×
時計と踊る
蝶が、
深い深い藍色に溶ける雲はわずか。天気は快晴。蒼白い月が霞に滲んで見下ろす路地裏。
遥か高みから落ちる光を受けて、緩く長く、ぼんやりとした影が石畳に踊っていた。遥か遠い何処かから、深く低く、そして重い音が規則的に響く夜を歌いながら影は軽やかに揺れている。跳ねる空気を孕む衣の裾は宵闇に溶ける青、舞うように短く靡くのは柔らかな金糸。楽しそうに歪むのは翡翠の目。
声なく青年は歌う。ただ軍靴の踵を石畳に鳴らして歌う。
月明かりに追い散らされた星の瞬きを捕まえて閉じ込めたかのように。夜目にもはっきりと煌く瞳で路地裏の闇を見つめる。ひとつ踵を鳴らしてはぐるりと頭を巡らせる姿は、愛しい人の影を求め、今か今かと待っているようにも見える。
事実そのとおりだった。月明かりなどなくても狂ってしまえるほど強く焦がれる、いつ何時といえども青年の心を占める面影。恋だった。
かつり、踵を鳴らしては、ことり、なにかの動く音がする。かつり、ことり、かつり。
石畳、あるいは心の臓の底。あるいは遥か高く遠くから夜に反響する微かな音。かつり、ことり、かつり、ことり、歌う。
かつり、ことり、かつり。ことり、かつり、かつり、ことり。かつり、
……かつり。
夜に滲みるように響く靴音。旋律が変わる。重なる音は歌い手の登場か、はたまた聴衆の合いの手か。青年は歌うのを止めた。
かつり。一拍を奏でた後、誰かの音もぴたりと止む。青年が歪み煌く目で路地裏の闇を透かせば、その視線の先には、
「ああ、」
男が立っていた。こちらも笑っている。男が月光のもとに踏み出せば銀色が揺れた。恋い焦がれて止まない銀色。
「こんばんは」
青年もふわり、衣の裾を揺らした。楚々として跳ね上がる羽織の下から、穏やかに歌う夜に氷の刀身が躍り出る。
「久しぶりだね、兄さん」
しゃなり、
踊る。誘われるように踏み出す一歩。誘うように身を引く一歩。引いては洒落た舞踏。夜の歌に恋を拝して舞う、あるいは武闘。
月の降る夜に踊りましょう……氷刃が高い声を上げた。歓喜。興奮の色に溺れた刃鳴りの使い手は狂気と狂喜で踏み込む。一閃。凍てついた夜の空気が男を目掛けて飛翔する。
宜しいですね、では一曲……受ける白磁はしかし紳士の礼をかなぐり捨て、唸る。叩き割られた氷塊を超えて青年の喉元へ。
荒々しい足取りに辛うじて合わせるも長く続こうはずはない。一合、また一合、そして次の剣戟の音は甲高く夜空に舞った。
細身の刃が弾き飛ばされ、落ちる。同時に押し倒される青年に馬乗りになって圧し掛かる男の影が重なった。肺が圧迫されたか激しく咳き込む青年、見下ろす男の手には未だに白磁の剣が握られている。
月の光を鈍く反射する刀身を視認し、青年がゆるりと笑った。潤みを湛えた瞳は咳き込んでいたためなのだが、表情と相まってまるで誘っているかのようにも見える。
「いいよ、兄さん……」
まるで、ではない。青年は誘っていた。まろび落ちる声はとろけるように甘く、男の頬へと伸びる指先は熱を孕む。この人をこの瞬間を待っていたのだと体のすべてで叫ぶ。
「ね、殺して?」
恋だった。刃を重ねるその一瞬一瞬が恋だった。高い刃鳴りも鈍い軋みも砕氷の悲鳴も石畳の割れる音も高鳴る心臓の音に等しい。
そしてこれが恋の実る瞬間、だと青年は思う。あの分厚く重い白磁の刃が振り下ろされて、自身の肉を裂き骨を断つ。愛しいこの人に命すら奪われる。考えただけでぞくぞくする。
男が黙って剣を持ち上げる。ちょうど月を背負った逆光になっていて表情は見えない。そして黙ったまま、振り下ろす。
砕ける音。夜の大気を震わせる低い音の中で残響を奏で、そして。
止まって、
青年は知らず閉ざしていた瞼を持ち上げる。
痛みはない。血の噴き出している様子もない。先ほどの砕ける音も肉を裂いて骨を断つ音には程遠かった。ただ、眼前に男の――兄の、顔が。
「……ジン」
吐息で紡がれる名前に思わず震えた。囁く兄は酷く優しい目で笑っている。
「大人しく殺されるつもりか?」
低い声。心臓が跳ねる。こめかみにどくんどくん、脈動が響く。あまりに近くてどこか気恥ずかしい、ジンは不自由な姿勢の中肩を竦めて顔を逸らした。さらりと髪が滑り、耳が夜に晒される。熱い。きっと真っ赤になっているのだろう。
その耳元で答えを促すように兄がまた名前を呼んだ。これ以上は無理というほどに身を縮めながらジンはなんとか声を絞り出す。
「う、ん……。だから、兄さん」
顔のすぐ横に突き立てられた剣にぼんやりと映る自分の顔はやはり赤かった。きっと兄も気づいている。
まるで恋人同士の夜のような。睦言を交わしているような。そう思っているのは自分だけかもしれないけれど、胸のうちにぽろりと落ちた言葉は予想外に甘く苦く、ジンは少しだけ頬の熱が引くのを感じた。
奪われるのなら火照りのぼせた心のまま。それが叶わないのならこんな時間は早く終わればいい。
「そうだな」
「え? あ、」
果たして何に対する肯定だったのか、兄の真意を掴む間もなくジンの手が引かれた。つられて上を向けばそこにあるのは和やかな表情。兄の手に掴まれた指先は中空で半端に静止させられている。
左右異色の虹彩は夜に揺れていた。ことり。密やかにあの音が、遠くから響く重い音が、ことり。二人の時間を刻んでいく。ことり、ことり。
「『時間』まで。遊ぼうぜ、ジン」
誘いと共に、掴まれたままの手の甲に一度だけ唇が落とされる。
そしてやわらかく開放された指先に、ジンは。
羽を、
舞い上げるかのように反転する。仰ぐのは兄。見下ろすのはジン。手袋越しに温度など伝わるはずもないのだが妙に熱い。頬に上っていた血がすべて指先に集まっているかのようだった。
疼く熱のままに指を伸ばす。先ほど引かれたときは半端に留められていた手は兄の頬を滑り、
「ぁぐっ……!」
首を絞めた。
指をかけた瞬間は思い切りよく。そしてじわじわと、呼吸が自由にならない程度に緩める。指先に感じる脈動は兄のものか、あるいは疼いて止まないジンのものか。混じり合うように多重に響く、どくりどくり。
兄は笑っていた。はくはくと喘ぎながら声にならない苦鳴を上げながら末期の痙攣のように指先を蠢かせながら、なお笑っていた。
ジンも笑っていた。すべては衝動に任せた無意識の産物、されど兄の瞳の中のジンは笑っていた。我ながら幼い表情だと思う。まるで捕まえた蝶の羽をもぐような表情。果たして幼い頃の自分はこんな顔をしていたのだろうか。
懐古に染み渡る夜の鼓動、ことり。ことり。
ふたつの体は生を奪い合う。殺すか殺されるか、奪うか奪われるか。きっと思考も意思も今このときは存在しないのだ。選択が任されるのなら選ぶのは恋の輪郭、ぶれれば憎悪、転化すれば殺意へ。
ただ、兄の方はよくわからない。死に際して跳ねる喉、つと視線を上へ滑らせればやはり笑み。
ことり。
耳の奥で、また一つ刻みが反響した。
兄の意味もなく形をつくっていた唇がゆるりゆるりと終わりを紡ぐ。
『――時間だ』
「うん、残念だね」
ジンは応えて指先をそっと放す。解放された呼吸に咳き込む兄。
しかし兄の視線は揺るがず一点を見据えている。先ほどまで兄の首を絞めていたジンの手。そこには喉の代わりに、艶かしくも流麗な姿かたちの雪の女が座している。
弾き飛ばされ送還された氷刃は今一度召喚され、使い手の手中で静かに待っている。その身を赤く濡らす瞬間を。
「おやすみなさい、兄さん」
別れの言葉は夜にふさわしく。屠る腕も刃も忘れていた歌をうたうように軽やかだった。ことり。夜の低音に被せて刃鳴りがひとつ。
切っ先が目指すのは指の形に赤く色づく兄の首。嗚呼、ジンはそっと笑った。
もがれた。
ことり。
秒針が左に傾く音を聴きながら黒い兎はそっと屈み込んだ。赤い目の先には路地裏の石畳に落ちた虫の死骸。色鮮やかな羽をもがれた蝶。蝶だったもの。乾いたちいさな骸は夜の空気にかさかさと揺れる。
艶やかな唇から零れる吐息。立ち上がり、黒い兎は路地裏の奥を見つめる。遠く遠くから響くのは軍靴が石畳を踏む軽やかな音。秒針の音が染み渡る夜を哀れに歌う。
「何度繰り返せば気がすむのかしら?」
「……さあな」
兎に答える声は苦笑を孕んでいる。自らを笑いながらそれでも終わらせるつもりはないのだろう。
白磁の大剣を弄びながら、男はゆうるりと夜に踏み出した。青白い月光に銀色が映える。
あと少し。聴こえた声は誰のものか。兎が見送る後姿はわずか足を止めて空を仰ぐ。いま少し経てばあの虚しく熱を孕んだ刃鳴りが空に響くのだ、止まらない秒針の音に乗せて。
「俺が見失うまでってところか」
誰を。何を。聞かずとも分かるような、あるいは答えなど最初からないような問いを兎は飲み込んだ。
「そうね」
視線の先では路地裏を通り抜ける風に、蝶の骸がさらわれている。何度秒針が時を刻んだか。数える意味などないだろう。
深い深い藍色に溶ける雲はわずか。天気は快晴。蒼白い月が霞に滲んで見下ろす路地裏。
遥か高みから落ちる光を受けて、緩く長く、ぼんやりとした影が石畳に踊っていた。遥か遠い何処かから、深く低く、そして重い音が規則的に響く夜を歌いながら影は軽やかに揺れている。跳ねる空気を孕む衣の裾は宵闇に溶ける青、舞うように短く靡くのは柔らかな金糸。楽しそうに歪むのは翡翠の目。
声なく青年は歌う。ただ軍靴の踵を石畳に鳴らして歌う。
月明かりに追い散らされた星の瞬きを捕まえて閉じ込めたかのように。夜目にもはっきりと煌く瞳で路地裏の闇を見つめる。ひとつ踵を鳴らしてはぐるりと頭を巡らせる姿は、愛しい人の影を求め、今か今かと待っているようにも見える。
事実そのとおりだった。月明かりなどなくても狂ってしまえるほど強く焦がれる、いつ何時といえども青年の心を占める面影。恋だった。
かつり、踵を鳴らしては、ことり、なにかの動く音がする。かつり、ことり、かつり。
石畳、あるいは心の臓の底。あるいは遥か高く遠くから夜に反響する微かな音。かつり、ことり、かつり、ことり、歌う。
かつり、ことり、かつり。ことり、かつり、かつり、ことり。かつり、
……かつり。
夜に滲みるように響く靴音。旋律が変わる。重なる音は歌い手の登場か、はたまた聴衆の合いの手か。青年は歌うのを止めた。
かつり。一拍を奏でた後、誰かの音もぴたりと止む。青年が歪み煌く目で路地裏の闇を透かせば、その視線の先には、
「ああ、」
男が立っていた。こちらも笑っている。男が月光のもとに踏み出せば銀色が揺れた。恋い焦がれて止まない銀色。
「こんばんは」
青年もふわり、衣の裾を揺らした。楚々として跳ね上がる羽織の下から、穏やかに歌う夜に氷の刀身が躍り出る。
「久しぶりだね、兄さん」
しゃなり、
踊る。誘われるように踏み出す一歩。誘うように身を引く一歩。引いては洒落た舞踏。夜の歌に恋を拝して舞う、あるいは武闘。
月の降る夜に踊りましょう……氷刃が高い声を上げた。歓喜。興奮の色に溺れた刃鳴りの使い手は狂気と狂喜で踏み込む。一閃。凍てついた夜の空気が男を目掛けて飛翔する。
宜しいですね、では一曲……受ける白磁はしかし紳士の礼をかなぐり捨て、唸る。叩き割られた氷塊を超えて青年の喉元へ。
荒々しい足取りに辛うじて合わせるも長く続こうはずはない。一合、また一合、そして次の剣戟の音は甲高く夜空に舞った。
細身の刃が弾き飛ばされ、落ちる。同時に押し倒される青年に馬乗りになって圧し掛かる男の影が重なった。肺が圧迫されたか激しく咳き込む青年、見下ろす男の手には未だに白磁の剣が握られている。
月の光を鈍く反射する刀身を視認し、青年がゆるりと笑った。潤みを湛えた瞳は咳き込んでいたためなのだが、表情と相まってまるで誘っているかのようにも見える。
「いいよ、兄さん……」
まるで、ではない。青年は誘っていた。まろび落ちる声はとろけるように甘く、男の頬へと伸びる指先は熱を孕む。この人をこの瞬間を待っていたのだと体のすべてで叫ぶ。
「ね、殺して?」
恋だった。刃を重ねるその一瞬一瞬が恋だった。高い刃鳴りも鈍い軋みも砕氷の悲鳴も石畳の割れる音も高鳴る心臓の音に等しい。
そしてこれが恋の実る瞬間、だと青年は思う。あの分厚く重い白磁の刃が振り下ろされて、自身の肉を裂き骨を断つ。愛しいこの人に命すら奪われる。考えただけでぞくぞくする。
男が黙って剣を持ち上げる。ちょうど月を背負った逆光になっていて表情は見えない。そして黙ったまま、振り下ろす。
砕ける音。夜の大気を震わせる低い音の中で残響を奏で、そして。
止まって、
青年は知らず閉ざしていた瞼を持ち上げる。
痛みはない。血の噴き出している様子もない。先ほどの砕ける音も肉を裂いて骨を断つ音には程遠かった。ただ、眼前に男の――兄の、顔が。
「……ジン」
吐息で紡がれる名前に思わず震えた。囁く兄は酷く優しい目で笑っている。
「大人しく殺されるつもりか?」
低い声。心臓が跳ねる。こめかみにどくんどくん、脈動が響く。あまりに近くてどこか気恥ずかしい、ジンは不自由な姿勢の中肩を竦めて顔を逸らした。さらりと髪が滑り、耳が夜に晒される。熱い。きっと真っ赤になっているのだろう。
その耳元で答えを促すように兄がまた名前を呼んだ。これ以上は無理というほどに身を縮めながらジンはなんとか声を絞り出す。
「う、ん……。だから、兄さん」
顔のすぐ横に突き立てられた剣にぼんやりと映る自分の顔はやはり赤かった。きっと兄も気づいている。
まるで恋人同士の夜のような。睦言を交わしているような。そう思っているのは自分だけかもしれないけれど、胸のうちにぽろりと落ちた言葉は予想外に甘く苦く、ジンは少しだけ頬の熱が引くのを感じた。
奪われるのなら火照りのぼせた心のまま。それが叶わないのならこんな時間は早く終わればいい。
「そうだな」
「え? あ、」
果たして何に対する肯定だったのか、兄の真意を掴む間もなくジンの手が引かれた。つられて上を向けばそこにあるのは和やかな表情。兄の手に掴まれた指先は中空で半端に静止させられている。
左右異色の虹彩は夜に揺れていた。ことり。密やかにあの音が、遠くから響く重い音が、ことり。二人の時間を刻んでいく。ことり、ことり。
「『時間』まで。遊ぼうぜ、ジン」
誘いと共に、掴まれたままの手の甲に一度だけ唇が落とされる。
そしてやわらかく開放された指先に、ジンは。
羽を、
舞い上げるかのように反転する。仰ぐのは兄。見下ろすのはジン。手袋越しに温度など伝わるはずもないのだが妙に熱い。頬に上っていた血がすべて指先に集まっているかのようだった。
疼く熱のままに指を伸ばす。先ほど引かれたときは半端に留められていた手は兄の頬を滑り、
「ぁぐっ……!」
首を絞めた。
指をかけた瞬間は思い切りよく。そしてじわじわと、呼吸が自由にならない程度に緩める。指先に感じる脈動は兄のものか、あるいは疼いて止まないジンのものか。混じり合うように多重に響く、どくりどくり。
兄は笑っていた。はくはくと喘ぎながら声にならない苦鳴を上げながら末期の痙攣のように指先を蠢かせながら、なお笑っていた。
ジンも笑っていた。すべては衝動に任せた無意識の産物、されど兄の瞳の中のジンは笑っていた。我ながら幼い表情だと思う。まるで捕まえた蝶の羽をもぐような表情。果たして幼い頃の自分はこんな顔をしていたのだろうか。
懐古に染み渡る夜の鼓動、ことり。ことり。
ふたつの体は生を奪い合う。殺すか殺されるか、奪うか奪われるか。きっと思考も意思も今このときは存在しないのだ。選択が任されるのなら選ぶのは恋の輪郭、ぶれれば憎悪、転化すれば殺意へ。
ただ、兄の方はよくわからない。死に際して跳ねる喉、つと視線を上へ滑らせればやはり笑み。
ことり。
耳の奥で、また一つ刻みが反響した。
兄の意味もなく形をつくっていた唇がゆるりゆるりと終わりを紡ぐ。
『――時間だ』
「うん、残念だね」
ジンは応えて指先をそっと放す。解放された呼吸に咳き込む兄。
しかし兄の視線は揺るがず一点を見据えている。先ほどまで兄の首を絞めていたジンの手。そこには喉の代わりに、艶かしくも流麗な姿かたちの雪の女が座している。
弾き飛ばされ送還された氷刃は今一度召喚され、使い手の手中で静かに待っている。その身を赤く濡らす瞬間を。
「おやすみなさい、兄さん」
別れの言葉は夜にふさわしく。屠る腕も刃も忘れていた歌をうたうように軽やかだった。ことり。夜の低音に被せて刃鳴りがひとつ。
切っ先が目指すのは指の形に赤く色づく兄の首。嗚呼、ジンはそっと笑った。
もがれた。
ことり。
秒針が左に傾く音を聴きながら黒い兎はそっと屈み込んだ。赤い目の先には路地裏の石畳に落ちた虫の死骸。色鮮やかな羽をもがれた蝶。蝶だったもの。乾いたちいさな骸は夜の空気にかさかさと揺れる。
艶やかな唇から零れる吐息。立ち上がり、黒い兎は路地裏の奥を見つめる。遠く遠くから響くのは軍靴が石畳を踏む軽やかな音。秒針の音が染み渡る夜を哀れに歌う。
「何度繰り返せば気がすむのかしら?」
「……さあな」
兎に答える声は苦笑を孕んでいる。自らを笑いながらそれでも終わらせるつもりはないのだろう。
白磁の大剣を弄びながら、男はゆうるりと夜に踏み出した。青白い月光に銀色が映える。
あと少し。聴こえた声は誰のものか。兎が見送る後姿はわずか足を止めて空を仰ぐ。いま少し経てばあの虚しく熱を孕んだ刃鳴りが空に響くのだ、止まらない秒針の音に乗せて。
「俺が見失うまでってところか」
誰を。何を。聞かずとも分かるような、あるいは答えなど最初からないような問いを兎は飲み込んだ。
「そうね」
視線の先では路地裏を通り抜ける風に、蝶の骸がさらわれている。何度秒針が時を刻んだか。数える意味などないだろう。
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