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イリヤの夜
凛が鮫柄の寮を抜け出すのは、決まって月が白く輝く、明るい夜だった。
煌々と輝く月の下、路面に濃く影を彩りながら凛は夜道を一人で歩く。女ではないし、治安が悪いわけでもない。寮を抜け出し夜道を一人歩き、なんて不良紛いのことを自らやらかしているのだから、心配には及ばないと分かっている。分かってはいるのだが、凛は夜闇を恐れているんじゃないか、恐怖を押して俺に会いに来てるんじゃないか、何気なくそう思ってしまってからは駄目だった。以来、凛が会いに来そうな夜はこちらから彼の元へ赴くことにしている。
凛の元へ、といっても、寮まで乗り込んでしまうと問題になる。なので今は使われていない鮫柄の旧校舎で待ちつ待たれつ、といった形で落ち着いていた。今日も破れたフェンスを潜り、適当かつ人目に触れなさそうな軒下に座り込む。
いかにも密会にお誂え向きな旧校舎には電気も通っておらず、校舎内は真っ暗だ。辛気臭い屋内より、月の明るい外で待っている方がマシだろう。これなら凛が暗がりに怯えることもない。何より校舎内には何が潜んでいるか分からない。
星も霞むような眩い月を見上げることしばし。欠伸をひとつ噛み殺したところで、近くの茂みがガサリとざわめいた。夜空からそちらへ視線を転じれば、月光を遮るように真っ黒いキャップで目元を隠す少年の姿。
「……よお」
いわずもがな、凛だった。キャップのつばを少し持ち上げるのは挨拶の代わりだろうか。粋がる仕草はキャップから離した手と一緒にジャージのポケットに引っ込め、緩慢な歩みで距離を詰めてくる。決して隣とはいえない、半端な空白を置いて、それでも凛は俺と同じ軒先で、同じように月を見上げた。
いつもこうだった。ふたりで夜に抜け出して、触れ合うこともなく隣り合って空を見上げる。会話もない。何のためにこうしてわざわざ逢っているのか俺には分からない。恐らく凛も分かっていないのだろう。
ただ、この静かな夜は嫌いではない。
もしかすると、心地良い、と呼ぶのかもしれない。お互いにそういうことだと思う。
街灯がちりちりと焼ける音に、群がる羽虫のぶつかり合う音。遠くの水場で密やかに鳴く蛙の声。触れられない距離に並ぶ凛の息遣い。
「……ハル」
夏の夜に消えてしまいそうな声。
すっと視線をやれば、凛は長い睫毛に影を落として俯いていた。何かあったのだろうか、いつもと少し様子が違う。
問い返すこともできず言葉を待つ内に、がたんと校舎内から物音が聞こえた。緩慢に振り返る俺の傍ら、凛は俊敏な仕草で音源へと視線を巡らせている。誰かいるのか、と掠れた声で凛は呟いて、続く音が耳に届いたのだろう、動きを止めた。
打ち合う音と、獣のように意味を成さない声。凛に聞こえているかは分からないが、粘ついた水音。旧校舎の奥、窺い見ることもできない暗がりの中に誰かがいる。男子校の旧校舎など、誰が何の目的で出入りしているか分かったものではない。特に、夜は。
凛はこう見えて物を知らない。こんな目的で出入りしている人間がいるなんて思いもしなかっただろう。今まで誰とも鉢合わせなかったのははっきりいって奇跡に近い。
中で何が行われているのか悟ったらしい凛は、青ざめた顔でその場にしゃがみ込んだ。口元を押さえ、小さく震えているようにも見える。思わず凛の傍へと駆け寄るが、声をかけることも抱き締めることもできない。こちらに気づいた凛が僅かに顔を上げて、はる、とか細い声で名前を呼んだ。
俺は白い月光の中、凛の視線に立ち尽くす。
助けてと叫んでいた。素直に言葉を紡げない凛は、揺れる瞳で必死に訴えていた。
恐らく今の状況だけではない、物音の前から憂いていたこともあるのだろう。子どものように助けを求めていた。
けれどそれは俺の役目じゃない。
俺には凛を救うことができない。
微かに震える凛の腕に額を擦りつけて、俺は祈るように呼ぶ。早く、早く凛を救ってやれ。お前にしかできないのに何をしているのかと、強く。
――ぱきりと、小枝を踏む音が夜を震わせた。
「……凛」
低い声が凛を呼ぶ。凛は一度大きく肩を跳ね上げて、恐る恐る、ゆっくりと、顔を上げた。
凛に倣って視線を転じる。そこには一人の少年が立ち尽くしている。白い月明かりを背負って、黒い髪を艷やかに揺らして。海のような瞳に、蹲る凛を真っ直ぐに捉えている。
震えを隠し切れない声で凛が呟いた。
「なん、で」
「……凛が、呼んでる気がした」
少年は大股に、俺が埋められない距離をあっさりと詰める。凛の傍らで膝をついて、薄く水の張る凛の瞳を覗き込む。拭うように目尻に指先を滑らせる。
糸が切れたように、凛がぽろりと零した。
「ハル」
呼ばれた少年は頷いた。二人の間で、月光を受けた雫がきらきらと輝いていた。ハル、という名の――俺と同じ名前の少年へと凛が腕を伸ばす。ハルも手を差し伸べる。その姿を見届けて、俺は静かに踵を返した。
二人の間に何があるのか、俺は知らない。ただ、俺の名前は俺を拾った凛がつけてくれた。凛は寂しそうな顔をして、あの少年と同じ名前の俺と夜を過ごしていた。そうしてようやく、ハルは凛の元へと来てくれた。それで十分だった。
凛の嗚咽とハルの宥めるような声を背に、俺は物音のやんだ旧校舎へと身を滑らせる。まだこれから、夜は長い。俺の代わりに二人をよろしくと、白い月に尻尾を揺らして頼んでおいた。
煌々と輝く月の下、路面に濃く影を彩りながら凛は夜道を一人で歩く。女ではないし、治安が悪いわけでもない。寮を抜け出し夜道を一人歩き、なんて不良紛いのことを自らやらかしているのだから、心配には及ばないと分かっている。分かってはいるのだが、凛は夜闇を恐れているんじゃないか、恐怖を押して俺に会いに来てるんじゃないか、何気なくそう思ってしまってからは駄目だった。以来、凛が会いに来そうな夜はこちらから彼の元へ赴くことにしている。
凛の元へ、といっても、寮まで乗り込んでしまうと問題になる。なので今は使われていない鮫柄の旧校舎で待ちつ待たれつ、といった形で落ち着いていた。今日も破れたフェンスを潜り、適当かつ人目に触れなさそうな軒下に座り込む。
いかにも密会にお誂え向きな旧校舎には電気も通っておらず、校舎内は真っ暗だ。辛気臭い屋内より、月の明るい外で待っている方がマシだろう。これなら凛が暗がりに怯えることもない。何より校舎内には何が潜んでいるか分からない。
星も霞むような眩い月を見上げることしばし。欠伸をひとつ噛み殺したところで、近くの茂みがガサリとざわめいた。夜空からそちらへ視線を転じれば、月光を遮るように真っ黒いキャップで目元を隠す少年の姿。
「……よお」
いわずもがな、凛だった。キャップのつばを少し持ち上げるのは挨拶の代わりだろうか。粋がる仕草はキャップから離した手と一緒にジャージのポケットに引っ込め、緩慢な歩みで距離を詰めてくる。決して隣とはいえない、半端な空白を置いて、それでも凛は俺と同じ軒先で、同じように月を見上げた。
いつもこうだった。ふたりで夜に抜け出して、触れ合うこともなく隣り合って空を見上げる。会話もない。何のためにこうしてわざわざ逢っているのか俺には分からない。恐らく凛も分かっていないのだろう。
ただ、この静かな夜は嫌いではない。
もしかすると、心地良い、と呼ぶのかもしれない。お互いにそういうことだと思う。
街灯がちりちりと焼ける音に、群がる羽虫のぶつかり合う音。遠くの水場で密やかに鳴く蛙の声。触れられない距離に並ぶ凛の息遣い。
「……ハル」
夏の夜に消えてしまいそうな声。
すっと視線をやれば、凛は長い睫毛に影を落として俯いていた。何かあったのだろうか、いつもと少し様子が違う。
問い返すこともできず言葉を待つ内に、がたんと校舎内から物音が聞こえた。緩慢に振り返る俺の傍ら、凛は俊敏な仕草で音源へと視線を巡らせている。誰かいるのか、と掠れた声で凛は呟いて、続く音が耳に届いたのだろう、動きを止めた。
打ち合う音と、獣のように意味を成さない声。凛に聞こえているかは分からないが、粘ついた水音。旧校舎の奥、窺い見ることもできない暗がりの中に誰かがいる。男子校の旧校舎など、誰が何の目的で出入りしているか分かったものではない。特に、夜は。
凛はこう見えて物を知らない。こんな目的で出入りしている人間がいるなんて思いもしなかっただろう。今まで誰とも鉢合わせなかったのははっきりいって奇跡に近い。
中で何が行われているのか悟ったらしい凛は、青ざめた顔でその場にしゃがみ込んだ。口元を押さえ、小さく震えているようにも見える。思わず凛の傍へと駆け寄るが、声をかけることも抱き締めることもできない。こちらに気づいた凛が僅かに顔を上げて、はる、とか細い声で名前を呼んだ。
俺は白い月光の中、凛の視線に立ち尽くす。
助けてと叫んでいた。素直に言葉を紡げない凛は、揺れる瞳で必死に訴えていた。
恐らく今の状況だけではない、物音の前から憂いていたこともあるのだろう。子どものように助けを求めていた。
けれどそれは俺の役目じゃない。
俺には凛を救うことができない。
微かに震える凛の腕に額を擦りつけて、俺は祈るように呼ぶ。早く、早く凛を救ってやれ。お前にしかできないのに何をしているのかと、強く。
――ぱきりと、小枝を踏む音が夜を震わせた。
「……凛」
低い声が凛を呼ぶ。凛は一度大きく肩を跳ね上げて、恐る恐る、ゆっくりと、顔を上げた。
凛に倣って視線を転じる。そこには一人の少年が立ち尽くしている。白い月明かりを背負って、黒い髪を艷やかに揺らして。海のような瞳に、蹲る凛を真っ直ぐに捉えている。
震えを隠し切れない声で凛が呟いた。
「なん、で」
「……凛が、呼んでる気がした」
少年は大股に、俺が埋められない距離をあっさりと詰める。凛の傍らで膝をついて、薄く水の張る凛の瞳を覗き込む。拭うように目尻に指先を滑らせる。
糸が切れたように、凛がぽろりと零した。
「ハル」
呼ばれた少年は頷いた。二人の間で、月光を受けた雫がきらきらと輝いていた。ハル、という名の――俺と同じ名前の少年へと凛が腕を伸ばす。ハルも手を差し伸べる。その姿を見届けて、俺は静かに踵を返した。
二人の間に何があるのか、俺は知らない。ただ、俺の名前は俺を拾った凛がつけてくれた。凛は寂しそうな顔をして、あの少年と同じ名前の俺と夜を過ごしていた。そうしてようやく、ハルは凛の元へと来てくれた。それで十分だった。
凛の嗚咽とハルの宥めるような声を背に、俺は物音のやんだ旧校舎へと身を滑らせる。まだこれから、夜は長い。俺の代わりに二人をよろしくと、白い月に尻尾を揺らして頼んでおいた。
- 2014.1.13 x 2014.2.2 up
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