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パラドキシカルズー

 湿った声、あえかな吐息、肉が肉を打つ音、糸を引く水音。果たしてどれが空耳で、どれが現実なのだろうか。
 こめかみがどくどくと拍動する。静かに暴れる心臓に引きずられるように呼吸が浅く、速くなっていく。肺を出入りする酸素に悲鳴まで漏れそうになって、遙はぎしりと奥歯を噛んだ。仮に声が出たところで、獣のようにまぐわうふたりは気づきやしないだろう。そんな嘲りに似た考えは噴き出す嫌な汗とともに背中を伝って流れていった。
 汗が、止まらない。今は真冬だというのに、頭から水に突っ込んだかのように濡れて汗みずくになっていく。粟立つ背筋を、痛いほどに鼓動を伝えるこめかみを、ビニール袋を握り締めた手のひらを。遙の視線の先で四つ這いになって雄を受け入れる凛を、凛を背後から貫いて腰を振る真琴を、汗が、濡らしてゆく。
「ぁ、ああ、ま、こと、ふぁ……まことっ」
「……ッりん」
 甘くとろける凛の声は遙にとって、聞き慣れた、といってもいいものだ。
 けれど凛がこの声で、遙だけに向けるはずの声で、遙以外の人間の名前を呼ぶなんて、知らない。知りたくもない。
 実の親よりも身近にいて、お互いを理解し合っている真琴が、こんなに欲を剥き出しにした声で誰かの名前を呼ぶなんて、知らない。
 遙の恋人と遙の親友が、遙のいないところで身体を重ねているなんて、知らない。
「ま、ことぉ……あっ、なあ……」
 凛がちいさく尻を揺らしながら喉を反らす。この仕草の意味するところを遙は知っている。後ろからの性交で凛がキスをねだるときの仕草だ。
 まぐわう二人を背後から見つめる遙には、真琴のしなやかな背筋が生々しく隆起する様がよく見える。真琴は大きな背中を丸めて、凛に覆い被さるような格好になる。応えて凛が白い喉を限界まで逸らせる。溢れて零れそうなほどに濡れそぼった凛の瞳が背後を映す。覆い被さってくる真琴を、そして――真琴の向こう、襖の影で立ち尽くす遙を、映す。
 涎まみれの凛の唇が、すうっと笑みのかたちに歪んだ。
「――ッ!!
 遙は弾かれたように駈け出した。力の抜けた足は存外と力強く床板を踏み、走るほどの長さもない七瀬家の廊下をすり抜ける。玄関の引き戸を開いて家を飛び出し、神社から公道へと続く石段を駆け下りる。
 手にしたビニール袋が擦れてがしゃがしゃと鳴る音だとか、駆け抜ける遙の足音だとか、乱暴に開閉されたガラス戸がレールを滑る音だとか、そんなものが二人に届いたかも知れない。しかし衝動に突き動かされるだけの遙にそんなことを考える余裕があるはずもない。
 覗き見ていたことが二人に気づかれたのではないか。
 遙が思い至ったのは七瀬家から遠く離れた海岸沿いの歩道で、息を切らせて立ち止まった時だった。
 既に日は没していて、うっすらと紫を刷いた黒い空の下、墨のように黒い海がうねっている。ざぁんざぁんと、未だに震え悶える遙の心臓を不穏な波の音で煽っている。ただでさえ汗に濡れた体を海から吹き付ける冷たい潮風が包み、更に遙の体温を奪っていく。
 遙はコートの合わせをぎゅっと握る。力が抜けたり、入り過ぎたりで上手く掴めない。まるで踊るように震えている。未だ遙の右腕に下げられたビニール袋だけがしゃらしゃらと鳴り、遙をひそやかに現実へと連れ戻していく。
 そうだ、気づかれるも何も。
 あそこは遙の家だ。七瀬家の居間で、恋人と幼馴染が、家主である遙が不在の間に性交に及んでいたのだ。


「……醤油がない」
 調味料を仕舞いこんだ棚の引き戸を開けて、遙はぽつりと呟いた。
 意図せずまろび出た呟きに返ってくる反応は、あからさまに聞いていない調子での「ふぅん」という声と、唐突に現実に引き戻された「えっ」という声だった。現実に戻ってきた方の声がのそりと遙に近づいてきて、一緒に棚の中を覗き込んでくる。
「うちから持ってこようか?」
「おい真琴逃げんな、あと三ページだっつってんだろ」
 真琴の善意の声に苛立ちを隠しもしない凛の声が被さる。遙が視線だけで隣を仰げば、真琴は弱り切った顔で置き去りにした卓袱台を振り返っていた。
 最近はミカンの入った籠が置かれるばかりだった卓袱台には、三人分のノートやら教科書やらが広げられている。置ききれなかった参考書やプリントは畳の上に積まれていて、その真ん中で胡座をかいた凛がじろりと真琴を睨みつけていた。卓袱台に肘をつき、イライラとシャープペンシルをノックしている。
「に、逃げてるわけじゃないってば! ハルが醤油がないって言うから、ちょっと俺んちから取ってこようかって……」
「そうやって逃げんだろうが! さっきから茶ぁ沸かしてくるだのションベン行ってくるだの休憩が多いんだよお前は! 集中しろ!」
「ううぅ……」
 丸めたノートで卓袱台を叩く凛の姿は、漫画か何かに出てくるスパルタ教師そのものである。実際、今日の凛は遙と真琴専属の英語教師だった。
 学期末試験を目前に控えた岩鳶高校だが、遙は気紛れな早退や欠席で学習の理解にムラがある。一方真琴は真面目に授業を受け、並程度の成績をキープしているものの、ただでさえ得意でない英語において今回の試験範囲に該当する単元にどうしても理解し難い構文が頻出していた。おかげで二人して小テストでの成績からして芳しくない。
 遙たち岩鳶高校水泳部は発足前の廃墟侵入や他校侵入、極めつけに夏の地方大会での事件があったため、教師陣から厳しく目をつけられている。特に夏の事件は大会史にも前例のない不祥事で、廃部にならず大会後一ヶ月の部活動停止及びプールの使用禁止処罰で済んだのは、顧問である天方教師のフォローと、他教師陣の寛大過ぎる判断に土下座して感謝してもまだ足りないぐらいである。
 しかしその処罰にも但し書きがついている。今後同様の騒ぎを起こした場合即廃部、且つ、定期試験において一人でも落第者が出た場合は期間を限定しての部活動停止、というものだった。
 屋外プールしかない岩鳶高校では、発足時の野望も潰えたため冬は筋力トレーニングぐらいしかできることがない。そのため学期末試験後から年末までの一週間ほどは鮫柄高校水泳部との合同練習が予定されていた。
 折角江が尽力し、御子柴部長と共同で日程や練習メニューを組んでくれたというのに、試験に落第して部活動停止になったので中止にさせてください、ではあんまりである。
 結果、今回の試験を憂慮した岩鳶高校水泳部は最終手段として、特別英語教師・松岡凛を召喚し、二年生二人の集中学習を決行した次第である。
 最初に話を持ってこられた凛はといえば実に面倒くさそうに応対し、遙と真琴の成績を詰ったのだが、目に入れても痛くない妹と頼みにしている部長が計画した合同練習が控えていること、そして夏の事件に少なからず責任を感じていることを建前に渋々了承してくれた。もちろん内心では頼られて喜んでいるのがこのスパルタ具合から容易に推察できる。
 ――という経緯から、凛に叱責された真琴の最後の抵抗としてはせいぜい肩を落として呻く他ない。立派な体躯に似合わない気落ちした様子を憐れみ、遙は幼馴染の背中をぽんと叩いた。現金なもので、遙からフォローが入ると思った真琴が捨てられた犬の瞳で遙を見返す。
 遙はそっと見捨てて立ち去ることにした。
「真琴の勉強を邪魔するのも悪い。今からちょっと行って買ってくる」
「ハルぅうううう……!!
「オラ真琴戻って来い! あとここ、スペル間違ってんぞ!」
 どうせ今日借りて凌いだところで、明日以降にはまた買いに行かなければならないのだ。和食中心の七瀬家の食卓に醤油は必須の調味料である。特に今日は近所のおばさんからむっちりと肥えた立派な大根を頂いたので、下ろし大根にして焼いた鯖と一緒に食す予定なのだ。これにはやはり醤油がなければならない。
 すごすごと卓袱台へ戻る真琴と丸めたノートを振り被る凛に嘆息しつつ、遙はコンロの火を止める。鰹出汁を取ったばかりの湯が鍋の中で黄金色に波打っているのを確認してから踵を返し、ちらりと卓袱台を振り返る。
「凛、真琴、留守番頼んだぞ」
 おう、というやる気に満ち溢れた凛の声だけを聞き届け、遙は冷えた廊下へと踏み出した。真琴の返事は情けなく萎れているに違いないので聞き流しておく。ちなみに遙が凛のスパルタから免除されている理由はといえば、遙の成績は授業態度の悪さから来るものであり決して内容が理解できないわけではなかったこと、少し指導を受ければすぐに凛の予定していた範囲と難易度をクリアしてしまったこと、そして凛は本日七瀬家へ泊まる予定であり、遙には自分と凛の夕飯を用意する支度があったためである。
 遙は一度自室に上がり、カーディガンとコートを羽織る。財布の中身を確認してからコートのポケットへと押し込み、念の為に普段は携帯することのない携帯電話も反対側のポケットへ突っ込んだ。マフラーを首に引っ掛けながら階段を下り玄関へと抜ければ、案の定熱のこもった凛の怒声と真琴の悲鳴が襖越しに聞こえてくる。二人の声を背に遙は近所のスーパーへと繰り出した。
 歩いて十分もない最寄りのスーパーまで、遙は北風に煽られながら徒歩で向かった。十分程度なら歩いたところで大して苦にならないし、この風では逆に自転車に乗るほうが苦痛だろうと判断したためだ。しかしここで誤算が生じる。遙は目的のスーパーの調味料コーナーで眉間に皺を寄せた。
 目的の醤油がなかったのだ。いや、醤油は濃口薄口問わず各メーカーのものが並んでいたのだが、遙の探している醤油だけが売り切れていた。七瀬家では昔から、例えば六角マークが目印の、全国流通しているプラスチック容器に入った醤油ではなく、地元の小さな会社が製造したちょっと値の張る、どっしりした茶色い瓶に入った醤油を愛用している。
 家では凛と真琴が待っている。愛用している遙自身、大して味の違いが分かるわけでもないし、醤油ぐらい妥協すればいいとも思う。しかし今日の食卓は自分だけでなく、凛も一緒なのだ。やはり凛には少しでも旨いものを食べさせてやりたい。それにここで妥協するぐらいなら、真琴の家から借りてしまえばよかったという後悔もある。
 遙はポケットの携帯電話を取り出した。時間を確認すれば、ここからもう一軒向こうのスーパーまで行って帰ってから支度をしてもまだ間に合う、といった時間だった。
 そのままボタンを操作して、遙は真琴の携帯電話の番号を呼び出し、発信ボタンを押す。コール音が五回ぐらい鳴ったところで、ぶつりという小さな接続音と、はるぅ、という情けのない真琴の声が聞こえた。後ろのほうで凛が怒り散らしている声も聞こえる。恐らく遙からの電話にかこつけて休憩するなとか、ハルもなんで俺じゃなくて真琴のケータイにかけるんだよ、とか喚いているのだろう。後者に関してはもう癖なのだから仕方がない。
 せめてこれ以上凛の不興を買う前にと、遙はもう一軒向こうのスーパーまで行くので帰りが遅くなる旨だけを告げて通話を切った。通話の切れる直前まで、助けを求める遙の幼馴染の声と、熱心に教鞭を振るう遙の恋人の声がスピーカーから響いていた。
 そうだった。そのはずだった。


 遙は手近なガードレールに腰を預け、落ち着こうと深呼吸を繰り返す。けれど水の中で藻掻いているように、呼吸の仕方が分からない。四百メートルを全力で泳ぎ切ったときよりもずっと疲れていて、心臓もまだひっきりなしに暴れている。
 結局遙はずるずるとその場にしゃがみ込んで、時間が呼吸を、心臓を、遙のこころを落ち着けてくれるのを待った。ガードレールに後ろ頭を擦りつけながら、目を閉じて夜空を仰ぐ。アスファルトに放り出されたビニール袋が海からの風に煽られ、がざがざと不快な音を立てている。袋の中の少し高い醤油の瓶と、いつか凛が好きだと言っていた炭酸飲料のペットボトルだけが泰然としていて、遙の手元に残った現実だった。
 遙は次に向かったスーパーで、無事目的の醤油を購入した。レジに向かう途中、飲料コーナーでふとこの炭酸飲料が目に入って、そういえば凛が好きだったな、と思って、ついでにレジへと運んだ。凛が、好きだからだ。遙が凛を好きなのだ。
 凛だって遙が好きなのだ、真琴へかけた電話の向こうで凛が怒っていたのはそういうことだ。どうして恋人の俺じゃなくて真琴に電話するのだと、憤っていたのだ。
 これは別に、遙の勘違いとか思い込みではない。真琴という第三者の手前、過度なスキンシップは謹んでごくごく普通の友人として振舞っていたけれど、遙と凛は間違いなく恋人同士だった。
 遙は凛に対して小学生の頃から感情を燻らせていて、中学一年の冬にその感情が火種にまで育ったのを自覚した。それから高校二年生までずっとずっと持て余して、胸の底を熱く転がる感情が煩わしくて水の中に逃避して、崩れたスイミングクラブで再会してから遂に爆発させた。遙は初恋を滝だと断言できる程度には人間に興味がなかったが、凛だけは別だった。
 他人に比べて遅れてやってきた春機発動期に遙は奔走して、リレーを通して凛を取り戻した後、男同士だとか付き合うための前段階だとか、一切考えずに凛に告白していた。思えば熱に浮かされていた遙でも理解できるぐらいには、凛も遙のことが好きなのだと確信できる言葉が、行動が、仕草が、彼の端々から見て取れたからだろう。つまり遙は勝算があると踏んで告白した、らしかった。あらゆる面において必死だったのであまり覚えていない。
 凛との始まりを思い返しざま、先ほど自分の家で見た光景が脳裏をよぎって、遙は馬鹿みたいだと思った。あんなになりふり構わず凛だけを求めていたのは、遙だけだったのだろうか。
 それでも凛が遙を好きなのは――少なくとも、好きだったのは間違いがない。遙が言葉を選ぶこともできずに、ただ好きだと伝えた時、凛は呆気にとられた顔をして、それからぼろぼろと涙を零したのだ。一瞬泣くほど嫌だったのかと遙はショックを受けたが、しゃくり上げながら凛が「俺も」と答えた瞬間の、あの鮮やかに世界が広がる感覚を、胸の奥が深く温かく抉り取られて凛のかたちになっていく錯覚を、遙は一生忘れないと思う。あの瞬間の凛には嘘も衒いもなかった。
 不器用過ぎる告白を経て、周りの誰にも気づかれないように遙は凛と付き合い始めた。学校と部活と、限られた時間の中でデートのようなものをした。行き先は近くの浜辺だとか、隣の市のプールだとか、スポーツショップだとか、一見するとつまらないところばかりだったが、遙も凛も至って真剣で、楽しかった。
 人目のない場所で、あるいは人混みに紛れて辿々しく指先を触れ合わせて、ぎこちなく手を繋いだ。お互いに初めてだというキスは歯が当たってなかなか酷かった。血の味だった。二回目は怯えるように唇を重ねて、三回目には舌と舌を絡めあった。
 セックスだってした。初めての性交は知識不足も手伝ってキス以上に酷い有様だったので思い出したくはない。二回目からは凛が泣いて恥ずかしがって、嫌がるくらい気を遣った。今はもう正確な回数なんて覚えていないが、少なくとも背後から抱く時、凛がキスをねだる仕草を見抜くぐらいには交わったと思う。
 は、と息を吐く。薄闇に二酸化炭素が白く染まって、頼りなく消える。呼吸も心臓もだいぶ落ち着いたようだった。遙の気持ちはといえば、まだぐらぐらと揺れている。
 がさがさと震え続けるビニール袋の持ち手に左の手首を通し、遙はコートのポケットへ右手を突っ込んだ。手袋してこなかった上、一度掻いた汗が冷えてしまったせいか酷くかじかんでいる。感覚の鈍い指先をゆっくりと動かして、遙は携帯電話を取り出した。四角く小さい機械はしんと黒く沈黙していて、着信もメールの受信もないことを遙に教えている。電源キーを押して待受画面を呼び出しても何の通知もなく、遙が凛と二人で夕食を摂るつもりだった時間に差し掛かっていることだけは無情に知らせてくれた。
 あれからどれぐらい経ったのかは、よく分からない。けれどいつまでも路端に座り込んでいるわけにもいかない。遙はゆっくりと腰を上げる。震えも脱力もだいぶマシになっていた。引きずるようにして一歩一歩、ゆっくりと自宅へ向かって歩き出す。
 勘違いとか、見間違いとか、幻だったのかもしれない。頬を刺す冷たい夜風に目を眇めながら遙は思う。街灯の少ない海沿いの夜道は、歩き慣れた場所のはずなのに、どこか非現実的だった。
 本当は遙はまだ家になど帰っていなくて、七瀬家の居間では腹を空かせた凛が遙の遅い帰宅に憤っているのだ。真琴は凛を宥めているか、もしくは橘家の夕餉のために帰宅しているか、いや、遙の携帯電話に何の連絡もないことからして、まだ二人で額を突き合わせ、時間を忘れて英語の長文と格闘しているのかもしれない。
 とぼとぼという擬音もおこがましいほど力なく、遙は足を動かし続ける。平生の倍ほどの時間をかけて住宅地まで辿り着き、石段の下からそうっと自宅を見上げた。居間の灯りが障子越しにこぼれている。遙は何となく、橘家のほうにも視線を転じた。こちらもいつもどおり、リビングやダイニングに明かりが灯っている。今日は土曜日で、真琴の両親も弟妹も在宅だと聞いていた。真琴ももう戻っているのだろうか。
 ふるりと頭を振って、ビニール袋を握り締める。いつもなら重いだけの醤油と炭酸飲料が今の遙には頼もしくすら思えた。重みに縋るようにゆっくりと、一呼吸ごとに石段を上る。一段を踏みしめるごとに暴れそうになる心臓を宥めすかして、ようやく遙は七瀬家の玄関まで辿り着いた。橙色の電球が灯る扉の前で一度足を止める。
 何の音も聞こえない。遠く海で打ち付けられる波の音だけが遙の鼓膜を叩いている。遙は嘲笑のように息を吐き出す。自分の家の玄関で耳をそばだてるような真似をしている自分はなんと滑稽なのだろう。何も聞こえるはずがない、こんな外にまで聞こえるような、しかもいやらしい音がするはずがない。……仮にそんな音が、凛と真琴の声が聞こえたとして、自分はどうするつもりなのか。
 深く息を吸い込んで、止めて、ようやく遙は玄関の引き戸を開いた。カラカラとレールの滑る軽い音に紛れるようにして家の中へと体を滑り込ませる。遙一人の幅だけ開いた扉はすぐに後ろ手で閉め、鍵をかけた。
 土間には有名スポーツメーカーのスニーカーが踵を揃えて鎮座している。あとは遙の靴だけで、同年代の男子と比べても一回り大きい真琴の靴はなかった。真琴はもう、自分の家へと帰っているのだろう。
「……ただいま」
 今、七瀬家には凛だけだ。そう思うと途端に気が緩んだ。やっぱり遙が見たものは夢だったのだという確信のない安堵に背中を押される。遙はスニーカーを適当に脱ぎ捨てて上がり框へと上がった。
 いつ真琴が帰ったのかは分からないが、凛はずっと一人で待っているのだ。早く夕飯の支度をしなければならない。
 台所へ通じるガラス戸を引けば、温かな空気が遙の頬をふわりと包んだ。
 続いて蛍光灯の眩しい居間で、やわらかな赤色が揺れる。
「遅かったじゃねえか、ハル。醤油なかったのかよ」
「……凛」
 いつも通りの凛だった。広げていた教科書やノートを畳み、ちょっと唇を尖らせて卓袱台から立ち上がる。本気で怒ってはいないけれど、俺は不機嫌なんだとアピールする、凛の可愛らしい拗ね方だ。
 付き合い始めてからは何度も見たことのある仕草。特におかしなところなんてない、いつも通りの凛だ。着衣だって乱れていない。そんなところを目敏く観察してしまう自分が、嫌だった。
「いや、ちゃんと、一軒向こうのスーパーに、あった」
「ふぅん? ……あ」
 変に声が震えないよう、気を張る遙には気づいていないのだろう。凛はずかずかと無遠慮に遙の前までやってきて、ちょっと首を傾げて、それから遙が左手に下げたままのビニール袋へと視線を落とした。
 遙が口を開く前にさっさと袋を取り上げて、ダイニングテーブルの上へ置く。がさがさと白い袋を掻き分けて、炭酸飲料のペットボトルを掲げた。
「これ、俺が好きなやつ」
「安かったから」
 ほとんど意味のない、ささやかな嘘で遙は答える。凛が好きなのを思い出したから、と素直に伝えるのはどうしても恥ずかしかった。
 凛はほんの少し嬉しそうな、弾んだ声で「ふぅん」とだけ返事をした。けれどすぐにはっとした様子で顔を上げる。
「わざわざこれ買ってたせいで遅くなったんじゃねえよな?」
「違う、本当についでだ」
 醤油と違い、炭酸飲料の方はスーパーにもコンビニにも、自販機でだって売っている。なのにこんなふうに気を揉んで心配してくれる凛が遙は好きだった。
 だからこそ、おかしな幻に中てられて帰りが遅くなってしまったことを申し訳なく思う。既に遙の中では、いつもと何も変わらない凛の態度も相まって、一度帰宅した際に覗き見た光景はなかったものとして処理され始めていた。
 ならいいけどよという言葉を口の中でまごつかせて、凛は手にしたままのペットボトルを冷蔵庫に仕舞い込む。遙はようやく血流のよくなってきた指先で巻いたままだったマフラーを剥ぎ取り、コートを脱ぎ、まとめてダイニングチェアに引っ掛けた。代わりにキッチンの戸棚から愛用のエプロンを取り出す。いつまでも錯覚に囚われていてはいけない。今日は凛もいるのだから、早く夕飯の用意をしてしまわなければ。
 遙の帰りを待っていた凛も似たようなことを考えていたのか、袖を捲り上げながら遙の隣へ並んできた。
「俺も手伝う。さっさと作っちまおうぜ」
 そうか、と遙は肯定するつもりだった。
 待たせてしまったことも手伝わせてしまうことも申し訳なかったが、ひとつのキッチンで並んで料理をするというのは初めてだった。なんだか家主と客の関係を超えた、こそばゆくて心地の良い、例えば、家族みたいに感じたのだ。
 遙は凛の方へと顔を向ける。大して身長の変わらない凛は予想よりずっと遙の近くにいて、下手をすればぶつかりそうな、あるいはキスを目前に留まっているような距離しか開いていなかった。
 凛の唇が弧を描く。冬場の乾燥が気になると言っていたからきっと他意のない挙動だったのだろう、たまたま遙が向いたタイミングで凛は己の唇を舐めた。鮮紅色をした凛の舌が艶めかしくうねる。
 誘うように閃く。
「――腹、減ったからさ」
 語尾が甘く掠れていたのは聞き間違いだったのか、真実だったのか。遙には分からない。
 ぞわりと腰から背中へ、背中から頭へ、気色の悪い感覚が走り抜ける。頭のてっぺんが痺れて、遙の視界の中で凛の笑顔がぐんにゃりと、奇妙に歪んで溶けた。黒くドロドロとした凛の残滓が遙の目前に伸ばされる。真偽を問うよりも先に遙の身体が拒否していた。凛を突き飛ばしたのだと気づいたのは、ガタリと大きくダイニングテーブルが揺れた後だった。
 はっとして目を瞬く。遙に突き飛ばされた凛は、不安定な姿勢でテーブルに寄りかかっていた。赤の濃く差す瞳は丸く見開かれていて、どうして、とでも言いたげに遙を見つめている。ビー玉みたいな瞳の真ん中には、凛よりももっと呆然とした遙自身が映っている。
 冷たい汗がどっと噴き出した。どうして。どうして、凛を突き飛ばしてしまったのか、遙にも分からなかった。ただ善意で笑んだだけの凛が酷く婀娜っぽく見えて、考えるよりも先に遙の心の底の底が、純粋に気持ち悪い、と思ってしまった。
「そうやって、」
 ざあっと血の引く音がする。折角部屋の温度と凛の気遣いで温まったからだが急速に冷えていく。遙の唇は痺れていて、なのに理解を置いてけぼりに酷い言葉を紡ごうとする。
「そうやって、真琴を誘ったのか」
 酷い言葉を、紡いでしまう。
 遙は咄嗟に俯いた。酷いことを言ってしまった。けれど遙の見た光景が遙の思い違いの産物なら、凛はちょっと呆然として、それから呆れ果てた声で何の話だと言ってくれるだろう。言ってくれるに、違いない。
 祈り、縋るようにきつく目を閉じて、次の瞬間、凛の声が遙の鼓膜を柔らかく打った。
 聞いたことのない、低く這うようなわらい声だった。
「なんだよ、やっぱり見てたんじゃねぇか」
 くつくつと喉を震わせてわらう。誰かが遙の前でわらっている。何故かとても恐ろしくて、遙は顔を上げられない。
「目、合ったもんな。すっげぇ音立てて走って行っちまうし……ワリィな、追いかけたかったけど真琴が気づかなくてよ。アイツ突っ込んだらすぐ周り見えなくなるし、一回イくまで戻ってこねえし……あと、遅漏だし」
 凛は、凛はどこだろう。
 早く帰ってきて、支えて欲しい。頭が、世界がぐらぐらと揺れている。吐き気がする。膝に力が入らない。今にも倒れてしまう。凛。凛。
 だらりと垂れ下がる遙の腕を、そっと誰かが掴む。あたたかく慣れた温度に、遙はのろのろと顔を上げる。
「ハルも入ってくればよかったのに」
 凛が笑っていた。
 腕に纏わりつく体温を振りほどく。どろどろと溶けて遙を侵すそれは間違いなく凛の手だった。
 足先から流れていってしまった遙の血潮が、一気に頭の中に戻ってきたようだった。凛の艶やかな髪より赤く、あるいはどす黒く遙の視界が染まる。遙は右手を振り被って、思い切り打ち下ろした。平手にも拳にもなりきれなかった半端な手の甲が凛の頬を強かに打つ。凛の頭が飛ぶ。ごつりと固い音と一体になってテーブルにぶつかって、ずるりと床へ崩れていった。どろどろとした何かが滴る様に似ていて気分が悪かった。
 凛の頭を追いかけて遙も床へとしゃがみ込む。歪んで崩れた凛をそのまま床板に打ち付ければ、凛は抵抗もせずごろりと仰向けに転がった。ぎちりと遙の奥歯が鳴る。
「凛ッ……!!
「……ハルもそんな声出すんだな」
 凛はこの期に及んでまだ笑っていた。駄々をこねる子どもを見守る母親のような、どう考えても状況に合わない笑みだった。乱れて散った前髪をゆるく頭を振って払い、まっすぐに遙を見上げてくる。
「真琴はさぁ、いかにも平和主義みたいな顔してさ、力任せで相手のことなんて全然考えねーセックスしかしねぇのな。発情期の犬みてーに腰振るだけなの。俺が女だったら絶対願い下げだけど……いや、案外あのギャップがいいのかなあ」
「凛、やめろ」
「ハルも着替えとかで見たことあんだろ? 体格通りちんこもでっけぇしさ、あれだけで満足しちまう女もいんのかも」
「凛!!
 窓ガラスがビリビリと震える。それほどまでの大声はいつぶりに出しただろう。
 凛の胸に倒れ込みそうな身体を必死で支えて、遙は肩で息をする。四百メートルを全力で泳ぎ切るよりも凛と真琴のセックスを目撃して逃げた時よりも、ずっとずっと疲れていた。視界は眩み、頭は芯から痺れ、手足の筋肉はすべてぐずぐずになってしまったかのようだった。できることならこのまま汚泥になって溶けてしまいたい。酷い疲労感だけが今の遙を支えていた。
 凛は遙の怒声にぴたりと口を閉ざしている。しばらくふたりの間を、無音だけが舐めていた。
 不意に、震える遙の腕に凛の指先が触れる。もう慣れてしまった、温かくていとしい、けれど今はどうしようもなく吐き気を誘う凛の体温。もう振り払う気力もない。
 するすると腕を伝って、血の気の引いた遙の頬へと辿り着く。
「俺、ハルのセックスはさあ」
 ぽかぽかと温かい凛の指先は、慈しんで宥めるように触れてくる。眠りすら誘う心地の良さに身を委ねることを凛だけが許してくれない。
 これ以上ないほど優しい声で凛は囁いた。
「優しいばっかでつまんねーって思ってたんだよな」
 明確に遙への愛情を湛えた声だった。なのに言葉は遙の胸の奥、一番大事にしていた何かをずたずたに切り裂いていく。


 遙はこれまで、凛を大事に大事に抱き締めて、腕の中に囲ってきた。
 初めてのセックスでは痛い思いをさせてしまったけれど、二回目からはきちんと知識をつけて挑んだ。何かを受け入れるようにはできていない凛の身体の深いところは時間をかけてゆっくりと、丁寧にほぐして、気持ちのいいところを愛撫してやった。凛は恥ずかしさと気持ちよさのあまり泣いてしまったし、とろけた後孔は血を流すことも痛みを訴えることもなく遙を受け入れた。
 愛し合うようにはできていない遙と凛の身体が深くぴたりと重なった。遙はそのことが嬉しかった。こころさえ通じ合っていれば無理に身体を繋ぐ必要はない、遙は凛と付き合い始めてからずっとそう考えてきたが、凛と身体を交えてからは考えを改めた。
 実を残せない自分たちでも、こうして繋がることで形として愛情を表せるのだ。
 三回目も四回目もそれからも、遙は入念に凛の身体をほぐしてから挿入した。凛に痛い思いなどさせたくなかったし、二人で気持ちよくなりたかった。潤滑剤は必ず使ったし、挿入の際には必ず避妊具を己の陰茎に被せた。初めての頃、凛は女ではないのだから妊娠の可能性はない、だからゴムも要らないだろうと考えていた遙はすぐに己の浅慮を反省した。
 遙はずっと、いつまでも、凛を優しく愛してやりたかった。それなのに。
「ああっ、ぁ、あう、あーっ、あー……!」
「……っる、さいっ!」
 憤りをぶつけるように、遙は凛の締まった尻に腰を打ち付ける。ぱんと音が響いて凛の尻が大きく震える。逃げるようにずり上がる腰を爪を立てて押さえ込み、己の陰嚢が潰れるぐらい深く深く押し付ける。亀頭が凛の直腸を擦り上げて、ごりりと醜い音を立てた。日に焼けていないしろい背筋が遙の目の前で弓なりにしなる。
 荒い息を吐いて、遙は回す要領で腰を動かす。凛の尻がびくびくと震えて、遙の陰茎を呑み込んだ肉襞がいやらしく蠢いた。ずるずると腰を引けば未練がましく追い縋ってくる。
 半ばほどまで引き抜いた遙の陰茎は何の膜も纏っていない。初めて、いわゆる生で、遙は凛の中に押し入っていた。
 避妊具を着けていないだけではない。遙は凛の後ろをほぐしもしなかった。赤く燃える脳みそに焼き切れて落ちる理性のまま凛を押し倒して、厚く着込んでいた服を無理から剥いで、凛の同意も得ずにいきなり突っ込んだ。あれだけ気持ち悪いと嫌悪していたはずなのに、己のペニスがいきり立っているのが不思議だと、ここではないどこかにいる遙は思った。
 数時間前に真琴と行為に及んでいたためか凛の孔は緩んでいて、多少引き攣れる程度で切れることもなく遙を受け入れた。遙はそれがまた理不尽に腹立たしくて、いっそ凛を壊してやるぐらいの勢いで腰を振った。
 凛はきっと痛いだろう、少なくとも気持ちよくはないはずだ。無理に押し入った遙だって気持ちよくはない。
 ただ、酷く胸が痛い。
「はぁ、はっ……るっ、うぅ、あー……! ぅあ、あ」
 嗚咽混じりに凛が喘ぐ。遙は凛の背中と尻だけを見ていた。視界の端にガクガクと揺れるあかい後ろ頭を捉えてはいたが、到底見つめる気にはなれなかった。だから凛を俯せて四つ這いにさせて、獣の姿勢で犯している。数時間前に遙が見てしまった凛と真琴の性交と同じだ。遙もただ一匹の獣のように、只管腰を振っている。自嘲が口の端に上って、すぐに乱れる呼吸の合間に消え失せた。
 馬鹿みたいに泣き喘ぐ凛の声を意識から追い出し、遙は引き抜いた陰茎を力任せに押し込んだ。また凛の尻が跳ね上がり、鋭く喉を裂く喘ぎ声が肉を打つ音に重なる。はちきれんばかりに肥大した遙のものを咥え込む凛の尻穴は皺もないほどに伸び切っていて、のたうつようにひくひくと開閉を繰り返している。柔らかく蕾んでいるはずの場所が熟れ腐り落ちる寸前の色を晒している。
 遙は奥歯を噛み締める。もう終わりにするつもりで、ひときわ速く、深くまで凛の肉孔を穿つ。末期の痙攣に震える身体を押さえ込んで、亀頭と裏筋で中の凹凸を押し潰すように出入りを繰り返す。最後に肉欲だけ満たされた雄が震えて、遙に射精を訴える。
「……り、んっ……りん!」
「ぁ、はるぅ、う! ふっあ、はる、ああ、ぅ」
「中、出すっ、から……な!」
 念を押すような物言いになっていることには気づかなかった。気づいたところで遙に何を考えられるわけでもない。
 視界の端の赤色が上下に振れたように見えた。嫌だと泣き叫んだところで止められるわけでもなかったし、凛は拒否しないだろうという根拠のない予感だけはあった。遙はペースを上げながら腰を打ち付けて、最後に一度引き抜いた。くぱりと開いて緩んだ孔を目掛け空気ごと陰茎を押し込む。肉の壁がぎゅううううと、搾り取らんばかりに締め付けてくる。これ以上奥はないだろうところまで亀頭を押し付けて、そこで遙は射精した。
「ぁ……あーっ……」
「――ッ!!
 腰を震わせて、最後の一滴まで注ぐ。すべて出し切ったところで、余韻に浸る間もなく萎えた陰茎を引き抜いた。押し込められていた空気とともに、ぶぴゅっと下品な音を立てて吐き出したばかりの精液が溢れ出る。遙は肩で息をしながらその様を眺めている。
 何度も何度も呼吸を繰り返した末、ようやく遙は凛の姿のすべてを捉えた。
 四つん這いになって、力尽きたのか上半身は床にぺたりと伏せられている。体全体が細かく震えていて、高く掲げられた尻だけが別の生き物のようにゆらゆらと揺れていた。遙に散々嬲られた尻のあわいは真っ赤に染まり、ひくひくと開閉しながら孔から白濁を零している。
 遙はゆっくりと片手をもたげ、顔の半分を覆った。
 ずっといつまでも凛を優しく愛してやりたい、そう思っていたのに。
 これではまるで、いや、間違いなく強姦だ。
「はっ……ぁ、は……るぅ……」
 凛がちいさく声を漏らした。自分を呼んでいることに気づき、遙は弾かれたように顔を上げた。りん、と名前を呼んだつもりだったが、ちっとも声にはならなかった。
 遙の視線の先で、凛がちいさく腰を揺すっていた。汗に濡れた首筋を反らして、斜めになった瞳で遙を振り返っている。この仕草の意味するところを遙は知っている。知っていても動けない。根の張ったようにその場で固まる遙に、凛は苦しい姿勢のまま涙と涎と鼻水で汚れた顔を向け続ける。
 やがて力尽きたのか、凛の首がかくりと落ちた。勢い零れたちいさな声は、遙の心臓を貫いた。
「はる……すき、だ……」
 何一つ理解できなかった。


 意識を取り落とした凛を、上背のほとんど変わらない遙がひとりで運ぶのは骨が折れた。悪いと思いつつ、足を引きずるようにして背後から脇に手を入れて抱え上げ、遙は凛を風呂場へと運んだ。
 少し温めの温度に設定したシャワーを浴びせても凛は目を覚まさず、遙はひとりで凛の身体を綺麗にしてやった。意識のない凛の後ろを暴くのは気が引けたが、無理矢理犯しておいて今更だと遙はすぐに自嘲した。緩んだ孔に指を差し入れ、自分が吐き出した精液をすべて掻き出した。
 最後まで目を覚まさなかった凛を再び抱え上げ、冷えて風邪を引く前にと身体を拭く。少し生地の厚い遙のパジャマを着せてやって、二階まで運ぶことはできないので居間に寝かせることにした。布団を敷くスペースを作るため卓袱台を端に寄せる際、凛の積み上げていたプリントが目に入った。少し角ばった几帳面な凛の文字に、遙は何故か鼻の奥がつんと痛んだ。
 居間の畳に敷いた布団に凛を横たえ、毛布と掛け布団をかけたところで、遙は大きく息を吐いた。真っ黒く濁って肺の底にわだかまる空気を全て吐き出してしまいたかった。
 しんと沈黙の落ちた居間で、遙はひとり天井の木目を仰ぐ。
 ほんの半日ほど前までは勉強会だの夕食はどうするだの、他愛もない会話で凛は笑っていたのに、どうしてこうなったのだろう。
 眠ることもできずに黙考すること、しばし。冬の空気に凍ったような時間を解いたのは、突如響いたちいさな電子音だった。
 いつもなら聞き逃してしまう程度のその音は、今の遙には酷く大きな音に聞こえた。ゆらりと立ち上がって音の聞こえた方へと歩み寄る。ダイニングチェアに引っ掛けたままのコートのポケットだった。冷たく四角い端末を引きずり出せば、ちかちかと通知を示すランプが点灯していた。
 スライド式の画面を押し上げ、キーを操作する。メールが一件。送信元は確認するまでもない。タイトルは空白で本文にはただ一言、
『大丈夫?』
 とだけ。
 遙の幼馴染はきっと、自分が帰った後に何が起こったのかを察している。いかにも図ったようなメールのタイミングは解せないが、事態を把握していることは間違いなかった。
 何に対して大丈夫と問うているのかを考えるより、遙は真琴がどんな顔をしてこの一言を打ち込んだのか、そちらのほうが気になった。知ったところで何にもならないけれど。
 遙は返信を選択し、不慣れな動作で文字を入力する。たった一文の返信は疑問符への返答などではない。
『今から来い』
 随分と時間をかけた返信の後、遙は携帯電話の電源を落とした。
 一度息を吐いてから、遙はずるずると重い体を引きずって廊下へとまろび出る。深夜に近づくほどに温度は下がり、遙の素足の裏に触れる床板は氷のように冷えていた。
 なめくじほどの時間をかけて玄関まで移動して、遙は壁に背を預けながらずるりとその場に座り込む。真っ黒い画面を晒す精密機械はだらりと垂れ下がった遙の手から滑り落ち、がつんと鈍い音を立てて転がった。幼馴染と揃いのそれの行方を見届けることなく、遙は真琴が来るまでの短い時間と知りながら目を閉じた。
 真琴は何を話すのか、凛は何を思っていたのか、自分はどうしたいのか。今は何もかもが考えるだけ無駄だった。
    2013.10.16 x 2013.10.31 up