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猫に鰹節

    :好物を近くに置いては油断のならないことのたとえ。

 昼食の材料を買いに行ったはずのラグナが連れ帰ったものを目にした瞬間、ジンはぴくりと耳が跳ね上がるのを自覚した。ばつ悪げに視線を逸らす兄と、状況を楽しんでいるかのようなそれがものすごく気に入らない。発する声は自然と唸るようなものになる。
「兄さん、なに、それ」
「なんか……預かっといてくれって、押し付けられた」
 断ればいいのにと思うが、そんなことができないのはジンも承知している。ラグナにそれを預けた張本人が相当尊大というか横柄というか俺様というかとにかく人の話を聞かない性格だと知っているからだ。だから、僕がいるのにそんなの預かるなんて、という台詞は飲み込んだ。
 しかしだ。預かることについては納得できるとして、どうしても許せないことがある。
「……なんで、抱っこ?」
 抱っこ、抱っこだ。しかも背に腕を回し膝裏を抱え上げる、俗にいう定番のお姫様抱っこ! 僕だってめったにしてもらえないのに! 眉間に力を込めて睨みつければ、ラグナの腕の中のそれが笑った。
 紅い目を煌かせた笑みはどこからどう見てもジンに対する挑発で、実際見せつけるように白い尾を撓らせ、ラグナの腕へと絡ませている。遂に紛うことなき唸り声がジンの喉から漏れ始めたところでようやく察したらしい。ラグナがそれを下ろしにかかる。
「ホラ、『ジン』、もう着いたから下りな」
「えー? 僕もっと兄さんとこうしてたいなーっ」
 媚びるような声の『ジン』がぎゅうぎゅうと兄に抱きついたところで、ぶつり、ジンの中で何かが切れた。つかつかと二人に歩み寄り、問答無用で引き剥がす。そのままぐいと掴んだのはもう一人の自分の胸倉だ。
 『ジン』は鋳型から抜いたかのように自分と同じ姿かたちをしている。違うのは色素や衣服の色、そして性格で、ラグナはどちらのことも「ジン」と呼んでいるがジンは『ジン』のことを黒猫と呼び習わしていた。銀色の毛並みの猫を黒猫と称するのはおかしいかもしれないが、着ている服と、何よりも性格を考えれば黒猫という呼び名が断然ふさわしいとジンは思っている。
 今もあっさりと兄から離れ、睨みつけるジンを笑いながら見返しているあたりに確信犯であることが窺えた。これだからこいつのことは好きになれないのだ!
「貴様には貴様の兄さんがいるだろう! 僕の兄さんにべたべた触るなっ!」
「どっちも兄さんじゃないか。それにこっちの兄さんはめったには会わないんだし、」
 ちょっとぐらいいいよね? 可愛らしさを装って小首を傾げる黒猫、その同意の先。しかしジンの牽制のほうが一瞬早い。すんでのところでラグナに抱きつき、双方の視界を遮る。黒猫はやはり笑っている。
 そこでジンの目の前に星が散った。
「いっ……!!
「ジン、いいかげんにしろっ」
 思わずその場にへたり込めば呆れを含んだ兄の声が降ってくる。声にも見上げた先の表情にも台詞ほどの怒りはこもっていないが、頭頂部に落とされた拳は容赦がなかった。思わず涙が零れるくらいには痛い。
 「しゃあねえな」だの「やっぱこうなんのか」だのとぶつぶつ呟きながら兄が腕に下げていた買い物袋を漁る。溜め息とともに取り出されたものを目にしてジンは耳を跳ね上げた。視界の端に映る黒猫の笑みには更に嫌な色が混ざり込む。
 兄がこちらに手を伸ばす。首を横に振って身を引く。抵抗の意思も露わに恨めしげな目で見上げる。が、そんなことで兄が思いとどまるわけもなく、あっさりと首根っこを掴まれた。
「やだ、兄さんなんでっ?」
「お前がジンにケンカ売るからだろうが」
「だって、あ、やっ……!」
 耳元で金属音が響く。兄の手の中にあるのは鎖のついた首輪だった。
 ジンは肩を竦めて抵抗する。そういうプレイなら喜んで享受するけれど、文字通り戒めの意味でこんなものを首に巻かれるなんて。しかもあんな黒猫のために。あいつがにやにやしながら見てる前で!
「や、にいさんやだぁ! 見られてる、のに……!」
 未だ頭部に残る鈍痛と、なにより屈辱のあまり視界が潤む。そこで兄の手が一瞬動きを止めた。もしかしてやめてくれるのだろうかと僅かに期待して見上げれば、兄はなぜか思いっきり苦虫を噛み潰したような顔をして、
「……あーちくしょうっ! そんな顔で誤解を招くような言い方すんな!」
「ひゃっ!」
 がちん! と小さくも固い音を立てて首輪の金具を留めてしまった。完璧に行動を制限するつもりはないらしく、鎖のほうはそのまま床に落とされる。
 苦しくはないけれど首に触る感じが不快だ。なによりあいつの笑みが楽しげなのを通り越して感心したような色を湛えているのが癇に障る。すぐさま外そうとジンは首輪に手を掛けた。そこでラグナの牽制。
「ジン、外したら今日一緒に寝てやんねーぞ」
 兄さんと寝れないのはいやだ、でもこの首輪も黒猫も不愉快で、とはいえあの『兄さん』のことだから預けるといっても少しの間のことだろうし、ああ、でも、でもっ。
 散々考えた末、遂に天秤が傾き切った。ジンはしぶしぶ手を下ろす。
「よし。俺は昼飯の準備してくるけど、二人で待ってられるな?」
「……ん」
 俯いて頷けば、ラグナは項垂れるジンの頭を二、三度撫でた。ラグナの指が耳を掠めればしょんぼりと下がっていたそれはぴくりと揺れる。兄が苦笑する気配。
「いい子だ。お前も大人しくしてろよ」
「はーい」
 黒猫の返事を聞いてラグナの手が離れていく。がさがさと買い物袋の音が遠ざかり、ジンと『ジン』の二人だけがこの場に残された。
 少しの間耐えればいい。考えることでジンは首に纏わりつく違和感と、あからさまに注がれる視線から意識を逸らす。少し待てば兄が戻ってくる、もしかすると黒猫への迎えのほうが早いかもしれない。ジンはじっとりと黙って時を待つことにする。キッチンのから聞こえてくる淀みのない調理の音に耳を澄ませて。
 が、この黒猫を相手に、果たして沈黙の時間が続くはずがなかった。
「わあ、すっごい不機嫌」
「ひっ……!?
 駆け抜ける感覚に尻尾の毛が逆立つ。ぞくぞくと背筋にまで及ぶ感覚は、いつのまにか黒猫の手の中に捕らわれている尻尾からのものだった。ぎっと睨みつければ黒猫は笑って、ジンの尻尾に指を滑らせる。
「はっ、なせ……!」
「んー、でも見るからに機嫌悪そうなんだもん、これ」
「貴様のせいだろうが!」
 いくら黙って無表情を決め込もうとしても尻尾はそうはいかないもので、不機嫌を表してぶんぶん左右に揺れていたらしい。振り払おうと躍起になるジンに笑いかけ、尻尾をしっかりと掴んだまま黒猫はもう片方の手を伸ばす。ジンが微かな金属音に気づいたときには既に遅い。首が前に引かれる。
「っ、は」
「なかなか似合ってるんじゃない?」
 犬じゃあるまいし、似合ってたまるか! そう吐き捨ててやりたいが無理に引かれた鎖のせいで呼吸が苦しい。ならばせめてと睨みつけても目の前の黒猫は笑うばかりで、何の効果もなかった。
 尻尾を掴む黒猫の手が蠢く。明らかに熱を煽るような触れ方が疎ましい。ジンは唇を噛んで耐えた。絶対に声だけは出すものかと、もはや意地だけが頼りである。
「アブノーマルで燃えるっていうか。僕も『兄さん』にしてもらおうかなあ」
 どこか陶酔したような声で黒猫が呟く。見れば黒い尻尾の先はくるんと丸まっていた。ジンは眉根を寄せる。他人の嫌がる様に新しい可能性を発見するあたり、本当にこいつはいい性格をしている。
 ふと黒い耳がぴくりと動く。ジンもほぼ同じタイミングでキッチンからの音が途絶えたことに気づく。ということはようやく兄が戻ってきてくれるのだ。そこで思い至り、ばっと黒猫の顔を窺う。
 さっき黒猫が口にした『兄さん』はこの場にいるジンの兄のことではない、はずだ。しかし、今の反応のよさとこの根性の悪そうな表情、加えて先のどっちも兄さんには変わりないという趣旨の発言。まさか。
「ジン、お前のメシできたぞ」
 ひょいと顔を覗かせたラグナが緊迫するジンの胸の内を知る由もない。ラグナは訝しげに二人の弟の顔を見比べ、
「……何してんだ、お前ら」
「ん? 兄さんのジンは可愛いなあと思って」
 黒猫がぱっと両手を開けば、高い音を立てて滑り落ちる鎖。ようやく解放された尻尾でジンはぺしりと床を叩いた。何が可愛いだ、いや、黒猫のことだから本気でそう思っているのかも知れない。
 苛立ちのままにまた唸り声を上げそうになるジンだが、兄の手前押し黙る。しかし疑念は消えていない。せめてもの牽制に黒い羽織の裾を捕まえておく。気づいた黒猫は目を瞬かせて、それからにこりと笑ってみせた。その行動の意味がまったくもってジンには分からない。
「……ケンカしてねぇんならいいけど。ほらジン、先に食ってな」
「あ、うん」
 とはいえ兄に呼ばれれば手を放す他ない。ジンは招かれるままに食卓へ向かおうとし、不満の声が上がったのはその時だった。
「兄さん、僕のご飯は?」
「すぐに迎えに来るから余計なもんはやるなっていわれてんだよ。あいつが来るまで我慢しな」
「えー」
 ラグナの返事に黒猫はぷうと頬を膨らませる。
 ジンは気づいた。先ほどの笑顔はこれだったのだ。
 しかし咄嗟にジンが間に入るより黒猫がジンを排除するほうが速い。弛んだままの鎖を全力で引いた黒猫と抗うこともできず倒れ込みゆくジンの視線が一瞬、交錯する。黒猫の紅い瞳には射殺さんばかりの勢いで敵意の視線を向けるジンが、ジンの翠瞳にはどす黒くも勝ち誇ったような笑みを浮かべる黒猫が映る。
 瞬く間に起こった変化についていけないのはラグナで、もちろんそれが黒猫の狙いでもある。ラグナが声を上げるより引き倒されたジンが身を起こすより速く、黒猫はラグナを押し倒した。
「いっ……」
「じゃあ僕はこっちにしようかなっ」
「は!? ちょ、待……!!」
 ラグナがようやく上体を起こし状況を把握した、その時点で既に黒猫は兄の両足の間に滑り込み腰のベルトを外し終えている。手際がいいなどという話ではない、速すぎる黒猫の行動に阻止する術などあるはずもなく、ジンのかねてからの危惧が現実のものとなってしまった。
「兄さんのこれ、飲ませて。ね?」
 ズボンの中から取り出した兄自身を弄びながら、黒猫は唇をしならせる。今まで浮かべていた笑みのような戯れ、ではない。本気だ。
 ジンの尻尾が反り返り、毛を逆立たせて膨らむ。
「貴様、兄さんに触るなッ!!
「あ」
 黒猫を突き飛ばして座り込み、ジンは兄を見上げる。妙に焦ったような表情にカチンときた。自分以外の“ジン”に翻弄されている兄なんて見たくない。こんなところぐらいは黒猫の“兄”を見習って欲しいと思ってしまう。
「兄さんも! 僕以外に触らせないで!」
「はあ!? なんで俺が怒られなきゃなんねーんだよっ!」
 確かに悪いのは兄にちょっかいをかけた黒猫のほうだけれど、あっさりと状況に流される兄も悪いのだ。そこらへんを兄はちっとも理解してくれない。それどころか今から説教でも始めそうな表情で見下ろしてくる。
 ジンはぶんぶんと尻尾を振りながら考えた末、取り出されたままだった兄を両手の中に閉じ込め、先端を咥え込んだ。
「あ、む」
「おい、ジン!」
「も、黙って……ん」
 こういうときは状況に流されやすい兄がありがたいのだけれど、自分以外にもこうだと困ってしまう。まだ熱を持つに至っていなかっただけマシか。とりあえず兄を黙らせるために咥え込んだものの、そのあたりをどうやって理解してもらうかが問題だ。
 ぞろりと一度舐め上げて、吸って。口を離す。目だけを動かして見上げれば、もう咎めようという気はないのか、わずかに息を上げる兄がいた。
「二人だけなんてずるい、僕もいるんだからね!」
「あ、貴様!」
 唐突に耳元に湧いた声と、兄を包む手に重なるもうひとつの手。ジンの剣幕などお構いなしで割り入った黒猫はやたらと楽しそうな声で囁く。
「僕も混ぜてよ、ちょっとだけだから」
「誰がっ……」
「一緒にするぐらいいいじゃない。ほら、早くしないと僕が全部しちゃうよ?」
 ね? などと黒猫が首を傾げたところでジンが折れるわけもない。とはいえこのまま放っておけばこの場の主導権を握るのは自分ではなくもう一人の自分のほうだと認めている部分もある。
 結局ジンは黙ったまま顔を伏せた。黒猫が満足そうに笑う。
「っジン、お前らいいかげんにっ……!」
 ラグナが我を取り戻したのはほんの一瞬のことである。ジンが先端に吸いつき、黒猫が側面に舌を這わせれば諌める声はすぐに荒くなる呼吸に掻き消された。
 昼間から事に及ぶのは久しぶりだと思う。じわじわと熱を上げていく兄に煽られ、ジンの思考も少しずつ鈍っていく。この場に浸透する粘ついた水音のみならず首に纏わりついたままの違和感と時折動きに合わせて鳴る鎖にまで微かな疼きを覚えて、ゆるりと尻尾を振った。
 アブノーマルで燃える、とは黒猫の言葉だけれど、ああ確かにそうかもしれないと思う程度には毒されている。
 不意にラグナが動いた。下肢に絡みつく弟の頭を無理矢理押しのけ、それでも抵抗したジンの視界に白が降りかかった。黒猫も同様だったのか隣から声が上がる。
「ふあ……」
「んっ」
「は、ちっくしょ……」
 顔にかかったものを舐め取るジンの前で、脱力したのかラグナは後ろへ倒れ込もうとする。ずるずると滑る背中はしかし途中で止まった。それどころか不自然に硬直している。
 見れば兄の背後。いつからいたのかもう一人、
「よう、楽しかったか?」
「あ、兄さん!」
 白いコートの『兄』がいた。
 硬直するラグナを見下ろす『ラグナ』は、どこか黒猫と似たような笑みを浮かべている。ただし金色の前髪から覗く目は少しも笑っていない。
 黒猫が抱きつこうとすれば、白いほうの兄は笑って片手を振った。
「ちょっと待ってな、すぐ済むから。俺が戻るまでにそれ落としとけよ」
「はーい」
 黒猫は心底嬉しそうに返事をする。この素直さ、恐らく状況を引っ掻き回したことに満足しているのだろう。つくづく思うが本当にいい性格をしている。ジンはじろりと視線を向けるが、黒猫は嬉々として顔を擦っていた。
 白いラグナは硬直し続けるラグナの襟をむずと掴んで無理矢理引っ張り上げる。その笑顔があまりにも眩しい。
「ってことだ。いいたいことは分かってるだろうがちょっと付き合えよ?」
 ああ。ジンは同情も似た心持ちで、返事もできずにずるずると引き摺られていく兄を見つめる。しかしこれに懲りて黒猫に流されることがなくなれば儲けものだと思い直し、顔に降りかかった白を指で掬っては舐める作業へと戻った。