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窓から見下ろす遠いあなた
白い手がやんわりとそれを掴む。くったりとしていてふかふか柔らかい。少女はすうっと手を持ち上げ――それを振り下ろした。軌跡はしなやかに弧を描き、最後に結構な音を上げる。びしり!
「ああん」
「ッで!!」
打音に重なる声はふたつ。ひとつは手の中のそれの、つまり尻尾の持ち主であるナゴの声で、もうひとつは椅子の声だった。
レイチェルはまるで鞭のように使い魔の尻尾を弄ぶ。ぴこぴこと椅子の鼻先で揺らしてやれば、露骨な挑発に椅子が唸った。この椅子はまだ分かっていないらしい。ふうと息をついて問いかける。
「ギィ、ナゴ、今なにか聴こえたかしら」
「ナゴの声しかしてないッス」
「そうねぇ、他にはなにも」
使い魔たちの返事に頷いて、レイチェルはテーブルからティーカップを取り上げた。お気に入りの白いカップの中で揺らめく飴色の水面、そこに浮かぶ少女の鏡像が片眉を吊り上げる。揺れている? ティーカップの中は凪いだ世界でなければならないのに。
不愉快な波紋は椅子のせいだった。ぎりぎりぎりぎり。紅茶の波紋と同じタイミングで震える椅子と足元から響いてくる軋み。ヒッとギィが悲鳴を上げるのと事が起こるのは果たしてどちらが先だったか。
「調子乗ってんじゃねーぞウサギぃぃぃぃ!」
存分に怒気を撒き散らしながら椅子が起き上がる、その一瞬前にレイチェルはティーカップを怯えるギィに託していた。放り出されたレイチェルの身体は咄嗟にナゴが受け止めるが、瀟洒なテーブルはなす術もなく、派手な音を立てて薙ぎ倒される。
立ち上がった椅子は肩で息をしながらこちらを見下ろしている。姫様になんてことするッスか、そうよ危ないじゃないと喚く使い魔たちを手で制し、レイチェルは不快さを隠しもせず目を細めた。
「自分の立場を弁えなさいラグナ。貴方は今椅子なのよ、椅子は喋らないし動かないわ」
「うるっせぇ! 一時間も二時間もこんなん耐えられるか!」
どこのSMプレイだだのなんだの低俗な声が上がったがレイチェルは完全に無視を決め込み、さも意外だといわんばかりに眉を顰める。
「あら、まだそれくらいしか経っていないの? あと二十時間強よ、耐えなさい」
「お前がいうな! つーか付き合ってらんねーし! 俺もう帰るわ」
椅子、もといラグナは片手を振りながら背を向ける。枯れた薔薇を蹴散らしながら去る無法者の背を見送りながらレイチェルはそっと、諦めに似た声で囁いた。
「――ゲオルグ」
主の一声に召喚された蛙は一跳ねで前を行く男に追いつき、果たしてレイチェルがギィから受け取ったカップに口をつける頃にはラグナの悲鳴は絶えていた。残るは無様に地に伏す元椅子のみで、その姿は彼の得意料理に通じるものがある。ただし漂うのは食欲をそそる芳香などではなく、敗者の哀愁だった。
レイチェルは深くため息をついた。常ならばこんなラグナの姿、嘲笑うところだがこれが本日二度目となると話は違う。あまりの愚かさに呆れるばかりだ。そもそも、
「言い出したのは貴方で膝を付いたのも貴方よ。約束を破るつもりかしら?」
「うぐっ……」
無理矢理吹っかけてきたのはラグナのほうだ。詰まるような呻き声は自ら約束を反故にすることへの後ろめたさか。一応自覚はあるらしい。
カップに残る紅茶を飲み干し、レイチェルは艶やかに微笑んだ。
「さ、戻っていらっしゃいラグナ」
屈辱に震えるラグナの首に鎖をつける言葉を。
「今日一日、貴方は私の下僕なんだから」
いい加減うぜぇんだよウサギ、俺が勝ったらお前もう帰れ。あ? 俺が負けたら? はっ、いいぜ、お前の下僕にでもなんでもなってやるよ。
などと一時間前に威勢よく吐き捨てたラグナはすっかり大人しくなり、ただし表情だけは反抗の色を残しながらすごすごと戻ってくる。いい眺めだ。レイチェルは満足げに頷いて下僕たちに命令を下していく。
ギィ、紅茶を淹れ直して。お茶請けは分かってるわよね。ラグナ、貴方はテーブルを元に戻しなさい。ナゴはそのままでいいわ。使い魔たちは二つ返事で動き出すが、ラグナはどうにも動きが鈍い。そろそろあるかなしかのプライドなんて捨ててしまえばいいのに。
「ラグナ」
「わぁってるよ、ったく……。で? これが終わったらまた人間椅子か?」
「さあ、どうしようかしら。貴方、椅子にしては硬いんだもの」
さも面倒くさそうに屈みこみ、自分の薙ぎ倒したテーブルをのろのろと直すラグナの背中を眺める。そう、この背中。今腰掛けているナゴに比べれば座り心地は最悪だ。ごつごつ硬いし、安定しないし、何よりぶるぶる震えながら歯軋りしたりするのだから気分が悪い。
ラグナの前で口にすれば間違いなく憤慨するに違いない不満を並べ立てるレイチェルに、心の声が聞こえたわけでもあるまいが、下僕はちいさく抗議の声を上げた。
「だからってお前、叩くことねぇだろ……」
「もっとしゃんとなさいという意味だったのだけれど」
「叩かれて元気になるようなマゾじゃねぇぞ、俺は」
「あら、でも貴方、痛いの好きじゃない」
はあ?
ざわざわと枯れた薔薇が騒ぐ中、間の抜けた声が妙に響いた。お前は馬鹿かとでもいいたげな目でラグナはレイチェルを振り返る。
「いつも自分から痛いほうを選ぶんだもの」
「……何の話だ」
「痛いくせに強がって。本当に不様。死んだほうがマシなのに」
にこり。レイチェルが微笑を浮かべれば、ラグナの瞳には剣呑な色が滲む。何の話か思い至った、というわけではない。レイチェル自身、具体的な何かについて話しているつもりはさらさらなかった。
「それでも死ぬぐらいなら不様にでも生きるほうを選ぶのよね」
「てめぇ、」
「いっそ泣き喚けばいいんじゃないかしら。誰か哀れんでくれるかも知れないわよ」
背中のナゴが毛を逆立てた。宵闇に浮かぶ色はじわじわと光を増して、獣の牙を覗かせている。レイチェルは身構えるナゴを撫で宥めた。
構える必要はない、今更こんなことで本気になるほどラグナは愚かではないのだから。
予想通り、ラグナの牙が剥かれることはなかった。ラグナ自身、レイチェルが単に状況を楽しんでいることに気づいたのだろう。そして挑発して楽しむような趣味はお互い持ち合わせていないことにも。
「そんなもんいらねーよ」
テーブルを立て直してラグナは立ち上がる。こちらに背を向けて、微妙に安定しないのかがたがた天板を揺らしながら、
「お前の罵りだけでたくさんだからな」
「あら、光栄だわ」
がたがたが止む。ラグナは満足げに腰に手を当てていた。なんだかんだいいながら与えられた仕事をきっちりこなすところがいかにもラグナらしい。
テーブルが直されると同時にティーポットを抱えたギィが戻ってくる。うっすらと漂う芳香を楽しみつつ、レイチェルは使い魔がお茶の仕度を進めるさまを眺める。次は何をさせようかしらと思ったところで、ふと視線に気付いた。手持ち無沙汰に突っ立っていたラグナだ。
「何?」
「いや。そんなことになってもお前は相変わらず罵ってくるのかと思ってな」
しばし考えて。それからレイチェルはむっとラグナを見上げた。わずか、よくよく見なければ分からない程度わずか、ラグナの頬が緩んでいる。
そこで確信する。調子に乗せてしまった。あるいは自分の気が緩んでいたのか。レイチェルはまたギィへと視線を戻す。
「……少なくとも貴方が不様に野垂れ死にするまではやめないんじゃないかしら?」
「そいつはどうも」
声が笑っている。だらりと垂れ下がるナゴの尻尾を弄ぶことでレイチェルは今の雰囲気を意識の外へ締め出した。そうでなければラグナのペースに巻き込まれているようで気分が悪い。
「姫様ー」
かたかたと食器を鳴らしていたギィがようやく振り向いた。お茶の準備が整ったらしい。
レイチェルはひっそりと息を吐く。滅多にない遊びなのだから自分の思うように楽しまなければ意味がない。ギィからお気に入りのカップに注がれた紅茶を受け取り、一口。ティーカップの中は正しく凪いでいる。
湯気の向こうの飴色にどこか楽しそうな自分を見つけて、レイチェルはようやく傍らのラグナを見上げた。もし次の瞬間ラグナが嫌そうな顔をすれば、残る二十時間強を下僕として使い倒すことを密かに決めつつ。
「さ、ラグナ。次は肩でも揉んでもらおうかしら」
「ああん」
「ッで!!」
打音に重なる声はふたつ。ひとつは手の中のそれの、つまり尻尾の持ち主であるナゴの声で、もうひとつは椅子の声だった。
レイチェルはまるで鞭のように使い魔の尻尾を弄ぶ。ぴこぴこと椅子の鼻先で揺らしてやれば、露骨な挑発に椅子が唸った。この椅子はまだ分かっていないらしい。ふうと息をついて問いかける。
「ギィ、ナゴ、今なにか聴こえたかしら」
「ナゴの声しかしてないッス」
「そうねぇ、他にはなにも」
使い魔たちの返事に頷いて、レイチェルはテーブルからティーカップを取り上げた。お気に入りの白いカップの中で揺らめく飴色の水面、そこに浮かぶ少女の鏡像が片眉を吊り上げる。揺れている? ティーカップの中は凪いだ世界でなければならないのに。
不愉快な波紋は椅子のせいだった。ぎりぎりぎりぎり。紅茶の波紋と同じタイミングで震える椅子と足元から響いてくる軋み。ヒッとギィが悲鳴を上げるのと事が起こるのは果たしてどちらが先だったか。
「調子乗ってんじゃねーぞウサギぃぃぃぃ!」
存分に怒気を撒き散らしながら椅子が起き上がる、その一瞬前にレイチェルはティーカップを怯えるギィに託していた。放り出されたレイチェルの身体は咄嗟にナゴが受け止めるが、瀟洒なテーブルはなす術もなく、派手な音を立てて薙ぎ倒される。
立ち上がった椅子は肩で息をしながらこちらを見下ろしている。姫様になんてことするッスか、そうよ危ないじゃないと喚く使い魔たちを手で制し、レイチェルは不快さを隠しもせず目を細めた。
「自分の立場を弁えなさいラグナ。貴方は今椅子なのよ、椅子は喋らないし動かないわ」
「うるっせぇ! 一時間も二時間もこんなん耐えられるか!」
どこのSMプレイだだのなんだの低俗な声が上がったがレイチェルは完全に無視を決め込み、さも意外だといわんばかりに眉を顰める。
「あら、まだそれくらいしか経っていないの? あと二十時間強よ、耐えなさい」
「お前がいうな! つーか付き合ってらんねーし! 俺もう帰るわ」
椅子、もといラグナは片手を振りながら背を向ける。枯れた薔薇を蹴散らしながら去る無法者の背を見送りながらレイチェルはそっと、諦めに似た声で囁いた。
「――ゲオルグ」
主の一声に召喚された蛙は一跳ねで前を行く男に追いつき、果たしてレイチェルがギィから受け取ったカップに口をつける頃にはラグナの悲鳴は絶えていた。残るは無様に地に伏す元椅子のみで、その姿は彼の得意料理に通じるものがある。ただし漂うのは食欲をそそる芳香などではなく、敗者の哀愁だった。
レイチェルは深くため息をついた。常ならばこんなラグナの姿、嘲笑うところだがこれが本日二度目となると話は違う。あまりの愚かさに呆れるばかりだ。そもそも、
「言い出したのは貴方で膝を付いたのも貴方よ。約束を破るつもりかしら?」
「うぐっ……」
無理矢理吹っかけてきたのはラグナのほうだ。詰まるような呻き声は自ら約束を反故にすることへの後ろめたさか。一応自覚はあるらしい。
カップに残る紅茶を飲み干し、レイチェルは艶やかに微笑んだ。
「さ、戻っていらっしゃいラグナ」
屈辱に震えるラグナの首に鎖をつける言葉を。
「今日一日、貴方は私の下僕なんだから」
いい加減うぜぇんだよウサギ、俺が勝ったらお前もう帰れ。あ? 俺が負けたら? はっ、いいぜ、お前の下僕にでもなんでもなってやるよ。
などと一時間前に威勢よく吐き捨てたラグナはすっかり大人しくなり、ただし表情だけは反抗の色を残しながらすごすごと戻ってくる。いい眺めだ。レイチェルは満足げに頷いて下僕たちに命令を下していく。
ギィ、紅茶を淹れ直して。お茶請けは分かってるわよね。ラグナ、貴方はテーブルを元に戻しなさい。ナゴはそのままでいいわ。使い魔たちは二つ返事で動き出すが、ラグナはどうにも動きが鈍い。そろそろあるかなしかのプライドなんて捨ててしまえばいいのに。
「ラグナ」
「わぁってるよ、ったく……。で? これが終わったらまた人間椅子か?」
「さあ、どうしようかしら。貴方、椅子にしては硬いんだもの」
さも面倒くさそうに屈みこみ、自分の薙ぎ倒したテーブルをのろのろと直すラグナの背中を眺める。そう、この背中。今腰掛けているナゴに比べれば座り心地は最悪だ。ごつごつ硬いし、安定しないし、何よりぶるぶる震えながら歯軋りしたりするのだから気分が悪い。
ラグナの前で口にすれば間違いなく憤慨するに違いない不満を並べ立てるレイチェルに、心の声が聞こえたわけでもあるまいが、下僕はちいさく抗議の声を上げた。
「だからってお前、叩くことねぇだろ……」
「もっとしゃんとなさいという意味だったのだけれど」
「叩かれて元気になるようなマゾじゃねぇぞ、俺は」
「あら、でも貴方、痛いの好きじゃない」
はあ?
ざわざわと枯れた薔薇が騒ぐ中、間の抜けた声が妙に響いた。お前は馬鹿かとでもいいたげな目でラグナはレイチェルを振り返る。
「いつも自分から痛いほうを選ぶんだもの」
「……何の話だ」
「痛いくせに強がって。本当に不様。死んだほうがマシなのに」
にこり。レイチェルが微笑を浮かべれば、ラグナの瞳には剣呑な色が滲む。何の話か思い至った、というわけではない。レイチェル自身、具体的な何かについて話しているつもりはさらさらなかった。
「それでも死ぬぐらいなら不様にでも生きるほうを選ぶのよね」
「てめぇ、」
「いっそ泣き喚けばいいんじゃないかしら。誰か哀れんでくれるかも知れないわよ」
背中のナゴが毛を逆立てた。宵闇に浮かぶ色はじわじわと光を増して、獣の牙を覗かせている。レイチェルは身構えるナゴを撫で宥めた。
構える必要はない、今更こんなことで本気になるほどラグナは愚かではないのだから。
予想通り、ラグナの牙が剥かれることはなかった。ラグナ自身、レイチェルが単に状況を楽しんでいることに気づいたのだろう。そして挑発して楽しむような趣味はお互い持ち合わせていないことにも。
「そんなもんいらねーよ」
テーブルを立て直してラグナは立ち上がる。こちらに背を向けて、微妙に安定しないのかがたがた天板を揺らしながら、
「お前の罵りだけでたくさんだからな」
「あら、光栄だわ」
がたがたが止む。ラグナは満足げに腰に手を当てていた。なんだかんだいいながら与えられた仕事をきっちりこなすところがいかにもラグナらしい。
テーブルが直されると同時にティーポットを抱えたギィが戻ってくる。うっすらと漂う芳香を楽しみつつ、レイチェルは使い魔がお茶の仕度を進めるさまを眺める。次は何をさせようかしらと思ったところで、ふと視線に気付いた。手持ち無沙汰に突っ立っていたラグナだ。
「何?」
「いや。そんなことになってもお前は相変わらず罵ってくるのかと思ってな」
しばし考えて。それからレイチェルはむっとラグナを見上げた。わずか、よくよく見なければ分からない程度わずか、ラグナの頬が緩んでいる。
そこで確信する。調子に乗せてしまった。あるいは自分の気が緩んでいたのか。レイチェルはまたギィへと視線を戻す。
「……少なくとも貴方が不様に野垂れ死にするまではやめないんじゃないかしら?」
「そいつはどうも」
声が笑っている。だらりと垂れ下がるナゴの尻尾を弄ぶことでレイチェルは今の雰囲気を意識の外へ締め出した。そうでなければラグナのペースに巻き込まれているようで気分が悪い。
「姫様ー」
かたかたと食器を鳴らしていたギィがようやく振り向いた。お茶の準備が整ったらしい。
レイチェルはひっそりと息を吐く。滅多にない遊びなのだから自分の思うように楽しまなければ意味がない。ギィからお気に入りのカップに注がれた紅茶を受け取り、一口。ティーカップの中は正しく凪いでいる。
湯気の向こうの飴色にどこか楽しそうな自分を見つけて、レイチェルはようやく傍らのラグナを見上げた。もし次の瞬間ラグナが嫌そうな顔をすれば、残る二十時間強を下僕として使い倒すことを密かに決めつつ。
「さ、ラグナ。次は肩でも揉んでもらおうかしら」
- 2009/3/20 (瞳を閉じる、十題)
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