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濡れた夕焼け

「また来てしまったのね、かわいそうなお人形さん」
 黒衣の少女はそういった。
 『また』? こんなところ、知らない。
 広い、とても広くてまるで果てがないような青に、うっすらと刷かれた白。その下にまた広がる淡い色、とりどり。そのあいだでぽつんと立っている自分。ニューは急に自分という存在がとてもちいさなもののように思えた。
 状況――不明・不明・不明。再試行、状況――不明・不明……。
 どこまで広がる青空と春色の花畑に、真っ白なテーブル。使い魔を椅子にした少女が優美な所作でテーブルからティーカップを取り上げる。
 幾度試行を繰り返しても該当するものが見つからない。未知の空間は静寂に似た知らない無機質さで佇んでいる。
 試行を重ねるニューを黙って眺めていた少女は、ふとティーカップを弄ぶ手を止めた。「あら」とちいさく声を上げてニューの背後を見つめ、口元を撓らせた。
 未知の世界に唐突に湧いた既知の気配。ニューは振り返る。
 これは知ってる。
 既知の、そんな言葉では終わらない求めて止まないもの。ニューのすべてになるもの。他には何も要らない。それほどの存在。だから黒衣の少女の笑みが興味と嘲りと憐憫を含んでいたことには気づかない。
 吹きぬける風が花畑を撫でた。柔らかく花弁を舞い上げニューの髪を揺らす。舞い散る春色の向こうに、佇む、
「――ラグナっ」
 弾けるように走り出す。なかなか埋まらない距離がもどかしい。それでも素足の裏で踏みしめた花がふわりと香って、まるでラグナに近づくほど無機質な世界が塗り替えられていくようだった。
 あとほんのすこし、もうすこし、ほら、手を伸ばせば。
 ひときわ強く地面を蹴る。ほとんど転ぶようにして、ニューはラグナの胸に飛び込んだ。
「ラグナ!」
 ぶわりと視界を埋める淡色にぐるりと変わる視点、紛れて感じるひっそりとした温もり。
 ニューはぴょこんと顔を上げた。すぐ目の前にラグナがいる。状況――二人で花畑に倒れこんでいて、ニューはラグナの腕の中にいる。春色に染まるようにニューの顔が綻んだ。
「本当にかわいそうなお人形さんね」
 遠くから聴こえる少女の呟き。
 ラグナ以外必要のないニューがそのことばの意味を考えることはなかったし、その必要もなかった。ラグナだけいればいいのだ。他には何もいらない。
「まあいいわ、好きになさい。所詮あなたの夢なのだから」
 黒衣の少女が霞のように消えていったことにも当然気づかず、ニューはラグナの顔を覗きこんだ。
 今日のラグナはどこか違った。いつもなら瞳にぎらぎらしたものを潜ませて剣を向けてくるのに、ただ淡く微笑んでニューを見下ろしている。あの無骨な剣も腰に留めたままだ。
「ラグナ、ニューに会いに来てくれたの?」
 ニューは首を傾けた。問いを口にしたところで、ざらざらしたものが思考をよぎる。
 『会いに来てくれた』? そういえばここは、
 けれど次の瞬間に思考は塗り替えられた。
「ああ。お前が呼んだからな」
 ラグナが手を伸ばす。迫ってくるおおきなてのひら。いつもなら闇を纏って喰らいついてくるそれに一瞬肩を竦めれば、頭のうえで微かな笑い声。同時に下ろされた手はニューの銀色の髪を撫で、数枚の花びらを落とした。
 付いてるぞ。苦笑しながらラグナはニューの髪を梳き続ける。落ちる花びらがなくなってもラグナの手はそのままで、だんだん頬がぽかぽかしてくる。ニューはうっとりと目を細めた。
「ラグナ、今日はなんか優しいね」
「ああ。ここはお前の夢だからな」
「ゆめ?」
 ざらり。また思考をよぎる何か。
 ゆめ、夢ってなんだろう。どこかで聞いたような気がする。でも知らない。見上げればラグナは不思議な表情をしていた。痛そうな、でも痛がっているときよりもっと静かな。ニューにはよくわからない。剣を持っているときのラグナはよくこんな顔をしている。でもわからないから、そこにどんな感情があるのか知らない。
「夢ってなに?」
「……お前の望みが叶うってことだ」
 その言葉を聞いてニューは表情を輝かせた。ラグナの膝によじ登り、お互いの鼻が触れそうなほどの距離からラグナの顔を覗き込む。あまりに近すぎてラグナがどんな顔をしているのか分からないぐらいだ。
 ニューの望みはひとつしかない。ここは望みが叶うところで、しかもこんなに近くにラグナがいる。だからニューは迷いなく求めた。
「ラグナ、やっとニューと一緒になってくれるんだね!」
 途端、あんなに優しかった場所は手のひらを返した。
 風が吹き抜ける。波のように揺れた花々は色を失い、ばらばらと花弁を散らしていく。青かった空も濁り厚ぼったい雲で覆われていった。瞬く間に様相を変える世界、しかしニューが恐れたのはそんなものではなかった。
 風に流されるように温もりが遠ざかる。徐々に離れていくラグナはやっぱり不思議な表情をしていて、ただ立ち尽くしていた。ニューがどんなに手を伸ばしても届かない。駆け寄ろうとしても吹き付ける風に阻まれる。
「やだ、やだよラグナ、なんで?」
「それはお前の本当の望みじゃないから」
 もがいてもどうにもならない状況とラグナの答えに、ニューはだんだん混乱してきた。さっきまであんなに近くにいたのに、あんなに優しかったのに、ここは『夢』だって、ニューの望みが叶うところだって言ったのに!
 がむしゃらに手足を動かしながらニューは声を張り上げた。ラグナに届くものはもう声しかない。
「わかんないよ、ニューはラグナとひとつになりたいもん!」
「俺は俺でお前はお前だ。一緒じゃない」
「やだ、やだ、そんなの知らない! ラグナ、ラグナぁ!」
 伸ばした指先で、枯れた花びらに撒かれて。曇天に溶けるようにラグナの姿が薄れていく。
 ラグナはあの表情のままでちいさく口を動かした。ニューの鋭敏な聴覚は風に紛れる声を捉えてぶんぶんと首を左右に振る。
 ――『そうじゃない』? どういうことかわからない。そうするあいだにもラグナは遠ざかって見えなくなっていく。またラグナの声。
 ――『今、お前はどうしたい』
「ニューは、」
 今。輪郭だけがぼんやりと残るラグナに向かって必死に手を伸ばして、駆け寄って、叫んでいる『今』。さっきまでいろんなものがすごく優しくてあったかかった、でもだんだん冷たくなっていく『今』。
「ラグナと一緒にいたい! 行かないでようっ……!」
 指先が触れた。
 引かれる。視界が暗くなった。けれど冷たくはない。じんわりとした温もりの中に閉じ込められている。ニューはすっぽりとラグナの腕の中に納まっていた。
 必死でラグナの名前を呼びながら、手探りで背中に腕を回す。ぎゅうぎゅうと抱きつけば、微かな吐息がニューの耳元をくすぐった。
「そうだろ」
「ラグナ」
「本当はこれだけでいいんだ。『一緒』なんて、これだけで」
「ラグナ……?」
 温もりがお互いの顔が見えるところまで離れていく。ラグナを見上げてニューは首を傾げた。
 凪いだ空気にさらさらと滑る銀糸、その奥でニューと同じ赤い瞳が揺れていた。ゆらゆらと揺れて、つるりと零れる、滑る。ニューは咄嗟にラグナの頬に手を伸ばした。指先で弾ける熱。
「ラグナ、泣いてるの? どうして?」
 どこか痛いの? ニューのせい?
 ラグナはずっと痛そうな、ニューの知らない不思議な顔をしていた。だからやっぱりどこか痛むのかと、片手は頬に添えたまま、もう片方の手でラグナの身体をぺたぺたと触っていく。
「……どこも痛くねぇよ」
「でも、ラグナ泣いてる」
「ここが、夢だから」
 よくわからない。『夢』は望みが叶うことだとラグナはいった。望みが叶うなら、それは『しあわせ』で、泣いたりなんかしないはずだ。
 はらはらと落ちる熱を指先に感じながらニューは考える。考えてみて、また首を傾げる。
「ラグナ、泣きたいの?」
 ラグナは黙ってニューを見下ろした。ゆるゆると息を吐いて零す。そうかもな。
「お前が泣けないから、泣きたい」
 潤んだ赤い色にニューの姿が映っている。ゆらゆらと揺れる自分の姿はなんだか不思議だった。ラグナは泣いてる。ニューが泣けないから、ニューの代わりに?
 ニューは別に泣きたくなんかない。だってここにはラグナがいる。どうして泣かなきゃいけないんだろう。
 ざらざらが奔る。今度は少女の声を連れていた。
『所詮あなたの夢なのだから』
 夢ってなんだろう。ここは、どこなんだろう。
 周りの空気が冷たくなっていく。足元の花は朽ちたまま、灰色の雲はゆっくりと動いて流れる。ずるずると無機質に戻っていく中、ニューはぎゅっとラグナのコートを掴んだ。指先に触れる温もりと、弾けて消える熱だけが最後のよすがだった。
    2009/3/13 (瞳を閉じる、十題)