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おうごんのゆめ

 岩鳶町でハロウィンのお祭りをやるんだよ、凛ちゃんも来てね! え、来ない? 江ちゃんが可愛い魔女の仮装して町中練り歩くかもしれないのに凛ちゃんは来ないんだあ、それなら仕方ないね!
 凛が一つ下の幼馴染から一報を受けたのはつい昨日のことである。
 まず、舞台は絵に描いたような日本海の港町、岩鳶町である。クリスマスならまだしもハロウィンの催し物があるとは到底思えない。仮にあったとして、ヨーロッパあたりに残る本来の意義とも、アメリカあたりで大衆文化として根付いた盛り上がりとも随分かけ離れた、全く別の、恐らくチープでシュールなものに違いない。いや、町のイメージキャラクターに虚ろな目をした鳥のマスコットを起用したり、イカやカニを惜しげもなく投じた祭りを開催するようなおかしな町だ、ただの仮装パーティーか、一周回って得体の知れない催し物になっている可能性もある。
 瞬時に判断した凛は誰が行くかと答えた。すると幼馴染は間髪入れず妹の名前を持ち出して、気づけば凛は日時と場所を確認した上で必ず行く旨を伝えていた。嵌められたと悟ったのは携帯電話の電源ボタンを荒々しく押して通話を終了した後だったが、全く以て今更である。
 いずれにせよ妹が仮装をして参加するのであれば兄である自分も行かねばなるまい。江は可愛いし、年頃だし、可愛いし、祭りの開催は夜だ。行かねばなるまい。どう考えても行かねばなるまい。
 決して唆されたわけではなく、兄としての使命感から岩鳶に赴くのだ。凛は自分を納得させ、曰くハロウィンの祭りの当日、鮫柄近くのコンビニに踏み込んだ。
 ハロウィンというのは、凛の知る限りでは子どもがお化けの仮装をして家々を回り、大人たちに菓子を貰う祭りだ。勿論最初の危惧通り、どんな祭りになっているのかは現地に行ってみないと分からないのだが、とにかく凛は仮装して回るつもりも菓子を貰うつもりもないし、そもそも祭りの主役はもっとちいさい子どものような気もする。なのでどちらかといえば菓子を与える側に近いだろう。
 十六歳、という年齢は実に曖昧だ。菓子を渡す大人に回るには幼すぎるし、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞとかわいらしく脅すには歳を重ね過ぎている。
 菓子をくれと迫られる事案が発生するか否かはひとまず置いておいて、凛はいくつかの菓子を見繕う。分けて与えるのであれば個包装のものが妥当だろうか。オレンジと黒を基調に、カボチャとコウモリの切り抜きで飾られた特設コーナーを素通りして、凛は何種類かの飴と、小さなドーナツ菓子を手に取った。ファミリーパックのチョコレートなら量もあって廉価だし、最初から個包装だから良さそうだと思ったのだが、持ち回る内に溶けてしまいそうなのでやめておいた。ハロウィンコーナーと銘打たれた棚に並べられた菓子は少しずつ配るには向かないラインナップだったので、ありきたりだがこういうチョイスになってしまう。
 捻りがないかと悩んだが、捻ったところでどうしたという話だ。恐らくこの菓子も見ず知らずの子どもに渡すことなく、江や渚あたりに押し付けて終わるだろう。要は菓子であればいい。凛は割り切ってレジで精算し、最寄りの駅へ向かった。
 五分ほど待って目当ての電車が到着した。片田舎の運転ダイヤを鑑みるに幸いなタイミングだ。凛は電車に乗り込み、思わず目を剥いた。
 閑散とした車内のシートに、魔女と、カボチャのお化けと、狼男が座っていた。発車のベルを背に凛は適当な、それでいてハロウィンのお化けたちからは離れたシートに腰を下ろし、こっそりと彼らを観察した。
 彼らも岩鳶町の祭りに参加するのだろうか、特に言葉を交わす様子もなく、至極当然といった出で立ちで電車の振動に揺られるがままになっている。まじまじと観察するのも失礼なのでささやかに盗み見る程度しかできないが、なかなか手の込んだ仮装に見えた。シュールだ、と思うのだが、あまりにも彼らが堂々としているので、凛は自分の感覚のほうこそ間違っている気分になる。
 凛はお化けたちから、流れていく車窓へとそっと視線を移した。夏の気配はとうに去って、秋も本番といった十月の末、日暮れもだんだんと早くなってきている。窓の向こうはほんのりと紫を乗せたやみのいろで、線路沿いの家々に灯る明かりが橙色の帯を引いて過ぎ去っていった。
 程なくして電車は岩鳶駅のホームへと滑り込む。お化けたちはやはり何を言うでもなく、黙ってするりと電車を降りた。彼らに続いて凛も降車し、切符を片手に改札を抜ける。降りたばかりの電車が旅立つ重々しい音を背に駅舎を抜ければ、想像以上の世界に迎え撃たれた。
 オレンジ色の光が寂れた田舎町を彩っている。白っぽく切れかけた街灯ではなく、カボチャの形をしたランタンが電柱やそこかしこにぶら下がっていた。ランタンだけでなく、電柱から家々まで、三角形をした旗が渡されている。薄闇と橙色の照明で分かりにくいが、凛にはプールで背泳ぎ用の標識として使われている青と黄色の三角旗に見えた。
 飾り付けだけではない。こんな片田舎の怪しげな祭りによくもまあと思うほどの人間が照明の下でひしめき合っていた。
 人間が、と評したものの、ぱっと見た限りでは人間らしい格好の人影のほうが少ない。いや、いないのではないだろうか。誰も彼も、大の大人と思しき影も、ちいさな子どもらしきシルエットも、化け物たちに身をやつして楽しそうにざわめいている。電車でも見た魔女やカボチャのお化け、狼男、それからフランケンシュタインや吸血鬼といった定番の仮装から、有名エンターテインメント会社のテーマパークや映画に出てくるお姫様たちと様々である。日本の、いわゆるオタク向けアニメに出てくるキャラクターと思しき仮装……いや、コスプレというのか、とにかくそんなものもちらほら混じっているのはご愛嬌、というやつだろう。
 非現実甚だしい光景にたっぷりと圧倒された後、ようやく凛は当初の目的を思い出した。ここからひとまず七瀬家へ向かわなければならない。向かいの家に住む真琴はもちろん、渚と怜、それから江も祭りの前に七瀬家へ集合するのだと聞いている。正直この仮装した人だかりから彼らを見つけるのは至難の業なのでありがたかった。
 人混みを突っ切る覚悟で凛は一歩を踏み出す。
 しかし固い決意は、突然飛び込んできた白い影に遮られた。
「「トリック・オア・トリート!!」」
「…………はあ?」
 夜闇によく映える、真っ白いふたりのお化けだった。凛の膝ほどの高さしかないお化けは両手を広げ、脅かすつもりなのかゆうらりゆらりと揺れている。
 お化けはシーツを被っただけの簡単な仮装だと一見して知れた。まるい頭頂部に黒い画用紙で貼り付けられたふたつの目玉と、三角形の鼻と、いびつなギザギザ模様でできた口を凛はぽかんとして見下ろす。
 呆けるばかりで何も答えない凛に焦れたのか、片方のお化けが大きく両手を上げた。
「おかしをくれなきゃイタズラするぞ!」
「……あ、ああ、悪ィ」
 定型句とともに子どもがお菓子をねだって回る祭り、という認識はこの岩鳶町の祭りでも有効だったらしい。凛はふたりのお化けの身長に合わせてしゃがみ込み、コンビニの袋から飴とドーナツ菓子を取り出した。ぞんざいに外装を破り、一掴みずつ取り出せば、お化けたちがシーツの裾から両手を出して待ち構えている。
「これやるから、悪戯は勘弁な」
 もみじのような丸っこい手にそれぞれ菓子を乗せてやる。お化けたちはちいさな手で大事そうに菓子を抱え込み、わあっと声を上げた。先ほど凛を促した方ではないお化けが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら凛を見上げる。
「ありがとう、おにいちゃん!」
 かわいらしく弾む少女の声。
 どこか、引っかかる声だった。
 ふたりのお化けはシーツ越しにくすくすと笑い合い、凛の渡した菓子をやわらかく握り締めて踵を返す。少女らしきお化けがくるりと凛を振り返った。
「おにいちゃん、おかしのおれいがあるよ! ついてきて!」
「いや、礼は……」
 悪戯を回避するために菓子を渡す、というのが完成された図であって、渡した菓子に礼など必要ないはずだ。先ほど口頭で告げられた礼の言葉だけで十分だし、凛にはこれから七瀬家へ向かう用事がある。
 戸惑いながら断ろうとして、しかし凛の台詞はもうひとりのお化けに遮られる。
「行くぞ、ゴウ!」
 お化けが少女のお化けを呼ぶ。
「あ、待ってよ、おにいちゃん!」
 少女が拗ねたような声を上げて追いかける。
 ふたりはぱたぱたと走りながらシーツを脱いで、夜闇と橙の照明に赤茶けた髪を滑らせる。少女がまたちらりと振り向いて、はやく、と凛を呼んだ。少し高い位置で結われた短いポニーテールが、金魚の尾びれのように夜を泳いだ。
 引っかかるのも当然だった。少女のお化けは、幼い頃の江と同じ声をしていた。声どころか、シーツの下から現れたふっくらとした頬だとか、くりくりと動く瞳だとか、いつも母親や凛に結ってくれとねだっていたポニーテールだとか、とにかくすべてが当時の江そのものだった。
 ならばあの、少女の先を行く赤茶色の後ろ頭は。
 スニーカーの踵がアスファルトと擦れてざりっと音を立てる。凛はシーツと菓子を抱えて走る元お化けたちを追いかけた。
 赤毛のふたりは仮装の列をするりするりと縫って走る。凛も時折誰かとぶつかりながら、見失わないようにふたりを追う。そのうち子どもたちは駅前の雑踏を抜け、橋を渡り、人気のない、海へ続く道へ出た。
 祭りとは関係なさそうな道なのに、ここにもしっかりとカボチャのランタンが飾られている。まだらに橙と影を描く道に、子どもたちはぱたぱたと可愛らしい足音をふたえに奏でていた。少し遅れて凛の足音が被さる。
 ここまで走ってようやく、凛は何かがおかしいことに気づいた。
 子どもふたりとの距離が埋まらないのだ。人の多い道では人混みをすり抜ける子どもに追いつけないのも仕方がないと思っていたのだが、もう誰もいない、走るに十分な道であってもまだ追いつけない。凛は随分と前から全力で走っている。毎日欠かさず陸上トレーニングを続けていて、多少足に自信のある凛が全力で走っても追いつけないのだ。歩幅だって子どもたちより凛のほうがずっと大きいはずなのに、なぜ。
 焦燥と疑問に息が上がる。それでも凛はふたりを追いかけ続ける。住宅の間を抜け、遂に海に面した道に出た。凛の記憶違いでなければ遙と真琴の家近くの漁港だった。停泊する漁船にまでカボチャと三角旗が飾られている。橙の明かりの下で、くろい海がゆぅらりと揺れている。
 思わず足を止めた凛の耳に、またぱたぱたと、幼いふたつの足音が届いた。
 それから記憶の底に残る幼い妹の声。
 重ねて、恐らく子どもの頃の凛の声。
「おとうさん!」
「とうさん!」
 海を眺める人影が、橙色にぼんやりと浮かんでいる。波止場に立つ影は駆け寄る兄妹よりは大きく、今の凛よりは小さい。何度も何度も繰り返し写真で見つめた、もしかすると生きていた頃よりも見慣れた姿。
 ゆっくりと兄妹を振り返ったのは、メドレーリレーで優勝した頃と寸分変わらぬ姿の、父だった。
「おかし! もらってきた!」
「あのにいちゃんから!」
 幼い妹が嬉しそうに菓子を掲げ、幼い自分は凛を指さす。兄妹に合わせて少し背中を丸めて、幼い父が笑う。岩鳶スイミングクラブのジャージに包まれた手を持ち上げて、赤茶けたまるい頭をぐりぐりと撫でている。凛自身、幼い頃に幾度か受けた仕草だった。大きくて少しごつごつした父の手は、今遠目に見ているものとは随分と違う。けれどきっと同じものなのだと思わずにはいられなかった。
 父の口がぱくぱくと動く。幼い頃の凛と同じ、ささやかな八重歯を覗かせて兄妹たちに語りかけている。いつかの、いつもの夢と同じで声は聞こえない。
 頭を撫でられている兄妹たちには聞こえているのか、幼い凛が「うん」と大きく頷いた。続けて幼い江も「ちゃんと言ったよ」と胸を張る。それからまた短いポニーテールを跳ねさせて、立ち尽くす凛を振り返る。
「おにいちゃんもおいでよ!」
 片手に菓子を抱え、もう片方の手を大きく振って江が凛を呼ぶ。隣では幼い凛が、早く、と待ち切れない様子で声を添える。父は、黙ったまま、微笑んでこちらを見つめている。
 凛はふらりと一歩を踏み出す。歩幅ひとつ彼らに近づくたび、鼓膜で心臓の音が大きく響く。橙色のぼんやりした明かりに照らされて、黒い海を背負って、幼い父と、幼い妹と、幼い凛自身が並んで立っている。
 近づいてはいけない、そう思うのに、手足はちっとも言うことを聞かずに波止場へと吸い寄せられていく。歩みを止めたのは手を伸ばせば父に触れられる、そんな距離まで近づいてからだった。
「なあ、あれやらなきゃ」
 凛を見上げて、凛が促す。あれ、が何を指すのか分からず緩慢に首を傾げれば、幼い凛はシーツと菓子を持ったまま両腕を広げてみせた。
 幼い江も兄に倣って両腕を上げる。季節外れのひまわりのような笑顔を綻ばせて凛に語りかける。
「おにいちゃんも、おとうさんのこどもだもん」
「今日は子どもがしゅやくのまつりだろ、なあ?」
 ふたりの子どもの真ん中で、子どもの姿をした父は微笑みを絶やさず佇んでいる。
 あれ、が何なのかを悟り、凛の腕がぴくんと跳ねた。
 祭りの前、どちらの立場にもなりきれず困ると思っていたのは当の凛自身だったはずだ。けれど目の前にいるのは幼い姿であったとしても父で、自分は目の前の父より一回り二回り成長した体をしていてもやっぱり父の子どもで、早く早くと幼い自分たちが急かすものだから、つい。
「……Trick or Treat」
 おずおずと持ち上げた両手は脅かすつもりもなく、皿の形にして父へと差し出されていた。
 夜目にも眩しい八重歯を覗かせて父が破顔する。両隣では赤毛の兄妹が嬉しそうにぴょんぴょん跳ねて、ふたりを宥めるような仕草を混ぜつつ父はジャージのポケットへ手を差し込んだ。何かを取り出してそっと凛の手に乗せる。手と手が触れ合うことはなく、何かだけがぽとりと凛の手のひらに落ちる。
 凛が両手を引き寄せてみれば、真っ白い、綺麗な花が夜の手のひらに咲いていた。祖母の家の仏壇でよく見る、花の形の落雁だった。
 父が亡くなってしばらくは母も忙しく、凛と江は度々祖母の家に預けられていた。祖母の家では決まって干菓子がおやつとして出されて、江が好きじゃないとぐずっていたことを思い出す。特に落雁はただただ甘いばかりで味気ないし、やたらと固いし、特に避けていたように思う。
 凛は取り立てておいしいとも思わなかったが、かといって嫌いでもなく、黙って落雁を齧っていた。そんな凛を見て祖母が一度漏らしたことがある。あの子も子どもの頃は、こんなふうに黙って食べてたねえ。凛が八重歯でがりがりと花びらを削ぐ作業を中断して見上げても、祖母はそれ以上何も語らなかった。
 落雁はハロウィンで子どもに配るには、恐らくあまり似つかわしくない菓子だ。けれど凛は幼い頃の、白檀の香る思い出に目を細めていたし、父は微笑んで凛を見上げるだけだったし、幼い兄妹はやったな、よかったねと笑うばかりだった。
「な、食べないのか?」
 ちいさな凛が目を輝かせて問う。江も期待に満ちた目で凛を見上げていた。どんぐりみたいにくりくりした兄妹の瞳には、夜闇と橙の灯火が揺れて煌めいている。
 凛は花の形をした砂糖菓子をつまみ上げ、ゆっくりと口を開き、
「凛」
 背後から響く澄んだ声に、ぴたりと動きを止めた。
「駄目だ、凛。食べるな」
 幼い江の声よりも、もっと近くに聞き覚えのある声だった。誰か、なんて振り向くまでもない。ハル。凛は名前を呼んだつもりだったが、喉の奥が張り付いてしまって何の声も出なかった。
 ならばせめて振り向こうとするのだが、これも油の足りない玩具のようにぎこちない挙動になってしまってうまくいかない。言うことを聞かない体がもどかしく、頭の中ばかり駆け足で焦っている。そんな凛を宥めるように、背後でまた遙の声がした。凛。それから橙色の幻想を遮る影。振り向けない凛の代わりに遙が身を寄せてくれたらしい。
 凛はほっと息を吐いて、次の瞬間ぎょっとした。
 落雁を持つ手を、冗談みたいに眩しいカナリアイエローがそっと押さえている。人間の手にしてはあまりに不格好で、子どもが鳥と自称する落書きの翼の部分、そう評するのが一番実物に近いだろうか。本物の羽に比べると柔らかさも軽やかさもまるで足りない羽もどきから視線を辿れば、ぬうっと丸い頭頂部が凛に迫っている。ごつごつした岩の質感ばかり丁寧に施された円形の真ん中には、クチバシのようなものと、地獄の釜の蓋をずらして深淵を覗き込んだらこんな感じなんだろうな、と思わずにはいられない虚ろな瞳がふたつ穿たれていた。
 黒い海と橙の照明の真ん中で、顔と思しき黄色い円形はおどろおどろしい陰影を濃く浮かび上がらせている。あまりの威圧感に思わず凛は二、三歩退くが、姿形に似合わない繊細さで押さえられた手だけは取り戻せなかった。代わりに至近距離では窺えなかった全身像が嫌でも目につく。羽と同じ毒々しいカナリアイエローのボディから、道々に飾られたカボチャたちよりも鮮やかなオレンジ色の足が伸びている。足だけはアスリートのしなやかさを見せつけていて、中途半端に露出されたリアルに凛は眉根を寄せた。
 胴体の下半分、鍛えられた足の上にデフォルメ化された水泳パンツらしきものが描かれているところまでつぶさに観察して、凛はようやくこの奇怪な仮装が何者であるか気づいた。
 これはあの、岩鳶なる町の特異性をひと目で表すマスコットキャラクター、イワトビちゃんではないか。しかもこれは水着を穿いていることからして、渚曰く、岩鳶高校水泳部限定モデルとかいう、商標権だか著作権だかは大丈夫なのかという代物だ。
 身を引く凛に取って代わるように、イワトビちゃんが一歩前に出る。訝っているのは凛だけなのか、幼い兄妹も父も、疑問の声を上げることもなくイワトビちゃんを見上げている。
「凛はずっと子どもだけど、菓子を貰わなきゃいけないような子どもじゃない」
 イワトビちゃんは奇天烈な外見に似合わない、力強い口調で告げた。
 分かるようで分からない、何か矛盾しているくせに断言する言葉だった。突然の台詞に凛は丸い巨大な後頭部を見つめることしかできない。
 ならば他の人間はどうか。カナリアイエローのシルエット越しに窺えば、赤毛の兄妹はじっとイワトビちゃんを見上げている。父は、赤みがかかった瞳に熾火を揺らしていた。
 凛が幾度も眺めた写真とも、記憶の中に朧げに残る記憶とも全く違う静謐な瞳で、黄色く不気味な鳥を装った男を見つめていた。
「俺が、凛と一緒にいますから。この先も、一生」
 不気味な鳥の声は、間違いなく凛の知る遙のものだった。着ぐるみの中身も、遙に違いない。
 遙に違いなかったが、聞いたこともないような真剣な口調で、普段の不遜さに似合わない丁寧な言葉遣いで、何か、何かとんでもないことを口走っているように思えた。とんでもない、ということだけは分かるのだが、具体的に何の話なのか、渦中の人物らしい凛には理解できなかった。
 ぐるりと岩っぽい質感の頭が凛を振り向く。
 虚ろに穿たれた落書きみたいな瞳の向こうに、凛は確かに遙を見た。夏の大会で凛を捕まえてくれた、あの時と同じ、いや、あの時以上に真摯で、熱のこもった瞳だった。
「だから、もう心配しなくていい。――俺じゃ不足かも知れないけど、安心して欲しい」
 後半は、凛の父と、幼い江と、幼い凛に向けられていた。
 凛は呆然として、何が起きているのか理解できないまま、それでも遙の言葉に頷いた。
 遙が、一生傍にいてくれると言う。首を横に振る理由なんてひとつもない。きっともう、遙が離れようと言ったって凛は離れられない。離したくない遙が離れないと誓ってくれているのに、頷く以外の選択肢なんてなかった。
 ずんぐりむっくりした黄色い背中を、白く煌めく何かが横切った。
 凛の指先で落雁がさらさらと溶け、湿気った夜の海風にとけている。凛は緩慢に白い軌跡を見送って、ゆっくりと前方へ視線を戻した。
 一歩横に退いたイワトビちゃんの向こうで、父が笑って手を振っている。
 ぐっと胸の奥から何かがこみ上げる。抑えつけるように唇を噛み締め、凛もそっと、時間をかけて手を振った。凛の拙い仕草を見届けた父は満足そうに頷いて踵を返す。海を見つめる背中はもう、幼い凛が見上げた父の背中だった。
 黒い海へと滲んでいく父に倣い、幼い兄妹も手を振って海へと駆けて行く。去り際、ちいさな凛がまたな、と元気よく声を上げた。
「もう、会わない」
 遙がぼそりと答えた。先ほどの力強さはどうしたと言いたくなるような、拗ねた響きの声だった。幼い江がくすくすと笑いながら大きく手を振って、金魚の尾びれは夜の海へと泳ぎ出した。





「凛、寝ながら泣くな」
 ぼんやりと水に沈んだ視界の中で、緑色の塊が囁いた。
「……泣いてねぇ」
 凛はぱちりと目を瞬く。目尻と鼻梁を温い水が伝って、視界が一気にクリアになる。目の前には緑色の塊、彫刻家も裸足で逃げ出す精緻な彫り物がなされた肥えたカボチャがふんぞり返っている。彫刻はどこからどう見てもイワトビちゃんの形をなしていて、凛の視界で直角になって佇んでいた。
 ぐっと眉間に力を込め、畳の上に横たわっていた体を起こす。拍子にイワトビちゃんを彫り入れたカボチャに手がぶつかり、緑のお化けはごろんごろんと転がっていった。凛から三歩ほど離れたところでしゃがみ込む遙の爪先で回転はようやく止まる。
「顔、拭いとけ」
「ぶっ」
 ひらひらとした白が遙の手の中で踊る。どこかで見たお化けのようだという凛の感想は、顔面に白い何かが顔面にぶつかった時点で霧散した。引っ掴んで剥ぎ取れば近所の商店の名前がでかでかと印字されたタオルだった。
 泣いていないという凛の訴えを堂々と無視した遙は、カボチャを手にさっさと立ち上がって台所へと向かう。文句をつけるタイミングを失った凛はタオルを持て余し、結局憤りをぶつけるように顔を拭った。否定したところで事実なのだから意味はないのだろうが、凛の意図しないところで勝手に涙が出てきていたのだ、まるで凛がいつも泣いているような遙の物言いは気に入らない。
「あのなあ、ハル!」
 適当に目元を拭い、ずかずかと台所へ踏み込む。遙は見慣れない調理器具をダイニングテーブルに広げ、素知らぬ顔で手を動かしている。
 話を聞けと怒鳴るつもりで凛は口を開く。しかし肺でわだかまる憤りは言葉になる寸前、ピンポーン、というレトロな音に弾けて消えた。言うまでもなく、呼び鈴の音だった。
「凛、それ持って出ろ」
「はあ!?
 あまりに馴染みすぎて凛自身失念しかけているが、ここは遙の家である。まだ辛うじて友人宅にお邪魔している、という意識はあるが、七瀬家への来客には家主たる遙が対応するべきだろう。客の凛が用向きを聞いたって仕方がない。
 加えて、遙が「それ」と顎をしゃくったのは、アルミ製の調理器具たちの隙間に放置された漆塗りの深皿だった。皿には花をかたどった真っ白い落雁が山盛りになっている。お前もか、と瞬間思ったが、とにかく落雁を抱えて凛が客を迎えるのは明らかにおかしい。
 凛が皿と遙を見比べる間にも、呼び鈴は続けて鳴らされる。遙にもう一度早くしろと急かされて、凛は仕方なく皿を抱えて玄関に向かった。土間に転がっている遙のサンダルに足を引っ掛けて引き戸を開ければ、白黒の小さな人影がぱっと飛び込んでくる。
「トリックオアトリート!」
「おかしをくれなきゃいたずらするぞー! ……あれ、凛ちゃんだ!」
「凛ちゃん! おかしちょうだい!」
 これまたどこかで見たような簡素なシーツのお化けと、百円ショップでよく見るてろてろした素材の魔女服に身を包んだ子どもが二人、両手を広げて決まり文句を叫んだ。お化けのほうはすっぽりシーツを被っているせいで分からないが、魔女のほうは見覚えがある。
 凛の記憶を裏づけるように、大きな影が七瀬家の土間に踏み込んできた。
「ああ、凛、やっぱりいたんだ。どっちに電話しても出ないから、ちょっと焦ったんだけど……」
「……真琴、お前、それ」
 七瀬家の向かいに住む、凛と遙の幼馴染だった。ただし頭頂部に見慣れない、それでいて妙に馴染む獣の耳をくっつけている。これも見覚えのある安っぽさで、きっと百円ショップで買ったのだろうとすぐに察しがついた。
 ちいさな魔女が真琴の腰にまとわりつきながら、お兄ちゃんは狼男だよ、と笑った。やはりか、やけにしっくりきて怖い、という感想を凛はすんでのところで飲み込む。凛の内心を知る由もない蘭は、笑顔から一転、すぐに口をへの字に曲げた。
「そーれーよーりー、お兄ちゃん、今は蘭たちがおどかしてるんだよぉ!」
「凛ちゃん、おかしないの? いたずらしてもいい?」
 お化けが両手を広げなら左右にゆらゆらと揺れる。狼男が真琴、魔女が蘭なので、こちらは考えるまでもなく蓮だろう。
 凛は持たされた落雁の意味を悟り、やっぱり、お前もか、と思った。やけに既視感のある台詞を吐きながら、上がり框にしゃがみ込んで深皿を突き出す。
「……これやるから、悪戯は勘弁な」
「ええー? これぇ?」
「これ、おぶつだんにかざるやつでしょ? ハロウィンじゃないよ?」
 予想通り、ハロウィンに夢見る少年少女には不評である。
 ぶうぶうと文句を垂れる双子の背後で、真琴は苦笑いを浮かべていた。さすがにフォローしきれない、といった様子だが、凛だって持たされただけでフォローするつもりはない。幸いなことに現状を生み出した犯人がすぐに現れた。
「蘭、蓮、それも立派な菓子だろ」
「ハルちゃん! おかしだけどさ……」
「おかしだけど……うわっなにそれすごい」
 不平から一転。凛が肩越しに遙を仰げば、先ほど畳に転がしていたイワトビちゃんの彫刻、という名のカボチャを抱えている。遙は落雁を差し出す凛の横を突っ切り、無駄な職人技に見惚れる蓮にカボチャを押しつけた。子どもの手には重かったのか、蓮はわっと声を上げてカボチャを受け取り、すぐに蘭が手を貸した。全く今更だが、ハロウィンのカボチャにしては何か間違っていると凛は思う。
 凛と同じことを考えていたのか、狼男はカボチャを褒めそやす弟妹を複雑な表情で見つめている。これは浅い子どもの知識と遙のずれた感性により生み出された特異な状況なのであって、この先双子たちがハロウィンのカボチャにはイワトビちゃんが彫られているものだと勘違いしたまま大人になってしまったらどうしよう、そんな無駄な心配が同じ兄である凛には手に取るように分かった。
 一人っ子で世情に囚われない遙だけが、しれっとした表情で真琴に声をかけている。
「真琴、ケーキほとんどできてるから。持って行ってお前んちのオーブンで焼け」
「あ、ありがとうハル。じゃあ上がらせてもらうね」
 狼男がいそいそと玄関に上がる。凛はしゃがみ込んだままずりずりといざって道を譲った。ハロウィンらしくない菓子を忘れ、カボチャのイワトビちゃんを矯めつ眇めつする双子を眺めながら呟く。
「……ケーキ作ってたのかよ」
「真琴のお袋さんに頼まれて、お前が昼寝してる間にな」
 揶揄われているのかと横目で遙を見上げるが、本人は相変わらずの無表情で双子を見つめている。問い詰めるべきか否か悩む間に、ケーキ用の型を手に真琴が戻ってきた。
「ハル、これでいいんだよね?」
「ああ」
「ありがとう、母さんも喜ぶよ。焼けたら切り分けて持ってくるから。凛も明日までいるんだろ?」
「……おう」
 穿った言い方のようで居た堪れない。しかし凛が今晩七瀬家に泊まっていくことは事実だし、違うと言い張ったところで向かいの橘家からこちらの様子は丸見えである。
 せめてもの抵抗に視線を逸らしながら答えるが、真琴は気にした様子もなく、じゃあ凛の分も切ってもらうからね、と言い添えた。
「あ、ハル、台所の机にケータイ置いてたの見たけど、俺の電話気づかなかったの?」
「……カボチャ茹でてる間、うとうとしてた」
 ん? と思った。
 訝った凛の視線の先で、つい先程の凛のように遙は明後日の方を向いている。真琴が「居眠りしてただけ? 俺はてっきり凛と……」などと意味深長かつ聞き捨てならない言葉を続けているが、兄とその友人の会話に聞く耳を持たない双子たちの歓声で有耶無耶になった。
「それっ! カボチャのケーキ!?」
「うん、母さんがハルにお願いしてたんだ。ウチで焼こうな」
「やったぁ! ありがとうハルちゃん!」
 イワトビちゃんの彫られたカボチャを抱えたまま、双子がぴょんと飛び跳ねた。
「気にするな。焼いて家で食え」
「うん! おにいちゃん、早くかえろ!」
「こーら、埃が立つから走るなよ蘭! ……ほんとにありがとう、ハル、凛も。夜にまた来るから」
「ああ」
 お化けと魔女が先導し、狼男が続いてちいさな百鬼夜行ができあがる。
 慌ただしく去っていく橘家の兄弟を見送って、凛と遙はしばらく無言で玄関に佇んでいた。
 結局受け取ってもらえなかった落雁を弄びつつ、凛はじとりと遙を仰ぐ。
「お前も寝てたんじゃねえか」
「……凛が気持ちよさそうに寝てるのが悪い」
「言い訳になってねーぞ、こら」
 居間へと引っ込む遙を追いかけ、凛も框から腰を上げた。
「お前が来て早々寝始めるから」
「……それは、悪かったけどよ」
「疲れてるんじゃないのか」
 卓袱台の前に座布団を並べながら、遙がじっと見つめてくる。透明度の高い海のような目に、凛は後ろめたいこともないはずなのにぎくりとした。
 遙はすぐに視線を落とし、座布団へと腰を落ち着ける。凛も抱えたままだった深皿を卓袱台に置き、倣って遙の並べた座布団に胡座をかく。
「部活で揉めてるって、お前の後輩から聞いた」
「あー……」
 夏の大会も終わり、御子柴部長を含む鮫柄高校水泳部の三年生はそろそろ引退の時期で、部内での人間関係に少々変化が起きている。
 凛は夏の大会でやらかした。部長である御子柴はそれを許した。凛は来年には鮫柄で最高のチームを作ると決めたものの、自分のレースで散々な泳ぎをしておきながら他校の生徒とリレーを繋いだことや、それ以前に少しずつ溜め込んでいた部内での自分本位な振る舞いはすぐに許容されるものではない。
 大なり小なりの不満と不信と、できあがりつつある新体制に、ほんの少し、形にならない程度の軋轢が生じている。少なくとも凛はそう分析している。それを似鳥が少々大げさに遙に伝えてしまったのだろう。
 がじがじと後頭部を掻いて、凛はそっと息を吐いた。
「揉めてるってほどじゃねーよ。大丈夫」
「本当か」
 遙はほんの少し声のトーンを落とした。どうもこの男は夏の大会以降、凛に対して心配性になり過ぎているきらいがある。
 心配されることが嬉しい、とは、素直に口にできないけれど。
「……今までのツケ払ってる、みたいなもんだよ。帰ってきて鮫柄入ってから、泳ぎに手ぇ抜いたことはねーけど……人間関係とかは、ちょっと駄目な感じだったからさ。お前らのことも含めて」
 泳ぐこと、誰よりも速く泳ぐこと、一番になること。
 そんなことばかり考えて、見落としてしまったものがたくさんある。凛はやっと気がついた。溺れていることも分からず息もできず、泳いでいると言い張りながら沈んでいた日々に比べれば、この程度の悩み些細なものだ。そして遠からず乗り越えられると、凛は信じている。
 遙がそっと身を寄せてきた。凛の後ろ頭に手を回して、ごつりと額同士をぶつける。睫毛が触れ合うほどの位置に遙の澄んだ瞳がある。
「凛が大丈夫だって言うなら、信じる。けど何かあったらすぐに言え」
「…………おう」
 現に、四年かけて捻れた輪を、綺麗に結び直した遙がこうして凛の隣にいてくれるのだ。
 もう越えられないものも、恐れるものもない。
 ――などと、少々オーバーなぐらいに思ってしまうのは、ひとえに遙が心配性、いや、通り越して甘すぎるせいだ。人のことを面倒臭いなどと突き放していた男はどこのどいつだったのか、襟首を掴んで問い詰めたいぐらいには甘い言葉が、水のように静かな遙とは相反する熱っぽい台詞が、ぽんぽん飛び出すのが悪いのだ。
 今だって近すぎる距離に凛は逃げ出したい気持ちになっているのに、遙ときたら額を突き合わせたまま離してくれる気配もない。気恥ずかしさから凛はうろうろと可能な限りの範囲で視線を彷徨わせ、卓袱台の上に咲く白い花にふと視線を留めた。
「ハル、言いたいこと、あった」
「何だ」
 凛はちょっとだけ息を吸い込む。ちらりと上目遣いで遙を窺い、
「――Trick or Treat?」
 囁いてみせた。
 遙の水を湛えた目が丸く見開いて、ちゃぷんと波打つ。ほんの少し驚いた様子で、凛は内心そっとほくそ笑んだ。このまま真面目に取り合うなり呆れるなりして凛を解放してくれれば御の字だ。
 そう凛は目論んでいたのに、遙は予想外に、ふっと鼻で笑った。
「お前、いつも無駄に発音いいよな」
「なっ!! ……ッンだよ、こっちの発音のが正しいんだからいいじゃねーか!!
 呆れるどころか、今度こそ揶揄われたような形だ。
 凛はかあっと頬に朱を上らせて、やわい遙の拘束から抜け出す。
「だいたい、授業中もカタカナ英語で話すお前らがおかしいんだろうが!! 世界行ったら通じねえぞ!? お前オリンピック行ってどうする気だ!?
 一息に捲し立てて、はたと凛は思い至った。凛自身は父の夢だったオリンピックを自分の夢に、世界へ行くことを目指している。けれど遙が世界を、オリンピックを目指しているかどうかは別の話だ。昔のように、あるいはまだこじれていた春頃のように、凛は無意識に自分の夢を遙に押しつけてしまったかもしれない。
 そろりと遙を見つめれば、遙は空っぽになった自分の腕を見下ろし、それから凛を見つめ、最後にちいさく手招きをした。機嫌を損ねてはいない、のだろう。凛は誘われるがまま、そろそろと遙の前へと戻る。
「俺は、英語は分からないし、話せなくてもいい」
 遙は堂々と言ってのけた。
 凛の視界に、ほんの少し闇が差す。遙は、英語なんて必要のない世界で、水を求めて生きていくのだ。いつまでも凛と一緒に泳いでくれるわけではない。凛が世界へ旅立つ日が来れば、それはきっと遙とのささやかな別れの日になる。
 悟って俯きかける凛の両頬は、しかし落ち込む前に遙の手のひらに押さえられた。
 え、と思ってされるがまま顔を上げれば、遙はさも当然といった顔で凛を見つめている。
「凛は話せるだろ。隣で俺の代わりに喋ってくれればいい。そしたら俺は英語を勉強しなくて済む」
「は……」
 堂々と、何か。
 言葉の裏を深読みすると、凛に都合のいい話をされているような気がする。
 ぐっと遙が顔を近づける。凛の頬は遙の手のひらの中で、逃げ出す先はどこにもない。まっすぐ見つめてくる青い瞳の中で、ほんの一瞬、赤い金魚の尾ひれと、橙の光が閃いて散った。
「凛と、一生一緒にいる。もう親父さんに言っちまったし、離れるつもりもないから」
 どこかで聞いた言葉だった。
 凛の、恐らくは夢の中で、おかしな格好をした遙が、凛の父に告げた台詞だった。
「は、る、それっ――」
「凛」
 聞いたことがないのに聞き覚えのある真剣な声で、遙は厳かに、きっぱりとしたカタカナ英語を口にした。
「トリックオアトリート」
「ん、むっ」
 是も否も答える間もなく、凛の唇は遙の唇に塞がれる。声にならない答えは遙の舌に絡め取られる。甘い。甘くなにかが混ざり合って呑み込まれて、塊になってお互いの臓腑にすとんと落ちる。
 これが現実でもいいのだと気づいて、凛はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏ではふたりの黄金の夢が煌めいて未来で笑っている。
    2013.10.29 x 2013.10.31 up