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アザトースとおちる
澱み、わだかまる空気。停滞する空間は時間まで止めてしまったかのようだった。しかしそれもほんの数分前まで。ラグナは奥歯を噛み締め、ごまかしようのない血の味に顔をしかめた。その歪んだ表情をどう取ったのか、対面する男はひやりと笑っている。
死んだような静けさで佇んでいた空間は薄暗ささえ色褪せてしまっている。それは忌まわしくも厳かに顎を開いた門の向こう、世界を呪う少女と共に姿を現した窯の中で揺らめく炎のせいでもあったし、何より、
「ほら、どうした? 立てよ――『ラグナ』」
あたかも闇から這い出るような。名を呼ぶには侮蔑と愛情と憎悪を込めて柔らかく。それは自覚なく、しかし幾度も聴いた声。当然だ、ラグナ自身の声なのだから。
少女を屠ったラグナの前に現れたその男は、声も姿かたちも何もかも、極めてラグナと相似していた。
(ちが、う)
相似、ではない。それは客観的なものだ。第三者ならばともかくラグナはそうは思わない。
ラグナは確信している。即ち目の前に立つ男、これは、
(俺、)
だ。間違いなく自分自身だ。確信には根拠などない。尤も、そんなものは必要なく、ラグナが求めたのは事実と、理由と、この後の展開だけだった。
ラグナ自身であるはずの男、つまりもう一人のラグナはラグナ自身であるが故にラグナは男をラグナと認めた。数合合わせた刃は寸分の狂いもなく同じ軌跡を描いたし、拳を振るうタイミングも示し合わせたかのように同じであった。なのにこの男は、
(俺、じゃない。強すぎる)
男は悠然と笑っている。応じて歓喜するように背後でざわめく闇。窯の炎をちりちりと照り返す鮮紅の瞳が映すのは、無様に地へ伏し驚愕に目を見開くラグナだった。
自分自身であるはずのところの男に切り伏せられたラグナには憤りも恐怖もない。ただ唐突な自分の出現に戸惑い事の成り行きを測りかねるばかりで、弾き飛ばされた剣はどこにあるだとか早く立ち上がらなければとか、そんな考えにも行き着けずにいる。
今このとき、澱みわだかまっていたのは空気などではなくラグナの思考だった。気づいている、あるいは知っていたのか、対するラグナは無造作に横たわる距離を埋める。踵の鳴る音は高く鈍く、茫とした意識が現実へと向けられた瞬間にはもう、
「っぐ、は……!」
「考え込むなんて『俺』らしくねぇな」
鳩尾に靴底が食い込んでいた。体重の全てをかけられた片足は靴底の鉄板も相まってぎりぎりと内臓を圧迫する。
痛みに零れそうになる声は無理矢理飲み下し、喉に絡む血の味を敢えて意識することで威勢を保つ。反抗の意思もあらわにラグナは男を見上げるがやはり男は笑っていて。どころか、ますます笑みを深めたようにも見える。
「ああ、それでいい」
「何がっ……」
「考えなしに食ってかかってりゃいいってこった」
つと離れていく男の足に、抑圧されていた身体がわずか弛緩する。ラグナは詰めていた呼吸を開放し、見下ろす男は唇の端を持ち上げた。一瞬だけ垣間見えた感情は嘲りと憐憫と、もう一つ。
見極める間もなく視界を横切る。影。
「だからって、」
「――ッが!!」
行き着く先は脇腹。
肋骨が軋みを上げる、その音を聴く余裕もない。激痛を激痛と認めるより先に反応した身体は蹴り飛ばされた箇所を庇うように折り曲がる。しかしそれもすぐに解かれた。
「……呆けてんじゃねぇぞ?」
ラグナの身体を柔い力で、しかし無理矢理に仰向けにさせる男は囁く声で笑いながら。ぐらぐらと揺れる視界の中、もう一人の自分の顔が近づく。落ちてくる銀色の髪がさわさわと煩わしく、少しばかり甘い言葉を使うならば、擽ったい。
ラグナは動かない。同時に動けなかった。響く痛みと、目の前で笑うもう一人の自分自身にはどう抗っても敵わないのだという事実、あるいは本能が抵抗を封じる。
もう一つ、動かない理由。求める事実と理由とこの後の展開、そして相反しながらもよく似た色を湛える男の双眸が、息のかかるほど近くにあった。だから。
「ん、」
「っは、……んう」
落ちてくる唇を受け入れた。
触れ合う箇所が熱い。あるとも知れない涼感を求めて薄く口を開けば侵入してくるのは更に熱を持った男の舌。絡む絡まる絡める縺れる解ける零れる糸を引く。行き来する唾液はじわじわと甘味を増していく。
酩酊感が渦を巻く。飲み込まれまいとする思考とこのまま落ちてしまいたい感情とを持て余して、とにかくよすがを探すラグナの視界を支配するものがあった。
銀色の前髪に透ける二色。翡翠と紅玉。ラグナと同じ色をした男の瞳。お互いがお互いを映し込んでいる。
「ラグナ」
微かに唇が離れる。男は笑った。
翠が闇に揺らめいて、紅いいろが、
「はっ、は……あ、もう」
「まだ……ん、出すんじゃ……ねぇ、っぞ?」
見下ろす先でとろけきった眸が歪む。解放を懇願するような表情、寄せられた眉間を汗が珠になって滑り落ちる。
見逃すには惜しかったのでゆらりと身を屈めて舌先で掬い取った。上体を倒したことで中のものが角度を変え、『ラグナ』がまた切なげに声を漏らす。自分の口の中には滲む汗の味。甘い。こいつは俺自身のはずなのに、甘い。
また上体を起こして腰を揺する。動きに合わせて零れる声もまた甘く、熱く熟れた内壁は隙さえあれば搾り取ってやろうとでもいいたげに絡む。耐え切れずに漏れる嬌声。
「あ、あっ……も、むり……っ!」
震える熱塊が、弾ける。
「っ……!」
同時に限界を迎えていた自身もつられるように精を吐き出した。
じんわりと広がって奥まで満たして。結合部から滴り落ちる。ぬるりと濡れる感覚がまた気持ちいい。思わず身を震わせれば、組み敷いた身体が揺らめいた。
晒した胸を汗に濡らして白濁の散る肌に手を滑らす。まだ疼く熱をその腹に収め、輪郭をなぞるように撫で回しながら、
「あ、はっ……熱い、な……」
『ラグナ』は紅い双眸を笑みの形に歪めた。
そのまま身体をずらして指先を繋がったままの箇所へ伸ばせば、ラグナが吐き出したものが『ラグナ』の指に白く絡む。汚ぇな、一瞬見え隠れする嘲り。俺ん中に出しちまうなんて、またちらつく憐憫。そして最後のひとつ、
「ああ、」
場違いな愛情。
「愛してる――『ラグナ』」
酩酊の渦の中心で、そうとは知らずにラグナも笑った。自分と同じ声に潜む感情に誘われるまま唇を、落とす。
死んだような静けさで佇んでいた空間は薄暗ささえ色褪せてしまっている。それは忌まわしくも厳かに顎を開いた門の向こう、世界を呪う少女と共に姿を現した窯の中で揺らめく炎のせいでもあったし、何より、
「ほら、どうした? 立てよ――『ラグナ』」
あたかも闇から這い出るような。名を呼ぶには侮蔑と愛情と憎悪を込めて柔らかく。それは自覚なく、しかし幾度も聴いた声。当然だ、ラグナ自身の声なのだから。
少女を屠ったラグナの前に現れたその男は、声も姿かたちも何もかも、極めてラグナと相似していた。
(ちが、う)
相似、ではない。それは客観的なものだ。第三者ならばともかくラグナはそうは思わない。
ラグナは確信している。即ち目の前に立つ男、これは、
(俺、)
だ。間違いなく自分自身だ。確信には根拠などない。尤も、そんなものは必要なく、ラグナが求めたのは事実と、理由と、この後の展開だけだった。
ラグナ自身であるはずの男、つまりもう一人のラグナはラグナ自身であるが故にラグナは男をラグナと認めた。数合合わせた刃は寸分の狂いもなく同じ軌跡を描いたし、拳を振るうタイミングも示し合わせたかのように同じであった。なのにこの男は、
(俺、じゃない。強すぎる)
男は悠然と笑っている。応じて歓喜するように背後でざわめく闇。窯の炎をちりちりと照り返す鮮紅の瞳が映すのは、無様に地へ伏し驚愕に目を見開くラグナだった。
自分自身であるはずのところの男に切り伏せられたラグナには憤りも恐怖もない。ただ唐突な自分の出現に戸惑い事の成り行きを測りかねるばかりで、弾き飛ばされた剣はどこにあるだとか早く立ち上がらなければとか、そんな考えにも行き着けずにいる。
今このとき、澱みわだかまっていたのは空気などではなくラグナの思考だった。気づいている、あるいは知っていたのか、対するラグナは無造作に横たわる距離を埋める。踵の鳴る音は高く鈍く、茫とした意識が現実へと向けられた瞬間にはもう、
「っぐ、は……!」
「考え込むなんて『俺』らしくねぇな」
鳩尾に靴底が食い込んでいた。体重の全てをかけられた片足は靴底の鉄板も相まってぎりぎりと内臓を圧迫する。
痛みに零れそうになる声は無理矢理飲み下し、喉に絡む血の味を敢えて意識することで威勢を保つ。反抗の意思もあらわにラグナは男を見上げるがやはり男は笑っていて。どころか、ますます笑みを深めたようにも見える。
「ああ、それでいい」
「何がっ……」
「考えなしに食ってかかってりゃいいってこった」
つと離れていく男の足に、抑圧されていた身体がわずか弛緩する。ラグナは詰めていた呼吸を開放し、見下ろす男は唇の端を持ち上げた。一瞬だけ垣間見えた感情は嘲りと憐憫と、もう一つ。
見極める間もなく視界を横切る。影。
「だからって、」
「――ッが!!」
行き着く先は脇腹。
肋骨が軋みを上げる、その音を聴く余裕もない。激痛を激痛と認めるより先に反応した身体は蹴り飛ばされた箇所を庇うように折り曲がる。しかしそれもすぐに解かれた。
「……呆けてんじゃねぇぞ?」
ラグナの身体を柔い力で、しかし無理矢理に仰向けにさせる男は囁く声で笑いながら。ぐらぐらと揺れる視界の中、もう一人の自分の顔が近づく。落ちてくる銀色の髪がさわさわと煩わしく、少しばかり甘い言葉を使うならば、擽ったい。
ラグナは動かない。同時に動けなかった。響く痛みと、目の前で笑うもう一人の自分自身にはどう抗っても敵わないのだという事実、あるいは本能が抵抗を封じる。
もう一つ、動かない理由。求める事実と理由とこの後の展開、そして相反しながらもよく似た色を湛える男の双眸が、息のかかるほど近くにあった。だから。
「ん、」
「っは、……んう」
落ちてくる唇を受け入れた。
触れ合う箇所が熱い。あるとも知れない涼感を求めて薄く口を開けば侵入してくるのは更に熱を持った男の舌。絡む絡まる絡める縺れる解ける零れる糸を引く。行き来する唾液はじわじわと甘味を増していく。
酩酊感が渦を巻く。飲み込まれまいとする思考とこのまま落ちてしまいたい感情とを持て余して、とにかくよすがを探すラグナの視界を支配するものがあった。
銀色の前髪に透ける二色。翡翠と紅玉。ラグナと同じ色をした男の瞳。お互いがお互いを映し込んでいる。
「ラグナ」
微かに唇が離れる。男は笑った。
翠が闇に揺らめいて、紅いいろが、
「はっ、は……あ、もう」
「まだ……ん、出すんじゃ……ねぇ、っぞ?」
見下ろす先でとろけきった眸が歪む。解放を懇願するような表情、寄せられた眉間を汗が珠になって滑り落ちる。
見逃すには惜しかったのでゆらりと身を屈めて舌先で掬い取った。上体を倒したことで中のものが角度を変え、『ラグナ』がまた切なげに声を漏らす。自分の口の中には滲む汗の味。甘い。こいつは俺自身のはずなのに、甘い。
また上体を起こして腰を揺する。動きに合わせて零れる声もまた甘く、熱く熟れた内壁は隙さえあれば搾り取ってやろうとでもいいたげに絡む。耐え切れずに漏れる嬌声。
「あ、あっ……も、むり……っ!」
震える熱塊が、弾ける。
「っ……!」
同時に限界を迎えていた自身もつられるように精を吐き出した。
じんわりと広がって奥まで満たして。結合部から滴り落ちる。ぬるりと濡れる感覚がまた気持ちいい。思わず身を震わせれば、組み敷いた身体が揺らめいた。
晒した胸を汗に濡らして白濁の散る肌に手を滑らす。まだ疼く熱をその腹に収め、輪郭をなぞるように撫で回しながら、
「あ、はっ……熱い、な……」
『ラグナ』は紅い双眸を笑みの形に歪めた。
そのまま身体をずらして指先を繋がったままの箇所へ伸ばせば、ラグナが吐き出したものが『ラグナ』の指に白く絡む。汚ぇな、一瞬見え隠れする嘲り。俺ん中に出しちまうなんて、またちらつく憐憫。そして最後のひとつ、
「ああ、」
場違いな愛情。
「愛してる――『ラグナ』」
酩酊の渦の中心で、そうとは知らずにラグナも笑った。自分と同じ声に潜む感情に誘われるまま唇を、落とす。
- 2009/05/24 x 2009/12/31 up
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