×

ワードオブザボイス

 かまびすしい蝉の声も陽が落ちるごとに弱まっていく。水平線に赤が滲めば打ち寄せる波の音にひぐらしの声が混ざり合ってとけ、夜の帳が落ちればひそやかに秋の虫がうたいだす。
 凛が黙って七瀬家を訪れたのはそういう時節で、そういう時間だった。
 地方大会も終わり、以前の逼迫は鳴りを潜め余裕の生まれた練習の後、夏休みが終わるまであと、と呟いて指を折れば、渚は両耳を塞いで首を振る。まだ課題残ってるんですか、と怜は呆れ、真琴は冷や汗を浮かべながら笑う。本人の課題の進捗状況はさておき、橘家では双子の宿題が佳境を迎えているらしい。長兄に助けを求める双子の声とそれを諌める母親の声は、ここのところ毎晩のように七瀬家まで届いている。
 今日も微かな喧騒が虫の声に被さっていて、だからこそ唐突に鳴らされた呼び鈴の音が響いた。弟妹と母親のやり取りが激化する前に逃げてきた真琴だろうか。遙は浴槽の中で僅かに首を傾げる。
 真琴ならば勝手に上がってくるだろう。他の客なら諦めて帰るはずだ。考えた末、遙は急ぐでもなく湯に浸かり続け、しっかり体を温めてから風呂場から出た。
 火照る顔を手で扇ぎながら居間に踏み込めば、縁側にぽつんと人影がひとつ。真琴ではない。ぬるい夜風に少し長めの髪を靡かせている。ゆったりとしたリズムが寄せて返す波のようで、遙は不意に、海の向こうに落ちた夕陽を掬い上げればこんな色なのだろう、と思った。
「凛」
 名前を呼ぶが、凛はこちらに背を向けたまま動かない。赤茶けた髪だけがゆらゆら、ゆらゆら、陽炎のように揺れている。
 返事を諦め、遙は一度台所へと引っ込む。グラスをふたつ取り上げて冷蔵庫の麦茶を注げば、ふと脳裏を過ぎる既視感。まだ凛との仲がぐずぐずに崩れていた時分の夜と重なる。
 凛は気まぐれな通い猫のようにふっと遙の元を訪れては、好き勝手に振る舞ってくれていた。あの頃はお互いがお互いの感情を知らず、見つけられず、上手い具合に袋小路に嵌り込んで、馬鹿みたいに体だけ繋げてこんな関係もありだと物分かりのいいふりをしていたものだ。凛の方は知らないが、少なくとも遙はそうだった。
 そういう、傍から見れば爛れたいくつかの夜に、こうやって凛に麦茶を注いでやった一夜もあったような気がする。半年も前のことではないのに、随分と遠く、ほとんど夢のような記憶だった。
 もう一度ひとつのレーンを四人で繋いで、懐かしくも新しい景色を水の向こうに見た、あの日から。凛は目に見えて変わった。歳相応の成長もあるし、身の丈を超える挫折もあったからだろう、遙を強く惹き付けて散々掻き回してくれた小学生の頃に戻ったわけではないが、ようやく凛は凛らしい、凛になった。眉間に皺を寄せるのはもう癖になってしまったようだが、皮肉げでない心の底からの笑みを見せるようになった。捻くれて突き放す棘のような言葉も出なくなった。友達というには遠くて、ただの同級生と呼ぶには浅からぬ関係は終わったのだ。遙たちの携帯電話の番号とメールアドレスを尋ねてきたのは凛からだった。赤外線通信でアドレスを交換した渚が喜びのあまり少し涙目になっていたことは記憶に新しい。
 同時に、誰にも言えなかった遙と凛の関係もぱたりと止んだ。
 一般的な友達としての関係はこの上なく良好だと思う。ほんの少し実家に戻る用事ができる度、凛はちょっとマメすぎるぐらいこまめにメールをよこすようになった。以前のようにふらりと、勝手に遙の家に、遙の視界に現れることはなくなった。そういうことだ。遙と凛のあらゆる意味で非生産的なセックスは地方大会以降一度もない。倒錯に目眩を覚える瞬間もない。
 そもそも遙と凛の二人きりという時間がなくなった。思い返せば遙と凛の間には必ず誰か、真琴や渚や怜や、江、鮫柄の凛の後輩や部長がいる。
 だから今この時は、久方ぶりの二人きりの夜なのだ。
 気づいた瞬間、遙の中にあらゆる感情が去来して動揺を象る。振り払うように頭を振れば、湿った髪が額を打った。
「凛」
 じわりと汗の滲むグラスを両手でひとつずつ持って、遙は再度凛の名前を呼ぶ。凛は庭を眺める姿勢のまま、やはり動かない。
 遙はゆっくりと、凛の背中に向かって足を踏み出す。
「凛、寝てるのか」
 できるだけ大きな音がするよう、遙は無遠慮に畳を踏んだ。凭れる場所もない縁側で、すうっと背筋を伸ばしたまま眠れるものだろうか。今晩の凛は何かおかしい。
 凛が凛でないような。
 あるいはあの、言葉が大した意味を持たなかった夢の日々の、凛のような。
 ぞくりとしたなにかが腰から背中を這い上る。遙は頭を振って、薄く鼻先を掠める匂いに気がついた。それは七瀬家でも慣れた匂いで、意識に留まるようなものでもない。
「凛!」
 強く名前を呼ぶ。遙の焦りを笑うように凛はゆっくりと振り返る。ふわりと漂うほんのりと甘い芳香。
 凛は夢から覚めたようにぱしりと一度瞬いて、じっと遙の顔を見上げた。海の底まで落ちた夕陽が足掻いて燃えている。赤を覆い尽くすように凛は目を細めた。まるで小学生の頃の凛のように、眉を下げて笑った。
「……わり、ぼーっとしてた。あ、と、勝手に上がらせてもらったぜ」
「……別にいい。これ」
「おう、さんきゅ」
 少しぬるくなった麦茶を差し出せば、凛は素直に受け取った。一気に呷ってひとつ息を吐く。そのままぐっと体を前に倒して、縁石から何かを取り上げた。白くて大きなビニール袋だった。店名が印字されているのだが、袋の中身が大きすぎるのか不格好に歪んでいる。
「これ、真琴たちと食えよ」
「何?」
「スイカ。ばあちゃんちに行ってて、持たされた」
 自分のグラスを卓袱台に置き、袋を受け取る。何の気なしに受け取ったそれは予想以上に重く、腕ごとガクリと下がった。
 微かに笑う凛を遙は視線で制し、改めて袋を覗き込む。深い緑に黒い縞がつやつやと輝く、立派な大玉のスイカだった。凛の祖母は凛に食べさせるつもりで持たせたのだろうに、受け取ってしまってもいいのだろうか。遙の疑問を察したのか凛はひらひらと手を振ってみせる。
「こんなにでけースイカ、寮の冷蔵庫に入んねーしさ。共同のでかい冷蔵庫もあるけど、そっち借りるのいろいろうるせえから」
「すぐに切って、部活で食べたらいいんじゃないか」
「スイカ一玉抱えて電車乗って帰るのもだりぃんだよ。察しろ」
 ばあちゃんちからここまで抱えて歩いてくんのも大概だったのに。言って凛はこれみよがしに大きな溜め息をついてみせる。空になったグラスを手近なところに置いて、グラスとは反対方向に庭を眺める姿勢のままべたりと倒れ込んだ。これでまた、凛は遙に背を向ける格好になった。
 遙はスイカの入った袋と凛の後ろ頭を緩慢に見比べ、最後にスイカの入った袋を足元に下ろした。遙の家の冷蔵庫だって、一度中身を整理しなければこのスイカを収めることはできないだろう。
 スイカの代わりに再度麦茶のグラスを取り上げる。今度は足音を立てないよう、遙は静かに凛の隣へ腰掛けた。凛の頭は微動だにせず庭を眺めている。遙も足を地面へ下ろして庭を眺める。随分と温くなった麦茶を一口啜る。
 ふたりのあいだを虫の声と、夏の残像だけがゆき過ぎる。
「……りん」
 うん、とだけ返事があった。虫の声よりもちいさい、消え入りそうな声だった。
 引きずられて震えそうになる。庭の向こうに広がる海が夜の色に月と星を映して、きらきらと光を散らせている。ガラスの欠片のような光が眩しくて、けれど遙は目を眇めることなく、いっそ睨みつけるぐらいの気持ちで夜を眺める。
 もし、この言葉を口にすれば。凛との関係がまたひとつ変わってしまうのではないだろうか。
 秋の混じる夏の夜はどこか不安定で、傍らで横たわる凛は夏の最中の彼ほどに不思議で、遙は今の距離感が恐らく人生で一番幸せで、結局続ける言葉は遠回しなものになった。
「連絡せずにウチに来るの、久しぶり、だな」
 凛の肩がちいさく震えた。
 遙は目の前の景色だけに視線を注いでいたので、実際に見えたわけではない。気のせいかもしれない。遙の思い込みかもしれない。
 ただ、どこか懐かしい、あまい匂いが揺れたことだけは間違いがなかった。
 またしばらく、虫の声。少し遠い波の音がゆったりと時間を埋める。
「今日、さ」
 最後に吐息だけで紡がれる、凛のひそやかな声。
「ばあちゃんち行ってて……親父の命日で。お前のとこ、来るつもり……なかったんだけど」
 凛は、泣きに来たのだ。
 本当の理由は知らないけれど、他の目的もあったのかもしれないけれど、凛は遙の元に泣きに来た。
 まだ夏の色が濃い時期に、そんな夜があった。遙の前でしか泣けない凛は映画を見て、泣いて、そのまま遙に抱かれてぐちゃぐちゃになって、最後まで凛が何を思っていたのかは分からなかったあの夜。まだ遙が物分かりのいいふりに溺れていた日々の夜。
 あの蒸し暑い夜と、今の凛が、遙の中で重なった。
 凛は父親の命日だと言った。あの晩と、今晩と、遙の元を訪れた発端は随分違うだろう。けれど同じような感傷に突き動かされてここへ来たのではないか。遙はそう思う。
 だけど、と続ける言葉で切っておきながら、凛はしばらく口を閉ざしていた。凛自身、どうして遙の元へ来てしまったのか分かっていない、そんな空気を感じる。畳の上に置かれたままのビニール袋が夜風に煽られ、口籠る凛の代わりとばかりにかさかさと音を立てる。
「スイカ」
 傍らの凛の頭へと、遙は指先を伸ばす。風に浚われて、半端に凛の耳へとかかった髪を払い除けてやる。今度こそ凛の体が震えて、遙の指先にやわらかい耳殻が触れた。不意の接触に遙の指も震えそうになる。ぐっと堪えて、なんでもない声を装う。
「スイカが重くて、疲れたから。だから来たんだろ」
 他に理由を探す必要などない。遙は言外に言い切って、凛の髪を撫でる。
 撫でるといっても、触れるか触れないか、ぎりぎりのところを遙の指が行き交っているだけだ。遙が胸で燻らせている感情のまにまに指先を絡めれば、この赤茶けた髪がどんな風に滑るのかなんて遙はとうに知っている。鼻先を埋めればどんな匂いがするのかだって覚えている。
 遙が半端に触れているのがくすぐったいのか、凛の頭がふるふると振れた。そう、と同意する凛の声が虫の音にほどけ、遙はそっと安堵する。
 同時に寂しいと思う。そう思ってしまう自分を卑怯だと思う。聞きたいけれど、聞きたくない。あの袋小路で体を交えた日々の意味を知りたい。凛が江と母親のいる実家でも、向かいにある真琴の家でも、誰もいない晩夏の海でもなく、遙の元を訪れた理由を、凛の口から聞きたい。聞いてしまえば擦れ違いと衝突の末納まった友人の距離を壊して、もっと遠い関係になってしまいそうで、聞きたくない。
 少なくとも片手では数え切れないほど体を重ねておいて、なかったことになんてしてはいけない。そう思うのに。
 空気を撫でるように半端に前後していた遙の手のひらに、ごつんと凛の頭が当たった。頭で遙の手を押しのけて、凛の頭がずり上がっていく。横たわったまま、凛は尺取り虫のように器用に体を揺すって、最後に赤毛は遙の膝まで登ってきた。
「りっ……」
 今まで装っていた平静が、べろんと剥がれた。
 遙はそんな錯覚すら覚えた。思わず膝を浮かせれば逃すまいとばかりに凛の手が太ももを掴んでくる。更に収まりのいい場所を探しているのか、ぐりぐりと凛の頭が膝のあちこちに擦り付けられるのだからまた堪らない。
「凛っ」
「はる」
 凛の声が、虫の声よりもおおきく響く。
 膝の上で、落日色の髪がさらりと滑った。俯きがちになった凛を見下ろす。夜目にも眩しい白い首筋に、甘く揺れる芳香。どこか懐かしくて、馴染みのある匂い。
「なんか、喋れよ」
「……なんかって、何だよ」
 遙はふっと肩の力を抜いた。意図せず凛を退かそうとしたのか、いつの間にか浮かせていた手を縁に落とす。
 凛の周りを漂うこの匂いは、知っている。白檀の匂いだ。七瀬家の仏間に馴染んでいるものよりももう少し甘い、優しい匂い。
 凛がいつも纏っているのは、清廉な水の匂いと、仄かな塩素の匂い。けれど今日はどちらの匂いもしない。ただ白檀だけが香っている。凛は彼の祖母の家で、線香の匂いがこんなに深く馴染んでしまうほど長い時間、父親と向き合っていたのだろうか。
「何でもいい。ハルの声が聞きたい」
 なんか、と、何でも、に果たして違いがあるのだろうか。声が聞きたいというからには、話の内容など厭わないということなのだろうけれど。
 とはいえ遙は決して能弁な人間ではない。真琴のようにさり気ない気遣いで場を繋ぐこともできないし、渚のように明るい話題を持ち出すこともできない。怜のように請われるまま、自分の抽斗に抱えた小難しい話を引っ張り出すことだってできやしない。凛だって分かっているだろうに。
 ほとほと困り果て、遙は膝に収まる凛を見下ろす。むずがるように、甘えるように、凛の頬が遙の膝に押し付けられる。白檀の匂いが強く揺れる。
 しばし悩んだ挙句、気の利いた話題を見つけることもできず、かといって夏の日々を問い質す勇気もない遙が口にした言葉は、
「なんで、俺の声が聞きたいんだ」
「……それ、お前じゃなくて俺が喋るんじゃねーか」
 苦笑する凛の言う通り、質問に質問で返すようなものだった。
 虫の声と波の音に、笑うように弾む凛の吐息が混じる。遙の膝で笑うものだから、スウェットごしに弱くくすぐられるような感覚があった。こそばゆさに膝を揺らせば凛が離れていってしまいそうで、遙は無表情を装って耐えるしかない。
 ひとしきり笑って満足したのか、はあと凛が息を吐く。遙の太ももに額を甘く擦りつけながら、別にいいけど、と前置いた。
「声が、一番最初に思い出せなくなるなって思って」
 凛の日に焼けていない、白い首筋がまぶしい。
 俯き加減で凛は続ける。声には宙に浮いたような笑いが残っている。
「お前もひょっとしたら覚えてるかもしんねーけどさ。親父、俺がガキの頃に死んじまったから」
 ぼんやりと脳裏に浮かぶ、白い着物の葬列。
 荒くうねる波の音。しゃんしゃんと響く鈴の音。
 背後に隠れるようにして遙の服の裾を握る、幼馴染。
 モノクロームに沈んだ記憶の中で、赤いいろだけが鮮烈だった。似合わない白い着物に身を包んで、固く手を握り合う赤毛の子どもがふたり。随分と後になって知った、もっとずっと幼い頃の凛と江。
 あれはたぶん、遙が小学校に上がる前か上がってすぐか、そのくらいだった。真琴と手を繋いであちこち出かける度に、隣町より向こうには行かないようにとか、夕方の鐘が鳴ったらすぐに帰ってきなさいとか、口酸っぱく注意された記憶がある。
「顔は……まだいい。本当はちゃんと覚えてねーけど、実家にもばあちゃんちにも写真飾ってあるから、こんな顔だったなって思える。けど、声は」
 膝にぎゅっと、引っ張られる感覚。
 もう迷うこともなく水を割いて、力強く泳ぐはずの凛の手が、遙のスウェットを掴んでいる。どこか弱々しく、震えているようにすら見える凛の拳。甲にすうっと浮かぶ骨の隆起を遙は見下ろす。
「親父は漁師だったから家にいない時間のほうが多かったし、ホームビデオ撮ったりとか、そういうのもなかったしよ。小学生の頃にはもう、思い出せなくなってたかな」
 うっすらとではあるが遙にも分かる話だった。遙も数年前に祖母を亡くしている。祖母とどんな話をしたとか、どんな顔で笑う人だったとか、そういうものはところどころぼやけてはいるものの思い出せる。仏壇に飾ってある写真の中の祖母と相違ない表情を、遙の記憶の中の祖母も浮かべている。
 しかし声は、と問われれば、自信がない。頭の中で祖母の言葉を反芻しても、声だけは確かめられない。それどころか誰か他の人間の声と混ざってしまっているのではないか、そんな不安に囚われる。
 他人からおばあちゃんっ子と呼ばれていた遙でさえこうなのだ。父子の時間は決して多くはなかったのだろう凛が、十年ほども昔に失った父の声をはっきりと思い出すのは難しいだろう。
「……ときどき、親父が夢に出てくんだよ。けど古い映画みたいに声がなくて、親父の口がぱくぱく動いてるだけ。しかも大抵、小学生の頃の、俺が本当は見たことのない親父が出てくんの」
 呆れたようないろを滲ませて凛が息を吐く。
 夢は人の無意識を映すという。凛の中では実際に接してきた『父親』としての父親よりも、『岩鳶で一番速く泳ぐ、オリンピックを目指していた』父親のほうがイメージが強いのだろう。小学校六年生の卒業を目前に控えた時期に、父親の優勝したメドレーリレーをなぞりたいからという理由で転校してきたような凛だ。根っこになっている想いがどれほど大きなものかなんて、散々巻き込まれた遙には嫌というほど分かる。
 だから、と凛が呟いた。遙の膝の上で夕焼け色の髪が滑る。凛の瞳が、恐らく、今日初めて、遙を真っ直ぐに捉えた。
「もっとちゃんと、いろいろ話しておけば、覚えてられたかもしんねえって。そういやお前とも、ろくな話してこなかったなって、急に」
「……そう、かもな」
 凛の言う、ろくな話をしてこなかった、という事実は、果たしてどれを指しているのだろう。
 中学一年の冬のことだろうか。高校二年で再会してから泳げ泣くなと一方的な言葉をぶつけあっていたことだろうか。
 それとも、夕暮れの防波堤の影で、月明かりの鮫柄の旧校舎で、日の落ちた遙の家で、唇を、体を、ただ重ねていた日々のことだろうか。
「だから、今度はお前が喋れよ」
 試されていると思うのは、遙が恐れているからだろうか。
 遙はぼんやりと凛を見下ろす。涼やかな凛の瞳はじっと遙だけに注がれている。
 虹彩の中で夏の面影が、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。糾弾の色も、悔恨の念もない。ただ揺れている。まだおさない顔立ちの凛が、頼りない首筋を晒して遙を見上げている。
「――凛」
 たぶん凛は、夏の日々を清算しようとか、ましてや続きを繋ごうなんて思っていない。
 夢を追いかけることで父親を追いかけて、そうして置き去られてしまった、まだ誰も見たことのない凛が遙の膝の上にいる。父親の命日をきっかけにそうっと顔を覗かせた凛は行き着くところをなくして彷徨って、迷った末に遙の元に来た。
 どうして遙を選んだのか、なんて。
「だいじょうぶ」
「……何が」
「凛は、凛の夢を見つけただろう。同じだけ取り返せばいい」
 小学生の頃、まだ咲かない桜を前に遙は問いかけた。凛はまだ分からないと答えた。
 夏空の下、並んで走りながら、遙はもう一度同じ問いを投げた。凛は違うと答えた。オリンピックを目指すのはもう自分の夢だと言い切ったのだ。
 幼い頃に父を亡くして、誰よりも早く大人を目指してしまった凛は、随分と遠回りをして夢を見つけた。こじれた糸をほどいて、紡ぎ直した。遙と、真琴と、渚と。怜と、鮫柄のチームと、新しく繋げた。
「俺はまだ、当分死ぬつもりはないから。焦って声を覚えとこうなんて思わなくていい」
 だから同じだけ時間をかけてもいいのだ。たぶん。
「取り返した分、ゆっくり話そう。ちゃんと話してこなかった分、たくさん。時間がかかってもいいから。俺はお前の傍にいるから、いつでも話せるから」
 遙は喋るのが得意ではない。
 昔から考えは口に出さない方だったし、隣にはいつも正しく遙を読み取ってくれる真琴がいた。遙の言いたいことはだいたい真琴が代弁してくれたから、遙は更に喋ることを面倒がるようになった。
 凛に請われたから、だけではなく、遙もこればかりは自分で口にしなければいけないと思ったから、言葉にした。
 伝えたいことは言葉にしなければ届かない。それでも正しく届くかどうかは、分からない。
「……なんか、それ」
 凛は、どうだろうか。
 スニーカーを地面に落とし、凛の片足が縁側に上がる。ごろりと上体を転がして、凛は遙の膝に頭を預けたまま仰向けになった。
 海の向こうに落ちた夕陽が、まだ早い朝陽の色をして細められている。きらきらと光りながら凛は笑っていた。
「プロポーズみてぇ」
「……それでもいい」
 くすぐるような声色に細められていた凛の瞳が、まるく開く。濡れた赤い瞳の真ん中に、交差するように遙が映っている。
 随分と行き違って擦れ違って傷つけ合った凛が、遙の膝の上にいる。凛が遙のことをどう思っているかは知らない。けれど不意にまろび出た、プロポーズという単語の意味に、袋小路の日々で重ねた体温に、遙は一番近い言葉を探す。
 一度は振り払われた手で、遙は縁側に転がったままの凛の手首を掴む。
 もう二度と離さなくていい。離さない。迷った時間は長かかったかもしれないけれど、これからがある。
 たぶん、ずっと。
「凛、」
 今度はもう間違えないように、凛に言葉を届けていきたいと思う。
「好きだ」
 虫の声と、波の音が、やんだ。
 は、と凛が息を吐く。
 遙の膝にほろりと雫が落ちる。
 ほろほろとスウェットに落ちて、濃く滲んで、じわりと温む。凛の手首を掴んでいるのとは反対の手を伸ばせば、凛の頬と遙の指先でぱちんと弾けてとける。星と月の光より眩しくて、遙はそっと目を眇めた。
 夕陽が泣いている。冬の日にプールサイドで見た、滲んで消えるような涙ではない。夏の日に仰いだ、感情と一緒に弾けて溢れるような涙でもない。嗚咽もなくただ涙だけが落ちている。
 遙は静かに、指先で拭い続ける。
 濡れそぼつ指先に苦笑すれば、胸の奥にじんわりと熱がこもる。どれだけ関係が変わっても凛の涙は遙にとって特別らしい。
「スイカ」
 水分が欲しいと思った。泣き過ぎて乾いてしまいそうな凛にも、凛が好きだと自覚した途端渇いてゆく自分にも、水が足りない。遙は今更、自分が案外欲深い人間だと気づく。
「凛のばあちゃんのスイカ、一緒に食べよう。俺とお前と、今から真琴たちを呼んでもいい。スイカを食べながら皆でバカみたいな話をすればいい。俺もお前の隣で、話すから」
 所在なさげに転がるスイカを視界の端に捉える。恐らく凛の祖母も、幼い時分から大人びていた凛の身を気にかけていたのではないだろうか。あの大玉のスイカだって、凛一人で食べ切れるわけがない。きっと凛が友人たちと分け合って食べることを願って持たせたに違いない。
「今は、いい」
 少し引き攣れて、掠れた凛の声が落っこちる。ひくりと喉の鳴る音がして、次の瞬間、遙の腹にやわい衝撃があった。
「今は、お前とふたりだけで、いい」
 凛の声はくぐもって震えている。じんわりと広がるぬくもりと、シャツ越しに沁みる凛の涙がこそばゆい。
 きっとこういうのをいとしいと呼ぶのだろう。遙はそっと目を閉じて、虫の声と、波の音と、凛の夕陽の色をした瞳からこぼれる涙の音に耳を澄ませる。
 繋いだ手はそのままに、もう一方の凛の腕がおずおずと腰に回される。されるがままになりながら、遙も空いた片手で凛の背中に腕を回した。
    2013.09.30 x 2013.10.02 up