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ゲーム・オーバー
どれだけこいこがれても。こんなにも求めているのに。兄は自分のことなんて少しも見てはいない。昔からそうだった。
揃わない歩幅の分、必死に走って。兄の背に手を伸ばす。兄は自分のことを見てはいなかったけれど指先が少しでも触れればこちらを振り向いてくれた。そしてほんの僅か立ち止まる。置いていかないでと訴えれば、笑って頭を撫でてくれる。兄は優しいのだ。けれどその優しさは自分だけに向けられるものではない。
それでも自分は、他の誰にも兄を、兄の視線を、兄の優しさを渡したくないと思うから決して埋まらない溝がある。
どうしたら兄は自分のほうを見てくれるだろう。
考えた。そして見つけた。
止め処なく零れ落ちる赤があまりにも甘美だった。赤に沈む兄はぎらぎらとした瞳で自分を睨みつけていて、思わず戦慄した。ぞくぞくと背筋を這い上がる激情、達してしまいそうなほどのそれ。これ以上ないほどの悦びだった。
けれど。
時が経てば熱は冷め、冷えた身体は心を蝕む。
あれは最後の手段だったのだ、狂おしい想いを置いてけぼりにして、兄はいなくなってしまった。
兄がいなくなってからの毎日は無意味で、現実さえも希薄だった。イカルガの内戦も、そこで挙げた功績も。自分の出世さえ。どこかに意味があるとするならば忌々しい記憶を呼び起こさせる“あいつ”そのものにしか見えない女が部下として常に傍にいるとか、そんな不快なものしか見当たらない。
またこがれる。兄さん、兄さん、どんなに声を上げても、もう前をゆく背中はない。撫でてくれる手も。
どんなにこいこがれても、もう兄はいない。あの熱と引き換えにしたのは紛れもなく自分だ。
「ジン」
兄が笑う。
「来いよ、ジン」
どうして兄がここにいるのだろう。そんな疑問はなかった。
失った熱が湧き上がり、思考のすべてを燃やし尽くす。構うことはない、自分がここにいて兄が目の前にいる。ならばすることなんてひとつしかない。そこに思考など必要ない。ただ求めるだけだ。
狂おしい想い、渦巻く、熱を上げて、焼き切るほどに。対して構えた刀は零度の風を巻き上げる。視界を染める細氷が至高の時間を織り上げる。地を蹴って、真っ直ぐに見詰める先にいるのはこいこがれて止まない、兄。
高い剣戟の音が踊る。踊る。踊る。怒号も砕氷の悲鳴も呑み込んで、踊る。
狂乱の末路、愛刀が宙を舞って、堕ちる。
氷の刀身の澄んだ音が、地面に押さえつけられた頭を震わせた。
「オラ、どうした。もう終いか?」
「あ、はッ……ぐ、」
自分の上に馬乗りになって、兄は片手を伸ばす。手が触れたのは痛みに喘ぐ喉。ゆっくりと力を込められる。首が絞まる。塞がれた呼吸。乱暴な手つきで揺さぶられた後頭部も鈍い痛みを訴えて止まない。
見上げる。赤と緑の双眸。兄の瞳、その二対。殺しても殺したりないと暗に叫ぶ、憎悪、身を切るような黒い感情を肌に感じる。そう、兄が、兄が自分を見ている。
だめだなと思った。霞む視界、足りない酸素、死を前に蠢く喉。どれもこれも兄が与えたものだ。だめだよ兄さん、だって、これは。
声なく、唇が動く。
「き も ち い い」
「――そうか」
兄の唇の端が吊り上がる。
途端、手が離れた。急速に戻ってくる空気の流れに抗えず激しく咳き込む。生理的に溢れる涙が煩わしく、滲む視界の中で必死に兄を探した。自分が死の間際にいたことより、兄の手が離れてしまったことのほうがよほど怖い。
「なら可愛がってやるよ、ジン」
止まらない咳の中、落ちてくる兄の声。優しい音の羅列。柔らかく髪が掻き混ぜられる。昔と同じようにそっと触れてくる手。ずっとずっと、自分だけに向けて欲しいと願っていた。
こいこがれたものが、ここにある。
涙の向こうにようやく見つけた兄は、ざわめく闇を纏って笑っていた。
揃わない歩幅の分、必死に走って。兄の背に手を伸ばす。兄は自分のことを見てはいなかったけれど指先が少しでも触れればこちらを振り向いてくれた。そしてほんの僅か立ち止まる。置いていかないでと訴えれば、笑って頭を撫でてくれる。兄は優しいのだ。けれどその優しさは自分だけに向けられるものではない。
それでも自分は、他の誰にも兄を、兄の視線を、兄の優しさを渡したくないと思うから決して埋まらない溝がある。
どうしたら兄は自分のほうを見てくれるだろう。
考えた。そして見つけた。
止め処なく零れ落ちる赤があまりにも甘美だった。赤に沈む兄はぎらぎらとした瞳で自分を睨みつけていて、思わず戦慄した。ぞくぞくと背筋を這い上がる激情、達してしまいそうなほどのそれ。これ以上ないほどの悦びだった。
けれど。
時が経てば熱は冷め、冷えた身体は心を蝕む。
あれは最後の手段だったのだ、狂おしい想いを置いてけぼりにして、兄はいなくなってしまった。
兄がいなくなってからの毎日は無意味で、現実さえも希薄だった。イカルガの内戦も、そこで挙げた功績も。自分の出世さえ。どこかに意味があるとするならば忌々しい記憶を呼び起こさせる“あいつ”そのものにしか見えない女が部下として常に傍にいるとか、そんな不快なものしか見当たらない。
またこがれる。兄さん、兄さん、どんなに声を上げても、もう前をゆく背中はない。撫でてくれる手も。
どんなにこいこがれても、もう兄はいない。あの熱と引き換えにしたのは紛れもなく自分だ。
「ジン」
兄が笑う。
「来いよ、ジン」
どうして兄がここにいるのだろう。そんな疑問はなかった。
失った熱が湧き上がり、思考のすべてを燃やし尽くす。構うことはない、自分がここにいて兄が目の前にいる。ならばすることなんてひとつしかない。そこに思考など必要ない。ただ求めるだけだ。
狂おしい想い、渦巻く、熱を上げて、焼き切るほどに。対して構えた刀は零度の風を巻き上げる。視界を染める細氷が至高の時間を織り上げる。地を蹴って、真っ直ぐに見詰める先にいるのはこいこがれて止まない、兄。
高い剣戟の音が踊る。踊る。踊る。怒号も砕氷の悲鳴も呑み込んで、踊る。
狂乱の末路、愛刀が宙を舞って、堕ちる。
氷の刀身の澄んだ音が、地面に押さえつけられた頭を震わせた。
「オラ、どうした。もう終いか?」
「あ、はッ……ぐ、」
自分の上に馬乗りになって、兄は片手を伸ばす。手が触れたのは痛みに喘ぐ喉。ゆっくりと力を込められる。首が絞まる。塞がれた呼吸。乱暴な手つきで揺さぶられた後頭部も鈍い痛みを訴えて止まない。
見上げる。赤と緑の双眸。兄の瞳、その二対。殺しても殺したりないと暗に叫ぶ、憎悪、身を切るような黒い感情を肌に感じる。そう、兄が、兄が自分を見ている。
だめだなと思った。霞む視界、足りない酸素、死を前に蠢く喉。どれもこれも兄が与えたものだ。だめだよ兄さん、だって、これは。
声なく、唇が動く。
「き も ち い い」
「――そうか」
兄の唇の端が吊り上がる。
途端、手が離れた。急速に戻ってくる空気の流れに抗えず激しく咳き込む。生理的に溢れる涙が煩わしく、滲む視界の中で必死に兄を探した。自分が死の間際にいたことより、兄の手が離れてしまったことのほうがよほど怖い。
「なら可愛がってやるよ、ジン」
止まらない咳の中、落ちてくる兄の声。優しい音の羅列。柔らかく髪が掻き混ぜられる。昔と同じようにそっと触れてくる手。ずっとずっと、自分だけに向けて欲しいと願っていた。
こいこがれたものが、ここにある。
涙の向こうにようやく見つけた兄は、ざわめく闇を纏って笑っていた。
- 2009/2/23 (瞳を閉じる、十題)
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