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スターダストフォール
松岡凛は、おかしい。
幼いころの思い出と、一度の挫折で持て余した感情と、整理のできないままぐちゃぐちゃになってできあがってしまった現在の自分。からだを四方八方から引っ張られるような、でたらめで抗えない衝動と乖離に中てられてしまったのだ。
と、遙は考えている。
廃墟と化した思い出の場所で再会して以来、凛は途切れがちながらも少しずつ遙との距離を詰めてきた。野良猫が威嚇しながら、それでも少しずつ懐いてくる様に似ていたと思う。実際、凛は通い猫のようにふらりと、一定の頻度で遙の家で一晩を過ごすようになっていた。
ふうふうと毛を逆立てていたものが膝の上で丸まって眠るようになった、という事実は、感情の起伏に乏しい遙の心中を大きく揺さぶった。
加えて凛は猫のようであったとしても、あくまで人間だ。一晩を、膝の上で、というのはつまり、性的な意味を含んでいる。
始まりは、凛が遙を押し倒してきたからだった。突然の行動にさすがの遙も目を丸くして、けれど見上げた先の凛の瞳があまりにも真剣で、男同士なのにだとかの疑問はすうっと消えてしまった。見計らったように凛が遙の唇を塞いで、ふたりして黙り込んだまま、目も閉じられずに唇を合わせていた。押し付けてきたのが凛なら離れるのも凛で、大胆な行動とは裏腹に少女のように頬を染めて遙から顔を逸らした。消え入るような声ですきだと告げられて、今度は遙から凛に口づけた。目を閉じるまでもなく暗い、月のない夜のことだった。
きっと凛の中で渦巻く感情の内の、好きという部分だけがとんがって溢れ出した結果だったのだろう。
まるで恋人同士のような行為に及んでおいて、それでも昼間や真琴たちの前で会う凛は、つんとした棘のある態度のままだった。けれどもまた夜が訪れてふたりきりになれば、凛は昔のような、いや、昔よりもずっと砕けてとろけた甘い態度で遙に触れるのだ。凛の取り付く島もない口調に眉尻を下げる真琴や、大きな身振り手振りで凛の気を引く渚は知らない。
昼と夜とのギャップや、遙だけが知っているという優越。
甘美に、ひたひたと。あるいは熾のようにちらついて遙の心を侵していった。
「ねえ、そういえば知ってる?」
部活動中の休憩時間。皆してスポーツドリンクを片手にプールサイドに座り込んでいる時だった。他愛もない雑談の最中、ふと思い出したといった体で渚が声を上げた。
「最近あまちゃん先生が部活に顔出せない理由!」
「忙しいんだろ」
「だーかーらぁ! どうして忙しいのかってこと!」
別段興味もないのか、ばっさりと切り捨てる遙に渚は大きく手を振って反駁してみせる。
拍子にペットボトルからドリンクが溢れて散りでもしたのか、怜が眉間に皺を寄せた。眉を顰める怜の隣りで真琴は「今は試験が近いわけでもないしなあ」と呟き、江も首を傾げながら渚へと視線を転じる。
「なんか、ほとんどの先生が忙しいみたいよね。今度の合同練習のことで相談に行こうと思ったんだけど、職員室は立入禁止だって言われて閉め出されちゃった」
「確かに、他の部も顧問の先生がいなくて困ってるみたいな話は聞いたけど」
水泳部の主な活動場所たるプールは、グラウンドからは少し離れ、岩鳶高校敷地内でも僻地と言っていい場所に位置する。よって他の部の様子はほとんど見えないのだが、教室内やプール近くの体育館、部室棟あたりから、なんとなく困惑した空気は伝わってくる。
真琴の台詞に怜がメガネを押し上げ――るような動作をしてから、自身が現在裸眼であることに気づき、恥ずかしそうに手を引っ込めた。
「職員会議でしょうか。こんな時期に全職員を集めて議論するような案件があるとは思えませんが……」
「そう! それだよ!」
目敏いのか無意識にか、引っ込みかけた怜の手を渚ががしりと両手で掴む。ぎょっとする怜を置き去りにブンブンと振り回して、それから渚は片手でびしりと校舎を指さした。
「事件は職員室で起こってるんじゃない、現場で起きてるんだ!」
「それ、そのままの意味じゃない」
自分たちが子どもの頃に流行ったドラマを模した、有名な台詞だ。江が呆れたように突っ込む。
もちろん渚が意に介すはずもない。突如立ち上がって腰に手を当て、座ったままの四人を覗きこむようにして声をひそめる。
「でも、本当の本当に大事件かもしれないんだよ」
随分と大仰な仕草で、ダメ押しとばかりに渚は目を細める。意味ありげに校舎を見つめて、それからまた四人に視線を戻した。
真琴と怜はぽかんとして渚を見上げるばかり。遙はそんな話に興味はないといった体で陽光を照り返してうねるプールを見つめ、江はといえば突如として眼前に晒された渚の下肢に顔を覆っている。ああ、ダメよ、見ちゃダメ、そんなはしたない、でも男子高校生の腓腹筋がこんな間近に、などとちいさな声で呟き続けているので例によって指の隙間から渚の方を窺っているのだろう。ただし話を聞いているかどうかは定かではない。
「これはクラスの子から聞いた噂なんだけどね」
四人の内少なくとも半分は話を聞いているからよしとしたのだろうか。渚は重々しく頷いて、低い声で厳かに告げる。普段女子のように上がり調子で話す渚にはあまり似合わない、すこしばかりシュールな姿だ。
「化学準備室から薬品が紛失してて、誰かに盗まれたかもしれないんだって」
残暑の太陽が眩しい、昼下がりの事だった。
ハル。はる。遙。
聞く者の心臓を締め付けるような切ない声で、あるいは貪り搾り取ろうと目論む売女の声で、凛はひたすら遙の名前を呼ぶ。寝転がる遙の上に跨って、一所懸命に腰を揺すっていた。
浮かしながらきゅうきゅうと食い絞めて、落ちる瞬間にはだらしなく緩む。この緩急に遙はたまらなく気持ちよくなる。同時に手慣れたものだなと、蔑み嘲るような自分もいる。遙の心情に気づかない凛はしばらく繰り返して、疲れたのか今度は前後に腰を揺らし始めた。ぐっぐっとリズムをつけて、腹側の気持ちいいところに遙の亀頭が当たるのか、時折びくりと痙攣しては肩を竦めて動きを止める。けれど自分だけの快感を追い過ぎないよう、すぐに息を吐いて力を抜く。そうしてまた腰を揺すり始める。
慣れていようと淫売のようであろうと、凛がひたむきに、遙を気持ちよくしようとしていることだけは嫌というほど分かる。
凛は最初に遙を押し倒した時点で、迷いなく受け身になることを選んだ。耐え切れず押し倒してきたのであれば男の本能に従って遙に突っ込もうとしてもよさそうなものだが、凛は違った。突然始まった、初めての、しかも男同士での性行為に戸惑い、凛の痴態に劣情を煽られるばかりだった遙の記憶はだいぶ曖昧だが、思い返せばなんとなく凛に誘導されていたような気もする。
今だってそうだ。どこか冷めたように考える遙を置いて、凛は蕩けきった顔で行為に没頭している。
頬を真っ赤に染めて背は弓なりに反らせて、はくはくと喘ぐ凛は酷くいやらしい。他の女も、もちろん男も抱いたことのない遙には比べる対象も見当たらないのだが、凛ほどあけすけによがる人間もそういないのではないだろうか。
対して遙のほうはほとんど凛にされるがままで、きっとこういうのを男マグロというのだろうなと思う。どうせなら鯖と呼んでくれればよかったのに、そんなどうでもいいことを考える程度には、遙には余裕みたいなものがあった。
凛がそうであるように、遙もきっと同じなのだ。無表情で無愛想と言われることが多い遙ではあるが、だからといって何も考えていないわけではない。口に出さない分、頭の中ではあらゆる思考が感情を掻き乱して、あるいは感情に掻き乱されて、混沌と渦巻いている。
凛のことは好きだ。凛を大事にしたい。
どこでそんな行為を覚えてきた。お前は何を考えて今更俺の前に現れたんだ。
凛は可愛い。もう泣かせたくない。
お前はあまりにも都合がいいんじゃないか。本当は何を考えているんだ。
凛を泣かせたい。体裁も何もかも投げ飛ばしてただ縋りついてくればいい。ぐちゃぐちゃにしたい。
俺は、凛を。
「はる」
蜂蜜のように甘く滴る声。
初めての頃はそう思っていた凛の声を、今の遙は漆のようだと思っている。真っ黒く垂れ流されて、不用意に触れようものなら途端にかぶれてしまう。最悪全身を蝕まれて、掻き毟って叫びたくなるような声だ。
ぎょろりと眼球だけを動かして、遙は凛を見上げる。合成着色料をぶち込んだ飴玉めいた赤い瞳。甘いだけの塊が溶け出していて、どろどろになって流れ出す遙が真ん中に映っている。
「はる」
他の言葉を知らないのか。いやらしい行為にはまるでそぐわない、あどけない声で凛は遙を呼ぶ。
遙の腹に添えられていた凛の手が、つうと腹筋の隆起をなぞる。ヘソの窪みを擽られた遙が小さく跳ね上がれば、凛は酷く嬉しそうに微笑んだ。火照った手はするりと上へ伸ばされる。乳首を悪戯に爪先で弾き、鎖骨のあたりをじんわりとなぞって、凛の手は遙の首筋へと辿り着く。
「――ハル」
遙も凛と同様なのだ。そうでなければどうして、黙ったまま抗いもせず、ゆっくりと首に巻き付く凛の手を眺めていられるというのだ。
しなやかに力強く水を掻く。水泳のためだけに存在しているはずの凛の指が、遙の首の薄い皮膚に食い込む。少しずつ、少しずつ力を込めていく。流れを遮られた血流がこめかみ辺りでうるさく喚き散らし、押し潰される喉頭に嘔吐感が込み上げてくる。圧迫感の後ろでは確実に酸素が足りなくなって、意味もなく口が開いていく。
遙は自分の姿を陸に揚げられた魚のようだと思った。酸素不足に喘いでいるのは、凛に首を絞められているのは確実に自分のはずなのに、自分ではない誰か他人に起こっていることのようで、遠い。
「ぁ、はるっ……」
絞めつけられるのは首だけではない。遙の陰茎を収めた凛の直腸がこれまで以上に強くうねった。襞のひとつひとつに愛撫されているような感覚に遙の腰が堪らず跳ね上がる。
こんなのはおかしい。首を絞められて死にかけているのに、遙の陰茎は萎えるどころかますます勃ち上がっている。生きるか死ぬかのところで抵抗もせずにされるがまま。それどころか遠退きかける意識の中で、凛の中に射精するべく腰を振っている。
「はる、はる、おおきっ……あ、あっ、きもち、ぃ、はる」
凛がきゅっと眉根を寄せる。とけた眼球の上では赤い睫毛が閃いて、汗とも涙とも知れない水が瞬きの度に弾けて散っている。半ば霞んだ視界の中でそんなものばかりはっきり見えるのが不思議で、なんだかおかしかった。呼吸さえできていれば、遙にしては珍しく、はっきりと笑っていただろう。
冷静な思考を置いてけぼりに、体の方にそんな余裕はない。びくびくと痙攣して、腰だけが別の生き物のように凛の中を突き上げる。
笑えない遙の代わりに、凛が笑ってくれた。かつて彼が見たがった桜が綻ぶように、ふわりとした笑みだった。やわらかく優しく美しいそれに反して、凛の体内と手のひらは遙を苛む。
「あ、出っ……ああああ……!」
丸い月が明るすぎる、星の見えない夜の事だった。恍惚と喘ぐ凛に首を絞められながら、遙は凛の中に精を吐き出した。やたらとまろいラインを描く凛の腰が震えて、追いかけて達したことを知る。
喉の拘束が緩んで、遙はひたすら咳き込んだ。涎まみれで呼吸に忙しい唇に凛の舌がにゅるりと割り入ってくる。吐き気がするほど甘かった。
夏の西日を、白い薄手のカーテンが申し訳程度に遮っている。
「ハル、最近ちょっと変わった匂いがするよね」
今日の夕飯はカレーだからと橘家の夕食に招待された遙は今、真琴と並んでベッドに腰掛け、テレビを見ていた
顧問不在の部活を終わらせたまま橘家を訪れた遙は、あと少し煮込みたいから先に入ってらっしゃい、と、真琴の母に促されるまま風呂を借りた。その際幼い弟妹にせがまれ、決して広くはない一般家庭の浴室でぎゅうぎゅう詰めになりながら入浴を済ませることになった。
遙も真琴もいまだしっとりと髪を濡らしている。階下からは真琴の母親の宥めるような声と、被せて賑やかしい双子の声、そして微かにドライヤーの唸る音が響いている。長兄とその友人がドライヤーの恩恵に預かるにはまだ少し時間がかかりそうだった。
「今日は同じシャンプー使ったのにな」
「……なんか、やめろよ。その言い方」
「ごめんごめん」
悪びれたふうもなく笑いながら、真琴は遙の頭頂部に鼻先を寄せた。すんすんと濡れた髪の匂いを短く嗅いでいる。遙は顔を顰めたものの、いつものことだと放置してテレビを眺め続ける。
「最近はずっと部活で泳いでるからだよね。昔とおんなじ、プールの匂いがする」
水泳部であれば避けられないことではあるが、塩素臭など褒められたものではない。
胡乱に目を細める遙に構わず、真琴は頭頂部から側頭部、耳の後ろ、盆の窪と匂いを嗅いでいく。
はっきりと首筋と呼べるあたりに来て、ようやく真琴は動きを止めた。
「それから、凛の匂い」
遙は何も答えない。
真琴は遙を窺いもせず続ける。
「あと……化学、じゃないな、生物室の匂い。ホルマリンの匂いがする」
ああ、と思い出したように呟いて、真琴の頭が遙の首元から遠ざかる。骨っぽいごつごつした指先だけが居残って、首を斬るようにすうっと、横一文字に遙の喉を横切った。
「匂いだけじゃなくて、ここも。ずっとついてた絞め痕みたいなのも、消えちゃったよね」
遙はようやく、テレビから真琴へと視線を転じた。
視線に気づいたのか、熱心に遙の首を見つめていた真琴がゆっくりと遙を仰ぐ。うつくしく緑を湛えた真琴の目が、遙にはどろどろとした藻を孕んだ、深い底なしの沼のように見えた。一番星がちらつく、あかく燃える夕暮れの事だった。
松岡凛は、おかしい。きっと気が狂っている。恐らく遙に狂っている。
それでも遙は凛のことが好きだった。
セックスの最中に首を絞められたのも一度や二度ではない。悪いことに――恐らく悪いことに、窒息の辛苦に遙の陰茎が肥大するのも、感じ取った凛が強く締め付けるのも、毎度のことだった。
生物は死を察知すると生存本能が働いて、という話を聞いたことはある。だからといって首を絞められて興奮するというのは人としてどうなのだろう。何より凛の中に射精したところで子孫など残せるはずもない。生ぬるくなって尻の穴から垂れ流されるか、中にとどまって腹を壊すのが関の山だ。遙が吐き出した精子はといえば、凛の指に掻き出されて風呂場の排水口へと消えていったらしい。
遙の腕を枕にして眠り続ける凛を見下ろす。いつもの起床時間よりも少し高いところに登った太陽の光が、閉めたままのカーテンから線になってこぼれている。薄くぼやけた朝日の下で眠る凛は、昨夜の淫行など感じさせない、さっぱりとした姿をしていた。
あれは夢だったのではないか、と思うぐらい。
「……凛」
起こそうと思ったわけではない。思ったわけではないが、遙は自然と凛の名前を呼んでいた。
いつもは分けられている凛の前髪が寝乱れて落っこちている。普段はきちんとセットしているのだと、遙は凛を抱くようになってから知った。確かに分けている方がいい。前髪を下ろした凛はどこかあどけなくて、無防備で、かわいい。他の誰かに見せたくないと思う。
赤みがかった髪を指で梳いて、また乱れない程度にそっと口づけを落とした。瞼の上、鼻の頭、頬へと唇を滑らせて、最後に薄く開いた唇へ。優しく押し付けて、遙は舌先で凛の唇をなぞる。決して押し入ることはせず、ゆるゆると愛撫する。
「ん……」
「りん」
目の前で凛の睫毛が震える。ちいさく名前を呼んで、今度は起こすつもりで噛みついた。腕の中で凛が跳ねて、唇が意思を持って開かれる。招き入れられる前に、遙は微かな水音だけを残して唇を離した。
とろんとした凛の目に不服の色が混じる。遙は凛の頭を撫でて控えめに笑んだ。
「おはよう」
「……はよ」
挨拶は返ってくるものの、凛の瞼は重たそうに瞬きを繰り返している。撫でられる感触が気持ち良いのだろうか、また眠りの世界に沈もうとしていた。
収まりのいい場所を探して腕の中で身じろぐ様は可愛らしいが、いつまでも惰眠を貪るわけにもいかない。現実に引き上げるよう、遙は凛の頬をぺしりと叩く。
「凛、いつ帰るんだ」
「んー……部活、は……午後から」
ふわふわと浮き沈みする声に、昼には帰るということだろうと当たりをつける。
遙はゆっくりと上半身を起こした。ころりと転がる凛の頭がむずがるように左右に振られる。最後にもう一度と赤茶けた頭を撫でれば、凛の目がぼんやりと開かれ、二、三度瞬いた。ベッドから足を下ろし、完全に起きる姿勢となった遙をじっと見つめている。
「俺は起きるからな。朝飯食べるだろ」
「……肉がいい」
「鯖」
まだ寝惚けているくせに、遙の用意する朝食への不満だけは口にできるらしい。むっと尖った凛の唇を、遙は親指と人差し指で引っ張ってやった。仕返しとばかりに口を開いて、凛は不平の代わりに遙の指を飲み込んだ。
凛の八重歯が柔らかく食いついてくる。しばらくあむあむと弄んで、最後にぺっと吐き出した。遙の指に残る唾液を、凛の赤い舌がさらりと掬っていく。
「にく」
「……在庫があればな」
適当なところで妥協すれば、満足気に凛の鼻が鳴らされた。調子づいたのかシーツの上に投げ出されていた手が持ち上がって、遙の腕や足に触れてくる。凛の指が最後に目指す場所を予感して、遙はベッドから立ち上がった。
「できたら呼ぶから」
うん。存外と素直に返ってくる声を背に、遙は自分の部屋から抜け出した。廊下へ出て階下を目指す。板張りの床が遙の歩みに合わせ、ぎっぎっと鳴った。自分の心臓が軋む音に重なった。
凛の指は、遙の首を目指していた。
溶け出した飴玉の瞳の奥に、陶然としたいろが残っていた。
己の背中で粘ついた何かが糸を引いている。糸の先は凛に続いている。
湧き出した妄想を振り払い、遙は階段を小走りに降りる。顔を洗おうと洗面所を目指し、思い直して台所へ。凛と約束した手前、肉があるならば肉を用意してやらなければなるまい。
果たして冷凍室を開ければ、パックのままの鳥のささみがちょんと鎮座していた。七瀬家に来る度に食うなら肉がいいと喚く凛のために、数日前に買っておいたものだった。
遙は過剰に冷えたパックを手に冷蔵庫の前で立ち尽くす。凍りついた肉の、鈍い淡紅色がやたらと目に刺さった。白けた太陽が生ぬるく空気を温める、朝方の事だった。
果たして朝から肉、というのはどうなのだろう。凛の嗜好も、思考も、遙にはよく分からない。全く分からない。
凛の指は、遙の首を目指していたのだ。まるで昨夜の淫行など知らぬげに振舞っていても、夜の凛が別人のようであったとしても、凛は遙の首を絞めて達したことをちゃんと覚えている。覚えていて、陶然と笑っている。平然とじゃれついてくる。
松岡凛はおかしい。遙には凛が理解できない。遙はそれでも凛が好きだ。
手の中の肉だけが今の遙の味方だった。パックの表面に張り付いていた氷が体温で溶け出して水の玉を作る。
遙は凛を理解したい。凛に理解されたい。この水のように。
幼い双子好みに甘口で味付けされたカレーで腹を満たし、遙は真琴と並んで橘家の玄関から外へ出た。真っ赤な夕日は山の向こうへ沈んで久しく、仰ぐ空には月もない。深い藍色だけが天を覆っている。
加えて、この辺りは複雑に民家が入り組んでいて、間を縫うように私道が走っている。申し訳程度に街灯が設置されてはいるものの、電球が古くなっているのかここしばらく明かりを灯していなかった。家々が寄り添っているおかげで民家から溢れる光が頼りになるのだが、各家が眠りについてしまえばそれも途端に意味をなさなくなる。
夕食後蘭と蓮にせがまれ、一緒にゲームをしたりテレビを見たり、就寝時間まで散々付き合ってやった。とはいえ所詮子どもの眠る時間だ。遙たち高校生を含む“大人”にとっては夜はこれからで、まだ明かりがないと心配する必要はない。
遙は一度、出てきたばかりの橘家を仰ぎ見る。双子の使っている部屋の電気はまだついていて、母親の諌める声と子どもたちの不平の声が漏れ聞こえていた。声を聞いた真琴は遙の隣で苦笑い。真琴の向こうの庭の隅には、ごろりとした石を置いて作られた金魚の墓がある。
「真琴」
「うん」
遙の不意の呼びかけに、真琴は特に疑問を持った様子もなく答える。分かっていたとでも言いたげな声だった。幼馴染の顔にはまた、藻の絡む沼底があったのかもしれない。金魚の墓から再び空へと視線を戻した遙には確かめるすべもない。
暗い夜空を見回せば、果ては夜の海へと落ちる。いつか誰かに重ねた漆よりも深く重い黒で横たわる、水の塊。
「俺は、他人がどうとか、そういうのには興味がない」
「知ってるよ」
「ただ水だけを感じていられれば、それでいいんだ」
うん、と頷きながら、真琴は玄関から続く石段へと歩みを進める。遙と真琴の家は向かい合わせに建ってはいるものの、神社へ続く石段を間に挟んでいる。更に玄関の高さと位置が違うので、橘家から七瀬家へ向かうには石段を下りて、更に石段を上がっていく必要がある。
先をゆく真琴の頭が段差を踏んで上下する。今の遙にはどことなく遠い後ろ頭が、何もかも分かっている、そんな声音で確信をかたどる。
「でも凛だけは、違ったんだよね」
真琴は過去形を採った。遙は頷いた。
「凛は……俺が感じる水よりも先にいた気がしたんだ」
だから気になって、風のない水面だった遙の心は掻き乱された。元を辿れば、始まりはそうだった。
今は違う。遙は水とは切り離したところで凛を思う。そして理解のできないことに悩んだ。水であれば互いを認め合い、理解し合うことができるのにと。
「凛は水じゃなくて人間だから、分からなかった」
「うん」
真琴のスニーカーが最後の段を踏む。遙も三歩ほど遅れて続いた。昔は先をゆくのが遙で、後ろに続くのが真琴だったなとぼんやりと思う。
随分と大きく育った幼馴染は、得体のしれない表情で遙を振り返っていた。真琴は遙の微かな機微を読んで考えを当ててくる。遙には例え相手が真琴でもできやしない。他の人間なら尚更だ。凛はもっともっと遠いところにいた。
「だから、水と同じだったらなって」
「思ったの」
「思った」
ただでさえ理解のできない人間に、更に何重にも輪をかけて理解のできない凛。セックスの最中に相手の首を絞めるような狂った思考を理解するにはそれが一番だと思った。鈍い淡紅色と、冷たく温く手のひらにとどまる水の質感を遙は思い返す。
前提として凛は人間で、水にはなれない。ならばせめて自分と同じ、水を介して世界を認識する存在であればまだ。これならば水泳という繋がりで始まった二人の関係にも近い。
「俺と同じ、水がないと渇いて死んじまうような人間になれば」
真琴を追い越し、遙は本来神社の参道であるはずの石段を上る。正しい道を通るよりも手っ取り早く楽なのだ。
子どもの頃からずっとそうだったのに、こうして真琴を見下ろしていると急に罰当たりになった気がする。
「……それで」
先を促す声はやはり、疑問を切り捨てていた。
真琴の声を背に、遙は石段を上がる。十段と少しも上がればもう遙の家だ。
「風呂に入ろうと思った」
唯一の家人である遙が出かけていたので、七瀬家は暗闇に包まれている。ジャージのポケットから家の鍵を取り出しながら遙は淡々と続けた。最近は玄関はもちろん、真琴が自由自在に出入りしていた勝手口にも、二階を含む全ての窓にも、きっちり施錠するようにしている。
「でも、密閉しなきゃいけないらしいから」
明かりのない玄関では鍵穴を見つけにくい。出てくる前に玄関の電気ぐらい点けておくべきだったと反省しながら、遙は手探りで鍵穴を探す。いつもなら見かねた真琴が携帯電話のバックライトで照らしてくれるのだが、遙の背後から動く気配はなかった。
「浴槽に蓋しちまったら、凛が見えないだろ」
ようやく鍵の先端が鍵穴へと辿り着く。差し込んで捻る。
ああ、そういえば。遙はふと、先ほど視界に入れた金魚の墓を思い出した。遙は真琴を振り返る。しばらく前から黙ったままの幼馴染はどんな表情をしているだろう。街灯も月もない夜では分からない。
「真琴、昔飼ってた金魚の鉢、まだあるか。ガラスのやつ」
磨りガラスの嵌めこまれた引き戸が、がらがらと派手な音を立てながらレールの上を滑る。ハルちゃん。いつもは深みのある真琴の声が今日はやたらと容易に掻き消えた。
日の高い内から閉めきっていたせいか、家の中から熱風めいた空気が流れてきた。特徴的な鼻を刺す匂いに遙は目を細める。水に潜る要領で空気を割って土間に上がり、玄関の電気のスイッチを押した。
「金魚鉢、何に使うの」
平坦な声に遙は振り向く。橙色の電気の下の真琴は声と同じ、起伏のない表情で遙を見ていた。
真琴曰く、生物室の匂いのする七瀬家の玄関で、二人して向かい合う。家の奥には凛もいる。水に濡れた前髪がぺとりと額に張り付く凛の顔は昼よりもずっと幼くて可愛い。真琴を会わせてやるべきかどうか悩むところだ。物心ついた時から傍にいる幼馴染にも見せたくないと思うほど、遙は凛を大事に思っている。独占したいと思っている。
松岡凛は、おかしい。松岡凛は七瀬遙に狂っている。
そして遙も、凛と同じだった。
「頭、は、さすがに無理か。手ぐらいなら入るんじゃないか」
揺るぎなくしなやかに水を掻き、甘やかにじゃれついてくる凛の手がいっとう好きだ。できれば左手がいい。遙は独白のように付け足した。
月のない、星の光すら落ちた夜の事だった。
幼いころの思い出と、一度の挫折で持て余した感情と、整理のできないままぐちゃぐちゃになってできあがってしまった現在の自分。からだを四方八方から引っ張られるような、でたらめで抗えない衝動と乖離に中てられてしまったのだ。
と、遙は考えている。
廃墟と化した思い出の場所で再会して以来、凛は途切れがちながらも少しずつ遙との距離を詰めてきた。野良猫が威嚇しながら、それでも少しずつ懐いてくる様に似ていたと思う。実際、凛は通い猫のようにふらりと、一定の頻度で遙の家で一晩を過ごすようになっていた。
ふうふうと毛を逆立てていたものが膝の上で丸まって眠るようになった、という事実は、感情の起伏に乏しい遙の心中を大きく揺さぶった。
加えて凛は猫のようであったとしても、あくまで人間だ。一晩を、膝の上で、というのはつまり、性的な意味を含んでいる。
始まりは、凛が遙を押し倒してきたからだった。突然の行動にさすがの遙も目を丸くして、けれど見上げた先の凛の瞳があまりにも真剣で、男同士なのにだとかの疑問はすうっと消えてしまった。見計らったように凛が遙の唇を塞いで、ふたりして黙り込んだまま、目も閉じられずに唇を合わせていた。押し付けてきたのが凛なら離れるのも凛で、大胆な行動とは裏腹に少女のように頬を染めて遙から顔を逸らした。消え入るような声ですきだと告げられて、今度は遙から凛に口づけた。目を閉じるまでもなく暗い、月のない夜のことだった。
きっと凛の中で渦巻く感情の内の、好きという部分だけがとんがって溢れ出した結果だったのだろう。
まるで恋人同士のような行為に及んでおいて、それでも昼間や真琴たちの前で会う凛は、つんとした棘のある態度のままだった。けれどもまた夜が訪れてふたりきりになれば、凛は昔のような、いや、昔よりもずっと砕けてとろけた甘い態度で遙に触れるのだ。凛の取り付く島もない口調に眉尻を下げる真琴や、大きな身振り手振りで凛の気を引く渚は知らない。
昼と夜とのギャップや、遙だけが知っているという優越。
甘美に、ひたひたと。あるいは熾のようにちらついて遙の心を侵していった。
「ねえ、そういえば知ってる?」
部活動中の休憩時間。皆してスポーツドリンクを片手にプールサイドに座り込んでいる時だった。他愛もない雑談の最中、ふと思い出したといった体で渚が声を上げた。
「最近あまちゃん先生が部活に顔出せない理由!」
「忙しいんだろ」
「だーかーらぁ! どうして忙しいのかってこと!」
別段興味もないのか、ばっさりと切り捨てる遙に渚は大きく手を振って反駁してみせる。
拍子にペットボトルからドリンクが溢れて散りでもしたのか、怜が眉間に皺を寄せた。眉を顰める怜の隣りで真琴は「今は試験が近いわけでもないしなあ」と呟き、江も首を傾げながら渚へと視線を転じる。
「なんか、ほとんどの先生が忙しいみたいよね。今度の合同練習のことで相談に行こうと思ったんだけど、職員室は立入禁止だって言われて閉め出されちゃった」
「確かに、他の部も顧問の先生がいなくて困ってるみたいな話は聞いたけど」
水泳部の主な活動場所たるプールは、グラウンドからは少し離れ、岩鳶高校敷地内でも僻地と言っていい場所に位置する。よって他の部の様子はほとんど見えないのだが、教室内やプール近くの体育館、部室棟あたりから、なんとなく困惑した空気は伝わってくる。
真琴の台詞に怜がメガネを押し上げ――るような動作をしてから、自身が現在裸眼であることに気づき、恥ずかしそうに手を引っ込めた。
「職員会議でしょうか。こんな時期に全職員を集めて議論するような案件があるとは思えませんが……」
「そう! それだよ!」
目敏いのか無意識にか、引っ込みかけた怜の手を渚ががしりと両手で掴む。ぎょっとする怜を置き去りにブンブンと振り回して、それから渚は片手でびしりと校舎を指さした。
「事件は職員室で起こってるんじゃない、現場で起きてるんだ!」
「それ、そのままの意味じゃない」
自分たちが子どもの頃に流行ったドラマを模した、有名な台詞だ。江が呆れたように突っ込む。
もちろん渚が意に介すはずもない。突如立ち上がって腰に手を当て、座ったままの四人を覗きこむようにして声をひそめる。
「でも、本当の本当に大事件かもしれないんだよ」
随分と大仰な仕草で、ダメ押しとばかりに渚は目を細める。意味ありげに校舎を見つめて、それからまた四人に視線を戻した。
真琴と怜はぽかんとして渚を見上げるばかり。遙はそんな話に興味はないといった体で陽光を照り返してうねるプールを見つめ、江はといえば突如として眼前に晒された渚の下肢に顔を覆っている。ああ、ダメよ、見ちゃダメ、そんなはしたない、でも男子高校生の腓腹筋がこんな間近に、などとちいさな声で呟き続けているので例によって指の隙間から渚の方を窺っているのだろう。ただし話を聞いているかどうかは定かではない。
「これはクラスの子から聞いた噂なんだけどね」
四人の内少なくとも半分は話を聞いているからよしとしたのだろうか。渚は重々しく頷いて、低い声で厳かに告げる。普段女子のように上がり調子で話す渚にはあまり似合わない、すこしばかりシュールな姿だ。
「化学準備室から薬品が紛失してて、誰かに盗まれたかもしれないんだって」
残暑の太陽が眩しい、昼下がりの事だった。
ハル。はる。遙。
聞く者の心臓を締め付けるような切ない声で、あるいは貪り搾り取ろうと目論む売女の声で、凛はひたすら遙の名前を呼ぶ。寝転がる遙の上に跨って、一所懸命に腰を揺すっていた。
浮かしながらきゅうきゅうと食い絞めて、落ちる瞬間にはだらしなく緩む。この緩急に遙はたまらなく気持ちよくなる。同時に手慣れたものだなと、蔑み嘲るような自分もいる。遙の心情に気づかない凛はしばらく繰り返して、疲れたのか今度は前後に腰を揺らし始めた。ぐっぐっとリズムをつけて、腹側の気持ちいいところに遙の亀頭が当たるのか、時折びくりと痙攣しては肩を竦めて動きを止める。けれど自分だけの快感を追い過ぎないよう、すぐに息を吐いて力を抜く。そうしてまた腰を揺すり始める。
慣れていようと淫売のようであろうと、凛がひたむきに、遙を気持ちよくしようとしていることだけは嫌というほど分かる。
凛は最初に遙を押し倒した時点で、迷いなく受け身になることを選んだ。耐え切れず押し倒してきたのであれば男の本能に従って遙に突っ込もうとしてもよさそうなものだが、凛は違った。突然始まった、初めての、しかも男同士での性行為に戸惑い、凛の痴態に劣情を煽られるばかりだった遙の記憶はだいぶ曖昧だが、思い返せばなんとなく凛に誘導されていたような気もする。
今だってそうだ。どこか冷めたように考える遙を置いて、凛は蕩けきった顔で行為に没頭している。
頬を真っ赤に染めて背は弓なりに反らせて、はくはくと喘ぐ凛は酷くいやらしい。他の女も、もちろん男も抱いたことのない遙には比べる対象も見当たらないのだが、凛ほどあけすけによがる人間もそういないのではないだろうか。
対して遙のほうはほとんど凛にされるがままで、きっとこういうのを男マグロというのだろうなと思う。どうせなら鯖と呼んでくれればよかったのに、そんなどうでもいいことを考える程度には、遙には余裕みたいなものがあった。
凛がそうであるように、遙もきっと同じなのだ。無表情で無愛想と言われることが多い遙ではあるが、だからといって何も考えていないわけではない。口に出さない分、頭の中ではあらゆる思考が感情を掻き乱して、あるいは感情に掻き乱されて、混沌と渦巻いている。
凛のことは好きだ。凛を大事にしたい。
どこでそんな行為を覚えてきた。お前は何を考えて今更俺の前に現れたんだ。
凛は可愛い。もう泣かせたくない。
お前はあまりにも都合がいいんじゃないか。本当は何を考えているんだ。
凛を泣かせたい。体裁も何もかも投げ飛ばしてただ縋りついてくればいい。ぐちゃぐちゃにしたい。
俺は、凛を。
「はる」
蜂蜜のように甘く滴る声。
初めての頃はそう思っていた凛の声を、今の遙は漆のようだと思っている。真っ黒く垂れ流されて、不用意に触れようものなら途端にかぶれてしまう。最悪全身を蝕まれて、掻き毟って叫びたくなるような声だ。
ぎょろりと眼球だけを動かして、遙は凛を見上げる。合成着色料をぶち込んだ飴玉めいた赤い瞳。甘いだけの塊が溶け出していて、どろどろになって流れ出す遙が真ん中に映っている。
「はる」
他の言葉を知らないのか。いやらしい行為にはまるでそぐわない、あどけない声で凛は遙を呼ぶ。
遙の腹に添えられていた凛の手が、つうと腹筋の隆起をなぞる。ヘソの窪みを擽られた遙が小さく跳ね上がれば、凛は酷く嬉しそうに微笑んだ。火照った手はするりと上へ伸ばされる。乳首を悪戯に爪先で弾き、鎖骨のあたりをじんわりとなぞって、凛の手は遙の首筋へと辿り着く。
「――ハル」
遙も凛と同様なのだ。そうでなければどうして、黙ったまま抗いもせず、ゆっくりと首に巻き付く凛の手を眺めていられるというのだ。
しなやかに力強く水を掻く。水泳のためだけに存在しているはずの凛の指が、遙の首の薄い皮膚に食い込む。少しずつ、少しずつ力を込めていく。流れを遮られた血流がこめかみ辺りでうるさく喚き散らし、押し潰される喉頭に嘔吐感が込み上げてくる。圧迫感の後ろでは確実に酸素が足りなくなって、意味もなく口が開いていく。
遙は自分の姿を陸に揚げられた魚のようだと思った。酸素不足に喘いでいるのは、凛に首を絞められているのは確実に自分のはずなのに、自分ではない誰か他人に起こっていることのようで、遠い。
「ぁ、はるっ……」
絞めつけられるのは首だけではない。遙の陰茎を収めた凛の直腸がこれまで以上に強くうねった。襞のひとつひとつに愛撫されているような感覚に遙の腰が堪らず跳ね上がる。
こんなのはおかしい。首を絞められて死にかけているのに、遙の陰茎は萎えるどころかますます勃ち上がっている。生きるか死ぬかのところで抵抗もせずにされるがまま。それどころか遠退きかける意識の中で、凛の中に射精するべく腰を振っている。
「はる、はる、おおきっ……あ、あっ、きもち、ぃ、はる」
凛がきゅっと眉根を寄せる。とけた眼球の上では赤い睫毛が閃いて、汗とも涙とも知れない水が瞬きの度に弾けて散っている。半ば霞んだ視界の中でそんなものばかりはっきり見えるのが不思議で、なんだかおかしかった。呼吸さえできていれば、遙にしては珍しく、はっきりと笑っていただろう。
冷静な思考を置いてけぼりに、体の方にそんな余裕はない。びくびくと痙攣して、腰だけが別の生き物のように凛の中を突き上げる。
笑えない遙の代わりに、凛が笑ってくれた。かつて彼が見たがった桜が綻ぶように、ふわりとした笑みだった。やわらかく優しく美しいそれに反して、凛の体内と手のひらは遙を苛む。
「あ、出っ……ああああ……!」
丸い月が明るすぎる、星の見えない夜の事だった。恍惚と喘ぐ凛に首を絞められながら、遙は凛の中に精を吐き出した。やたらとまろいラインを描く凛の腰が震えて、追いかけて達したことを知る。
喉の拘束が緩んで、遙はひたすら咳き込んだ。涎まみれで呼吸に忙しい唇に凛の舌がにゅるりと割り入ってくる。吐き気がするほど甘かった。
夏の西日を、白い薄手のカーテンが申し訳程度に遮っている。
「ハル、最近ちょっと変わった匂いがするよね」
今日の夕飯はカレーだからと橘家の夕食に招待された遙は今、真琴と並んでベッドに腰掛け、テレビを見ていた
顧問不在の部活を終わらせたまま橘家を訪れた遙は、あと少し煮込みたいから先に入ってらっしゃい、と、真琴の母に促されるまま風呂を借りた。その際幼い弟妹にせがまれ、決して広くはない一般家庭の浴室でぎゅうぎゅう詰めになりながら入浴を済ませることになった。
遙も真琴もいまだしっとりと髪を濡らしている。階下からは真琴の母親の宥めるような声と、被せて賑やかしい双子の声、そして微かにドライヤーの唸る音が響いている。長兄とその友人がドライヤーの恩恵に預かるにはまだ少し時間がかかりそうだった。
「今日は同じシャンプー使ったのにな」
「……なんか、やめろよ。その言い方」
「ごめんごめん」
悪びれたふうもなく笑いながら、真琴は遙の頭頂部に鼻先を寄せた。すんすんと濡れた髪の匂いを短く嗅いでいる。遙は顔を顰めたものの、いつものことだと放置してテレビを眺め続ける。
「最近はずっと部活で泳いでるからだよね。昔とおんなじ、プールの匂いがする」
水泳部であれば避けられないことではあるが、塩素臭など褒められたものではない。
胡乱に目を細める遙に構わず、真琴は頭頂部から側頭部、耳の後ろ、盆の窪と匂いを嗅いでいく。
はっきりと首筋と呼べるあたりに来て、ようやく真琴は動きを止めた。
「それから、凛の匂い」
遙は何も答えない。
真琴は遙を窺いもせず続ける。
「あと……化学、じゃないな、生物室の匂い。ホルマリンの匂いがする」
ああ、と思い出したように呟いて、真琴の頭が遙の首元から遠ざかる。骨っぽいごつごつした指先だけが居残って、首を斬るようにすうっと、横一文字に遙の喉を横切った。
「匂いだけじゃなくて、ここも。ずっとついてた絞め痕みたいなのも、消えちゃったよね」
遙はようやく、テレビから真琴へと視線を転じた。
視線に気づいたのか、熱心に遙の首を見つめていた真琴がゆっくりと遙を仰ぐ。うつくしく緑を湛えた真琴の目が、遙にはどろどろとした藻を孕んだ、深い底なしの沼のように見えた。一番星がちらつく、あかく燃える夕暮れの事だった。
松岡凛は、おかしい。きっと気が狂っている。恐らく遙に狂っている。
それでも遙は凛のことが好きだった。
セックスの最中に首を絞められたのも一度や二度ではない。悪いことに――恐らく悪いことに、窒息の辛苦に遙の陰茎が肥大するのも、感じ取った凛が強く締め付けるのも、毎度のことだった。
生物は死を察知すると生存本能が働いて、という話を聞いたことはある。だからといって首を絞められて興奮するというのは人としてどうなのだろう。何より凛の中に射精したところで子孫など残せるはずもない。生ぬるくなって尻の穴から垂れ流されるか、中にとどまって腹を壊すのが関の山だ。遙が吐き出した精子はといえば、凛の指に掻き出されて風呂場の排水口へと消えていったらしい。
遙の腕を枕にして眠り続ける凛を見下ろす。いつもの起床時間よりも少し高いところに登った太陽の光が、閉めたままのカーテンから線になってこぼれている。薄くぼやけた朝日の下で眠る凛は、昨夜の淫行など感じさせない、さっぱりとした姿をしていた。
あれは夢だったのではないか、と思うぐらい。
「……凛」
起こそうと思ったわけではない。思ったわけではないが、遙は自然と凛の名前を呼んでいた。
いつもは分けられている凛の前髪が寝乱れて落っこちている。普段はきちんとセットしているのだと、遙は凛を抱くようになってから知った。確かに分けている方がいい。前髪を下ろした凛はどこかあどけなくて、無防備で、かわいい。他の誰かに見せたくないと思う。
赤みがかった髪を指で梳いて、また乱れない程度にそっと口づけを落とした。瞼の上、鼻の頭、頬へと唇を滑らせて、最後に薄く開いた唇へ。優しく押し付けて、遙は舌先で凛の唇をなぞる。決して押し入ることはせず、ゆるゆると愛撫する。
「ん……」
「りん」
目の前で凛の睫毛が震える。ちいさく名前を呼んで、今度は起こすつもりで噛みついた。腕の中で凛が跳ねて、唇が意思を持って開かれる。招き入れられる前に、遙は微かな水音だけを残して唇を離した。
とろんとした凛の目に不服の色が混じる。遙は凛の頭を撫でて控えめに笑んだ。
「おはよう」
「……はよ」
挨拶は返ってくるものの、凛の瞼は重たそうに瞬きを繰り返している。撫でられる感触が気持ち良いのだろうか、また眠りの世界に沈もうとしていた。
収まりのいい場所を探して腕の中で身じろぐ様は可愛らしいが、いつまでも惰眠を貪るわけにもいかない。現実に引き上げるよう、遙は凛の頬をぺしりと叩く。
「凛、いつ帰るんだ」
「んー……部活、は……午後から」
ふわふわと浮き沈みする声に、昼には帰るということだろうと当たりをつける。
遙はゆっくりと上半身を起こした。ころりと転がる凛の頭がむずがるように左右に振られる。最後にもう一度と赤茶けた頭を撫でれば、凛の目がぼんやりと開かれ、二、三度瞬いた。ベッドから足を下ろし、完全に起きる姿勢となった遙をじっと見つめている。
「俺は起きるからな。朝飯食べるだろ」
「……肉がいい」
「鯖」
まだ寝惚けているくせに、遙の用意する朝食への不満だけは口にできるらしい。むっと尖った凛の唇を、遙は親指と人差し指で引っ張ってやった。仕返しとばかりに口を開いて、凛は不平の代わりに遙の指を飲み込んだ。
凛の八重歯が柔らかく食いついてくる。しばらくあむあむと弄んで、最後にぺっと吐き出した。遙の指に残る唾液を、凛の赤い舌がさらりと掬っていく。
「にく」
「……在庫があればな」
適当なところで妥協すれば、満足気に凛の鼻が鳴らされた。調子づいたのかシーツの上に投げ出されていた手が持ち上がって、遙の腕や足に触れてくる。凛の指が最後に目指す場所を予感して、遙はベッドから立ち上がった。
「できたら呼ぶから」
うん。存外と素直に返ってくる声を背に、遙は自分の部屋から抜け出した。廊下へ出て階下を目指す。板張りの床が遙の歩みに合わせ、ぎっぎっと鳴った。自分の心臓が軋む音に重なった。
凛の指は、遙の首を目指していた。
溶け出した飴玉の瞳の奥に、陶然としたいろが残っていた。
己の背中で粘ついた何かが糸を引いている。糸の先は凛に続いている。
湧き出した妄想を振り払い、遙は階段を小走りに降りる。顔を洗おうと洗面所を目指し、思い直して台所へ。凛と約束した手前、肉があるならば肉を用意してやらなければなるまい。
果たして冷凍室を開ければ、パックのままの鳥のささみがちょんと鎮座していた。七瀬家に来る度に食うなら肉がいいと喚く凛のために、数日前に買っておいたものだった。
遙は過剰に冷えたパックを手に冷蔵庫の前で立ち尽くす。凍りついた肉の、鈍い淡紅色がやたらと目に刺さった。白けた太陽が生ぬるく空気を温める、朝方の事だった。
果たして朝から肉、というのはどうなのだろう。凛の嗜好も、思考も、遙にはよく分からない。全く分からない。
凛の指は、遙の首を目指していたのだ。まるで昨夜の淫行など知らぬげに振舞っていても、夜の凛が別人のようであったとしても、凛は遙の首を絞めて達したことをちゃんと覚えている。覚えていて、陶然と笑っている。平然とじゃれついてくる。
松岡凛はおかしい。遙には凛が理解できない。遙はそれでも凛が好きだ。
手の中の肉だけが今の遙の味方だった。パックの表面に張り付いていた氷が体温で溶け出して水の玉を作る。
遙は凛を理解したい。凛に理解されたい。この水のように。
幼い双子好みに甘口で味付けされたカレーで腹を満たし、遙は真琴と並んで橘家の玄関から外へ出た。真っ赤な夕日は山の向こうへ沈んで久しく、仰ぐ空には月もない。深い藍色だけが天を覆っている。
加えて、この辺りは複雑に民家が入り組んでいて、間を縫うように私道が走っている。申し訳程度に街灯が設置されてはいるものの、電球が古くなっているのかここしばらく明かりを灯していなかった。家々が寄り添っているおかげで民家から溢れる光が頼りになるのだが、各家が眠りについてしまえばそれも途端に意味をなさなくなる。
夕食後蘭と蓮にせがまれ、一緒にゲームをしたりテレビを見たり、就寝時間まで散々付き合ってやった。とはいえ所詮子どもの眠る時間だ。遙たち高校生を含む“大人”にとっては夜はこれからで、まだ明かりがないと心配する必要はない。
遙は一度、出てきたばかりの橘家を仰ぎ見る。双子の使っている部屋の電気はまだついていて、母親の諌める声と子どもたちの不平の声が漏れ聞こえていた。声を聞いた真琴は遙の隣で苦笑い。真琴の向こうの庭の隅には、ごろりとした石を置いて作られた金魚の墓がある。
「真琴」
「うん」
遙の不意の呼びかけに、真琴は特に疑問を持った様子もなく答える。分かっていたとでも言いたげな声だった。幼馴染の顔にはまた、藻の絡む沼底があったのかもしれない。金魚の墓から再び空へと視線を戻した遙には確かめるすべもない。
暗い夜空を見回せば、果ては夜の海へと落ちる。いつか誰かに重ねた漆よりも深く重い黒で横たわる、水の塊。
「俺は、他人がどうとか、そういうのには興味がない」
「知ってるよ」
「ただ水だけを感じていられれば、それでいいんだ」
うん、と頷きながら、真琴は玄関から続く石段へと歩みを進める。遙と真琴の家は向かい合わせに建ってはいるものの、神社へ続く石段を間に挟んでいる。更に玄関の高さと位置が違うので、橘家から七瀬家へ向かうには石段を下りて、更に石段を上がっていく必要がある。
先をゆく真琴の頭が段差を踏んで上下する。今の遙にはどことなく遠い後ろ頭が、何もかも分かっている、そんな声音で確信をかたどる。
「でも凛だけは、違ったんだよね」
真琴は過去形を採った。遙は頷いた。
「凛は……俺が感じる水よりも先にいた気がしたんだ」
だから気になって、風のない水面だった遙の心は掻き乱された。元を辿れば、始まりはそうだった。
今は違う。遙は水とは切り離したところで凛を思う。そして理解のできないことに悩んだ。水であれば互いを認め合い、理解し合うことができるのにと。
「凛は水じゃなくて人間だから、分からなかった」
「うん」
真琴のスニーカーが最後の段を踏む。遙も三歩ほど遅れて続いた。昔は先をゆくのが遙で、後ろに続くのが真琴だったなとぼんやりと思う。
随分と大きく育った幼馴染は、得体のしれない表情で遙を振り返っていた。真琴は遙の微かな機微を読んで考えを当ててくる。遙には例え相手が真琴でもできやしない。他の人間なら尚更だ。凛はもっともっと遠いところにいた。
「だから、水と同じだったらなって」
「思ったの」
「思った」
ただでさえ理解のできない人間に、更に何重にも輪をかけて理解のできない凛。セックスの最中に相手の首を絞めるような狂った思考を理解するにはそれが一番だと思った。鈍い淡紅色と、冷たく温く手のひらにとどまる水の質感を遙は思い返す。
前提として凛は人間で、水にはなれない。ならばせめて自分と同じ、水を介して世界を認識する存在であればまだ。これならば水泳という繋がりで始まった二人の関係にも近い。
「俺と同じ、水がないと渇いて死んじまうような人間になれば」
真琴を追い越し、遙は本来神社の参道であるはずの石段を上る。正しい道を通るよりも手っ取り早く楽なのだ。
子どもの頃からずっとそうだったのに、こうして真琴を見下ろしていると急に罰当たりになった気がする。
「……それで」
先を促す声はやはり、疑問を切り捨てていた。
真琴の声を背に、遙は石段を上がる。十段と少しも上がればもう遙の家だ。
「風呂に入ろうと思った」
唯一の家人である遙が出かけていたので、七瀬家は暗闇に包まれている。ジャージのポケットから家の鍵を取り出しながら遙は淡々と続けた。最近は玄関はもちろん、真琴が自由自在に出入りしていた勝手口にも、二階を含む全ての窓にも、きっちり施錠するようにしている。
「でも、密閉しなきゃいけないらしいから」
明かりのない玄関では鍵穴を見つけにくい。出てくる前に玄関の電気ぐらい点けておくべきだったと反省しながら、遙は手探りで鍵穴を探す。いつもなら見かねた真琴が携帯電話のバックライトで照らしてくれるのだが、遙の背後から動く気配はなかった。
「浴槽に蓋しちまったら、凛が見えないだろ」
ようやく鍵の先端が鍵穴へと辿り着く。差し込んで捻る。
ああ、そういえば。遙はふと、先ほど視界に入れた金魚の墓を思い出した。遙は真琴を振り返る。しばらく前から黙ったままの幼馴染はどんな表情をしているだろう。街灯も月もない夜では分からない。
「真琴、昔飼ってた金魚の鉢、まだあるか。ガラスのやつ」
磨りガラスの嵌めこまれた引き戸が、がらがらと派手な音を立てながらレールの上を滑る。ハルちゃん。いつもは深みのある真琴の声が今日はやたらと容易に掻き消えた。
日の高い内から閉めきっていたせいか、家の中から熱風めいた空気が流れてきた。特徴的な鼻を刺す匂いに遙は目を細める。水に潜る要領で空気を割って土間に上がり、玄関の電気のスイッチを押した。
「金魚鉢、何に使うの」
平坦な声に遙は振り向く。橙色の電気の下の真琴は声と同じ、起伏のない表情で遙を見ていた。
真琴曰く、生物室の匂いのする七瀬家の玄関で、二人して向かい合う。家の奥には凛もいる。水に濡れた前髪がぺとりと額に張り付く凛の顔は昼よりもずっと幼くて可愛い。真琴を会わせてやるべきかどうか悩むところだ。物心ついた時から傍にいる幼馴染にも見せたくないと思うほど、遙は凛を大事に思っている。独占したいと思っている。
松岡凛は、おかしい。松岡凛は七瀬遙に狂っている。
そして遙も、凛と同じだった。
「頭、は、さすがに無理か。手ぐらいなら入るんじゃないか」
揺るぎなくしなやかに水を掻き、甘やかにじゃれついてくる凛の手がいっとう好きだ。できれば左手がいい。遙は独白のように付け足した。
月のない、星の光すら落ちた夜の事だった。
- 2013.9.1 x 2013.9.10 up
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