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サルトリーソルティナイト

「ハル、テレビ貸して」
 風呂場のドアが突然開いた。
 また真琴か。遙は反射的に思い、ついで、こんな夜遅くに来るのは珍しいなと内心で首を捻った。
 果たして捻った視線の先、湯けむりの向こうに立っているのは真琴ではなかった。パーカーにジャージ姿の、サラサラ流れる赤毛の少年。眉間に深い縦皺を刻み口はへの字に曲げて、手にしたキャップで肌蹴た首元を扇いでいる。
 風呂場の戸口に立っているのは、凛だ。
 どこからどう見ても凛だ。不機嫌そうな表情も再会して以来ずっとそのまま。常に近くにいるわけではないが、たまに顔を合わせる度に遙に向ける不機嫌めいた表情。まったくいつも通りの凛だった。
 いつも通りだが、何かおかしい気がする。
 遙は違和感の正体に気づけないまま、
「……どうぞ」
 とにかく返事をしなければ、と思った末、口にした言葉は、凛の尊大過ぎる発言を許容するものだった。
「どーも」
 投げやりに返事をして、凛は風呂場のドアを閉める。
 磨りガラスの向こうで赤毛が遠ざかる。湯の中ではおもちゃのイルカがゆらゆら揺れる。湯気に晒された天井から結露が一粒落っこちて、遙の鼻先で弾けた。
 そこでようやく、違和感の正体に気づいた。
「どうして凛が、ウチに来るんだ?」
 既に一人きりの風呂場で呟いたところで、返事などあろうはずもない。
 もうしばらく、そのまま湯船に浸り、凛の来訪について考えた遙はひとつの結論を出した。
 夢だ。のぼせた末に幻覚を見たのだ。
 その結論は遙の中にすとんと落ちた。凛がこんな夜に七瀬家を訪れるはずがないのだ。凛は鮫柄の寮に住んでいると聞いたし、鮫柄と岩鳶は電車が必要な程度には離れている。テレビがどうとか言っていたような気がするが寮にだってテレビぐらいあるだろう。ないならないでここまで来たのなら実家に帰ればいい。
 どう考えたって、凛が遙の家を夜半に訪れる理由はない。
 改めて納得して、遙は脱衣場を出る。今日は少し長湯をしすぎたのかもしれない。もう寝てしまおうと遙は素足で廊下を進み、ふと思い至って台所へと足を向ける。寝る前に水分を補給しておこうと思ったのだ。そしてまた違和感にぶち当たる。
 居間の方から光と音が漏れている。居間のテレビは入浴前、確かに消したはずだ。
 遙はしばらく居間から流れる音に耳を澄ませ、ひとまず当初の目的通り台所へと向かった。冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎ、一口、二口。少なくなった分を注ぎ足して、残りは冷蔵庫に戻す。グラスを一つ携え、ようやく居間へと足を踏み入れる。
 果たしてテレビの真ん前に、赤い後ろ頭が鎮座していた。
「……凛」
「ん」
 遙が名前を呼べば、返事というにはあまりにも短い声だけが返された。凛は振り向きもしない。テレビに映る、少し古い映画に魅入っているらしかった。遙の呆れと困惑と少しの怒りを混ぜた表情にはもちろん気づかない。
 これは多少声をかけたところでまともな会話など成り立ちはすまい。追求を早々に諦め、遙は部屋の中を見回した。
 消していたはずのテレビは映画を映しているし、扇風機は首を回しもせずに凛に向かって風を送っている。テレビと扇風機を独占する位置に凛は座っていて、傍らには小ぶりのスポーツバッグが置かれている。遙のものではないので当然凛が持ってきたのだろう。他は遙が風呂に入る前のまま、この暑いのにカーテンも窓もきっちりと閉じられているし、窓の方は施錠されたままだ。扇風機を独占しているわりにそこだけは遠慮したのか、クーラーはつけられていない。
「ハル、茶」
 不意の発言に、遙は凛の方へと視線を戻す。テレビはCMを流していて、凛は束の間現実世界へと帰ってきたらしい。遙を、正しくは遙の持つグラスを見上げている。
 遙はグラスを持つ手を凛から遠ざけた。
「これは俺の分だ」
「客に茶の一杯も出さねえのかよ」
「夜遅く押しかけて無断で家の中に上がって、他人の家のテレビと扇風機を堂々と使っているやつを客とは呼ばない」
 お前はオーストラリア帰りだから、忘れちまったのかもしれないけどな。遙が付け足せば、凛はむっと唇を尖らせた。むっとしたまま、扇風機のボタンを押して首を振るように設定し、ほんの少しテレビから遠ざかる。
 膝辺りにぬるい風を受けながら、遙は僅か脱力した。そういう問題ではない。
「凛、どうしてウチにいるんだ」
「テレビ借りに来たって言っただろ」
 言っただろうか。言ったかもしれないが、ニュアンスが随分と変わる程度には尊大な物言いだった気がする。
 遙が渋面を浮かべようと凛は澄まし顔で、時々テレビの方を窺っている。CMが明けたらまた映画に没頭するつもりなのだろう。夜半に他人の、しかもちょっと険悪なぐらいの関係の人間の家に押しかけておいて事情説明より映画のほうが優先とは恐れ入る。
「寮は」
「週末だから実家に帰るって、外泊届け出してきた」
「そうじゃない。テレビぐらい鮫柄の寮にもあるだろう」
 あれだけ設備の整った学校だ。当然付属する寮も同等だろう。一部屋にテレビが一台、冷蔵庫が一台ぐらいあってもおかしくはない。遙の中では、鮫柄の寮はちょっとしたビジネスホテルぐらいのところでイメージされている。
 凛はようやく合点がいったのか、ああ、と声を上げた。やる気のない声だった。
「消灯時間過ぎてるし、相部屋だし。ワンセグで見んのもつまんねえ」
 深夜番組見るには向かねえよな、とついでにぼやく。ぼやきたいのは遙の方だ。
「自分の家に帰ればいいだろ」
「ウチに帰ったら江がうるさくてゆっくり映画なんて見てらんねえんだよ。それにお前の家一人なんだから、別にいいだろ」
 遙は眉を顰めた。顔を合わせても凛が噛み付いてくるばかりで、お互いの事情など話した記憶は一切ない。遙は江を介して一方的に凛の事情を知ってはいるが、江に自分の家庭の事情をちゃんと話したことはないので逆もまた然り、という可能性は低いだろう。凛が遙の家の事情を察している理由はないはずだ。
「……なんで知ってる」
「訊いてもねーのに真琴がメールしてくるんだよ。お前が今一人暮らしだとか、だいたい風呂場にいるとか、いつ行っても勝手口の鍵が掛かってないとか」
 犯人は身内にいた。
 人畜無害とお人好しを絵に描いたような幼馴染の顔を思い浮かべ、遙はますます顔を渋くする。
 凛はちらりと遙を見やり、相変わらず仲良しこよしなことで、と呟いた。なんだそれはと遙が問いただすよりも先に赤い頭はテレビの方へ向いている。画面の中では映画が再開していた。
 ――お前こそ、真琴とは連絡取ってるんだな。
 舌先に乗せかけた言葉の違和感に遙は思い切り顔をしかめた。なんだそれは。今度は自問である。
 問いただす先が自分だろうと凛だろうとどうせ答えは得られないだろう。遙は憤って、凛の斜め後ろに座った。随分と汗をかいてしまったグラスを卓袱台に置き、見るともなしにテレビを眺める。もう眠ってしまおうと思っていたが、深夜の来訪者をそのままに自室で安穏と眠るわけにもいくまい。そもそも凛は映画が終わったらどうするつもりなのか、それだって聞いていないのだ。
 映画が終わるまで付き合う覚悟を決めて、遙はせめてと、ひっそり溜め息をついた。
 昔の凛は分かりやすく、痛快なアクションものの、俗に話題作と呼ばれるような映画を好む子どもだったように思う。けれど今凛の見ている映画は、痛快ともアクションとも程遠そうな洋画だった。
 カラーではあるが、ちらちらと画面が瞬く程度には古い。一組の男女が淡々と会話を続けていて、耳に届く音声は恐らく英語なのだろう、画面の下に字幕が出ている。が、凛の頭が邪魔で半分程度しか読み取れない。おかげでどこに盛り上がるところがあるのか、遙には一層理解できなかった。気分ひとつでの欠席と早退を惜しまない遙の成績は、お世辞にもいいとはいえない。英語のリスニングなどもっての外だ。
 オーストラリア帰りの凛なら、字幕なしでも会話が理解できるのだろう。ならば凛が後ろに行けばいいのではないか。映画の内容を理解したいわけではないが、遙はぼんやりとそんなことを考えながら古い映画を、時々凛の後ろ頭を眺める。凛は遙の存在などまるでないもののように、ひたすら映画に没頭していた。幾度か挟まれたCMの間も微動だにしなかった。
 反応のない凛と、内容の分からない単調な映画。見比べている内に、遙は少しずつ眠気に侵されていく。途中からは卓袱台に腕と頭を預けて、ひたすら映画のクライマックスを待っていた。
 果たして落ちてくる瞼との静かなる攻防は、うとうとと揺れる意識に混じる、ずび、という音で終わりを告げる。
 半分にぼやける視界に、遙は凛の後ろ頭を捉える。呆れるほどに真っ直ぐ伸びていた背筋を少し丸めて、凛はぐずぐずと鼻を鳴らしていた。俯いた頭の向こうにはセピア色のスタッフロール。遙が半分眠りの世界を泳いでいる内に、映画は終わってしまっていたらしい。
 卓袱台の上のボックスティッシュを手に、遙は凛の隣りにいざり寄る。気配を察したらしい凛はすぐに顔を背けた。が、差し出したティッシュだけは何枚か抜き取っていった。壁に向かってちんと鼻をかんでいる。
 何の映画か、どんな話だったのか。遙には結局分からずじまいだった。凛が泣いているということは悲しい話か感動ものだったのかもしれない。
 一瞬考えて、遙はすぐ自分の考えを否定した。凛の涙腺は相当弱いから基準に考えてはいけないだろう。
 凛はすぐ泣く。少なくとも四年前はそうだった。遙の思いもしないところで凛は泣くのだ。昔は、意外と涙もろいやつ、程度にしか思っていなかった。それなのに。
 あの時から、遙の中で凛の涙は特別な意味を持つようになった。なってしまった。
「凛」
 遙が名前を呼ぶ。凛は意固地になったように、ぐっと壁の方へ顔を向ける。使用済みらしい丸めたティッシュだけは一直線に遙の元へ飛んできた。
 ティッシュは適当に横に転がして、遙は身を乗り出す。縮こまる凛の肩を掴んでぐいと体を反転させる。
「――ッ! は、るっ」
 真っ赤な目が丸く開かれる。蛍光灯の下で水が散る。
 鼻先と目元を赤く染めた凛は驚いたような表情を浮かべている。水の膜が張った凛の瞳の中に、遙は無表情な自分を見つけた。
「凛」
 もう一度遙が名前を呼べば、凛の眉間がきゅうっと寄せられた。睨んでいるようにも見えるが、遙の手のひらにはあからさまに肩を竦める動きが伝わってくる。構わずに上半身を押し付けて、遙は凛の目尻に舌を伸ばした。
 べろり。ひょっとしたらそんな音がしたかもしれない。大きく頬から舐め上げれば、凛の体が大きく震えた。
「ひ」
「……りん」
 今度は啄む要領で目尻を吸う。次いで瞼へと唇を滑らせる。ますます縮こまる凛の体ごと落ち着かせるように、肩を抱いていた手は腰へ。もう一方の手で後頭部を掴み、遙は畳の上に凛を押し倒した。
 凛の体が逃げを打って身じろぐ。気づいた遙は凛の足の間に自分の膝を滑りこませた。密やかに揉み合う内に遙の膝頭が凛の股間を掠める。今度こそはっきりと、凛の体が硬直する。
「りん」
 解きほぐすように、宥めるように。遙は凛の目元に、額に、鼻先に唇を落とし、舌を這わせる。涙か汗か、それとも拭き取られた鼻水か、舌先に少しの塩気残る。凛の鼻水なら例え糸を引いていたって飲み下せるな、などと考えながら、遙は一度上体を起こして凛を見下ろした。
 凛は畳の上に赤い髪を散らせて、呆然半分、困惑半分、それ以外が少々といった表情で遙を見上げている。
「お前、何しに来た」
「だ、から、映画」
「泣きに来たのか」
 凛の表情が、歪んだ。
 凛はここに、泣きに来たのだ。映画に涙する姿を誰にも見せたくないからと遙の家を逃げ場にしたのか、他に泣きたい何かがあって映画にかこつけたのか、それは分からない。泣くことだけが深夜の来訪の理由すべてでもないだろう。それでも凛の表情は雄弁に、遙の問いがそのまま答えだと肯定していた。
 遙になら泣き顔を見られてもいい、凛はきっとそう思っているのだ。
 遙にとっても凛の涙は特別だった。あの冬の、二人だけの勝負以来ずっと、凛の泣き顔が鮮烈に、熱く、重く、遙の胸の真ん中に転がっている。
「凛」
 遙はしつこいぐらいに名前を呼ぶ。ゆっくりと顔を近づければ、凛はぎゅっと目を閉じた。弾き出された水を遙は舌先で浚う。
「……嫌だ」
 凛が顔を背ける。掬った涙を飲み干して、遙は凛の顎を掴んだ。ぐっと鳴く声を無視して強引に視線を合わせる。赤い目端に、またじわりと水の珠が浮かんでいた。
 清く美しい水は、たったの一滴落ちるだけで、凪いだ遙の感情に大きく波紋を広げる。嵐のようにうねらせる。凛の涙は特別で、尊くて、そして――酷く劣情を煽られる。もう泣かせたくないと思うのに、もっと見たいと、泣かせたいと思ってしまう。
「凛」
「嫌だっつってんだろ」
「期待してるくせに」
「し、てねえッ――んんっ!」
 震えながらも素直じゃない言葉ばかり吐く口に、遙はがぶりと噛みついた。
 凛の唇にやわく歯を立て、宥めるように舌でなぞる。逃げ出そうと暴れる体はのしかかって押さえつける。ついでにパーカーのジッパーを一気に引き下ろし、中のタンクトップを捲り上げてやった。遙の視線に気づいたのか、凛の綺麗な腹筋が艶かしくうねる。
「は、る……んっ! くぅっ……」
 凛の声はまた唇で飲み込む。けれど遙は決して舌先を割り入れるような真似はせず、ただ舐り食むだけで凛を翻弄する。代わりとばかりにあらわになったヘソや色の薄い乳首を愛撫してやった。ついでに割り入れたままの膝で、凛の下半身を攻め立てる。
 遙に押し倒された凛は、それでもしばらく抵抗していた。足をばたつかせたり、遙の背中を拳で打ってみたり、顔を逸らせようとしてみたり。それでもトレーニング量は違えど大差のない体格と、マウントポジションという圧倒的優位によって、ついに遙は凛を下した。
 暴れていた凛の足は次第に大人しくなり、遙を迎えるようにゆっくりと開いていく。拳を作っていたはずの凛の手は解けて、おずおずと遙の背中に回された。きゅっと真一文字を描いていた唇も薄く開かれて、それどころか遙を誘い入れるように舌を伸ばしてくる。
 そこで遙は、凛の唇を解放した。どうして、とでも言いたげに、凛が切なく眉根を寄せる。
「あ」
「期待、してないんだろ?」
 まるで悪いことなど考えていません、とでもいうように、遙はゆっくりと身を引いた。完全に体を起こす間際、ついさっきまで凛の胸を愛撫していたその手で凛の赤毛を撫でる。子どもを可愛がるような所作はしかし、全く逆の意図を孕んでいる。
 ――泣け、凛。
 最後にひときわ優しく凛の髪を撫で、遙はもったいぶって指先を離していく。つられて凛の瞳が、鮮やかな赤が滲む。
 最後の一筋が遙の指を滑り落ちる。切り傷のようなそれが雫を落とす寸前に、凛が遙の手首を掴んだ。
「ハ、ルっ……!」
 いつも力強く水を掻く凛の指が、酷く頼りなく見える。遙は殊更鈍い動きで首を傾げてみせた。
「どうしたんだ、凛」
「う……」
「嫌なんだろ」
「い、」
 ひくりと、凛の喉が隆起した。
「やじゃ、ない」
 もしも遙が感情をはっきりと表に出す人間なら、とびきり悪い笑みを浮かべていただろう。
 けれど遙は相変わらず、長年連れ添った親友にしか分からない程度の表情の機微で凛を見下ろす。単純に時間だけを見ればとても短い付き合いで、しかも中途半端に煽られて混乱している凛が遙の内心に気づくわけもなかった。
「もっと、しろって……!」
 何の反応もないことに焦れたのか、凛は遙の首に腕を回し、自分の胸元へと引き寄せた。
 実に可愛げもなく色気もない口調だが、遙にしてみれば及第点だ。ただ、単に引き寄せるのではなく先ほど遙が抜け出したキスを自分から仕掛けるぐらいのことはしてみせてもよかったのではないか。
 そんなささやかな不満を乗せて、遙は再度凛の唇に噛みついた。今度は焦らすのではなく、最初から舌を割り入れる。凛は待ち切れないとでもいうように遙の舌を迎え入れ、自ら吸いついてきた。
「ふ、あっ……あっ、む」
 泣いているような凛の声が耳に心地良い。呼吸も唾液も飲み込むようにひたすら唇を合わせれば、凛の手は遙に縋るだけとなっていく。
 遙が凛のジャージに手をかけれる。凛は自分から腰を浮かせた。どこか焦りの見える凛の動作を、遙はいとしく、腹立たしく思う。渦巻く感情のまま下着ごと膝辺りまで引き下げてやった。兆しを見せる凛の性器に指を絡め、もう片方の手では捲り上げたタンクトップの裾に見え隠れする乳首を抓る。
「イッ! ……あ、くっ」
 快感と痛みに跳ね上がる体を押さえこむように、遙は凛の首筋に顔を埋めた。濃く凛の汗が香るそこをべろりと舐め上げ、耳の後ろへと舌先を伸ばす。凛の弱いところだと遙はちゃんと心得ている。遙と凛がこうして体を重ねるのは、初めてではない。
 あれは成り行きだったという他ない。
 こんな言葉を使うと凛は怒るかもしれないが、ならば他にどういえばいいのか説明して欲しいとすら遙は思う。たぶん言い合いみたいな形になって、それからどうしてだか遙は凛に押し倒された。凛が何を考えてそのような行動に出たのか、遙にはちっとも分からなかった。ただ、あの冬のスイミングクラブで見たのと同じ涙を凛が流していたこと、そして会わない年月の間に凛が変わってしまったことだけは痛いほど感じた。遙を押し倒した凛は泣きながら、自分から遙に跨ってきたのだ。
 凛は、初めてではなかった。
「は、る……あつ」
 荒い呼吸の間に凛が呟く。凛の首筋は汗と遙の唾液とで酷く湿っている。抓り、時にやわらかく撫で回していた胸元も水の膜が張ったように濡れていた。下半身など言うまでもなく、遙の指先には汗と、それ以外のもので濡れそぼった凛の陰毛が絡みついている。この真夏にクーラーも付けず、閉めきった部屋の中で性交に及んでいれば当然だろう。
 息を乱す男子高校生二人の傍では扇風機が頼りなく部屋の空気を掻き混ぜている。もちろんこの程度で涼など得られるはずもない。せめてと、引っかかったままだった凛のパーカーに手をかける。汗で張り付いていて脱がすのにやたら時間がかかった。
 ようよう脱がせたパーカーは丸めてその辺に放り投げる。暑いのならいっそと、膝までずり下げたジャージも下着と一緒に抜き取った。蛍光灯の白けた光の下、凛の内腿で汗が伝い落ちるのが見えた。
「ひぅ!?
「……しょっぱい」
「ぁ、はるっ、なめ……っん、なあっ! く、うっ」
 ずりずりと頭を下げて、情欲の赴くままに舐め取れば、遙の頭上で凛が身悶える。
 拒否の姿勢を見せるのは素直でない凛の言葉と、背けられる顔だけだ。その証拠に遙の鼻先では凛の陰茎がひくりと角度を増している。こんなに間近で見たことはないからか、特別暑いからか、はたまた堪え切れない先走りなのか、凛の陰茎は水に浸かっていたようにびしょびしょに濡れて見える。
 遙は躊躇うことなく、凛の陰茎も舌で舐め上げた。
「は! ああっ……あ、あ、う」
 がり、と何かが削れる音。遙がちらりと視界の端で窺えば、快感に耐えるためか凛が畳に爪を立てている。水を掻くために存在する凛の指が、色褪せて黄色くなった畳などに突き立てられているのが酷く不思議なものに見える。
 びくびくと艶かしく跳ねる指を見るともなしに眺めながら、遙は亀頭へと吸いついた。
「ヒッ――」
 今度は足。凛の足がばたん、ばたと、不規則に畳を叩く。
 水の中ではあんなに美しくしなやかにうねる凛の足が、まるで溺水の間際のように、陸に揚げられた魚のように必死で蠢いている。遙はひっそりと冷ややかな、優越感みたいなものを覚えた。
 跳ね上がる様をいつまでも眺めていたい気もしたが、このままでは卓袱台やふすまに当たりそうだった。遙は悶える凛の足を上半身全体で押さえ込む。下半身を封じられた凛は代わりとばかりに畳に爪を立て、腰を捻り、顔を背けていた。遙が刺激する度に、葦草の削られる音ががりがりと響く。
「は、る、あぁっ……はるっ!」
「んむ……なんふぁ」
「――ッ! た、たみっ」
 咥えたまま見上げれば、凛は顔を真っ赤に染めて瞳を潤ませていた。
 暑さにか、怒りにか、羞恥にか。遙の舌が薄い皮膚を擦ると更に赤くなっていたので、快感のせいだろうと遙は自分勝手に結論付ける。しかしそれだけが理由ではないらしい。
「こすれ、てっ、いってぇんだよっ!」
 仰け反って暴れたせいで、あちこちを擦ってしまったようだった。
 七瀬家の畳は遙が幼いころに一度張り替えたきりの、年季の入った代物だ。色などとうに褪せて黄色くなっているし、あちこち削れたり、ささくれたりもしている。肌をそのまま擦りつけていれば確かに痛いだろう。そうでなくても布団よりずっと固いのだから、下になっている凛の負担はいかばかりのものか。
 遙は口から凛の陰茎を吐き出して、凛の鼻先へと顔を近づけた。咄嗟に背けられた頬には、ほんのりと畳のあとがついている。
 凛の肌が畳で擦れて赤くなるのは、遙とて本意ではない。
 それにこのまま事を進めて、汚すようなことがあれば。カーペットなら洗えばいいだけだが、畳だとそうはいかない。古い畳は撥水性などなきに等しく、じわじわと水分を吸い込んでしまう。もちろん洗えはしないし、簡単に張り替えられるものでもない。終わった後に拭き取っても染みになってしまいそうな気がする。
 はあはあと荒い仕草で呼吸を整える凛を見下ろし、遙はしばし思案した。
「凛、開けるぞ」
「な、に……」
 返事も聞かない内に、遙は凛のスポーツバッグをたぐり寄せ中を漁る。予想通り、凛がいつも使っているのであろうスイムタオルが入っている。遙は遠慮なく引っ張り出して、自分の尻の下に敷いた。
 鈍く瞬きを繰り返す凛を横目に、再度バッグに手を突っ込む。中の荷物を掻き回せば、底の方で小さな硬いものが指先に触れた。
「凛、」
 躊躇なく取り出して、凛の鼻先へと突き出す。水っぽい凛の瞳がにわかに丸く開かれた。
「最初から、俺とセックスするつもりで来たのか」
「ち、がう」
 凛は緩く首を振って否定する。遙は目を細めて、手にしたものと凛の顔を見比べた。
 中身の減ったローションも、角のへこんだコンドームの箱も見慣れたものだ。凛が遙の元を、恐らく抱かれるために訪れるときには必ず所持している。何より眉根を寄せて目を逸らす凛の態度が、一番正直だった。
 どうやっても本音を口にしない凛が、遙はいつも気に食わない。箱を開けて取り出した小袋を破りながら、ほんの少し追い詰める。
「じゃあ、凛はいつもこんなもの持ち歩いてるのか」
「ち、が」
 凛の体がちいさく震える。淡々と続けながら、遙は穿いていたハーフパンツを下着ごと引き下ろし、あらわになった陰茎に取り出したゴムを被せた。もう一つの小袋を取り出して封を切る。
「どこでも盛って」
「んっ……!」
「誰かに抱かれたくて仕方なくて、持ち歩いてる?」
 十分に育った凛の陰茎に被せる。パッケージを適当に放り投げて、横を向いて震える凛の顔を無理矢理自分の方へ向けさせた。
 濡れて揺れる凛の瞳と、しっかり目線を合わせてから、遙はとどめと一言。
「――変態」
「うっ……ああ、ぁ……!」
 ぼろりと。
 凛の真っ赤な瞳から、ようやく涙が零れ落ちた。
 まじまじと覗き込む遙から逃げるように、凛の首が激しく左右に振られる。それでも凛の体の方は酷く火照って脱力しているのだから、拒否の意味もない、ただのポーズにしか見えない。
 ばらばらと飛び散る涙が本当に綺麗だ。ほうと溜め息をついて、遙は凛の剥き出しの腰を引き寄せる。すべらかな尻で遙の熱の塊を感じたのか抱えた足が跳ね上がる。構わず更に引っ張り上げて、後ろへひっくり返る寸前ぐらいの姿勢にさせる。背中は畳に預けているし、腰は遙が抱えているのでもちろんそんな心配はない。ただこれから我が身に起こることを悟った凛が、目を見開いて涙を零すだけだ。
 キャップを指で跳ね上げて、中のローションを手のひらに垂らす。ぬとぬとしたピンク色の向こうには泣きながら遙の挙動を見つめる凛がいる。見せつけるように手の中で潤滑剤を慣らして、さらけ出した凛の後孔に塗りつけた。
「ぐ、あっ」
「力抜け、凛」
 そのままローションまみれの指を二本押し込む。
 凛の荒い呼吸が、閉め切られた居間に響く。息を吐くごとに緩む孔の中に遙はひたすら指を押し込んだ。
 遙が初めて凛と性交に及んだ際、凛は初めてではなかった。それでも慣れているというほどの反応でもなく、ヤケと勢いの中に初めてじゃないんだなと思わせるものがあっただけだ。本当は凛の身に何が起こったのかを追求したいが、いつもまともに話もできないまま流されてしまうから――とにかく、すぐにことに及べるほど凛の体は柔軟ではないし、もちろん最初から男のものを受け入れるようにできている体でもない。だからきちんと慣らしてやらなければならない。
 生真面目に考えている遙はひたすらに、黙って凛の後ろを慣らしていく。凛も荒い息と言葉にならない声を上げるだけで、畳敷きの部屋は湿った音と声だけで満たされていた。凛の中に指が四本ほど収まる頃合いになってようやく遙は口を開く。
「凛」
「ん、くっ……は、あぁ……あっ?」
 ぬぽっと淫靡な音を響かせて、指を引き抜く。そのまま凛の体を抱き起こして、遙は座ったままの自分の上に座らせた。
 下にタオルを敷いて座位ですれば、正常位よりは畳を汚さずに済むのではないだろうか。
「お前が上に乗れ」
「あ……ぁ、うあ、や、」
 凛はぼんやりとしたまま遙を見下ろしている。遙は凛が呆けているのをいいことに、凛の痴態――主に泣き顔で、限界まで興奮した陰茎を先ほどまで解していた孔に押し付けた。
 ようやく凛の体が跳ね上がり、蕩けていた目に意思の色が戻ってくる。慌てたように遙の肩に手を置く。
「は、るっ! 待て、それ――ッあ、ああああっ!?
 が、遅い。
 遙が腰を押さえつければ、緩んだそこは遙の陰茎を簡単に受け入れた。自重も手伝って一気に奥まで押し入る。ぎゅうううと強く締め付けられて、遙はきつく眉根を寄せた。奥歯を噛んで射精の衝動に堪える。
 目の前では凛の首筋が、しなやかな隆起を描いて反り返っていた。ヒクリと震えて、汗の玉が滑り落ちる。
「ぁ……あ、ぁ……」
「っなんだ……もうイッたのか、凛?」
「あ、うっ……く、うう……!」
 凛の陰茎に被せたゴムが、重たそうにたぶりと揺れた。早々に役割を果たしたそれを遙は見下ろし、次いで反り返ったまま、帰ってこない凛の体を抱き寄せる。酸素を求めるようにはくはくと喘いでいた凛はぼんやりと遙を見下ろし、きゅうっと口を引き結んだ。
 そのまま遙の肩に額を擦り付けるようにして脱力するが、凛が達したところでまだ終わりではない。ひくひくと不規則に締め付けてくる凛の中を遙は腰を使って擦り上げる。
「うあ、はるっ、も……うぅ、っあ、はるっ!」
「りんっ、も、動けよっ……!」
「ふぅ、う、うう、あっ」
 汗で滑る凛の体を抱えるようにして、遙は下から突き上げる。遙の言葉が届いているのかいないのか、凛も僅かに腰を揺すり始めた。
 煽られていたのは凛だけではない、遙もだ。凛の目が潤む度に遙は心臓のあたりを締め付けられるような、背筋を撫で上げられるような感覚にとらわれる。溶けそうな赤が遙だけを映し、遙のためだけに涙を零していると思えば尚更だった。
「あ、ついっ……はる、はるっ、あ、あぁ、あー……!」
「……ッ凛」
 扇風機が無力に風を送るだけの部屋で、汗みずくになりながら、それでも凛は遙の背に腕を回し、ぎっと爪を立てる。Tシャツを着たままなので大した痕は残らないだろうが、二人分の汗でびたびたと張り付く布が不快だった。
 暑いと、不快と思いながら、それでも遙は凛を固く抱き締める。いっそこのまま、お互いの熱と汗に溶けてしまえばいい。
「ぁ、っあ、つ……んう、うぅ!」
「……凛」
「は、るっ……ふ、ぅんっ……」
 水の膜でぼやけた凛の瞳を見下ろして、遙は凛の酸素を奪い取るように口づけた。
 視界から消える寸前、とけるように凛が微笑んでみせたのは――たぶん、見間違いではないのだろう。


 省エネルギーの叫ばれるこのご時勢、滅多にお目にかからないような温度まで設定を引き下げられ、クーラーは静かに唸りを上げる。ついでに遙と凛の性交の間中、寡黙に自分の仕事をこなしていた扇風機は未だに終業を迎えられないまま風力最大で首を振り続けていた。
 卓袱台の上に放置され、結露どころか水溜りを作っていたグラスを取り上げ、凛は残っていた麦茶を一気に呷った。
「……ハル、茶」
 要求する凛の目は、じとりと据わっている。
 すっかり空になったグラスに苦言を呈すこともせず、遙は粛々と台所へと足を向ける。どうせすぐになくなるだろうからと、自分の分のグラスと麦茶のポットを抱えて居間に戻った。
 行為後に拭き取りはしたものの、そのまま座るのは躊躇われたのだろう。座布団でも畳でもなく、凛は敷いたタオルの上に胡座をかいて座っている。黙ってグラスを持った手だけが伸びてきたので、遙はそこに新しく麦茶を注いでやった。
「風呂」
「今沸かし直してる。シャワーだけじゃ嫌だろ」
「嫌だ」
 端的な返答である。ちょっと体に悪いぐらいの冷気を浴びながら、凛は篭った熱を無理矢理逃していた。汗が冷えて風邪を引くぞと言ってやりたいところだが、行為の主導権を握っていた遙ですら目眩を覚える程度の暑さだったのだ。遙に泣かされ喘がされ翻弄されるばかりだった凛の意識は行為後朦朧としていて、まさか熱中症ではと危惧するほどの疲労具合で、つまり後ろめたい遙には強く苦言を呈することなどできない。
 例え凛が――正しい目的がどれだったのかはいざ知らず、最初からセックス目的で七瀬家を訪れたのだと知っていても、である。
 凛があまりにもぐったりしているものだから、体は拭く程度にしてこのまま居間で眠ってしまおうか、と遙は思った。しかし意識を回復した凛に、このまま寝たら臭くなるなどといまいちピンとこない反駁を受けたため、再度風呂を沸かすことになったのである。
「……何見てんだよ」
 グラスに口をつけたまま、凛はじろりと遙を見やる。
 最後の方はひんひん泣いているばかりだったのに。現実に帰ってみれば凛はこの態度だ。遙とて凛に可愛げを求めているわけではないが、もう少しそれなりの態度というものがあるのではないだろうか。
「別に」
「ふん」
 諦めを含んで遙が返せば、小憎たらしい鼻息とともに再度グラスが突き出される。遙はまた粛々と麦茶を注ぎ、ついでに自分のグラスにも注いだ。不機嫌な様子でグラスを傾ける凛を視界に収めながら一口。喉を通り過ぎる涼感が心地よい。
 遙が自分のグラスを空にしたタイミングで、風呂が沸いたことを告げる電子音が耳に届いた。
「……沸いたぞ」
「俺が先に入――っ!」
 卓袱台に手を突き、凛は立ち上がりかけ――そのままかくんと膝から崩れた。
 黙ったまま何度か膝を立て卓袱台に縋り、立ち上がろうとしては崩れ落ちる凛の姿を遙は静かに堪能する。じんわりと潤んだ凛の瞳が恨めしげに訴えかけてくるまで、遙は無言を貫いた。
「一緒に入るか、凛」
「……絶対風呂場で盛るなよ、今度こそぶっ倒れるからな」
 地を這うような凛の声を右から左に、遙は麦茶のグラスを卓袱台に置く。力の入らない腰を支えて、それは凛の方だろ、と返してやれば、数拍の間を置いて拳が飛んできた。一人では立てないぐらいに疲弊した凛の拳は、実に力のないものだった。
 頬を真っ赤に染めて憤る凛を引きずって、遙は冷えきった居間を後にする。少し型の古い扇風機だけが、呆れたように首を振って二人を見送った。
    2013.8.17 x 2013.8.31 up