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空いた座席

 ノエルはむずむずする感覚を押さえ込みながら必死で手と口を動かしていた。ちなみにこそばゆいとか面映いとか恥ずかしいとか、そういう類いの“むずむず”ではない。
 衝動を押さえ込むように俯く。視線の先には白いクロスの掛けられたテーブルに綺麗に並べられた料理たち。料理といっても昼食だから手の込んだものではない。厚めに切られたベーコンと瑞々しい野菜を挟んだサンドイッチに、付け合せのフライドポテト。あとはカップスープ。これで終わりだ。
 極めて軽食で、食べあぐねるような内容でも量でもない。ないのだけれど。
 ……重い、辛い、息苦しい!
 ちらりと眼球だけを動かして対面する席を窺う。座しているのは上官で、もう少し付け足すならばノエルが最も苦手とする人物だった。ジン=キサラギは萎縮しきったノエルに気付くことなく、いや、もしかすると気付いていて敢えて黙殺しているのかもしれないが、とにかく己のペースを崩すことなく食事を続けていた。
 何がどうして上官と顔をつき合わせて昼食を取るような事態になったのかといえばそれはもう不幸だったというほかない。重要なのはどうしてこうなったかと過去を振り返るのではなく、今どうするべきかを考えることだ。統制機構での辛い毎日の中で唯一の楽しみといっても差し支えのない食事の時間なのだから!
 毎日が辛い原因は主に目の前にいる上官その人なのだがそこを考えると更にやるせなくなるので気付かないふりをして、ノエルは勇気を振り絞って顔を上げた。なんとか会話の糸口を見つけるためだ。伊達に士官学校からの付き合いではない。
 当時から今までを振り返ってみても学業や職務以外の内容でまともに会話が成立したことなどないに等しいのだがやはりノエルは気付かないふりを決め込み、そして見つけた。
 軍人にしては綺麗なジンの指が、優美とも呼べる所作で以って食事を片付けていく。
 しかしその軌跡に取り残されたものがあった。サンドイッチに挟まれていたベーコンだ。
 ベーコンは白い皿の上にぺたりと、どこか恨めしげな風情で横たわっている。
 二人きりという居た堪れなさに失念していたが、考えてみればノエルとジンが食事を共にするのは初めてのことである。ひょっとして少佐はベーコンがお嫌いなのかなと思い至ったものの、果たしてこんなことをこの人相手に会話の糸口として使ってしまってもいいものだろうか。
「……何か言いたいことでもあるのか、ヴァーミリオン少尉」
「えっ!? あ、あのそのっ」
 皿を凝視していることに気付いたのか、ジンから予想外の先制。ノエルは反射的に背筋を伸ばしてジンに相対した。悲しいかな、条件反射のなす技によってノエルは自ら退路を失ったのである。
 向かい合う麗人はノエルの顔を見るのも不愉快だと言わんばかり。ジンとの付き合いが浅い人間なら気付かないだろうほんの僅かな表情の綻び、その感情の起伏がノエルには手に取るように分かる。なのでますます言い出せない。が、恐らく口に出しても黙っていても更に機嫌を損ねること請け合いだった。
 午後の職務、その惨劇を暗澹たる心持で予測しながら、ノエルは恐る恐る口を開いた。
「その……少佐は、ベーコンがお嫌い、なんですか」
 ジンの表情が歪む。何を言われるのか。ノエルは縮こまって息を殺した。
 断頭台でただその時を待つ、ノエルにはそれほどに感じられたが傍から見れば恐らく何のことはない数秒の後、ジンは忌々しげに口を開いた。ベーコンが忌々しいのか発言すること自体が忌々しいのか対するノエルが忌々しいのかは不明である。
「肉が嫌いなだけだ」
 ベーコンは肉に入るのだろうか。
 ノエルは自分の皿のサンドイッチを見下ろした。厚めに切られたベーコンは少し脂っぽいが、サンドイッチとして食べる分にはさほど気にならないと思う。
「それが何だ」
 ノエルの無言に何を感じ取ったのか、ジンの言葉。また反射的に顔を上げる。
「え、と、少佐にもお嫌いな食べ物があるんだなと……思って……」
 思わず、目を瞬いた。
 ジンが先より更に歪んだ表情でこちらを睨みつけていた、とか、あるいはたかがそんなことで余計な時間を取らせるなとでも言いたげだった、とか、ではない。
 ベーコンの、つまり肉の、でなければ嫌いな食べ物の話をしていたはずだと内心で誰にともなく確認する。つまり今までの話の流れにちっともそぐわないような表情のジンがそこにいたからである。
 ノエルには決して見せたことがない、穏やかでどこか幼い顔。
 しかしもう一度瞬いたときには、常と変わらない上官しかいなかった。
 ジンは不快そうな空気を隠しもせずに席を立つ。はっとしてノエルは己の皿とジンの皿を見比べた。ノエルの皿にはサンドイッチがあと一切れ、スープも少し残っている。ジンの皿にはベーコンだけが取り残されていて、つまり食べ終わったということなのだろう。
「先に行っている。時間には遅れるなよ、ヴァーミリオン少尉」
「は、はいっ!」
 慌てふためくノエルなど視界にも入れず、言い残してジンは立ち去った。
 ノエルは急いでサンドイッチを口に詰め込もうとして、止めた。壁に掛けられた時計を見れば、午後の職務開始まではまだ時間があるし、先ほどまで真正面にいた上官はいないのだから気負うこともない。
 それに。
 対面する席に残された皿を、ちらり、見やる。
 もうすぐ給仕係が下げに来るだろうそれ。残された厚めのベーコン。
 毒気を抜かれた、とでも言おうか。あの表情はなんだったのだろう。普段の上官からは想像もできないあの顔。そもそも嫌いな食べ物の話をしていてあんな顔をする人もいないだろうと思う。
 もう冷えてしまったスープに手を伸ばしながらノエルはちいさく息を吐いた。酷く気になる表情だったが、考えたところでなにか分かるわけでもない。それにあんな表情が自分に向けられることは絶対にないのだから。
 腑に落ちないようななにかむずむずとしたものを覚えつつ、ノエルはスープを飲み干した。
    2009/2/22 (瞳を閉じる、十題)