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硝子越しに見た世界
ユキアネサがきぃんと啼く。
綺麗だと思う。この澄んだ高音も、流麗に身を反らす氷刃も、自分の一振りに応える『力』も。ジンはまじまじと愛刀を見下ろし、そして眼前の氷塊へと視線を滑らせる。
「ラグナ」
にこりと笑いかける。ラグナの表情は揺るがない。しまった、そう呟いたまま氷の中で時を止めている。
ああ、『殺したい』、な。
しみじみとそう思って、ジンは氷の表面に指先を滑らせた。ゴム製の手袋と氷が触れ合えばただ耳障りな音。ぎちり。噛み千切る音にも似ている。
『殺したい』。どうしてそう思うのだろう。
ユキアネサの刃鳴りに比べれば幾分か美しくなく、指先で触れるよりはいくらか耳に易い音が鼓膜を叩いた。伸ばしたままのジンの指の先で氷塊が砕け散る。降りかかる欠片が頬を掠めれば、ほんの僅か熱が生まれる。切れたのだろう。
ばらばらと砕けた氷を撒き散らしながら、また相対する、兄。ラグナは大剣を片手で振って纏わりつく氷と水を払っている。視線だけはこちらに向けて。
綺麗だと思う。凛と立つその姿も、怒りを湛えた双眸も、剣を構える流れも。宙を舞う氷が弱い光を過剰に反射して、どこか非現実的な空気を作り上げる。きれいだ、ほんとうに。喉元に剣先を突きつけられてもまだ、ジンはぼんやりと見惚れていた。
「……なんだジン、大人しく殺される気にでもなったか?」
片手に握ったユキアネサはだらりと俯いたまま。訝しく思ったのだろう、ラグナが光彩の向こうで目を細めた。
「どうして」
非現実に毒されたのだと思う。
でなければこんな言葉が自分の口から零れ落ちるわけがない。とうの昔にどこかへ置いてきたはずの違和感なんて、口にできるわけがないのだから。
「どうして、ただ『好き』なだけでいられなかったんだろう」
ラグナは目を見開いた。
剣先もぐらり、揺らいで、またジンの喉元へと戻ってくる。
何か言いたげに、僅かばかり口を開いては結局閉ざす。ラグナは数度そんな仕草を繰り返した。最後にはただ唇を噛み締めて、見定めるように己の弟を見つめる。
非現実とは理解できないもので、ジンは何も言わずに立ち尽くしていた。胸を焦がす殺意も今は凪いでいる。光彩の向こうで恐らく戸惑っているのだろう兄に、訳もなく満たされた心地になる。
音もなくラグナの剣先が落ちる。
ユキアネサも黙したまま。
無音をそっと壊したのは、ぱきりと、降り積もった薄氷を履む音だった。
ぱきり、ぱきり、ぱきり。縮まる距離。なくなっていく空白。埋まるはずのないそれを詰めたのは、ラグナだった。
「ジン」
一際耳に残る、ぱきり。
同時にゼロになる隔たり。埋めたのは互いの唇。
相対し交錯し絡み合う視線が離れる、のが惜しい。そう思うからジンは目を開いたままでいた。ラグナも同じ心境だったかどうかは分からない。けれど決して交わるはずのない『何か』を手繰り寄せたのはラグナだ。ジンはそれだけを思う。
頬の擦過傷と同じぐらいの熱がじんわりと宿る頃になってようやく、ラグナはゆっくりと離れた。遠ざかる唇、その代わりに手に触れるものがある。
「にい、さん?」
「……冷てーな、お前の手」
絡む指先、触れる温度は鈍くしか伝わらない。互いの手袋が僅かな距離を生んでいる。こんなに薄いもので遮られるものなのか、刀を振るっていたときはあんなに昂揚していたのに。この身も理性も焼き切るほどの熱も今は遠く、胸の内を細やかに溶かすほどしか残っていない。
非現実。ジンは強くそう感じる。きぃんと、思わず握りしめた手の中で刃が鳴いたが、ラグナは僅かに一瞥をくれただけで気にした様子もなく、
「今だけだ」
酷くいたむような表情で、呻くように、
「今だけ、全部忘れてやる」
囁いて、触れたままだったジンの手を僅かに持ち上げた。手から零れ落ちたユキアネサが綺麗なこえでないて、冷たい風を巻き上げる。邪魔者はいなくなったとばかりにラグナはジンの手を口元まで引き寄せた。
「ん、」
薄いゴム越し、中指の先に柔らかく触れる兄の歯。その感覚にジンは眩暈を覚える。ラグナは噛んだ手袋を引き抜いて、剥き出しになったジンの手の甲を己の頬へと触れさせた。
今はいたみを忘れた赤と緑の双眸が『何か』を、二人の間に呼び起こす。
「だからお前も忘れろ。今だけでいい」
「――兄さ、ん」
視界にまだ残る氷晶は煌きだけを残して落ちていく。非現実はまだ止んでいない。
踏み出したジンの足元で、ことばもなく。砕けた氷が始まりを言祝いだ。
綺麗だと思う。この澄んだ高音も、流麗に身を反らす氷刃も、自分の一振りに応える『力』も。ジンはまじまじと愛刀を見下ろし、そして眼前の氷塊へと視線を滑らせる。
「ラグナ」
にこりと笑いかける。ラグナの表情は揺るがない。しまった、そう呟いたまま氷の中で時を止めている。
ああ、『殺したい』、な。
しみじみとそう思って、ジンは氷の表面に指先を滑らせた。ゴム製の手袋と氷が触れ合えばただ耳障りな音。ぎちり。噛み千切る音にも似ている。
『殺したい』。どうしてそう思うのだろう。
ユキアネサの刃鳴りに比べれば幾分か美しくなく、指先で触れるよりはいくらか耳に易い音が鼓膜を叩いた。伸ばしたままのジンの指の先で氷塊が砕け散る。降りかかる欠片が頬を掠めれば、ほんの僅か熱が生まれる。切れたのだろう。
ばらばらと砕けた氷を撒き散らしながら、また相対する、兄。ラグナは大剣を片手で振って纏わりつく氷と水を払っている。視線だけはこちらに向けて。
綺麗だと思う。凛と立つその姿も、怒りを湛えた双眸も、剣を構える流れも。宙を舞う氷が弱い光を過剰に反射して、どこか非現実的な空気を作り上げる。きれいだ、ほんとうに。喉元に剣先を突きつけられてもまだ、ジンはぼんやりと見惚れていた。
「……なんだジン、大人しく殺される気にでもなったか?」
片手に握ったユキアネサはだらりと俯いたまま。訝しく思ったのだろう、ラグナが光彩の向こうで目を細めた。
「どうして」
非現実に毒されたのだと思う。
でなければこんな言葉が自分の口から零れ落ちるわけがない。とうの昔にどこかへ置いてきたはずの違和感なんて、口にできるわけがないのだから。
「どうして、ただ『好き』なだけでいられなかったんだろう」
ラグナは目を見開いた。
剣先もぐらり、揺らいで、またジンの喉元へと戻ってくる。
何か言いたげに、僅かばかり口を開いては結局閉ざす。ラグナは数度そんな仕草を繰り返した。最後にはただ唇を噛み締めて、見定めるように己の弟を見つめる。
非現実とは理解できないもので、ジンは何も言わずに立ち尽くしていた。胸を焦がす殺意も今は凪いでいる。光彩の向こうで恐らく戸惑っているのだろう兄に、訳もなく満たされた心地になる。
音もなくラグナの剣先が落ちる。
ユキアネサも黙したまま。
無音をそっと壊したのは、ぱきりと、降り積もった薄氷を履む音だった。
ぱきり、ぱきり、ぱきり。縮まる距離。なくなっていく空白。埋まるはずのないそれを詰めたのは、ラグナだった。
「ジン」
一際耳に残る、ぱきり。
同時にゼロになる隔たり。埋めたのは互いの唇。
相対し交錯し絡み合う視線が離れる、のが惜しい。そう思うからジンは目を開いたままでいた。ラグナも同じ心境だったかどうかは分からない。けれど決して交わるはずのない『何か』を手繰り寄せたのはラグナだ。ジンはそれだけを思う。
頬の擦過傷と同じぐらいの熱がじんわりと宿る頃になってようやく、ラグナはゆっくりと離れた。遠ざかる唇、その代わりに手に触れるものがある。
「にい、さん?」
「……冷てーな、お前の手」
絡む指先、触れる温度は鈍くしか伝わらない。互いの手袋が僅かな距離を生んでいる。こんなに薄いもので遮られるものなのか、刀を振るっていたときはあんなに昂揚していたのに。この身も理性も焼き切るほどの熱も今は遠く、胸の内を細やかに溶かすほどしか残っていない。
非現実。ジンは強くそう感じる。きぃんと、思わず握りしめた手の中で刃が鳴いたが、ラグナは僅かに一瞥をくれただけで気にした様子もなく、
「今だけだ」
酷くいたむような表情で、呻くように、
「今だけ、全部忘れてやる」
囁いて、触れたままだったジンの手を僅かに持ち上げた。手から零れ落ちたユキアネサが綺麗なこえでないて、冷たい風を巻き上げる。邪魔者はいなくなったとばかりにラグナはジンの手を口元まで引き寄せた。
「ん、」
薄いゴム越し、中指の先に柔らかく触れる兄の歯。その感覚にジンは眩暈を覚える。ラグナは噛んだ手袋を引き抜いて、剥き出しになったジンの手の甲を己の頬へと触れさせた。
今はいたみを忘れた赤と緑の双眸が『何か』を、二人の間に呼び起こす。
「だからお前も忘れろ。今だけでいい」
「――兄さ、ん」
視界にまだ残る氷晶は煌きだけを残して落ちていく。非現実はまだ止んでいない。
踏み出したジンの足元で、ことばもなく。砕けた氷が始まりを言祝いだ。
- 2009/2/26 (瞳を閉じる、十題)
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