて、凛は一緒に『夢』を抱えてくれるように声を上げた。
 けれど遙は凛の言うことを聞かずに、凛ひとりを抱き上げて崩れる珊瑚の城から逃げ出した。
 命からがらで逃げ切ったふたりには、大きな黒い筒が吐き出す雷に撃たれて壊れてゆく珊瑚の城と、珊瑚に埋もれてひかりをうしなってゆく『夢』を、遠く離れたところで呆然と見つめることしかできなかった。
 珊瑚の城を壊し尽くした何かが列になって去って行き、凛は泣きじゃくりながら遙の胸を打った。
 遙が手伝ってくれさえすれば、『夢』を失うことなく逃げ出すことができたかもしれないのに!
 本当は、そんなことできやしなかったことを、凛はちゃんとわかっていた。けれど死んでしまったあの人間の代わりに、今までずっとずっと大事に育ててきた『夢』を失って、悲しくて、どうしようもなくて、遙に気持ちをぶつけることしかできなかったのだ。
 遙は黙ったまま、凛の拳を受け止めていた。凛が疲れて手を下ろすと、遙はそっと凛を抱き締めて、ささやいた。
「けど俺は、『夢』よりも、凛のほうが大事だ。俺の一番大事なものは凛だ」
 凛は心臓が痛くなった。ずきずきと、どきどきと、きしむ心臓を抱えながら見上げれば、遙は凪いだ海のような静かな瞳で凛を見つめていた。遙の瞳にちらりとまたたく光を見つけて、凛は初めて、自分がどんなに酷いことをいったのかを知った。
 遙は凛を抱き締めながら泣いていた。遙もあの『夢』が大事だったのだ。

 『夢』をなくしてしまった凛に、遙は不器用ながらやさしく接してくれた。あんまりにも悲しくて眠れない夜は何もいわずに手を繋いでくれたし、凛が『夢』をなくした寂しさに泣きそうになればそっと頭を撫でてくれた。
 けれど凛は、遙がやさしくしてくれればくれるほど、何もいえなくなっていってしまった。
 今まで言葉なんてなくても居心地のよかった遙の隣が、次第に冷たく、固い、珊瑚の城のようになってしまったのだ。ついに凛はくらく沈んで、塞ぎこんでしまった。
 そうするともともとあまり喋らない遙も何もいえなくなってしまう。ついにふたりのあいだには、何のやりとりもなくなってしまった。ふたりが日課にしていたあぶくを磨く作業だって、もうないのだ。

 ある日遙は、少し出かけてくる、と告げて、どこかへ向かって泳いでいった。
 凛は返事もできないまま、膝を抱えた姿勢で遙を見送った。腕と髪の隙間から覗く遙の姿はだんだんと遠く、ちいさくなっていって、やがて水平線の向こうに消えてしまった。
 凛は遙の帰りを一日待ち、二日待ち、三日と三晩待った。
 けれど遙は帰ってこなかった。七日過ぎても、十日過ぎても、水平線の向こうには何の影も差さなかった。
 凛はそれからもう十日待って、ついに待ち切れなくなって近くの海を手当たり次第に探し始めた。
 十日探しても遙は見つからず、凛はいつかのようにおおきな声を上げて泣き始めた。またいつかのように魚たちが凛を案じて集まってきたが、凛はそこに遙たったひとりがいないことがひどく悲しくて、悲しくて、さらにおおきな声を上げて泣いた。
 ついには悲しさのあまり珊瑚の城を作り上げて、その中に閉じこもってしまった。

 それからどれほどの月日が経ったのか、珊瑚の城にひとりの人間がやってきた。
 人間は少しくたびれた姿で、けれど凪いだ海のようなあおい瞳でしっかと前を見据えて、高く高くそびえ立つ珊瑚の壁を、時間をかけて乗り越えた。
 そうして踏み込んだ城の内側の、大きな珊瑚のうてなの真ん中でまるくなって眠る海の神さまのもとへ、そっと歩み寄った。
 海の神さまは気配に気づいて目を覚まし、眠い目を擦りながら起き上がった。
 そうして目の前にいる人間の姿を見て、ひどく驚いた。
「遅くなって悪かった、凛。泣いてなかったか」
 驚くばかりでものもいえない神さまの前にしゃがみ込んで、人間はそっとひとつ、瞬きをしてみせた。凪の海には活き活きとした、あの『夢』にも負けないまばゆい光がきらめいていた。
「凛の育てた『夢』はもうないけど、俺は新しい『夢』を見つけてきた。凛と一緒じゃないと、叶わない夢なんだ」
 凛は瞳からぽろりと涙をこぼした。
 涙はぽろぽろとあふれて止まらなくなって、ついに凛は遙に抱きついた。返事もできずに泣き続ける凛を、遙はいつもと同じように、黙ったまま抱き締めた。返事なんて、聞くまでもなかった。


「今度は誰かの『夢』じゃない、俺とお前の夢を、一から育てよう。他の誰にも壊されないように大事に、天国にいるあの人にも見えるぐらい大きく」