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恋とはどんなものかしら
恋とはどんなものかしら。
不意に呟いて、あまりにらしくない台詞だったなと思う。実際、自分の落とした影の下でカルナは薄氷色の瞳を珍しく丸く見開いていた。
「と、マスターに。訊かれたんだ」
言い訳めいて発端を付け足せば、カルナは得心したとばかりに頷いた。白いシーツがさざ波を立てている。
昼間、種火を集めにレイシフトしたその帰り、不意に少女がそんなことばを口にした。どうもフランスに縁深いサーヴァントたちの茶会に招かれ、斯様な話題で盛り上がったらしい。白百合の王妃は嬉々として語り、同名を冠した曲を書き上げた作曲家は当時を振り返ったものか時に遠い目をして、そして騎士と処刑人は終始怪しい挙動だった、とのこと。成程目に見えるようである。
命題、恋とはどんなものかしら。知識も覚悟もないまま、世界最後の魔術師として世界から取り残された年端もゆかない少女は、恐らく恋などしたことがないのだろう。カルデアには少女の他にもロマニを始めとするスタッフたちが少数生き残っているものの少しばかり年齢は離れているし、自分たち英霊など言わずもがな。何より朗々と恋を謳っていられる状況でもない。
ならばせめて恋を語らうぐらいは許されてもいいだろう。ジークフリートとてそう思う。
だが好奇に輝く落陽色の瞳に見上げられ、問われ、果たして。
カルナの指が、つと伸ばされる。太陽神の仔といえど、夜気に少しばかりひんやりとした白いそれが手慰みにジークフリートの頬に触れる。
「何と答えたんだ?」
ジークフリートは、答えられなかった。
「……俺には言葉にできそうもない、と」
恋とはどんなものかしら。
夢を見る言葉に、ジークフリートは答えられない。とても答えられそうにない。
ジークフリートとて、恋をしたことはある。王子として生まれ冒険の旅に出、そして名高い姫君に恋をした。課せられた試練を超えて結ばれた。己が何を為したか、後に何が起こったか、はともかく、あの時のジークフリートは幸せだった。満たされていた。
だが。彼女と添い遂げたことに端を発する己の死を経て生前を顧みれば、果たしてあれは真実恋だったのだろうか、と思う。
英雄として多くを為した。多くを助け、多くを挫き、多くを倒した。望まれれば望まれたとおりに、望まれただけ。英雄とは斯く在るべく。そんなジークフリートは人々に愛されたし、ジークフリートも人々を愛した。
それだけ、ではないだろうか。
彼女を求めたのは結局、求められた姿で在るために過ぎなかったようにも思う。つまり英雄は、姫君と結ばれるものだと。試練を超えて愛する人を求め、結ばれるべきだと。英雄とは斯く在るべし、と。
妻を愛していたのは事実だ。今でも胸を張って誓える。でもジークフリートは恐らく『愛される』ということを知らなかった。それもまた、事実だ。だから女王を求める王をあんなかたちで助けたし、友に背を晒したし、迫られた死に抗うこともしなかった。結果、後の惨劇を招かせてしまった。
愛していても、愛されることを享受しない。そんな一方通行は、きっと愛ではない。
「カルナ」
沈思する間も寄り添ってくれていた、節立って硬い指に頬を寄せる。決して嫋やかではないそれは、今のジークフリートにとっては甘やかで優しいものだ。触れ合った皮膚と皮膚がほのかに熱を宿してゆく。
恋とは、どんなものかしら。
生前を顧みて、とても答えられるものではなく。幸いマスターはジークフリートの答えに難しそうに頷いて、共にレイシフトしていたコサラの王に水を向けてくれた。待っていたとばかりに彼は己の生前の恋と愛、そして聖杯への願いである彼の妻自身を語り始め、話題の中心から逸れたジークフリートは安堵の息をついた。話が徐々に妻に纏わる後悔の話に移ってしまい、マスターが王を励ましていたのは余談である。
触れる指先が、ジークフリートの頬を滑る。輪郭を辿り、耳の後ろをやわくくすぐる。ひんやりとしていたカルナの指がジークフリートの熱を孕んで人並みの熱を持つだけでも嬉しいのに、更に彼は甘やかしてくる。むずがるように頭を擦りつければ指は頤まで滑り落ち、ジークフリートの唇をそうっと押した。
愛はまだ知らない。ジークフリートは生前を悔いて聖杯へ正義の味方に成ることを願う『ジークフリート』であるが、現界を許されるのは戦いと勝利を願うマスターに呼び出されてこそだ。戦うためのしもべが愛を知る必要はなく、猶予もない。仮に知り得たとして、いずれはただの記録として座に持ち帰るだけの経験に過ぎない。いずれ終わることを知って、誰かに愛を傾け、愛を注がれることなどできない。それは真実の愛ではない、と、思う。
そっと口を開いて、触れる指先を招き入れる。ぬるりと舐れば重なる肢体がわずかに跳ねた。ジークフリートの舌の上では、少し苦くて塩っぱい、人の肌の味が再現されている。決して美味ではないが更に求めてカルナの指を食んでゆく。存外とつるりとした爪を舌で辿り、硬い関節を唇で挟む。温かく、熱くなってゆく様を舌で、頬の内側で感じながら、ぐっと奥まで招き入れて指の股をぞろりと舐め上げた。
「っ」
「……カルナ」
ぴくんと震える身体を片腕で抱き、甘い声に指を解放する。ぴちゃと小さく水音が立ち、人工灯の白い光の下、カルナの指は濡れ光っていた。
せっかく宿った熱が冷めてしまうのが惜しく、すぐにもう片方の手の平で包み込む。指と指を絡めれば熱が濡れている。今度は指を逃がした唇が寂しくて目を細めるカルナの瞼に口づけた。先ほど指先で触れられたお返しとばかりに、額に、鼻梁に、頬に、耳元に唇で触れて、最後に薄いカルナの唇へ。
「ん」
喉で鳴く声ごと呑み込みたくて、舌先で唇をなぞって促す。薄く開いたそこに舌を差し入れ、深く深く唇を合わせてゆく。
ここは甘い、ような気がする。頬の内側の粘膜や、ざらりとした口蓋の粘膜をこそぐように舌を這わせて味を確かめれば、絡めた指の先からカルナの微かな震えが伝わってくる。蹂躙を詫びるように、耐えて慎ましく縮こまる舌をそっと己のそれで掬い上げた。砂糖の塊ほどに甘い。
互いの魔力が唾液を介してゆきかう。ぞくりとした感覚がジークフリートのゆいいつの弱点である背を奔り、尾てい骨あたりにわだかまる。酩酊するほどの甘さは混じる魔力だけが理由ではないと、知っている。
恋とはどんなものかしら。
恋には答えられず、愛も知らない。
然れどこの感覚だけは、知っているのだ。
溶かして、もっともっと味わいたい。衝動のまま執拗に薄い舌を追いかければ、溶けた甘露が水音を立て始めた。
カルナの表情が僅かばかり歪んだ。遠慮がちに顔を背けるような仕草を見せ、銀の髪が薄暗がりに艶めかしく光を撒く。シーツの波がずるずると痕を描く。
苦しいのだろう。常には怜悧にすら見える白皙が崩れる様は憐れみすら覚える。
「ふっ……は、ぅ」
甘やかな舌の表面を辿りつつ、己のそれを口内から引き抜く。唇を解放すればカルナは大きく喘ぎ、名残惜しく離れてゆくジークフリートの舌先からつうと銀の糸が伝った。
カルナの唾液と己のそれが混じったもの。それはゆっくりと垂れ落ちて、カルナの唇を、頤を、首筋までもを汚した。
どくり、心臓が鳴る。口元を汚したカルナは気怠げな瞳でジークフリートを見上げている。
全てを赦し、望まれたものは必ず与えると誓った施しの英雄。
そうではない。
「ジーク、フリー……ッ!」
呼ぶ声が形を成す前に。脈打つ心臓に従って、流れ落ちた甘露の先に噛みついた。
ぎちりと、微かに聞こえた皮膚の軋む音は幻聴か。舌先で今まで以上に甘い、甘い、死のように甘い露が弾ける。噴き出す。頭が馬鹿になってしまいそうなほどに甘い、極上のそれ。蕩けるような魔力。触れた舌先から痺れてゆく。芳香を吸い込めば脳髄が冒されてゆく。ジークフリートのからだを駆け巡ってゆく。くらくらと回る世界から切り離されてゆくようで、じゅっと皮膚を吸い上げ縋りつく。
は、と息を吸う音が聞こえる。今この耐え難い甘い誘惑を振り切って顔を上げれば、あのかわいそうなほどに歪む表情があるのだろう。
嗚呼。
嗚呼、それを、壊したい。
ちかちかと視界すら明滅する。滴る露の甘さが赤い幻想を見せる。いけない、と思う。自分は正義を成すのだと、これは義に悖る行為だと。
なのにどうしても、貪り尽くしてしまいたい。丸呑みにして、或いは噛み砕いて、腹のうちがわに収めてしまいたいと。そしてこれは俺のものだと嗤って、だからこの甘い赤に、首筋を流れる射貫かれた血の露を啜って、
「ジークフリート」
ぎゅっと固く、繋いだままの手を握られた。
「お前にならば、構わない」
「ぁ……」
温かい手のひらが、指が、清廉な水のようにジークフリートの思考を冷ましてゆく。
ぱちりと瞬く。そこに射貫かれた痕などはなく、白い首筋が唾液と噛み痕ばかりを晒していた。赤い色は、ジークフリートがたった今刻んだものだ。所々血をにじませて、醜く傷を残した。
醜いのは見目のことではない。これをカルナに残したジークフリートの衝動、欲、そういったものこそが醜いのだ。
戦いの最中に生じたものではないことは誰の目にも明らかだろう。霊体化して癒やしてしまえば消えてしまうものではあるが、ジークフリートの行為はとても認められるものではない。
何より、いずれ消えてしまうこの傷痕が惜しいと、一瞬でも思ってしまった自分が酷く浅ましい。
「すまない、カルナ……酷いことを」
絞り出した声は情けないほどにか細いものだった。
カルナはじっと、嘘も欺瞞も見抜く瞳でジークフリートを見上げていた。そうして絡んでいた指がするりと解けてゆく。遠ざかる温もりを悲しく思う資格など、ジークフリートにはない。
目を伏せて身体を起こそうとする。
しかし、ぞわ、と。
突如として背に奔った感覚に目を見開き、崩れ落ちた。
「お前にならば構わない、と。言ったはずだが」
カルナは淡々と告げる。が、ジークフリートからすれば堪ったものではない。赦しの声が耳から素通りしていきそうなところを、何とか繋ぎ止めている。
原因は背にあった。全ての装備を解き、呪いにより隠せない背を生まれたままの姿で曝け出しているそこに、離れていったはずのカルナの指が這っている。菩提樹の葉の痕にほど近い皮膚を爪先で辿られては、ジークフリートとて、いやだからこそ冷静ではいられない。
「ぅあ、カル、ナ」
耐えきれず身を捩れば、指先はすいと葉の痕から離れてゆく。
代わりにカルナの指はジークフリートの背骨をひとつひとつ、下へ向かって数え始めた。
どこか悪戯に触れる指は、冷めつつある熱を育てるようにジークフリートの腰あたりへと行き着き、進行を止めた。またぞわりとした感覚がジークフリートを掻き立てて眉根を寄せる。
これほどまでにジークフリートを苛みながら、カルナの指は、熱は、声は、ひたすらに優しかった。やめてほしいと訴えて見つめた先の瞳があまりに慈しみに満ちていたから、思わず息を呑んだ。
そして気づく。
カルナに執拗なまでに撫でさすられている場所は、今は封じている悪竜の翼の付け根あたりだ。
「お前だから、赦す。希われたものを全て与える誓い故ではなく、お前だからだ」
聖杯大戦、黒と赤。黒のセイバー、そして赤のランサーとして月下に刃を交えた始まり。
至上の昂揚、命の奪り合いは決して納得と呼べる形では終わらず。
未来を取り戻す世界最後の魔術師の下、少女の願いに応えたあらゆる英霊が集う此処カルデアで、計らずも再会した。
今度は同じあるじを戴く従僕である以上、命を賭す必要はなく。然りとて黒と赤に残した決着を、刃の交わりを望むのは戦士の性だ。手合わせまでならとマスターに許され、幾千、幾万と互いの剣と槍を交えた。
やがて交わりは刃だけでなく言葉に及び、互いの武を、思想を、戯れに過去などを語らった。
穏やかに変じた交わりが身体でも行われるようになったのは、果たして何が切欠だったか。
そんなふうに互いを知り、時間を重ねてきたジークフリートが相手だから。
だから、赦すと。
魂に刻まれた宿敵に射貫かれ、英雄としての生を終えたカルナの首を、浅ましい欲で貪ることすら。
「ああ……」
感嘆の息を吐いた。
施しの英雄だから、ではないのだ。ほんの少し前、自覚するよりも先に衝動に塗りつぶされた稚気めいた悋気が霧散してゆく。
「オレは言葉が足りないらしいが、通じただろうか」
吐息の先で首を傾げるカルナの瞳は、どこまでも澄んでいる。
その水のように静かな瞳の底に、ちりちりと燻る熾火を見た。
悪逆と後悔が、夜の空気に沈んでゆく。口元が少しだけ緩む。
「十分だ、十分に伝わった。……すまない、いや、ありがとう」
カルナ、と名前を呼ぶ。今度はするりと滑り、カルナの手のひらはジークフリートの肩甲骨あたりにやわく触れてきた。
ゆるされるがまま、カルナの肩口に顔を埋める。痛々しい痕を上書きするように、そっと唇を押し当てて首筋に触れた。
「同じなんだな」
「恐らく、な」
微かに笑みを含んだ声が返ってくる。
互いに英雄としての生を終えた致命傷を晒し見せ、触れることを認め。それ以上に、求めている。互いが互いを貪ることを。
カルナの瞳の奥に宿る炎。それに応えるべく、ジークフリートはカルナの腰に指を這わせた。細い身体はひくりと、ジークフリートの下で跳ね上がる。見つめれば湖面の瞳の下、炎はゆらゆらと揺れていた。
他者に施すばかりで、聖杯にかける望みすらないと言うカルナのちいさな欲。大願などとはほど遠い、およそ人間めいた原初の欲求。
これを教えたのは、導けるのはきっと、ジークフリートだけだ。
恋とは、どんなものかしら。
マスターに投げかけられた言葉が脳裏をよぎった。
言葉には、できない。恋などといういとけなく甘やかな響きからはほど遠い。およそ恋に恋する少女には耳に毒だ。
けれどもしかしたら、この心こそが恋なのかもしれない。
答えは触れ合わせたカルナの唇に消え、溶けてゆく。
不意に呟いて、あまりにらしくない台詞だったなと思う。実際、自分の落とした影の下でカルナは薄氷色の瞳を珍しく丸く見開いていた。
「と、マスターに。訊かれたんだ」
言い訳めいて発端を付け足せば、カルナは得心したとばかりに頷いた。白いシーツがさざ波を立てている。
昼間、種火を集めにレイシフトしたその帰り、不意に少女がそんなことばを口にした。どうもフランスに縁深いサーヴァントたちの茶会に招かれ、斯様な話題で盛り上がったらしい。白百合の王妃は嬉々として語り、同名を冠した曲を書き上げた作曲家は当時を振り返ったものか時に遠い目をして、そして騎士と処刑人は終始怪しい挙動だった、とのこと。成程目に見えるようである。
命題、恋とはどんなものかしら。知識も覚悟もないまま、世界最後の魔術師として世界から取り残された年端もゆかない少女は、恐らく恋などしたことがないのだろう。カルデアには少女の他にもロマニを始めとするスタッフたちが少数生き残っているものの少しばかり年齢は離れているし、自分たち英霊など言わずもがな。何より朗々と恋を謳っていられる状況でもない。
ならばせめて恋を語らうぐらいは許されてもいいだろう。ジークフリートとてそう思う。
だが好奇に輝く落陽色の瞳に見上げられ、問われ、果たして。
カルナの指が、つと伸ばされる。太陽神の仔といえど、夜気に少しばかりひんやりとした白いそれが手慰みにジークフリートの頬に触れる。
「何と答えたんだ?」
ジークフリートは、答えられなかった。
「……俺には言葉にできそうもない、と」
恋とはどんなものかしら。
夢を見る言葉に、ジークフリートは答えられない。とても答えられそうにない。
ジークフリートとて、恋をしたことはある。王子として生まれ冒険の旅に出、そして名高い姫君に恋をした。課せられた試練を超えて結ばれた。己が何を為したか、後に何が起こったか、はともかく、あの時のジークフリートは幸せだった。満たされていた。
だが。彼女と添い遂げたことに端を発する己の死を経て生前を顧みれば、果たしてあれは真実恋だったのだろうか、と思う。
英雄として多くを為した。多くを助け、多くを挫き、多くを倒した。望まれれば望まれたとおりに、望まれただけ。英雄とは斯く在るべく。そんなジークフリートは人々に愛されたし、ジークフリートも人々を愛した。
それだけ、ではないだろうか。
彼女を求めたのは結局、求められた姿で在るために過ぎなかったようにも思う。つまり英雄は、姫君と結ばれるものだと。試練を超えて愛する人を求め、結ばれるべきだと。英雄とは斯く在るべし、と。
妻を愛していたのは事実だ。今でも胸を張って誓える。でもジークフリートは恐らく『愛される』ということを知らなかった。それもまた、事実だ。だから女王を求める王をあんなかたちで助けたし、友に背を晒したし、迫られた死に抗うこともしなかった。結果、後の惨劇を招かせてしまった。
愛していても、愛されることを享受しない。そんな一方通行は、きっと愛ではない。
「カルナ」
沈思する間も寄り添ってくれていた、節立って硬い指に頬を寄せる。決して嫋やかではないそれは、今のジークフリートにとっては甘やかで優しいものだ。触れ合った皮膚と皮膚がほのかに熱を宿してゆく。
恋とは、どんなものかしら。
生前を顧みて、とても答えられるものではなく。幸いマスターはジークフリートの答えに難しそうに頷いて、共にレイシフトしていたコサラの王に水を向けてくれた。待っていたとばかりに彼は己の生前の恋と愛、そして聖杯への願いである彼の妻自身を語り始め、話題の中心から逸れたジークフリートは安堵の息をついた。話が徐々に妻に纏わる後悔の話に移ってしまい、マスターが王を励ましていたのは余談である。
触れる指先が、ジークフリートの頬を滑る。輪郭を辿り、耳の後ろをやわくくすぐる。ひんやりとしていたカルナの指がジークフリートの熱を孕んで人並みの熱を持つだけでも嬉しいのに、更に彼は甘やかしてくる。むずがるように頭を擦りつければ指は頤まで滑り落ち、ジークフリートの唇をそうっと押した。
愛はまだ知らない。ジークフリートは生前を悔いて聖杯へ正義の味方に成ることを願う『ジークフリート』であるが、現界を許されるのは戦いと勝利を願うマスターに呼び出されてこそだ。戦うためのしもべが愛を知る必要はなく、猶予もない。仮に知り得たとして、いずれはただの記録として座に持ち帰るだけの経験に過ぎない。いずれ終わることを知って、誰かに愛を傾け、愛を注がれることなどできない。それは真実の愛ではない、と、思う。
そっと口を開いて、触れる指先を招き入れる。ぬるりと舐れば重なる肢体がわずかに跳ねた。ジークフリートの舌の上では、少し苦くて塩っぱい、人の肌の味が再現されている。決して美味ではないが更に求めてカルナの指を食んでゆく。存外とつるりとした爪を舌で辿り、硬い関節を唇で挟む。温かく、熱くなってゆく様を舌で、頬の内側で感じながら、ぐっと奥まで招き入れて指の股をぞろりと舐め上げた。
「っ」
「……カルナ」
ぴくんと震える身体を片腕で抱き、甘い声に指を解放する。ぴちゃと小さく水音が立ち、人工灯の白い光の下、カルナの指は濡れ光っていた。
せっかく宿った熱が冷めてしまうのが惜しく、すぐにもう片方の手の平で包み込む。指と指を絡めれば熱が濡れている。今度は指を逃がした唇が寂しくて目を細めるカルナの瞼に口づけた。先ほど指先で触れられたお返しとばかりに、額に、鼻梁に、頬に、耳元に唇で触れて、最後に薄いカルナの唇へ。
「ん」
喉で鳴く声ごと呑み込みたくて、舌先で唇をなぞって促す。薄く開いたそこに舌を差し入れ、深く深く唇を合わせてゆく。
ここは甘い、ような気がする。頬の内側の粘膜や、ざらりとした口蓋の粘膜をこそぐように舌を這わせて味を確かめれば、絡めた指の先からカルナの微かな震えが伝わってくる。蹂躙を詫びるように、耐えて慎ましく縮こまる舌をそっと己のそれで掬い上げた。砂糖の塊ほどに甘い。
互いの魔力が唾液を介してゆきかう。ぞくりとした感覚がジークフリートのゆいいつの弱点である背を奔り、尾てい骨あたりにわだかまる。酩酊するほどの甘さは混じる魔力だけが理由ではないと、知っている。
恋とはどんなものかしら。
恋には答えられず、愛も知らない。
然れどこの感覚だけは、知っているのだ。
溶かして、もっともっと味わいたい。衝動のまま執拗に薄い舌を追いかければ、溶けた甘露が水音を立て始めた。
カルナの表情が僅かばかり歪んだ。遠慮がちに顔を背けるような仕草を見せ、銀の髪が薄暗がりに艶めかしく光を撒く。シーツの波がずるずると痕を描く。
苦しいのだろう。常には怜悧にすら見える白皙が崩れる様は憐れみすら覚える。
「ふっ……は、ぅ」
甘やかな舌の表面を辿りつつ、己のそれを口内から引き抜く。唇を解放すればカルナは大きく喘ぎ、名残惜しく離れてゆくジークフリートの舌先からつうと銀の糸が伝った。
カルナの唾液と己のそれが混じったもの。それはゆっくりと垂れ落ちて、カルナの唇を、頤を、首筋までもを汚した。
どくり、心臓が鳴る。口元を汚したカルナは気怠げな瞳でジークフリートを見上げている。
全てを赦し、望まれたものは必ず与えると誓った施しの英雄。
そうではない。
「ジーク、フリー……ッ!」
呼ぶ声が形を成す前に。脈打つ心臓に従って、流れ落ちた甘露の先に噛みついた。
ぎちりと、微かに聞こえた皮膚の軋む音は幻聴か。舌先で今まで以上に甘い、甘い、死のように甘い露が弾ける。噴き出す。頭が馬鹿になってしまいそうなほどに甘い、極上のそれ。蕩けるような魔力。触れた舌先から痺れてゆく。芳香を吸い込めば脳髄が冒されてゆく。ジークフリートのからだを駆け巡ってゆく。くらくらと回る世界から切り離されてゆくようで、じゅっと皮膚を吸い上げ縋りつく。
は、と息を吸う音が聞こえる。今この耐え難い甘い誘惑を振り切って顔を上げれば、あのかわいそうなほどに歪む表情があるのだろう。
嗚呼。
嗚呼、それを、壊したい。
ちかちかと視界すら明滅する。滴る露の甘さが赤い幻想を見せる。いけない、と思う。自分は正義を成すのだと、これは義に悖る行為だと。
なのにどうしても、貪り尽くしてしまいたい。丸呑みにして、或いは噛み砕いて、腹のうちがわに収めてしまいたいと。そしてこれは俺のものだと嗤って、だからこの甘い赤に、首筋を流れる射貫かれた血の露を啜って、
「ジークフリート」
ぎゅっと固く、繋いだままの手を握られた。
「お前にならば、構わない」
「ぁ……」
温かい手のひらが、指が、清廉な水のようにジークフリートの思考を冷ましてゆく。
ぱちりと瞬く。そこに射貫かれた痕などはなく、白い首筋が唾液と噛み痕ばかりを晒していた。赤い色は、ジークフリートがたった今刻んだものだ。所々血をにじませて、醜く傷を残した。
醜いのは見目のことではない。これをカルナに残したジークフリートの衝動、欲、そういったものこそが醜いのだ。
戦いの最中に生じたものではないことは誰の目にも明らかだろう。霊体化して癒やしてしまえば消えてしまうものではあるが、ジークフリートの行為はとても認められるものではない。
何より、いずれ消えてしまうこの傷痕が惜しいと、一瞬でも思ってしまった自分が酷く浅ましい。
「すまない、カルナ……酷いことを」
絞り出した声は情けないほどにか細いものだった。
カルナはじっと、嘘も欺瞞も見抜く瞳でジークフリートを見上げていた。そうして絡んでいた指がするりと解けてゆく。遠ざかる温もりを悲しく思う資格など、ジークフリートにはない。
目を伏せて身体を起こそうとする。
しかし、ぞわ、と。
突如として背に奔った感覚に目を見開き、崩れ落ちた。
「お前にならば構わない、と。言ったはずだが」
カルナは淡々と告げる。が、ジークフリートからすれば堪ったものではない。赦しの声が耳から素通りしていきそうなところを、何とか繋ぎ止めている。
原因は背にあった。全ての装備を解き、呪いにより隠せない背を生まれたままの姿で曝け出しているそこに、離れていったはずのカルナの指が這っている。菩提樹の葉の痕にほど近い皮膚を爪先で辿られては、ジークフリートとて、いやだからこそ冷静ではいられない。
「ぅあ、カル、ナ」
耐えきれず身を捩れば、指先はすいと葉の痕から離れてゆく。
代わりにカルナの指はジークフリートの背骨をひとつひとつ、下へ向かって数え始めた。
どこか悪戯に触れる指は、冷めつつある熱を育てるようにジークフリートの腰あたりへと行き着き、進行を止めた。またぞわりとした感覚がジークフリートを掻き立てて眉根を寄せる。
これほどまでにジークフリートを苛みながら、カルナの指は、熱は、声は、ひたすらに優しかった。やめてほしいと訴えて見つめた先の瞳があまりに慈しみに満ちていたから、思わず息を呑んだ。
そして気づく。
カルナに執拗なまでに撫でさすられている場所は、今は封じている悪竜の翼の付け根あたりだ。
「お前だから、赦す。希われたものを全て与える誓い故ではなく、お前だからだ」
聖杯大戦、黒と赤。黒のセイバー、そして赤のランサーとして月下に刃を交えた始まり。
至上の昂揚、命の奪り合いは決して納得と呼べる形では終わらず。
未来を取り戻す世界最後の魔術師の下、少女の願いに応えたあらゆる英霊が集う此処カルデアで、計らずも再会した。
今度は同じあるじを戴く従僕である以上、命を賭す必要はなく。然りとて黒と赤に残した決着を、刃の交わりを望むのは戦士の性だ。手合わせまでならとマスターに許され、幾千、幾万と互いの剣と槍を交えた。
やがて交わりは刃だけでなく言葉に及び、互いの武を、思想を、戯れに過去などを語らった。
穏やかに変じた交わりが身体でも行われるようになったのは、果たして何が切欠だったか。
そんなふうに互いを知り、時間を重ねてきたジークフリートが相手だから。
だから、赦すと。
魂に刻まれた宿敵に射貫かれ、英雄としての生を終えたカルナの首を、浅ましい欲で貪ることすら。
「ああ……」
感嘆の息を吐いた。
施しの英雄だから、ではないのだ。ほんの少し前、自覚するよりも先に衝動に塗りつぶされた稚気めいた悋気が霧散してゆく。
「オレは言葉が足りないらしいが、通じただろうか」
吐息の先で首を傾げるカルナの瞳は、どこまでも澄んでいる。
その水のように静かな瞳の底に、ちりちりと燻る熾火を見た。
悪逆と後悔が、夜の空気に沈んでゆく。口元が少しだけ緩む。
「十分だ、十分に伝わった。……すまない、いや、ありがとう」
カルナ、と名前を呼ぶ。今度はするりと滑り、カルナの手のひらはジークフリートの肩甲骨あたりにやわく触れてきた。
ゆるされるがまま、カルナの肩口に顔を埋める。痛々しい痕を上書きするように、そっと唇を押し当てて首筋に触れた。
「同じなんだな」
「恐らく、な」
微かに笑みを含んだ声が返ってくる。
互いに英雄としての生を終えた致命傷を晒し見せ、触れることを認め。それ以上に、求めている。互いが互いを貪ることを。
カルナの瞳の奥に宿る炎。それに応えるべく、ジークフリートはカルナの腰に指を這わせた。細い身体はひくりと、ジークフリートの下で跳ね上がる。見つめれば湖面の瞳の下、炎はゆらゆらと揺れていた。
他者に施すばかりで、聖杯にかける望みすらないと言うカルナのちいさな欲。大願などとはほど遠い、およそ人間めいた原初の欲求。
これを教えたのは、導けるのはきっと、ジークフリートだけだ。
恋とは、どんなものかしら。
マスターに投げかけられた言葉が脳裏をよぎった。
言葉には、できない。恋などといういとけなく甘やかな響きからはほど遠い。およそ恋に恋する少女には耳に毒だ。
けれどもしかしたら、この心こそが恋なのかもしれない。
答えは触れ合わせたカルナの唇に消え、溶けてゆく。
- 2016.10.28 x 2016.12.29 up
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