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ケーキがしょっぱい

 マスター、少しいいかと扉越しに聞こえたのは、もう随分と慣れ親しんだ低い声。ちょっと待って、と返事をして、手洗いで顔を洗う。さっき外に出たせいだろうか、完全に適温で管理されているはずの水がきんと冷えているような気がした。
 冷水で、いつもより引き締まったような気がする顔を撫でながら扉の前へ。ロックを解除すると案の定、一番最初に応えてくれたサーヴァントが立っている。白髪に赤い外套の弓兵。手にはプラスチック製のタッパー。
 別段、おかしなところはない。いつもの光景だ。世話焼きな彼が私の部屋を訪ねてくるのも。人理を守る戦いの戦力として喚ばれた彼が明らかに料理を詰めたタッパーを手にしているのも。甘い香りを漂わせているのも。
 いつもの光景で、おかしくない。だから、違和感がある。そっと首を傾げる。
「……エミヤは、まだここにいるんだね」
「死闘の末の最初の言葉がそれか? マスター」
 あ、いや、違う。そういう、そういう意味じゃなくて。
 確かに彼の言うとおりだ。ほんの数時間前まで人知未踏の場所で未来を賭けた戦いの場所にいた。ここに帰ってきてからもどうしたって落ち着きはなくて、少し前にラウンジでマシュと落ち合う約束をしてからようやくマイルームに戻ってきたばかりなのだ。彼はもちろん、他の召喚に応じてくれたサーヴァントたちとも言葉を交わしていない。
 ダ・ヴィンチちゃんの言葉を思い返すに、彼らのうちのほとんどはもうここにはいないのだろう。だからこそエミヤがまだいることが不思議で、そしてだからこそ、今回の勝利を共に祝うなり今までの旅の礼を尽くすなりしなければならないのに。開口一番の言葉は何故いるのか、ではなかっただろう。
 はっとして反駁すればくつくつと低い声が落ちる。見上げれば皮肉屋がおかしそうに笑っていた。これは、からかわれたんだな? 抗議の声を上げるより先に大きな手のひらが頭の上に落ちてくる。
「いや失敬。私の方こそ死闘の末の最初の言葉ではなかったな」
 数多の武器とあらゆる調理器具を駆使する指がゆるやかに髪を撫でてて、離れてゆく。無骨な指先には不似合いな、金色の紙切れが摘ままれていた。くす玉から飛び出してきたものだろう。この一年を共に戦い抜いた、カルデアスタッフのみんなが用意してくれていたもの。私たちの勝利の証。
 ちいさな金色が目の前に差し出される。両手を差し出して、受け取る。
「人理修復、おめでとう。人類最後ではない、ただの一人のマスター」
 私たちの勝利を、握り締める。
 私と、私の後輩と、エミヤたち召喚に応じてくれたサーヴァントとこれまでの戦いで縁を結んだサーヴァントたちと、特異点で出会った人たちと、カルデアスタッフのみんなと、ダ・ヴィンチちゃんと――そして、彼とで掴んだ。勝利を。
「ありがとう」
 冷水で引き締めた頬が熱くなって、目元がぱりぱりする。大切な勝利はそっとポケットへしまった。空になった手で目元を叩く。勢いがつきすぎたそれが痛くて、ちょっとだけ視界がぼやけた。
 エミヤは相変わらず、タッパーを持ったまま私を見下ろしている。
「さっきの言葉への返答だが」
 その瞳はいくつもの戦場を見てきた男の目だった。戦いの終わりと勝利を言祝いだ姿にそぐわない、少しだけ剣呑な色をした鷹の目。
「君の戦いはまだ、もうしばらく続くだろう。それが終わるまではせいぜい雇用主のために働くさ。……面倒な連中が踏み込んでくるだろうから、今まで通りの立ち回りとはいかんだろうがね」
 それは誰で、何のことなのか。問いただす前に、皮肉屋はそれらしく肩を竦めてみせた。
 これが最後の料理にならなければ幸いだが、と、ほんの小声で呟いて、タッパーを差し出してくる。ゴム製の蓋をもどかしく開く。
「勝利の祝いにはささやかすぎるが、疲れたときには甘いものだ。この後会うんだろう? マシュと食べるといい」
「うわ……」
 思わず声が漏れた。
 タッパーの中に詰まっていたのは、四角く小さくカットされたパンケーキだ。本当にささやかだし、エミヤのパンケーキは今まで何度か口にしたことがあるけれどこれは特別だ。
 だって、イチゴだ。イチゴと生クリームがたっぷり、王冠みたいに堂々と威容を見せつけながら乗っている。
 つやつやと赤い宝石から、カルデアの誇るパティシエ、ではなく、弓兵へと視線を移す。
「い、いちごが!」
「ああ。イチゴだ」
「カルデアに生の、いちご、つやつやの」
「ああ。この一年、まるで摘み立てのように新鮮なままイチゴを保存しておけるとは。最先端の冷蔵冷凍技術には舌を巻くほかない」
 実に感心した様子で頷いている。確かにすごい。まるきり摘み立てのイチゴだ。こんなに素晴らしい財宝がこのカルデアに眠っていたとは。海賊たちも英雄王も知らなかっただろう。彼らがまだいてくれたなら、果たしてどれほど驚いてくれただろうか。それほどすごい。イチゴすごい。
 こんな宝物を私たちが戴いてもいいものだろうか? だって、イチゴだ。生鮮食品は貴重だ。このカルデアで、特異点から持ち帰ったもの以外の青果はほんの数回しか見た記憶がない。
 そう思って見上げれば、正しく思考を読み取ったらしいエミヤは苦笑した。
「外部との連絡が可能になったんだ。ということは、もう食料の備蓄を心配する必要はない。君がさっき外に設置してきたのもそのためのものだろう?」
「そ、っか。そうだね」
 人理が正された、というのは、そういうことだ。さっきダ・ヴィンチちゃんに頼まれてマシュと一緒に外に設置してきたものも外部からの輸送ヘリを呼ぶためのものだと言っていた。
 少ない備蓄や閉鎖環境に憂う日々はもう、終わったのだ。雪と崩壊に閉ざされていたカルデアは、また世界に戻ってきた。繋がった。未来へと。広がってゆく。
 彼の見た終わりの、その先へ。
 さっきポケットに入れた金色が、少しだけ重い。
 代わるように銀色が閃いた。エミヤが持ってきたらしいデザートフォークだ。半分にカットされたイチゴとパンケーキのひとかけらを、クリームをたっぷり絡めながらひとさしにする。そのまま、ずい、と目の前に差し出された。
「同じものをスタッフたちにも配るんだが、先に味見をしてくれないか、マスター」
 マシュと食べるように言っていたのに、というささやかな疑問がすぐに払拭される。
 この英霊はマスターの私だけでなく、カルデアスタッフのメンタルをも支えているところがあった。このケーキも私だけでなく、彼らへの気遣いとして振る舞うところが実にエミヤらしい。いやに女性スタッフとの距離が近かったことはこれを機に水に流すとしよう。
 そういうことなら、と頷いて口を開く。呆れるでもなく窘めるでもなく、雛に対する親鳥のようにエミヤが手ずから食べさせてくれる。
 口の中にまず、クリームの甘さが広がってゆく。
 耳にはやわらかい、エミヤの声が触れる。
「そうと決めた者に泣いてもいいと告げるほど、オレは傲慢じゃないつもりだが――」
 鷹の目が、母鳥の目になっている。この一年、同じ場所に立って、同じものを見て、同じところを目指してきた琥珀色の瞳の中に私がいた。
 人類最後ではない、ただの一人のマスター。
 できることなんてたかが知れていて、それでもできることをやってきた。諦めはしなかった。エミヤが、後輩が、サーヴァントたちが守ってくれた、戦ってくれたから。カルデアのみんな、ダ・ヴィンチちゃん、そして――
「最高のパンケーキに感動して泣くぐらいは構わないと思うぞ、マスター」
 ドクターが、背中が押してくれたから。
 心配性で、調子が良くて、どうにも自信がなくて、よく途切れる通信をしてくれて、こっちが戦っているのにこっそり甘味を食べていたりして。
 でもずっと、ずっと最初から頼りにしていた。
 いまいち締まらない出会いから一転、カルデアが炎に包まれる最悪のエマージェンシー、イレギュラーだらけの初のレイシフト。それから、ここまで。ちょうどこの部屋で出会って、今日まで。ずっと。
 私は、あの人に導かれてここまできたのだ。
 ぼろりと、ぱりぱりに張った頬を何かが滑った。何かなんて、言うまでもない。
「……しょっぱい」
 もごもごと、口の中でパンケーキを咀嚼する。甘くて、イチゴの酸味すら優しい。たぶん今までの人生で一番の、最高のパンケーキだ。
 それはどうしようもなくしょっぱい。甘いから、優しいから。涙が出るくらいに。
「このケーキ、しょっぱくて、泣ける」
「そうか。……今度は砂糖とバターを多めにして作るとしよう」
「うん。溶けるぐらい甘く、作って、ね」
 そのときは、みんなで食べよう。私と、マシュと、エミヤと、残ってくれた他のサーヴァントたちと、カルデアスタッフのみんなと、ダ・ヴィンチちゃんと――ドクター・ロマンと。
 あの人が甘党だってことぐらい、みんな知っているのだから。エミヤの作った最高に甘いパンケーキを食べるのに、あの人がいないと始まらない。
 世界で一番がんばったあの人に。誰にも打ち明けられないまま一人で絶望を抱えて戦ってきたあの人に。王様ではないただのろくでなしのドクターにこそ、このイチゴと生クリームの冠を捧げてあげたい。
 彼はどんな顔をして受け取ってくれるだろうか。
 想像してみるとそれが本当の未来のような気がして、ちょっとだけおかしくなる。
 きっとイチゴとクリーム、大増量でね。ずび、と洟をすすりながらのリクエストに、エミヤは笑って頷いてくれた。
    2016.12.27 x 2016.12.29 up