×

それだけで幸せだった

 ねえ、兄さん?
「何度も何度も夢に見たんだ」
 びちゃりびちゃりと赤い水を跳ね飛ばす。青い軍靴は赤を吸って黒い斑模様を描いていた。
 赤い水に沈んだ兄は黒い斑模様とかもうそんな状態はとうに通り越して、見るからに重たそうなどす黒さで転がっている。ただ銀色の髪だけが赤の中で辛うじて己を保っているけれどそれも弱々しい。
「いろんな兄さんを。ただ傷だらけの兄さんとか、氷づけの兄さんとか、ばらばらになった兄さんとか」
 ばらばらになった兄さんを僕が繋ぎ合わせてたりしたんだ。昔よくパズルで遊んだよね? あんな感じだったよ。
 赤い水に沈む銀色、そこで跪く。いとおしげな手つきで銀を撫で、赤で滑るそれを不意に掴んだ。ぎちりと鳴る。鈍く啼く。赤を引き摺りながら引き上げればまだ光を失わない二対。赤と緑。そういえば頭だけの兄さんもいた、その兄さんを僕は膝に乗せて笑っていた。
「……クソ、がッ!」
 弱い、けれどもあらん限りの憎悪を織り込んだ声に笑みが深まる。
「いいよ、兄さん……堪らない」
 兄の頬を彩る赤に惹かれた。吸い寄せられるように舌を這わせる。逃げようとしているつもりだろうか、微かに兄の頭が揺れた。無粋だと思う。ので銀色を握る手に力を込める。苦悶の声が漏れる唇をなぞれば紅が引かれる。
 震える。昂る。猛る。顔を離せば渦巻く二対、駆り立てられる。殺したい、この魂を僕の手で握り潰したい! 意識の深層に呼応するように手が動く。掴んだ銀を地に広がる赤に叩きつける。鈍く重い音、跳ね上がる赤い水珠。
「がッ!」
「……ああ、ごめんね。痛い?」
 宥めるように頬を撫で、身体は仰向けの兄に圧し掛かる。兄の腹を跨いで、にこりと、自分で一番綺麗だと思う笑みを浮かべる。右手に握るユキアネサがぱりぱりと音を立てていた。
 浅く上下する兄の胸に左手を滑らせる。また逃げるように蠢くが、今度はただ愛しいとだけ思った。剥き出しの命を素手で弄ぶような愉悦が背筋に奔る。
「ね、何度も夢に見たんだよ? それだけでもすごく嬉しかったのに……どうしよう、僕、もう」
 その先は紡げなかった。夢などとは比べ物にならない色、音、匂い、感触、温もり、赤の味。
 内に篭もる熱を追い出すように息を吐く。兄が顔を歪めている。
「この、変態、が」
「うん。でも残念だな」
 赤を吸って重くなった服の下で、終わりを目前に艶かしく胎動する心臓、連動して揺らめく肉、左手で愛撫する。右手では捕食者のように冷気の顎を開いて愛刀が声を上げている。
「終わりだなんて」
 ここで殺してしまえば、もう夢の中でしか兄を殺せなくなってしまう。それでもただ、ただ殺したい。惜しむのならばせめてと兄の額に唇を落とし、あとは本能に委ねた。
 見下ろす先、赤と緑の瞳に、刀を振り上げ酷く歓喜した様子の自分が映っていた。
    2009/2/20 (瞳を閉じる、十題)