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Yeasty Yokfellow

 水にしては重い音、ぼたぼた。追って視線を落せば汚れた無機質な床、光源もない中くろぐろと拡がるものがある。また、ぼたり。黒が波紋を描いて、じわり、じわり。
 ラグナは首を傾げた。目の高さまで持ち上げた右腕を伝い、流れ、落ちる、ぼたり。足元に拡がる黒、これは俺の血だ。斬りつけられた右腕が熱い。普段ならとっくに塞がっている傷なのに。何やら意味の解らない事を喚くだけ喚いて姿を消した男のせいか。
 薄気味悪い白い面を思い出し、少しだけ眉根を寄せる。しかし浅く刻まれた縦皺は控えめな足音に和らいだ。
「にい、さん」
 とろりと溶けるような声と揺れる蜂蜜色。おずおずと近寄ってくるジンに思わずラグナの喉が鳴る。妙に喉が渇くのは血を失ったせいか。あの細い腕を掴んで食いつきたい、と思う。
 弱い足音に水の跳ねる音が混じる。ジンは不思議そうに自分のつま先を覗き込み、ラグナの足元に拡がるものを見つけてびくりと足を止めた。
 痛い。熱い。渇く。欲しい。笑って、ラグナは腰を下ろした。びしゃりと跳ねた水が橙色のコートに斑模様を描くが気にすることでもない。
「いいから。来いよ、ジン」
 甘い。近い。堪らなく、欲しい。左手を伸ばす。微かな水音を引きずって、ジンはそろりと一歩を踏み出した。惹かれ、伸ばされる指先は躊躇いを含んでもどかしい。待ちきれない、とは、渇いた喉の奥から絞り出される声にならない声。弧を描いて撓る唇を舌で湿らせ密やかに待ち構える。水音が最後の一歩を知らせた瞬間、ラグナはジンの腕を掴んだ。
「っ」
 驚いて跳ねる身体に気づいたが構わず引き込む。じりじりと進んでいた時間が急加速して静止するような感覚。ひとつひとつに動揺して縋るような目をするジンに、鼻先を掠める甘い匂いに昂ぶる。ラグナは笑って淡い金色の旋毛を見下ろした。
 山吹色の羽織が血を吸って黒に変わるさまを横目に、滑らせるように名前を呼ぶ。
「ジン」
「……ぁ」
 のろのろと顔が上がる。まるく開かれた瞳は飴玉のようで耐え難く欲をそそられる。実際、怯えたように、でなければ期待に震えるかのように微細に揺れるジンの目の奥はあまく濡れてとろけていた。
 舌なめずりの代わりに、ラグナは後頭部に回した手でジンの頭をゆっくり撫でる。焦げつく欲はじりじり、昂ぶる熱はじわじわ。ラグナの胸中など知るよしもないジンは繰り返される手つきに安堵したのか少しずつ身体の力を抜いていく。やがてしっとりとした重みが腕の中に収まって、ようやくジンがすべてを預けてきたのだと知れた。
「あ……」
「ん?」
 さあどうやって食いつこうかと、甘い匂いに誘われるがまま鼻先を蜂蜜色に寄せた矢先。腕の中で微かに上がる声。ちいさく息を呑むようなそれに視線を落せば、ジンはじっとラグナの右腕を見つめていた。
 血に汚れたコートはまだ乾いていない。ジンは恐る恐るといった様子で、布の裂け目から覗く裂傷に手を伸ばす。触れたと意識できないほどに弱く滑る指先は赤く汚れる。
「いた、い?」
 問うジンのほうがよほど痛そうな表情だった。ただでさえ溶けてしまっている瞳を潤ませて、耐えるようにぎゅっと眉根を寄せて見上げてくる。そそられる。
「ん、ちっとな」
 笑って答えてやっても、ジンの表情は少しも和まない。見慣れないジンの姿にラグナは首を傾げて、ああと思い至る。いつもはすぐに塞がってしまうから、こんなに生々しい傷も流れて溜まる血もジンは見たことがないのだ。考えてみればラグナ自身ですらそう何度も目にしたことがない光景ではある。
 そういえばそうだっけかと妙に間延びした思考のラグナに反し、傷を前にしているジンのほうが逼迫した様子だった。黙ったまま、しばらく傷口を見つめ続けたジンはやがてさらりと、金糸を滑らせて。
「っ、ん……」
 甘い匂いが揺らめく。密やかに混じる鉄の臭い。ぞわりと駆け巡る感覚とこめかみが痺れるような錯覚。触れているのは腕、傷口なのに、痺れは全身へと波及する。倒錯は腕の中、下がった頭、ぎゅっと目を瞑って一心に。やけに耳につく水音は滴る血と、絡む唾液の音。
 ジンが顔を上げた。窺うように小首を傾げて反応を待つ。ラグナがその唇の端に擦れた赤を見つけるのと、気づいたジンがちいさく出した舌先で舐め取るのとはほぼ同時だった。
「……いや? いたかった?」
 あの舌が今、自分の血を舐めて、飲み下した。
「ジン」
「ん、う?」
 また舌先が伸ばされる前に右腕で蜂蜜色の頭を抱え込む。戸惑い見上げるジンに構わず、左腕は拘束を成す。
 どくどくと打つ脈がこめかみに響く。熱い。甘い。渇く。渇いている。甘い。飢えている。混じる鉄の臭い。失った血は取り戻せない。しかし。腕の中を見下ろす。ジンの潤んだ瞳と舌の感触に限界を覚える。
 ラグナは笑った。音もなく纏う黒は獲物を食らう牙だった。
「ぁ……? あ、っああああああああああ!!
 薄闇で閉ざされた空間に声が木霊する。視界には喉を反らせて叫ぶジンと、ジンを呑み込むように揺らめく黒と、ジンに絡む黒の中から湧き出る赤い燐光。赤はラグナの元へと収束し渇きを満たしていく。充足感は波及し、いまだ熱を持つ傷を塞いでいく、はずだった。
 違和感に眉根を寄せ、ラグナは右腕へと視線を落とした。何も変わらない。もちろん目に見えて傷が癒えていくわけでもないが、平生ならば塞がっていく感覚がある。それがない。ジンから吸収したものは確かに渇きを満たしていくが、腕を伝う血はそのままだった。
「に、いさ、」
 乱れた呼吸の中から微かに声が聞こえた。ジンも違和感に気づいたのか、ラグナの顔と傷を苦しげな表情で見比べている。
 ラグナは搾取のためにジンを連れている。満たされるまで奪うだけだが、ジンも自分が餌だと理解しているようだから特に問題はない。しかしこのままでは傷も治らずただジンを衰弱させるだけだろう。ここでジンに死なれてはいざというときに困る。
 見切りをつけてジンを開放しようとラグナは腕の力を抜いた。纏う黒も脱ぎ捨てようと術式を解除する。
「ん、だめ、」
「ジン?」
「まだ……なおって、ない」
 傷口には触れないように、それでも決して逃がさないように、ジンはラグナの右腕に縋りつく。
「治らねぇんだ。もういいから、放しな」
 柔らかく払い除けようとするが、逆に強く引かれた。触れ合うジンの身体は小刻みに震えている。何ごとかと改めて見下ろせば飴色の瞳は見開かれていた。
 ラグナの視線の先で搾取の末血の気まで失った唇がわななく。零れ落ちる音。だめ。
「だ、め、なおして」
「無理だって」
「だめ、だめ、おねがいだから、なおして」
 ばさばさと蜂蜜色を振り乱して拒否と懇願を繰り返すジンが理解できない。そもそも「だめ」だの「なおして」だのといわれてもできないものはできないのだ。
 なぜか追い詰められた様子のジンはラグナが動かないことを知ったのか、あるいは何ごとか考え込んでいたのか。口を噤んでしばらく俯いていた。沈黙の末に顔を上げる。前髪の隙間から覗く瞳はどろどろと渦を巻いていた。
 右腕の傷へと唇を寄せ、滴るラグナの血を舌で掬う。幾度も幾度も繰り返す。乱れたままのジンの呼吸音と血と唾液が絡む水音だけが響き、必死にラグナの腕を舐める様は猫のようだった。
 じわじわと煽られる。渇きでも飢えでもなく、失った血を取り戻そうという類いの切実なものでもない。が、侵食するかのように充満していく甘ったるい匂い。垂れ流すのは、蜜を滴らせてそそるのは、腕の中のジンだ。
 ラグナの欲を感じ取ったのか、ジンの動きが止まった。ゆるゆると頭を持ち上げて、首を傾げて、妙に熱の篭った身体を摺り寄せる。決定的なのは蜜を引くような声、とろり。
「お、ねが……食べて……?」
 何を、と問う必要もなかった。
 剥いて、蜜の滴る実を曝す。その手間すら惜しい。ラグナの手つきは自然荒いものになる。哀願を含んで擡げられた頭を抱え込めば無理な角度にジンは苦しげな声を漏らしたし、唇を塞げば噛みつくようなものとなった。
 押し入れた舌で甘い甘い口内を掻き回しながら、襟の合わせには手を差し込んで。薄布越しに触れた尖りを指先で捻り上げればジンの身体はおもしろいぐらいに跳ね上がった。幾度か爪先で引っ掻いた末、ラグナは邪魔くさいインナーを引き裂く。己の手にはめたグローブも邪魔だったが、外していられるような余裕はない。
「っは、ひぁ!」
 呼吸を解放するのと同じタイミングで剥き出しにした胸元を鷲掴みにする。平らな胸にぎちり。食い込む指先。隙間から覗く尖りはささやかに、けれども浅ましく存在を主張していた。ラグナは乾いた己の唇を舌でなぞる。指先に微かに伝わる震えは拍動、ああ、この掌の下には、心臓、が。
「……痛いか」
 徐に力を込めてラグナは問う。ジンの腕が持ち上がった。細い指が目指したのはラグナの右腕の傷、しかし触れることはせず、ゆるい動きでその先へ、握り潰す掌へと重なった。
 引き剥がすこともせず、むしろ更に押しつけるように絡む指。答える声は肯定も否定も含まずただ意思だけを告げる。
「いい、にいさん、の、すきにしてっ……」
 垂らされる蜜は毒のように浸透していく。ジンの返事にラグナの右手が動いた。弄んでいた胸を強く押す。なよやかな身体は抵抗など見せるはずもなく後方へと倒れ、びちゃりと汚れた音を上げながら血溜まりの中に沈んだ。赤い雫がジンの頬に散る。
 嫌がる素振りもないジンに覆い被さる。また唇を重ねながらラグナの手はジンの下肢をまさぐった。舌先にちりりと触れる鉄の味。先ほどの口づけで切れていたのだろう、慰めるようにちいさな傷を舐め上げて、下肢では血に濡れたタイツを引き裂く。
 晒されるやわく震える熱とかたく閉ざされた蕾。ラグナが血に濡れたグローブ越しに触れれば、ジンはちいさく声を上げた。
「好きにしていいんだろ?」
「あ、あ……ぐっ」
 床に広がる赤を掬い上げ、奥まった箇所に塗りつける。鼻先を掠める血の匂いが甘いものへと変わっていく。跳ね上がるジンの身体を押さえ込みながら蕾へ指を押し込めば、きつくきつく食い締められた。
 血の滑りはわずかばかりで綻ぶ気配はない。元より慣らすつもりもなかったが、それでもラグナの指は少しずつ飲み込まれていく。力ずくで押し込んでいる、わけではない。
「……やらしいな、自分から咥え込んで」
「はーっ……はっ、あ、」
「こっちも勃ってんぞ」
 無理矢理開いているというのにジン自身は角度を増して雫を結んでいる。揶揄するように笑って指を引き抜けば弱く引き止める内壁。笑って、ラグナは自分の欲を取り出した。ジンのうつろな目がラグナを捉え、何をいうでもなく足を開いていく。
 血に濡れた蕾に昂ぶりを押し当てる。収斂は期待以外のなにものでもない。待ちきれないと喘ぐそこに、ジンの欲が雫を零した瞬間。奥まで突き入れた。
「あー…っ! あう、あっ、は…!」
 固くきつく閉ざされた場所を強引に押し開いていく感覚。肉の開く音が聞こえそうなほどだった。けれども裂けることはなく、それどころか進めれば進めるだけ食らいついてきて、ぐずぐずと熱に溶けたかのように絡みつく。堪らない。
 ジンのすべてを支配しているのだと思う。少し腰を動かしただけで大きく跳ねる身体、浅ましく絡みついて綻ぶ蕾、仰け反る喉は嬌声を散らす。血も汗も精も混じり合ってただ甘く充満する。
「ぁ、…ぃさ、んっ……にいさんっ…!」
「はっ……どうした?」
 溶けて渦巻く蜂蜜色がラグナを仰ぐ。所在なく床に爪を立てていた手が、恐る恐る、腰を掴むラグナの右腕に伸ばされる。
「お、いし……いっ……?」
 繋がった部分から響く水音に掻き消えそうな声。問うと同時にジンの内側がラグナ自身を締め付ける。
 ラグナは目を眇めた。切なげに眉根を寄せるジンは追い詰められている。何に。ラグナは改めてジンを見下ろした。くろぐろとした血溜まりに横たわり、まだ傷の塞がらない右腕に縋る姿。思い至る。
「ね、にいさ……っふあ、あ!?
 引き抜いて叩きつける。ジンは目を見開いて、痛いほど食い締めてきた。吐き出しそうになる衝動を堪えながら数度それを繰り返せば、飴色の眦から耐えかねたのか雫が零れ落ちる。
「ジン、心配すんな」
「あ……っ、ふ、あ……」
「お前は俺の餌だ。余計なことは考えなくていい」
 傷を治すことはできなくても渇きを潤すことはできる。もし術式で食うことができないとしても身体を繋げれば抵抗もせず、多分に色を孕んで喘ぐ様はそこらの女にも引けを取らないほど具合がいい。甘い匂いもラグナ好みで、手放す理由は見当たらない。
「え、さ?」
 荒い呼吸の合間にちいさくジンが呟く。ラグナは動きを緩めて頷いてやった。
 飴色の瞳が溶けて、滲む。大方傷を治すのに役立たない自分は捨てられるとでも思っていたのだろう。
 安堵したのかわずかに力の抜いたジンの、奥の奥へと一気に突き込んだ。
「や、あっああああ!」
 気を散じていたジンが抗えるわけもなく、一際高い声を上げて達する。その瞬間の締め付けにラグナも熱を吐き出した。
「は……、あぅ……」
 満足げに息を吐いて、とろけた飴色が閉ざされる。血と精に汚れて血溜まりに横たわる姿に、また欲をそそる甘い匂いが漂う。ジンの匂いなのか血の臭いなのかはもうわからない。
 ラグナはジンの頬に手を伸ばした。白磁の頬に散る赤、自分の髪より暗い色をしたそれを指先で拭う。ゆるりと開かれる瞳に笑いかけて、ラグナは舌先で己の唇を湿らせた。右腕の傷がじくじくと疼く。
 まだ食い足りない。食事の時間はまだ終わっていなかった。
    2009/4/30 (にぎやかな相棒/虹七題)