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いつかの話

 目が覚めたのは微かになにかが聴こえたような気がしたからだった。ぽったりと重く落ちてくる瞼と戦いながら、ラグナはそれでも耳を澄ます。
 ひゅうひゅう、窓の外から聞こえる風の音。ざわざわ、木が揺れて葉が擦れ合う音。かたかた、窓枠がちいさく揺れる音。しばらくがんばってみたけれど、それ以外の何も聴こえない。気のせいか。ラグナは大人しく重みに屈し、瞼を閉ざした。そのとき。
 かちり。
 何の音、聞き覚えのあるこれは、そう、確かドアノブが回る音だ。
 ラグナの瞼は途端軽やかさを取り戻す。薄いカーテンを透かしてどんよりと月明かりが照らす部屋はどこに何があるのか辛うじて分かる程度で、ラグナにとってみれば暗闇と変わらない。
 どきどきと跳ねる心臓。ラグナは息を殺す。もしかして、もしかして。
 ……ひたり。
 その音が耳に届いた瞬間、ラグナは素早く布団に潜り込んだ。それだけでは髪の先が布団からはみ出しているような気がして、しっとりと重い布団の中で丸くなる。心臓のどきどきが膝を震わせる。
 どうしよう……どうしよう、きっと幽霊だ!
 また『ひたり』と、今度は泣き声のようなものまで聴こえて、ラグナはぎゅううっと瞼を閉じた。あっちへ行けあっちへ行けと祈りながら頭を抱えるけれど、『ひたり』『ひたり』と泣き声はどんどん近付いてくる。そしてラグナの立て篭もる布団の前で、ひたり。止まった。
 ラグナは息を殺す。今にも布団を剥ぎ取られるのではないか、もう口から心臓が飛び出そうだった。
 ところが幽霊は動く様子がない。ただ時折、ひくっと喉が鳴るような音がする。
 息を殺していられなくなったラグナは、ごくりと唾を飲み込んでから静かに呼吸を再開した。同時に体中からありったけの勇気を掻き集めて、そうっとそうっと、幽霊に見つからないように布団の端を持ち上げる。
 細い隙間から見えたのは、どこかで見た柄の布地。あれっと思い、ラグナは少しずつ隙間を広げて視線をずらす。布地はつまり服の布地で、服はつまりどこかで見たようなパジャマで、どこかで見たようなパジャマを着ているのは、
「……ジン?」
 両手で布団を押し上げたラグナが名前を呼べば、ひくっとまた喉が鳴る音。まだ幼い弟は、暗闇の中でちいさな肩を大きく揺らし嗚咽を堪えていた。
「にい、さん」
 呟いて、ぽろり。耐えかねたのか零れ落ちた水の珠が暗闇に瞬いた。そのままぽろぽろと零れ落ちる水珠にも気付かない様子で、ジンはただ立ち尽くしている。
 ラグナは慌てて腕を伸ばした。布団が落ちてくる前にジンの腕を掴み、温かな要塞の中に招き入れる。自分の布団を抜け出してからどれほどの時間が経っているのか、弟の身体はすっかり冷えていた。
「ごめん、なさっ……にいさん、ねてたの、にっ」
「気にしてねぇよ。それよりどうした?」
 止まらない嗚咽の中で謝る弟がいじらしくて、ラグナは暗い布団の中でジンを抱き寄せた。あやすように背中を柔らかく叩けば、ジンはぎゅっとラグナに抱きついてくる。ちいさな背中はおおきく震えていて、更に嗚咽が激しくなっていることに気付いた。
「怖い夢でも見たのか?」
 落ち着くのを待ちながら、ラグナは優しく訊いてみる。ジンはぶんぶんと頭を振った。その度にぐりぐりと頭が押し付けられるようなかたちになって、こそばゆい。
「じゃあ、ゆー…れい、でも、で、出たか?」
 またぐりぐりと押し付けられる頭。ラグナは内心でほっと安堵の息をついたが、これ以上弟が泣き出す理由が思いつかず首を捻った。とにかく震える弟の背中を撫で続ける。
 しばらくそうしていれば、ジンの震えは次第に緩やかなものへと変わっていた。やがて、にいさん、ちいさな呟きがラグナの耳に届く。
「ん?」
「ねえ、『死ぬ』ってどういうこと?」
 ジンがどんな顔をしているのかは、真っ暗な布団の中では見えやしなかった。そのぶんまだ幼い弟の声が、ひんやりとひっそりと未知への恐怖に絡め取られていることを伝えてくる。
 ラグナは言葉に詰まった。きっと誰もが恐ろしくて、必ず抱く疑問。けれど誰も答えを知らないまま、目を逸らして忘れたふりをして生きていくその先。ラグナももっとちいさなころ、ちょうど今のジンと同じくらいの歳には『死ぬこと』について考えた。考えれば考えるほど恐ろしくてたまらなくて、そしてそんなことを考えるのは決まって夜、布団の中だった。
「死んだらどうなるの? ぼくはいなくなっちゃうの?」
 それともまっくらなところに、ずうっとひとりでいるの?
 答えないラグナに焦れたのか、ジンは言葉を重ねる。ラグナは自分のパジャマを強く握り締めてくる弟に気付いて弱り果てた。ジンの手は細かく震えている。
「あのな、ジン。死んだらどうなるかなんて誰も知らねぇんだ」
「そうなの? にいさんも?」
「うん」
 結局正直に答えたけれど、ジンがそれで納得するはずもない。ラグナ自身も納得できないのだから当然だ。
「でも、でもぼく、こわい」
「俺も怖いよ。みんな死ぬのは怖い。ずーっと怖いままだ」
「いや、いやなの、こわいの。くらいのもひとりなのもいや、こわくて、」
「眠れないのか?」
 ちいさく頷く気配に、ひくり、治まったはずのジンの喉が鳴った。ラグナはジンを抱きしめて、また柔らかく背中と、今度は頭も撫でてやる。ジンはますますラグナにしがみついて顔を埋めてきた。
 いっそ声をあげて泣けばいいのにそうしない。本当にいじらしくて何とかしてやりたいと思う。ラグナも死ぬことを考えるのは怖かったけれど、ジンがいつまでもこのまま泣いているほうがもっと嫌で、どうすれば泣き止むかなんて分からないままにとにかく口を開いた。
「なあジン、俺がいるから……」
「うっ、く」
「俺も怖いけど、死んだらどうなるかなんて分からねぇけど、今は俺がいるから」
「う……」
 片手で弟を抱きしめて、もう片方は手探りで弟の手をつかむ。ぽかぽかと温かい手はまだちいさい。ジンはいろんなものがこわくて仕方がないのだから兄である自分が守ってやらないと。そう思う。
「な、ずっとこうしてるから。これならちょっとだけ怖くなくなるだろ?」
 ジンは喉を震わせていて、声を出せずにいるようだった。ラグナも黙って抱きしめつづける。
 震えが治まるのとジンのちいさな手がラグナの手を握り返してくるのは、ほとんど同時だった。
「……にいさん」
「ん?」
「ずっとこうしててくれる?」
「ああ」
「ぼくがねちゃっても?」
「ずっとこうしてるよ」
 こっくり。ラグナの腕の中でジンはちいさく頷いた。ラグナもようやく安堵して、ジンに笑いかける。布団の中はやっぱり真っ暗だったから、見えていないだろうけれど。
 もぞもぞとジンが身体をずらす。蠢く体温がくすぐったくてラグナは肩を竦めた。
 ……ずっとだよ。
 耳元でこっそりとジンが囁く。
 なにもいわないまま、ラグナはジンの手を握りしめた。
    2009/2/21 (瞳を閉じる、十題)