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触れられない温度を求めていた

 遙は水がないと生きていけない。
 ――遙は本当は、魚か何かに生まれるべきだったんだよね。それを間違えて人間に生まれちゃったんだ。
 幾度か、何人かに言われた言葉だった。大半は真琴か渚によるものだろう。
 常に水を求める躯を抱えて、遙はちょっと疑問に思う。
 魚だろうか、イルカだろうか……水棲生物の類い?
 いや、たぶん違う。選択肢の前提が間違っている。
 遙は常に渇いている。水を求める肉体を疎んでいる。流動する水素と酸素の結びついたものと、己とを分つ固体、この皮膚を、肉を、骨を、遙という人間を構成する存在が煩わしいと思う。
 遙は本当は、水そのものとして生まれるべきだったのだ。


「バ」
 目の前で夕焼け色が、ちりりと音を立てた。
「――――ッカじゃねえの」
 たっぷりと溜めて、一瞬で吐き捨てる。声色は呆れと侮蔑と嘲笑、表情はただ歪んでいる。近すぎて見えないそれを一度引っ込めて、凛はガクンと首を傾けた。ついでとばかりに遙の膝の上に乗っけた体をガクガク揺する。
 随分と引き締まった、もう大人と呼んでもいい完成と伸びしろを内包する体。それが繰り出す子どもの駄々のような仕草を、遙は黙ったまま見上げた。
 無反応の遙に飽きたのか、やがて凛の体は振動を止める。遙に跨ったまま何も言わない。
「ロマンチストに言われたくない」
 結局、凛が何も言わないままなので、遙のほうが口を開いた。
 凛の瞳が歪む。夕焼けに黒く雲が差す。
 凛の表情も声も、遙に向けられる感情を有する全てはおおよそ雄弁だった。小学生の頃の凛とその点は変わりない。ただ、かつての凛が弾むように豊かに、惜しげなく遙に注いでいたものとは随分違う。方向性としては真逆の、皮肉げで鬱陶しげな、鋭く尖ったものだった。
 たぶんこういうのは、拒絶というのだ。
 ギザギザの歯を噛み締めて、凛は遙の肩に顔を伏せた。耳元でギシギシと音がする。エナメル質が削れるんじゃないだろうかと遙が心配し始めたあたりで、首に鈍い痛みが走った。
「っ」
 凛が遙のシャツを剥いで、首筋に歯を立てている。ぎゅうっと水を含んだ音と、重なる微かなリップ音。後ろの方では凛のスニーカーが地面を滑る、ざりっという音がした。
 眉を顰めた遙はしかし、なお凛の好きにさせている。
 野外で男子高校生が二人抱き合っているというのはまずいだろう。さすがの遙でもそう思うのだが、防波堤の影に隠れているから海から回り込まれでもしない限り、誰かに見つかることはない。だから凛を放っている。
 ここまで考えて凛は遙を海岸まで引きずってきたのだろうか。たぶんそうだろう。
 ぷはっと息を吸う音。首筋のぬるい温度が離れて、目の前でまた赤い光が閃く。斜陽を閉じ込めた凛の瞳。
「お前の妄想のほうが、大概だろ」
「妄想じゃない」
 妄想ではない。現実でもないが、遙にとっては事実だ。
 凛が目を細める。海からの夕陽に濃く陰影を刻んだ凛の顔は、誰が見ても不機嫌と評するものだった。
「俺が、肉を持たない、ただの水なら」
 凛の表情が雄弁なのは分かる。いつ見ても歪んでいて、そうでなければ嘲笑みたいなものを浮かべている。
 けれど本当に、そうだろうか。
「ただの水なら、俺に押し倒されることもなかったもんな」
 遙が言い淀む内に、凛が勝手に付け足した。羽織ったジャージの前を開いて、遙の上で膝を立てる。一日も休まず鍛え上げられたのだろうその肢体に見惚れるまもなく、上体がのしかかってくる。
 まだ凛の好きにさせたまま、遙は素直にその場に押し倒されて、ただ口だけが抵抗した。
「ちがう」
「違わねーだろ。ハルは、俺のことなんかどうでもいいんだろ」
 いっつもそうだ、お前は無関心な顔をして。
 水と、水に沈む自分以外は煩わしいと思ってる。
 凛は恐らく、そのようなことを言った。遙はシャツ越しのコンクリートと、覆い被さってくる凛の体の熱さばかり意識していて話半分だったがたぶんそういう内容だ。また首筋に被さってくる凛の頭を片手で抱え込む。引き剥がす。
「あ」
 夕焼け色が瞬いた。ほんの一瞬のことで、遙が一度瞬きをすればもう曇り空になっている。
 下唇を噛み締めて、ぎゅっと眉根を寄せている。元々切れ長の凛の瞳は角度を増していて、表情は相変わらず雄弁に不機嫌だった。
「違う」
 もう一度、遙は呟く。
 凛は、違う。本当は不機嫌なのではない。不機嫌を貼り付けているだけで、きっともっと別のことを考えている。
 ただ遙には、凛が何を考えているのかが分からない。ボロボロのスイミングクラブで四年ぶりに再会したあの夜以来、ずっと、これは凛の本当ではない、ということだけをただ察している。
 遙には昔のままの、きれいな涙をこぼす凛が見えている。
 見えているだけで、凛のことが分からない。
「俺が水なら、凛が何を考えてるかなんて、考えなくてよかった」
「……は」
 呆れだろうか、疑問だろうか。
 溜め息のように凛が声をこぼした。
 夕陽を背負って逆光。元々赤茶けた髪をしている凛の輪郭が光の粒になって消えていきそうな、そんな幻想。
 遙が目を細めて見上げる一方で、凛の瞳は心なしまるく開かれている。言葉を失っているらしいと遙が気づいたのはしばらく経ってからのことで、固まったまま微動だにしない赤い頭を抱え込んだ。光の粒になって、など、もちろん空想だ。遙の指には塩素に慣らされた凛の細い髪が絡まる。少し汗を含んでしっとりとしている。
 ようやく自失から戻ってきたのか、遙の腕の中で凛が身じろいた。先ほど引き剥がされたばかりの体を取り返そうと藻掻いている。溺れる仕草に似たそれを更に強く抱き込めば、首筋あたりを凛の吐息がくすぐった。
「嘘だ」
「本当」
「お前は誰かのことなんて考えてない、俺のことなんて、絶対」
 抱き潰すぐらい、遙は力を込める。
 自分がただの水であれば。肉体という境界を持たなければ。
 ここで凛とひとつに混じり合えたのだろうか。混じり合えば、凛が歪んだ表情で何を隠しているのか分かったのだろうか。
 今、遙の胸の中で震えている理由も。
「りん、」
「うるさい」
「まだ何も言ってない」
「うるさい!」
 遙の手を振り払って、凛の体が跳ね上がった。そのままばさばさと顔を横に振る。
 夕陽に光って散るものを見つけて、遙は凛をじっと見つめた。やっぱり光の粒になって消えていくのかと、再度危惧する程度にはきらきら光って散っていく雫。
 自分が水になるべきものなら、凛は炎だろうか。
 自ら水に飛び込んで、纏わりつく流体全てを蒸発させてしまう苛烈なもの。遙とは相反する存在。
 ――それでは、お互いがお互いを打ち消し合うしかない。
 遙の空想を咎めるように強い光が差し込む。眉間に深く皺を寄せ、凛は遙を睨みつけていた。目の端に浮かんだ水の珠が夕陽を跳ね返して、熾火のように燃えている。
「凛」
 また泣いているのか。
 どうして泣くんだ。
 そんなことを言えるほど、遙も無神経ではない。続く言葉を失くしたまま、遙はまた凛の頭を引き寄せる。
「俺が、ただの水なら、」
 凛の骨ばった頬を両手で挟んで、押し倒された姿勢のまま顔を近づけて。遙は凛の目尻に舌を伸ばす。涙を掬われたと凛は怒るだろうから、続けてアイラインをなぞるように舐る。最後に凛のすっと通った鼻筋を辿って、遙はてっぺんにやわく噛み付いた。
 舌先で絡まる塩素の匂いと、少しの塩気は気のせいだろうか。遙は乾いた舌を口の中で転がした。ついでにぽろりと声も落ちる。
「……凛の体をまるごと、全部受け止められるのに」
 凛を傷つけることもなかったのに。
 凛の涙を、誰にも見せないように、溶かすことができたのに。
 凛の涙と、
「ハル」
 ギザギザした歯並びが、強気に上弦を描いた。
 声を出さずに何ごとかを呟く。
 遙が聞き返すよりも早く、鮫のような口が遙のそれにかぶりつく。がぶがぶという音はさすがに幻聴だろうが、息苦しいのはどうしようもなく事実だ。
 遙が酸素を求めて口を開けば、凛の舌がすぐさま入り込んできた。ぬるりと絡め取られて、取り返すついでに吸いついて、呼吸と唾液を混ぜ合わせる。
 肉を持たないただの水だったら。
「お前がっ、……ただの、ん……ふっ……水、だったら」
 呼吸の隙間を縫って、凛が紡ぐ。
「こんな……頭の悪い、会話も、できなかった、し、」
 遙はただ凛を見つめる。凛は片手で遙の肩に縋り付き、もう一方の手を下肢に伸ばしていた。腰がもぞもぞと動いて、視界の端で凛のハーフパンツが水着ごとずり落ちるのが見えた。
「触ったり、触られたりも、なかったし、」
 ジャージを一枚引っ掛けるだけとなった凛は、遙の肩に額を擦りつける。自由になった手はシャツ越しに遙の脇腹をなぞり、ヘソの上を手のひら全体で撫で回し、最後に遙のベルトに指先を引っかけた。
「……リレーも、できなかったし」
 それに。
 呟いて凛は俯いた。ひゅうと息を吸う音がして、すぐにバックルが外される金属音に紛れていく。遙はまだ黙ったまま、凛の好きにさせていた。
 俯いた凛の口元は、やっぱり嘲笑のように歪んでいる。
 けれど前髪に隠れた目元はきっと、あの日のままで泣いている。
「……お前に溺れて、死んでた」
 消え入りそうな声に目を閉じて、遙は凛の腰を引き寄せた。まだ昂ぶるには至らないやわい熱が擦れ合う。凛の背中が撓る。
 斜陽の中で反り返る凛。しなやかな筋肉の隆起が影を作る肢体を、遙は目を細めて見上げた。


 気がついたら、茜色の景色は深い藍に変わっていた。
 太陽の熱気はとうに失くし、代わりに生ぬるい体温の染み込んだコンクリートに遙は背中を預け、星の瞬く空を見上げている。不意に腕の中が汗で滑り、遙は視線を空にやったまま口を開いた。
「凛、電車大丈夫か」
 もごもごと返事があった。吐息が剥き出しの胸を掠めて多少くすぐったい。
 肝心の返事の方はといえば、恐らく「最悪」か「死ね」のどちらかだった。よく聞こえなかったが意味は間違っていないだろう。
 凛を片手で抱いたまま、遙はその辺に打ち捨てられていた制服のズボンを引き寄せた。ポケットに突っ込まれていた携帯電話を確認すれば、まだ終電までは余裕がある。
「凛」
 凛は遙の腕の中に収まったまま、頑なに顔を上げようとしない。
 俯いたままのせいで晒された首筋だけが凛の感情を知る術で、そこは薄闇に夕日の色を残している。
「俺がもし、水だったら」
「も、その話、いい」
 口調は突っぱねるものだが、蚊の鳴くような細い声だ。もう少し声量があれば恐らく掠れているだろう、ザラザラした声。
 取り合わず、遙は凛の頭に鼻先を埋めて続ける。カルキよりも濃い汗の匂い。凛の匂い。
「お前に飲み干されて、消えてなくなってた」
 凛はやはり微動だにせず、表情も見えない。
 ただ、動揺みたいなものだけは伝わってくる。凛が動かないことをいいことに、遙は更に揺さぶるように凛の腰へ手を滑らせる。さらさらした汗の浮いた皮膚。もう少し下へ滑らせれば、凛か遙のどちらかが吐き出した粘ったものに触れただろう。行き着く前に遙の指先は凛の手にはたき落とされた。
 ようやく動いたことに満足しながら、遙は改めて凛を抱き締めた。
「だから一応、人間でよかったって思うことにする」
 自分は水として生まれるべきだった。
 人間として肉を持ってしまったのは何かの間違いだ。
 遙は半ば本気でそう思っている。ただの水として生まれて凛を涙ごと全部受け止めて凛に飲み干されて凛と一つになって、それも悪くないと思う。
 けれど自分が流動体では、こうして凛が抱きついてくることもなかっただろうから。
 控えめに巻きついてくる凛の腕に遙は頬を寄せる。意固地に伏せられた凛の顔が、びっくりして跳ね上がればいい。きっとまだ、凛は泣いているだろう。
 そう思いながら、遙は朱に染まったうなじを指先でなぞってやった。