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dolce

「おっ……と」
 ちらりと視界で動く影。小さく声を上げてハザマは柱の後ろに身を潜める。誰にも見つからずに来いという指示だ。調査内容からすればまあ、分からなくはない。
 人影はハザマの目的の部屋から出、ぱたぱたと軽い足音を立てながら駆けてくる。ハザマは更に柱の影に身を押し込み、その人物を注視した。青い制服にかっちりと被った制帽、若い女の衛士――今現在ハザマを東奔西走させている上官の直属の部下だ。
 彼女はハザマが身を潜めていることにも気づかず小走りに去っていく。その涼しげな背を十分に見送ってからようやくハザマは柱の影から身を滑らせ、ついでに首を傾げた。通り過ぎ様に垣間見えた彼女の泣きそうに潤んだ目元と、蒼白な横顔が妙に気にかかる。
 とはいえ彼女がどんな様子であろうとハザマに直接関係のあることではないだろうし、更にいえば時間もおしている。報告に参りますと宣言した時間は大幅に過ぎていて、これ以上ぐずぐずしているとあのお綺麗な顔で凄まれること請け合いだ。ハザマはこれ以上考えることを止めた。上官に叱責されようが気にも留めない性質であるがあれだけは違うのだ、過去の事を差し引いても妙に調子が狂う。
 また静かに足を運び、例の彼女が出てきたばかりの扉の前へ。統制機構では珍しくもない重厚な扉は無駄に威圧感を放っているが、ハザマは何の気負いもなくノックした。小刻みに三回、ゆっくりと二回。訪問者がハザマであることを意味するこのノックは部屋の主との取り決めだった。ハザマを動かしていることを知られたくないらしい上官が言い出したもので、このノックさえあれば返事を待たずに部屋に入ってもいいという異例、いや異常な待遇付き。必死さが窺える。
 内心で冷笑しながらハザマは素早く扉を開き隙間から身を滑り入れた。
「失礼しますよ少…………佐?」
 不自然に、台詞が、途切れてしまった。
 不自然な光景が、目の中に。飛び込んできたからだ。
 思わず動きを止めてそれを凝視するハザマに、恐らく向こうも状況に対応し損ねていたのだろう、彼……彼? とにかく部屋の主にしては鈍い反応で飛来する叱責の声。
「貴、様ッ……出て行け! いや、僕がいいと言うまで後ろを向いていろ!」
「うあああああっ、はいはいっ!」
 ぐるんと後ろを向く。背後では何やら怒りを含んだ呟きと荒っぽい衣擦れの音が続いている。
 その声は間違いなく聞き覚えた上官のもので、つまり冷酷だとか異例の若さで昇進したとかイカルガの英雄だとかキサラギ家の次期当主候補だとかで名高いジン=キサラギのもので、キサラギ少佐といえば統制機構の若い女性衛士の興味を惹いてやまない、だから、つまり、
 重苦しい扉の深い木目を無意味に凝視しながら、ハザマは段階を追って現実を受け入れていく。そして見間違いでなければ他に答えが見当たらないという結論に至った末、意を決して口を開いた。
「あのう、少佐?」
「なんだ。無駄口は叩くなよ」
「はっ、いえ、あのー……お忙しいなら、出直しましょうか?」
 怒りを存分に湛えた声に意を決した本題はあえなく霧散。思わず無難な台詞が口を突いて出た。
「そのままそこにいろ。すぐに済む」
「……先ほどヴァーミリオン少尉が飛び出してくるのが見えましたが」
「ああ」
 衣擦れの音が止む。同時にハザマは思わず震え上がった。
 腹の底が冷えるような空気、事の顛末を語り始めるのは声ではない、抑え込まれた圧倒的な怒りだ。静かに漏れ出したそれは隠されたものがあまりにも膨大なためか限りなく無感情に響く。
「少尉が急に茶を淹れるなどと言い出してな……案の定ゲル状の物質をカップに入れて持ってきた上、僕の上にぶちまけて……」
「あー……それ以上は結構です少佐。把握しました」
 さすがノエル=ヴァーミリオン、『料理に難あり』などと諜報部のデータベースにしたためられているだけのことはある。淹れるだけの茶をゲル状の何かに変化させてしまえるのは『難』の一言ではすまない、むしろ才能ではないだろうか。
 とにかく状況は把握した。ジンのこの静かな怒り様からしてノエルが顔面蒼白の上涙目で執務室から走り去ったのも頷ける。そしてジンの今現在の格好、ゲル状の元茶だか新手の兵器だかがべったり付着した制服を着替えていたのだ。それはいい。そこまではいい。
 しかし不可抗力にも目撃してしまった“あの”キサラギ少佐の、羽織と胴着を脱ぎ例の全身タイツを脱ぎかけた、一言でいうと、半裸姿、に、覚えた、激しい違和感は。
 いや、見えたのは一瞬だ。目の錯覚の可能性が高い。再開された衣擦れの音を背後に、ハザマは持参した書類を意味もなく確認しながら自らに言い聞かせ心の平静を手繰り寄せる。尤も、紙面を目で追うだけで内容が一切頭に入らないあたり、我ながら動揺の治まっていない証拠ではあったが。
「もういいぞ大尉。報告しろ」
「はっ」
 らしくもなく切れのいい返事をしてしまったと思いつつ頭の中埋め尽くす平静の文字。振り向けばいつもどおり、端正な顔を不機嫌に歪めた上官が革張りの椅子に腰掛けて報告を待っている――
「……少佐」
「なんだ。さっさと報告しろ」
 ぐずぐずするなと被せる声は剣呑な色を多分に孕んでいた。あとほんの一匙不手際を加えてやればあっという間にキサラギ少佐お手製氷の術式のできあがり、アークエネミーで賽の目状に刻んで召し上がれ。
 自分が混乱していることを頭のどこかでひしひしと実感するハザマの目はジンの胸元に釘付けになっている。普段は喉元まですっぽり伸縮素材に覆われて人目に晒されることなどないはずのそこは白い肌を晒していて、この部屋の扉を開いた瞬間目にしたとおり、男にしてはやわらかいラインを描いている、ような気がした。
 ハザマの視線に気づき、ジンはちらりと己の胸部を見下ろした。そしてふつふつと怒りを滾らせている以外は別段変わった様子もなく、
「……ああ、インナーの替えがなかっただけだ」
 と、つまりこの発言はあるようなないようなラインの存在は今更取り沙汰すようなものではないということで、もしなだらかなラインが存在するものならハザマの見間違いでも思い違いでもなく、それは事実であるということになる。
「キサラギ少佐」
 あながち的外れでもないキサラギ少佐の三分クッキング、今日の食材は諜報部直送のハザマ大尉編をご丁寧にも暗黒大戦以前からお馴染みのBGM付きで思い描きながら、ついにハザマは入室以来の疑問の解決を実行した。
「さっきから何なんだ貴様は……いい加減に、」
「ちょーっと失礼します、よっ」
 手にしていた報告書が投げ出さればらばらと乾いた音で散る。同時にスパークのように、あ、これは本気で斬られるかも、構うことないからヤッちまえよ、こんな氷柱程度でこの俺がどうにかなるわけじゃねーし、明滅する思考に従って手を伸ばす。まだるっこしいことはしない。手間取れば氷刃に貫かれるだけ、好機はわずかに一瞬しかないのだ。目指すのは問題の胸元のみ。
「なにを――ふぁっ…!」
「………………………………は?」
 高い、加えて予想外に甘い声が“あの”キサラギ少佐の口から飛び出したのはハザマの手が胴着に触れた瞬間だった。
 ハザマは己の手を見下ろす。触れた? 触れたのだろうか。確信が持てないのは掠める程度の接触だったからだ。実際ハザマは命懸けでその一瞬に賭したにもかかわらず、起伏の存在を確認できていない。
 あわよくばもう一度。ここまで来たら確認せずには引き下がれない。どうせ斬られるなら確認してからでないと斬られ損だ。自分の命の猶予を見極めるべくつつつと視線を上げて、ハザマはまた度肝を抜かれた。
 林檎のように紅い、とはいささか可愛らしすぎる比喩である。ましてや“あの”キサラギ少佐を相手にして思い浮かべる表現でもあるまい。しかしそうとしか表しようのないほどに頬を紅潮させて、ジンはわずかに俯いて震えていた。
 ハザマの思考のどこかが囁く。今だ、ヤッちまえ。今度は何の躊躇もなく手を伸ばし、
「ひぅっ……やあ……」
「…………」
 どうにも落ち着かなくなる声は辛うじて無視して、手のひらの感触に意識を集中する。
 ない、いや、やはり男にしては柔らかい。円を描くように動かして、次に寄せて上げるようにすれば襟の合わせから谷間、とは到底呼べないが微かな肉の隆起が覗いた。ジンの体の細さを考えれば胸部についた余計な脂肪という可能性は限りなく低い。ない、ことはない。ある。
 ハザマの体を衝撃が走った。“あの”ジン=キサラギ少佐が女性であったなどという事実は諜報部の管理するデータの中には存在しなかったし、もちろん誰かの口から聞いたこともない。確かに幼い時分は女の子めいた顔立ちをしていたし今も小奇麗な顔をしているが、ありえない。ありえるかもしれないがありえない。
 思わず手のひらに力が篭もった。途端、びくりと身を震わせてジンが背を反らせ、俯いて隠れていた目元が露わになる。
「き、さまぁっ……!」
 痛みかあるいは快感にか滲んだみどりいろはハザマ捉えた瞬間、射抜くように鋭さを取り戻した。しかし目元に朱を散らした姿にいつもの威勢はなく、ハザマがほんの少し手を動かすだけですぐに声を上げる。睨みつけられるたびに手のひらの膨らみを揉みこむ、数度繰り返した末、ハザマは自分がこの状況を楽しんでいることに気がついた。
 気づいて、ひっそりと嗤う。鷲掴みにした手のひらにぎゅっと力を込めた。
「……いやァ、驚きましたよ。少佐が女性だったとは」
「ぁ、い、たッ……」
「オマケに……ちょっとないぐらいの感度ですよ、コレ?」
 今度は宥めるように柔らかく撫でまわせばジンはちいさく首を横に振る。弱々しい動きに満足してハザマは身を乗り出した。反射的に顔背けるジンの晒された耳に吐息で吹き込む。
「服で擦れただけで感じちゃったりするんじゃないですか?」
「ちが……っそ、こ、やっ」
 否定することなど認めない。畳みかけて追い詰める。指先でなだらかなラインを辿れば頂で引っかかるものがある。指の腹で押しつぶせば拒絶の体を取った嬌声が上がった。なかなか楽しい。
「こんなに乳首立たせといて違うってことないでしょう」
「ひっ」
「ほら。……爪立てたら泣いちゃうんじゃないですか?」
 いいながら徐々に爪先を沈めていけばジンの目がつられるように見開かれていく。
 常に気丈な瞳に薄く水の膜が張り始めたあたりでハザマは手を離した。ジンの体ががくんと倒れる。
「じょーだんですよ。ほんとにいい感度してますねェ、少佐?」
「はっ……はっ、ぁ……」
 片腕で受け止めるが、ジンはおとなしく息を整えることに必死でハザマのことばなど耳に入っていないようだった。軽く肩を竦めて、そこでふと赤く染まった耳に気づく。
 また楽しいことを思いついて金糸の隙間から覗くそこに唇を寄せた。気づいたジンが逃げを打つように身を揺らすが一瞬遅い。赤く染まった耳朶に、噛みつく。
「ぅ……」
「胸だけじゃなくてこっちもいいんですか? あー……でも、」
 感度はいいんですけど、と続けてついでに一舐め。退こうとする肩はハザマの手が捕らえている。
 胸を押さえたままだったもう片方の手をついと動かし、指先は素肌を覆っている胴着の襟に引っかけて。苦笑しながら軽く引っぱった。
「ちょーっと寂しいですよねェ、ボリュームが」
「っ!」
 一閃、視界を染める白、白に紛れて見え隠れする赤。激昂の色。
 ハザマは思わず片手を上げた。ホールドアップの意を示すものだったが、頬に朱を上らせてアークエネミーを構えるジンが怒りを納める気配はない。もう片方の手は胸を露出させたままだから仕方がないのかもしれないが。
「あ、怒りました?」
 正直意外だった。裸に胴着と羽織を引っかけただけの格好で、しかも女であることに関して特に弁解もなかったものだから、女性らしい意識など持ち合わせていないのかと思ったが、
「黙れ……ッ!」
 怒っている。先ほどまで好き勝手に弄っていたこともあるだろうが「ボリュームがない」の一言が決定打になる程度には胸の小ささを気にしていたらしい。
 喉元に突きつけられた氷刃がぎちりと鳴く。主の怒りに呼応するように冷気が白さを増してハザマの首筋をひやりと撫でた。
 さーてどうしましょうかね、などと間延びした思考で突きつけられた刃を見下ろす。ちょんと突き出されればぐっすりと喉を貫くだろうそれを目にしても緊張感は湧かない。自分の方が圧倒的に優位に立っていると知っているからだ。
 ぎらぎらと煮える瞳を見返しながらもハザマは抜け道を探して、ふと視界の端に見つけた。
「だーいじょうぶですよ少佐。確かに大きいほうが好まれる傾向にありますけど、これだけ感じやすいなら大抵の男は満足しますから」
 でも、と。刃が突き出されるよりも先に続け、大仰な動きで視線を滑らせる。つられてハザマの視線を辿ったジンの表情が、ぴくりと揺れる。
 そこにあったのはハザマが持参した、今回の訪問の要であったはずの報告書だった。机の上に舞い散った紙束の中、目を引くのは書き連ねられた記録に添えられた数枚の写真である。いかにも隠し撮りらしく被写体の掴めないそれだが、人混みに紛れて写り込んでいるのは共通して若い銀髪の男である。
「おにーさんはどうでしょうねェ」
「な、にを」
「私を極秘に動かしてまで行方を捜すなんてよーっぼどお好きなんでしょう?」
 ジンの視線がぐるぐると動く。ハザマと写真に写る兄を見比べてときには己の胸元を見下ろす。よろめくように後ずさった刃を押しのけて、ハザマはずいと顔を寄せた。
 未だに襟に引っかけたままだった指をついと下ろせばなだらかなラインが露わになる。はっきりいって色気はないがこの胸に触れればあれだけの反応が返ってくるのだ、そう考えればなかなかそそられる。
「お兄さんは満足しないかも知れませんよねって話です」
「な、にを……あ、う」
「少佐」
 ぐっと指を押し下げればついに淡く色づいた頂まで晒される。すっかり立ち上がっているそれをやわらかく撫で回しながらハザマはにこりと笑った。
「男に揉まれたら大きくなるって話、聞いたことありません?」
「あ、あっ……んんっ」
「よろしければ私がお手伝いしましょうか?」
 喘ぎを堪えるためにかジンは唇を噛み締める。ハザマは更に笑みを深めた。ちいさく首を横に振る動きは拒否ではない、虚しい抵抗だ。その証拠にジンの目は、なにか期待めいた色を孕んでハザマを見返している。
 お兄さんもきっと喜びますよ? 決定打の一言を付け足して、ハザマは弧を描く己の唇を舌でなぞった。見下ろす先で金色の旋毛がゆっくりと、縦に。揺れる。