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クイーバリンダリン

 部屋の隅に置かれた古めかしいストーブの上で、しゅんしゅんと薬缶が湯気を吐き出している。
 その温かく湿った吐息に被せるように、凛がふんと鼻を鳴らした。今まで目を通していた、真琴が恐る恐る差し出したノートを卓袱台にぺしっと放り投げて、とどめとばかりに拙い英文を指先で叩く。
「合格。ギリギリだけど」
「……アリガトウゴザイマス」
 真琴は深く頭を下げた。遙が早々に抜けてしまった三人の勉強会が始まってから、凛はイライラとした態度を貫いている。今だって彫刻刀をぶっすりと刺して力任せに裂いたみたいな、見事な縦皺を眉間に刻みながら英文を添削するものだから、真琴はまた「なってねえ」とか「初めからやり直せ」とか、「だから何で分かんねえんだお前は」とか罵られる覚悟だったのだ。
 真琴たち岩鳶高校のみならず、凛の鮫柄高校も期末試験を目前に控えている。遙と真琴ほどの危機とは縁遠いだろうが凛にだって当然試験勉強があるはずだ。現に真琴たちが英語と格闘する傍ら、凛も自分の古文の教科書を広げていた。自宅での勉強中、高校生の苦労など知る由もない弟妹に度々襲撃される真琴には、自分のペースやスケジュールを乱されながらの勉強がどんなに大変なものなのかはよく理解できる。
 できるのだが、それにしたってもう少し態度を軟化させてくれてもいいのではないだろうか。俯き加減で英文に朱を入れる凛を真琴はそろりと窺った。
 凛の試験勉強を邪魔して申し訳ないとは思うが、本当は真琴たちに頼られて嬉しいのだと凛本人以外は皆気づいている。凛がやさしい心根を激しい態度で隠してしまう性格だと、真琴も、遙も、これまでの付き合いで理解しているのだ。辛辣な物言いの割に真琴の間違いに赤ペンでしたためられる訂正が実に丁寧で細かいのもその証拠だろう。真琴はちゃんと凛のことを分かっている。
 しかし。分かっていることと、慣れることと、耐えることはまた別だということも、真琴はまた理解している。
 最初は凛の怒声をやんわりと聞き流していた真琴だったが、続けざまに怒鳴られればやっぱり多少は気が滅入る。特に遙が戦線を離脱して以降は怒りの対象が真琴ひとりに絞られたせいか余計に堪えた。買い物に出かけた遙が真琴に電話してきたあたりがピークで、電話の直後の凛は彼の性格を把握している真琴ですらひょっとして嫌われているのでは、と懸念する程度の罵りようだった。時折スラングのような耳慣れない言葉も混じって、真琴は本末転倒ながら英語が理解できなくてよかったと心底から思った。もし意味を理解することができたなら、きっと今以上に落ち込んでいただろう。
 たまに口の中で英語を転がして、それから文字に起こして訂正を入れていく凛を真琴はぼんやりと見つめる。唸りながら凛が首を傾けて、塩素で少し色の抜けた髪がさらりと滑った。晒された首筋の一点が目に入り、真琴は深く考えもせず疑問を口にする。
「凛、それどうしたの?」
「あ?」
「首の……耳の下あたり、赤くなってるけど。虫刺され?」
 凛の向こうで、薬缶がしゅんっと鋭く叫んだ。
 口に出した直後、真琴はしまったと思った。今は冬の真っ只中で、虫に刺されることのなど滅多にない。
 加えて凛の態度があからさまで、真琴は一瞬茶化して場を流すことすら失念してしまった。凛は真琴の指摘した部位に己の指先を乗せながらきょとんとした顔をして、それからすぐに首の痕にも、背後でかっかと燃えるストーブにも負けないぐらい真っ赤に頬を、首筋を染めたのだ。
 ここまで露骨な反応をされて理解できないほど真琴は初心ではない。首筋にぽつりと灯る赤は、どう考えてもキスマークだろう。
 ぱしんと水の足りない音がちいさく響く。凛が手のひらで首の痕を隠した音だ。俯いた凛の表情は赤茶けた前髪が重く下がっていて見えない。身じろぐことを躊躇わせる、微妙な具合に揺れる空気を、薬缶の音だけがゆるく掻き混ぜる。
 ええと。真琴は口の中で呟いた。音にしたつもりだったが、舌の上を転がっただけで終わってしまったようだった。えーと。もう一度呟けば、凛の前髪が微かに揺れた。今更だと思いつつ、真琴は曖昧に笑みを浮かべてみせた。
「凛も隅に置けないなあ。いつの間に彼女なんて作ったの?」
 茶化す口調を心がけてはみたものの、果たして凛にはどう伝わっただろうか。真琴自身、自分の声と笑いがいやに乾いて、空々しく響いたように思う。
 色の証左だと気づかず話題に引っ張ってきてしまったことに対するささやかな罪悪感だとか、凛は垢抜けた装いに反して案外真面目で純情だから深く突っ込まれたくはないだろうという気遣いだとか、けれど男子校で部活に打ち込んでばかりの凛がいつの間にという敗北感めいたものとか、昔を知る気の置けない友人の垣間見せる生々しさに覚える得も言われぬ感覚だとか、そんなものばかりが真琴の口を操って、ぽかりと虚ろに落ちた空白を無理から埋めようとする。それは真琴自身の意思なんて置いてけぼりで、どうにも自制のできないものだった。
 ひとり空回る真琴に水を差すように、凛の声がひんやりと落ちた。
「……る」
「え?」
 首を傾げる真琴の前で、長く垂れ下がる前髪を払いながら凛が顔を上げる。ゆっくりとした所作に引きずられるように首を覆っていた手のひらが離れていく。指先は放り投げられて久しい、机上でくたりと身を投げる真琴のノートに触れた。
「彼女なんていねぇよ。ハルがつけた」
 あかの散る紙面をペラペラと流し見て、開いたまま真琴の方へ押し出す。早く受け取れとばかりに突きつけられるノートに慌てて手を伸ばしそろりと視線を上へと滑らせれば、凛はもうすっかり平静を取り戻した様子だった。ただ目の端だけが心なし潤んで動揺を引きずっている。首に残る痕は白い首筋に映えて真琴の目を引いた。
 凛はハルがつけたと言った。
 あの痕を、ハルが。
 まるでなんでもないことのように呟いた凛は、さっさと自分の古文の教科書を広げている。茫とする真琴へは一瞥と、多少温度の下げた声を寄越すだけだ。
「間違いチェックしたら、さっさと次のページ行け」
「あ、うん」
 反射的に頷いて、真琴は赤く染まった紙面を見下ろす。少し角ばった几帳面な凛の字が白いノートを埋め尽くしている。真琴が何度も間違える箇所には特に丁寧な書き込みがなされていた。そんな凛の面倒見の良さも優しさも、今の真琴には何一つ入ってこない。
 なんでもないことのように、凛は言ってのけた。ハルがつけた、と。凛の首筋、しなやかな筋肉と熱く脈打つ血管を覆う、日に焼けない白い皮膚に、あの遙が鬱血するほど強く吸い付いて残したのだと。
 その事実は凛にとって、ほんの少し狼狽する程度の、なんでもないことなのだ。
 真琴はシャープペンシルを握る。ふわふわと感覚の遠い指先で冷たいプラスチックを掴んで、凛の細やかな訂正を視線でなぞる。するとゲルインクの赤い残滓まで生々しく見えてしまって、結局また凛を盗み見る姿勢になる。
 昔から馴染んだ七瀬家の居間が、どこか知らない、違う世界になってしまったようだった。卓袱台を挟んで対面に座る凛はつい先程まで不出来な幼馴染を罵っていた友人だったはずなのに、今は見ず知らずの男のように見える。今は不在にしている、血を分けた弟妹よりも付き合いの長い遙でさえ、帰ってくればきっと初めて遭遇する未知の生き物のように見えるのだろう。
 古びた畳の纏う消えかけた葦草の匂い、隣の仏間から仄かに染み出す白檀の香り、ひそやかに燃え続ける灯油の鼻を刺す匂い。普段は意識に昇りもしないそれらが咽返るような花の匂いに変わって、甘く、あるいは生臭く真琴を苛む。口の中に残る唾液ごと飲み下してしまおうとしても逆に渇いてゆくだけだった。薬缶がいじらしく吹き出す蒸気の音に、ゴクリと浅ましい嚥下音が混じって水になる。
「……なんだよ」
 凛の耳にも届いてしまったのか。不機嫌な声が水底に落ちた。
 単に疲れたのか、それともキスマークを話題に取り上げられて気勢が削がれたのか。怒鳴り声の代わりに胡乱な気配を漂わせた凛はつまらなさそうに卓袱台に肘を突き、やっぱりつまらなさそうな表情を浮かべて古文を目で追っている。
 そこには真琴の姿などない。かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを。ストーブの赤色に似てちらちらと揺れる瞳には、恋の歌だけが踊っている。遙への恋情だけが存在を許されている。
「凛は」
 喉の奥が乾いて張り付いている。引き裂くように真琴は声を絞り出した。
「ハルと、その……付き合ってるの」
 現実と非現実を泳ぐ思考は曖昧で、疑問になりきらない精彩を欠く声になった。
 真琴の思考に凛はどこまで気づいているだろう。相変わらず凛は恋の歌を流し見ながら、ああ、と声を漏らした。こちらも歯切れの悪い声だったが、どこか暗い感覚に呼ばれる真琴とは違い、当たり前の何かについてどう話そうか、そんな前向きでちっぽけな悩みだけが伝わってくる。卓袱台から肘が離れ、節立った指で首の痕をなぞった。
 そんな凛の所作が、真琴はどうしてだか恐ろしかった。
「付き合ってる」
 凛の声はやけにすんなりと真琴の耳を通った。
 凛は遙と付き合っている。遙が、凛の首筋に、鬱血を残した。
 それは、遙と凛、二人の幼馴染である真琴が知らない事実だった。
 幼馴染だからといって、全てを知っているわけではない。真琴は常に遙と共にいて、泳ぐ遙だとか、水が好きな遙だとか、小学校六年の冬に凛に掻き回されて憤っていた遙だとか、中学一年の冬に突然競泳をやめてしまった遙だとか、それでもやっぱり水が好きで水を求める遙だとか、高校二年の春から夏にかけて凛に掻き回されて憮然とした遙だとか、いろんな遙を知っている。けれど、例えば競泳をやめた理由、例えば遙の初恋の相手。そんなものは知らなかったし、他にもきっと知らないものがあると思っている。それは遙も同じだろう。遙が自分の全てを知っているわけではないと真琴はちゃんと理解している。例えば、真琴が今まで何人の女の子と付き合ってきただとかいつ童貞を捨てただとか、そんなもの遙は絶対に知らないと断言できる。
 お互いがお互いのことを、全て理解しているわけではない。全てを理解している必要もない。なのに、いざ遙が真琴の知らないうちに誰かと付き合っていたと知ると、酷く動揺している自分がいる。
 しかも相手は凛だ。どちらも真琴の大切な幼馴染で、凛に至っては一時期遙たちと共に悩んで、振り回されていた相手だ。遙と凛には昔から真琴の立ち入れない因縁があったが、それでも真琴は恐らく無意識に、遙と同じ立ち位置で凛を捉えていると思っていた。凛という外の世界を、遙と共に、内側から眺めているとでも言えばいいだろうか。
 けれどそれは違った。遙は真琴の思う内側になんかいない。真琴が思っていたよりもずっと気軽に外の世界を泳いでいるし、外の世界で凛と二人の世界を作っている。そこに真琴なんていなくて、遠くて高い水面に、あるいは深い水底に遙と凛はふたりで揺蕩っている。水の世界でふたり。真琴の知らない愛のことばを囁いて、口づけを交わして、体を重ねている。キスマークを残す男子高校生だ、男同士という違和感はあるものの、清い関係のまま、なんてことはないだろう。
 愛のことばを囁いて、口づけを交わして、体を重ねる幼馴染ふたり。遙と凛。それはきっと、真琴の知らない、見たことのない誰かだ。欲情の真ん中で誰かに、男に、凛に所有の証を残す遙なんて、真琴は想像すらできなかった。誰かの、男の、遙の欲情を受け止めて痕を残すことをよしとする凛も同じだ。
 真琴の目の前の凛はやっぱり恋の歌を目で辿っている。ストーブで暖かい空気が保たれた部屋の中、薄手のシャツに大きめのカーディガンを引っ掛けた格好だ。そんなものまで服の下の身体がどんなものか想像を掻き立てる材料になっているように思えて、真琴は咄嗟に俯いた。同じプールで何度も泳いだ真琴は凛がどんな体つきをしているかなんて当然知っている。同年代の男子高校生なんかよりずっと引き締まったアスリートの体だ。
 なのに、剥いてしまえば真琴の全く知らない、男を誘うような肉が潜んでいるのかもしれない、なんて思ってしまった。
「興味あるのか」
 唐突に凛が呟いた。
 はっとして顔を上げても、凛はやはり古文だけに視線を注いでいた。その内真琴の視線に気づいたのか、ふっと顔を上げる。凛との温度差がやたらと恐ろしい。それでも真正面から食い入るように見つめていた真琴に逃げ場はない。
 真琴の表情を正面から捉える凛は驚いたように軽く目を瞠って、それからちょっと笑ってみせた。ぱたりと軽い音と共に教科書が伏せられ、恋の歌が凛の視界から失せる。代わりに真っ赤に焼ける情だけが居残って、じっと真琴を見据える。
「……興味、あるのか」
 同じ台詞を繰り返しただけなのに、今度は妙に厳かに響いた。凛は歌うようにするりと、囁くように優しく付け足す。
「ハルが、童貞捨てた体」
 真琴の世界が、ゆるやかに反転を始める。
 遙がこの凛の肉体を抱いて、舐め回して、血管の上の皮膚を吸って暴いている。真琴の知らない、雄としての本能を晒け出して、速く泳ぐためだけに完成された凛の身体に欲情して、性をぶつけて、貫いている。凛はそれを受け入れて、今、なんでもないことのように、わらっている。
 しゅんしゅん、しゅんしゅん、と。凛の背後では薬缶が息を吐き続けている。小刻みな高い音に真琴の思考が加速する。童貞のような身勝手な妄想で、幼馴染たちを辱めている。なのに妄想は現実で、真琴が知らないからこそ妄想の域を出ない。片鱗を晒す凛は真琴の前で静かに目を細めている。真琴の腰から背筋、目の奥までを、ぞわぞわとした何かが迸る。悪寒なのか、中てられた性欲が先走ったのかは分からない。
「あ、る」
 真琴は自分の体が本人の意志を捨て、未知への恐慌に乖離していく様を、反対側から見つめている。
 きっと答えなくてもよかったのに。真琴が受け流しさえすれば、つまらない揶揄として霧散したはずなのに。そうする勇気が、今の真琴にはなかった。遙と凛が、真琴の知らない人間のままだという事実が、恐ろしかった。
「興味ある」
 凛が喉の奥で笑った。仔猫が喉を鳴らすようなあどけなさだった。
「なあ真琴、ハルも同じだと思うか」
「……何」
「誰かが抱いたって思うと、余計気になるのかってことだよ」
 恋の歌を謳う教科書も、丁寧な赤が書き込まれたノートも、几帳面な角ばった字が埋め尽くすプリントも、すべて凛の手によって隅へと押しやられる。代わりに開けた虚ろな場所に凛は身を割りこませた。指先から腕を差し込んで水を割り、生まれた切れ目に隙なく体を滑り込ませるように。真琴が何度も何度も見た、しなやかで自信に満ちた泳ぎとまったく同じ動きで、凛は膝を使ってにじり寄ってくる。畳の擦れるざり、という音に、境界線は崩れた。
 恐る恐る、真琴は指を伸ばす。振り払う、という最後の選択肢もとうに失せていた。凛は案外と長い睫毛を伏せがちにして真琴の指先を受け入れる。
「俺は、ハルの全部が欲しい」
 今まで聞いた凛のどの声よりも優しい、遙への愛情に溢れた声だった。夢見るように伏せた視線と、ストーブに近づき過ぎたでは済まない、赤く上気した頬。首筋の赤の生々しさや欲情とは程遠い、初心でひたむきな恋だった。凛が見た目によらずロマンチストだったことを思い出して、真琴はゆっくりと頷いた。
 真琴は、恐かった。凛は、遙の全てを欲しがった。
「……真琴なら、分かってくれると思った」
 ここで初めて、凛は真琴を見た。


 結論から言うと、凛は真琴の知る凛だった。
 もちろん凛の体を抱くにあたって知らないことも知ってしまった。勝手に遙の部屋へ上がっていって、軽快に戻ってきた凛の手にした潤滑剤のボトルの残量は鳥肌が立つほど生々しかったし、真琴の、つまり他人の陰茎にゴムを被せる慣れた手つきなど知りたくはなかったように思う。ただそれほど上手くはない凛の前戯で勃起した真琴の陰茎を目前に、凛がちっと舌を打ったことには酷く安心した。凛の持ってきたゴムは少しきつくて、ハルはこれでちょうどいいんだろうな、なんて思うとまた恐くなったのだけれど、いつもの凛らしい仕草に思わず笑いが零れて力が抜けた。
 男相手なら他にないよなあ、という穴に予想通り誘われ、真琴は多少苦労しながら挿入を果たした。真琴も女の子と付き合って適当な頃合いで童貞を捨て、何人かの彼女たちと行為には及んだが、アナルセックスに及んだことも誘われたこともない。男を抱くのももちろん初めてだった。こんな狭いところに入るのだろうかと常々疑問だったが、他人より多少大きい自分の陰茎でもそれなりに収まるのだからいっそ感心すらする。真琴を先導した凛の努力の賜物だろうか。
 その凛はといえば、真琴に汗で濡れた背中を晒して、必死に喘いでいる。
「ぁ、ああ、ま、こと、ふぁ……まことっ」
「……ッりん」
 こっちのほうが動きやすいからと凛が自ら四つ這いになったため、真琴は後ろから凛を貫いている。真琴が奥を抉る度に凛は身体を跳ねさせて、細かな汗の飛沫が散った。
 凛の甘えたような喘ぎ声はやっぱり知らないもので、真琴は確かめるようにして凛に触れた。汗で滑る手のひらの下、凛の肉が隆起してうねっていた。たまに弱いところに触れてしまうのか、真琴の手が掠めた瞬間凛が過剰に身を震わせることもあった。すると凛の直腸がぞわりと動いて真琴の陰茎を食いしめる。ただでさえ女の膣よりもずっと狭くてきつくてただ腰を振ることしかできないでいるというのに、更に絞られると痛いぐらいだった。反射的に振り切るように強く抜き差ししてしまって凛に睨まれる。肩越しに振り向いた凛の顔はプールから上がった直後のように汗でびしょびしょに濡れて、上書きするように目尻から涙を零していて、ああ、泣き虫リンリンのままだったんだなあ、とまたひとつ安堵した。
「ま、ことぉ……あっ、なあ……」
 凛がちいさく尻を揺らしながら喉を反らす。物言いたげな凛の声に、真琴は背中を丸めて、覆い被さるようにして顔を近づけた。凛も白い喉を逸らせて真琴の耳あたりに唇を寄せる。
 溢れて零れそうなほどに濡れそぼった凛の瞳が一瞬閃いて、真琴の視界の端で凛の唇が嬉しそうに弧を描いた。
「はるが、みてた」
 真琴の腰の動きに合わせて凛の身体が跳ねる。弾む呼吸の中、湿った吐息で凛はやさしく微笑んでいる。
 くすくすと笑う振動と真琴の気づかなかった事実に、狭い肉に包まれた陰茎が膨張する。凛が感極まったように細くないて一際強く肉襞が蠕動した。慣れない狭さと時折与えられる痛みに射精できずにいた真琴はようやく決定打を与えられ、薄いゴムの中に精を吐き出した。
 真琴が達したことにも気づかず、凛は全身を歓喜に染めて笑っている。その肩口、ちょうど遙が残した鬱血がよく見えるあたりに額を預けるようにして、真琴は吐精後の荒い呼吸を繰り返した。
 真琴は、知らない凛が恐ろしい。このセックスの最中に凛が見せた所作のひとつひとつに恐怖し、あるいは変わらないものを見つけて安堵した。知らないものは知りたくなくて、けれど知っているはずのものが知らないものであることが一番恐ろしくて、知ってしまっても恐ろしいままのことも多々あった。
 けれどこれだけは知ることができてよかったと、心から思えるものがある。
 ぜいぜいと呼吸を繰り返す真琴の下で凛は微笑みながら涙をこぼしていた。嬉しそうに、子どもの頃の彼よりもずっと素直な表情で、うつくしく笑みを浮かべている。
「……ハル、傷ついた、みてーな顔してた、な」
 真琴の射精する直前に凛がないたのは、真琴の欲の膨張を受けてのものではない。すべて遙のためだ。
 凛は本当に、遙のことが、遙だけが好きなのだ。
 泣き濡れた凛の瞳には、もう遙しか映っていない。真琴はやっとそれでもいいと思えた。遙の全てを欲しがって、自分のために傷ついた遙を手に入れた凛は、たぶん真琴が今まで見たどんなものよりも綺麗だった。
 こんなに凛は遙のことを愛しているのだと知ることができて、本当によかった。真琴は汗に濡れた凛の肩に向け、そっと息を吐きだした。凛も真琴も、そのまましばらく静かに笑っていた。


 汚れた体は凛が勝手知ったる様子で持ち出してきたタオルで適当に清めた。風呂に入らなくてもいいのだろうかと思ったが、もつれた体を解いた後の凛は実に上機嫌で、早々に教科書を開いて勉強会を再開している。情緒深い恋の歌たちをラップ混じりで歌い出しかねない勢いで、ありがたくないことに、凛のテンションは真琴の指導にまで波及した。昼よりも更に度を増した弾むような罵声に涙目になりながら、真琴は懇切丁寧な凛の指導のもと、予定していたページまで学習を完遂した。
 それからしばらく待ってみたものの家主は帰還せず、橘家の夕食の時間となったため真琴は自宅へと帰ることにした。折角凛がいるのだから、たまには幼馴染たちと三人で食卓を囲むのもいいと思っていたけれど、出かける前に夕飯は家で食べると母親に告げてしまっている。何より遙と凛が付き合っていると知った今、ふたりきりの時間を邪魔するのも忍びない。
 玄関までささやかに見送りに出てきた凛に、遙の携帯電話に連絡をしなくていいのかとふとこぼせば、凛はちいさく笑いながら首を横に振った。
「一回帰ってきてたんだし、近くにいるだろ。心配いらねぇよ」
 それもそうかと頷いて真琴は凛と別れた。ほんの短い距離を冷たい空気を割って歩き、自宅のドアを開ける。ふわりと暖かい家の空気が頬を包んで、真琴は思わず目を細めた。屋内に入ると外の寒さが際立つ。真琴と凛のセックスを目撃して以降、遙がどのあたりにいるかは分からないけれど、きっと随分と体を冷やしているだろう。大丈夫だろうか。
 兄の遅い帰宅に騒ぐ弟妹を制して洗面所に向かい、手を洗ってうがいをする。家族の揃うダイニングに踏み込めば一層暖かく、つんとした食欲をそそる匂いが真琴の鼻腔をくすぐった。今日の夕食は豚肉のしょうが焼きらしい。嬉しそうに跳ね回る蘭と蓮を促しながら配膳を手伝って、家族五人でテーブルを囲んだ。刺激物の苦手な幼い双子にも豚肉のしょうが焼きは人気のおかずで、いつものように強気な蘭が気弱な蓮から肉を奪う事態が発生する。泣き言を言う蓮に自分の分の豚肉を分けてやれば弟はころりと機嫌を直して笑い、妹はちょっとむくれてみせた。それでも最後はふたりしておいしそうに肉を頬張っているのだから豚肉のしょうが焼きは偉大だ。
 母親におかわりはないのかと尋ねる双子のテンションに妙な既視感を覚えて、真琴はああと思い至った。先ほどの凛も、たぶん、ちょっと、こんな感じだった。好きなものを前に浮き足立っている感じだ。遙と豚肉のしょうが焼きを同列に扱うのは忍びないが、凛の心境としては近いものがあるのかもしれない。
 するとまた少し心配が頭をもたげる。海からの風が肌を刺す夜道で、遙はひとり、寒さに震えていただろう。水のためなら唇を紫に染めることも厭わない遙だが、あれできちんとした人間だ。暑い寒いも感じるし風邪だって引く。水に入れば治るという人外の理論を持ち出すとしても、ちゃんと人間なのだ。寒さですっかり冷えきった体で家に帰ればきっと凛が温かく迎えて、ひょっとすると冷えた遙を抱き締めたり、そのままセックスに雪崩れ込んだりするのかもしれないけれど、それにしたってあの浮かれようだ。震えながら帰宅してあの凛では、遙も多少堪えるかもしれない。
 食後の片付けを手伝い、双子と一緒に歯を磨いて風呂に入って、それから少しだけゲームをして遊んで、もっと遊ぶと駄々をこねる双子を寝かしつけて、ひと心地ついた頃合いになってようやく真琴は自宅の窓から向かいの七瀬家を窺った。居間や台所に明かりが灯っているが遙の部屋は暗いままだ。窺い見たところで、どこの部屋に電気がついていれば何が起こっているとか、予測ができるわけではないのだが。
 けれど一度心配になるとどうにも落ち着かず、真琴は悩んだ末に携帯電話を取り出した。遙のアドレスを呼び出して、『大丈夫?』とだけ打ち込んだメールを送る。遙が携帯電話を携帯しないことは十分に把握している。これなら遙と凛、ふたりの時間を邪魔することもないだろう。気づけばいいな、ぐらいの気持ちだ。
 果たして返信はあった。少しの間を置いてメールの受信が一件。凛に添削されたノートを真面目な学生ぶって見返していたおかげで気づくのが遅れてしまったが、幼馴染からの稀有な返信だった。文面は、
『今から来い』
 たった五文字のメールを真琴は三度ほど読み返した。なんだろう、と首を傾げながら寝巻き代わりのジャージの上にコートを羽織り、まだ起きていた母親に少し遙の家に行くと告げて家を出る。深夜に近づいた外気はしんとして冷たく、真琴は足早に七瀬家へ向かった。
 玄関灯の橙がかった光を頼りに引き戸をそっと滑らせる。扉にはめ込まれたすりガラスからは何の光も漏れていなかったため、ひょっとしたら施錠されているのでは、と思ったが、杞憂はほんの一瞬だった。代わりに開けた視界に見つけたものにぎょっとする。
 遙が黙ったまま、まるで最初からずっとそこにあった置物のように、壁に肩と背中を預け上がり框に腰掛けていた。
「は……ハル?」
 口を突いて出た真琴の声に、遙の肩がちいさく跳ねた。俯きがちだった顔がのろのろと上がり、伏せていた瞼を重たげに押し上げていく。現れた遙の瞳は夜目にも暗く濁り、憔悴し切った様子だった。
 真琴は踵を踏んだまま引っ掛けてきたスニーカーを蹴り飛ばすように脱ぎ、框に膝を突く。ごつりと何かが触れる感触に視線を落とせば、真琴と色違いの遙の携帯電話が落ちていた。きっと投げ出された遙の手から滑り落ちたのだろう。咄嗟に拾って自分のコートのポケットに押し込みながら、真琴は慌てて遙の頬に触れた。思わず手を引っ込めたくなるほど冷え切っていた。
「……真琴」
「ハル、なんでこんなとこで、こんなに冷えて……凛は? どうしてるの? ケンカでもした?」
 とりあえず居間に行こうと、真琴は遙の腕を引く。遙の体はがくんがくんと不自然に動いて真琴のするがままについてきた。糸の切れた操り人形みたいでぞっとした。
 まともに歩けないでいる遙を半ば引きずり、真琴は居間の襖を開く。そこでまた目を丸くした。数時間前まで教科書やノートを広げていた卓袱台は端に追いやられ、代わりに無造作に敷かれた布団が畳の真ん中に居座っている。白い布団の中では、凛が赤い髪を散らして眠っていた。
「凛? ハル、どうしたのこれ……」
「凛を」
 しんとして積もる雪のように。遙の声が、三人のいる居間に落ちた。
 とんと軽い衝撃があった。真琴に半ば引きずられていた遙が突き飛ばすようにして真琴から離れたのだ。しっかりと自分の足で立つ遙にほっとしながら真琴は遙の目を見つめる。くろぐろと揺蕩う、冬の夜の海があった。
 遙の唇が厳かに、ゆっくりと動く。
「俺が、無理矢理犯した。駄目だって知ってて中で出した。凛は欲しがってたのに、キスもしなかった。それで、凛が気絶した」
「……ハル?」
 ほんの数時間前に遙と凛が付き合って肉体関係を持っていることを知った真琴には、なかなか深く重たい話だった。何より、遙の言う無理矢理犯すとか、キスもしなかったとか、そのあたりが最後に見た凛の笑顔を結びつかない。凛は全身全霊で遙が好きだと叫んでいたのに、当の遙が凛に酷いことをして返すなんて真琴には到底思えなかった。それに遙だって、こんなに疲れ切っている。
 凛はあんなに嬉しそうに微笑んでいたのに、甘やかな恋人の時間ではなく、恋人からの強姦が行われていたとでものだろうか。果たして相手が好き合った恋人でも強姦になるのか、真琴にはいまいち分からない。そんな激情を募らせる恋愛なんてしたことがないし、一般論で語られる恋愛にも興味はない。司法的に言うと強姦とは、なんて頭の痛い話は尚更だ。何より例え無理矢理でも酷いことをされても、相手が遙である限り、凛はどんなものでも喜んで受け取ると思う。
 あっと真琴は思い至った。ひょっとしたら、そこかもしれない。凛は傷つけることも傷つけられることも、遙にまつわる全てが欲しいのに、遙は凛を傷つけてしまったことばかり気に病んでいる。
 あまり深刻になり過ぎないようにと、真琴は軽い調子で遙の肩を叩いた。
「大丈夫だよ、ハル」
 初めに大丈夫かとメールを送ったのは自分だったはずなのに。真琴はなんとなくおかしくなって少しだけ微笑んだ。重苦しく落ちる冬の夜と、遙の沈鬱を吹き飛ばすように、努めて明るい声を出す。
「凛は、ハルが相手ならどんなことだって嬉しいんだから。そんな顔すんなって」
「まこと……」
 ゆっくりと、遙のまるい頭が上を向く。俯いてばかりの遙がようやくまともに真琴を捉えた。やっと持ち直したのだろうかと真琴は安堵して、すぐに違和感に眉を顰める。
 いつもは静謐に佇む遙の瞳が、大きく見開かれている。冬の海が溢れ出してしたたかに波を打つ。この海を絵に描き留めて題を振るなら、きっと絶望という名が相応しい。そんな下らないことは思いつくのに。
 遙がどうしてこんな顔をしているのか、真琴にはまるで分からなかった。
「なんで、凛を抱いたんだ」
「え? っと……」
 何故、と問われると。自分のちっぽけな恐怖を差し出すようで恥ずかしい。
 けれど真琴が答えない限り、どうしてだか絶望の淵にいる遙は戻ってこられないのだろう。真琴はほんの少し悩んで、結局、ちょっと視線を逸らしながら言葉を選んだ。気恥ずかしさから無意味に指先で頬を擦ってしまう。
「俺、今までハルと凛が付き合ってるなんて、知らなくて。なんか……ふたりが知らない誰かになったみたいで恐くて、そしたら凛が興味あるかって言うから、確かめたくなって」
 はっと荒く遙が息を吐いた。これで落ち着いてくれればいいと思いながら、真琴はにこりと笑ってみせた。
「でも、凛を抱いてよかった。凛もハルもちゃんと俺の知ってるふたりだって分かったし、凛がどれだけハルのこと好きなのか分かって、なんていうか……嬉しかった」
 本当にこれに尽きる。なんだかふたりに中てられてしまったような気もするけれど、それも仕方がないと思えるぐらい、凛は遙が好きなのだ。真琴は自分がいないまま完結する遙と凛の世界を心から喜ばしく思っている。むしろ今まで二人の関係に気づかなかったのが申し訳ないほどだった。
 遙は無言だった。絶望の淵は遠のいて、青みがかかった瞳に真琴だけが映っている。そこに存在するべきは自分ではない。真琴は遙の肩を掴んでくるりと幼馴染を反転してやった。凛を正面に捉えるようにして布団の傍らに座らせ、励ましの意味を込めてもう一度肩を叩く。
「男同士だとか皆には秘密にしなきゃとかいろいろと大変だと思うけど、俺は応援してるよ。ああ、でも、見えるところにキスマーク残すのはあんまり」
「真琴」
 茶化す響きを含んだ真琴の声は、遙に遮られる。遙が誰かと恋愛をしている、という事実が新鮮で少し測りかねただろうか。垢抜けた外見の割に純情な凛と同じく、遙も恋愛事情に関してはからかわれたくないタイプらしい。もともと揚げ足を取ったりなんかすると妙に幼い仕草で噛みついてくる幼馴染だ。そこが昔から変わらなくて可愛い、とは、一応口にしない。
 ごめんと軽い調子で謝る。遙の後頭部が、殊更ゆっくり真琴を振り仰ぐ。そんなに溜めて吐き出せねばならないほど怒っているのだろうか。
 真琴を見上げる遙の目には、絶望の淵も、荒れる冬の海もなかった。
「お前、誰だ」
 淵なんかもう、飛び降りていた。絶望の真ん中の、何もない平たい世界に、遙はひとりで立ち尽くしていた。
 え、と声を上げる。真琴の視界の端では火を落とされたストーブと息絶えた薬缶が鎮座している。白い布団に横たわる凛の赤い髪まで、なんだか死んでしまった熾火に似て見えた。遙が何を言っているのか、分かりそうで分からない。