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さあ、共に朽ちようか?
#01(071113→080109)
ああ、堕としているなあと、思った。
そもそも殺す術しか知らず、他には何もを知らなかったこども。初めて会ったときの瞳はただぎらぎらと光っていて、まるで獣のよう、いや獣ですらなかった。獣は生きるために殺すのであって、無用な殺戮には及ばないのだから。無論こんなこどもが自らの意志で殺すために殺していたわけではなく、そうあるように仕向けた『大人』がいたのだろう。神の御名のもと、祖国のためにと。
しかしそれも過ぎたことであって、青年には関係がないのだ。もちろん過去にこのこどもがどう生きてきたかを把握した上で、例えば文字の読み書きを知らぬなら文字を教えなければいけないけれど。とにかくこのこどもの『これまで』は、あくまで青年にとってだが瑣末なことで、肝要なのはこのこどもの『これから』、そしてその『これから』が青年の手に委ねられているということだ。
そう、このこどもの『これまで』を踏まえた『これから』、その全てが。
こどもが僅かに身を捩り、微かに声を漏らす。ああ、堕としているなあと思う。ひしひしと感じる。その零れる声から、触れ合う箇所から、ひしひしと。
見下ろせば腕の中、薄暗がりに光るこどもの目。ぎらぎらとまるで飢えるような瞳、ではない。滲んだ涙が薄く膜を張って零れそうにきらり、きらりと、弱々しく震える瞳。
読み書きを知らぬなら文字、きちんとした食事の取り方、最低限度の人との接し方、何より、
殺意以外の、感情を。
同胞の中には勿論、感情など必要ない、感情は作戦行動の阻害になると言う者もいたが、こどもに関する全権はとりあえず青年に任されていたし、非難してくる者はそもそもこのこどもと関わろうとは思っていない。だから青年はいいと思うように、いいと思うことをこどもに教えることにした。
正しい方法でも、間違った方法でも。恐らく答えなどないし、誰も止めなかった。気付かなかったのか黙認していたのかまでは知らない。ただ、誰も止めなかった、その事実だけが今を構成している。
青年は密やかに息を吐く。思った以上に籠もった熱、知らず肩が落ちる。途端、こどもがびくりと震えた。絡み合った温もりも共に震え、青年は僅かに眉根を寄せた。こどもの瞳は濡れて光っている。そこに何が浮かんでいるのか、そもそも浮かんでさえいないのか、見極めることがこの行為の目的である。
溺れそうになる自分を引き上げながら、青年は自らの下で微かに震え続けるこどもを見下ろした。
#02(080109)
「刹那――……っ!」
青年は思わず眉間に皺を寄せた。
まだこどもには馴染んでいないであろう諾々と与えられただけの彼の名前。コードネーム。青年だって呼びなれてはいない、そもそも発音しにくい音で構成された、自分達の間で互いの認識として役に立てばただそれでいい、言ってしまえばただの記号。
気遣うつもりはない。優しくする必要はないのだ。このこどもに覚えさせようとする感情を、例えばそう、愛、などというものに限定するつもりはさらさらない。半ば強引に押し倒したのだからそんな方向に展開するべくもないが。
要はこのこどもに感情を教え込むのが目的なのであって、もし今しがた及んでいるこの行為に関してこどもが青年に殺意を覚えることがあっても、それを逆手にとって手綱を握ってやろうと、それぐらいは考えている。憎悪でもまた然り。或いは青年に不審の感を抱いたこどもが自分以外の誰かを頼るようになれば、それはそれでいいのである。
だから、つまり。眉間の皺を緩め、青年は俄かに目を見開く。
ただ意味も感情もなく、確認のためだけに呼んだ名前。その声にこどもは反応した。予想外なかたちで。
ただでさえ溺れそうなのに、この、こどもは。青年はゆぅるりと口の端を持ち上げる。この薄暗がりなら、与えられるものに翻弄されているこどもには見えはしないだろう。唇を薄く開いた。今度はほんの少しばかり思惑を込めた発声。自然と甘く――聞こえるだろう、経験のないこのこどもには――落ちる、掠れた声。さながら林檎のような。
「刹那……」
「ぁ、くっ……」
びくりと震える身体、咄嗟に噛み締められる唇、そして先ほどと同じようにきゅうと縮こまる、熱を存分に湛えた触れ合う箇所。今度は青年の眉間に皺が寄ることはなかった。ただ密やかに息を、吐いて。笑む。
ああ、堕としている、な。
誰かが見咎めることなどないのだけれど、もしあるとしたら何もそんな行為に及んで感情を引きずり出さなくともと非難するだろう。実際青年自身もそう思う。けれど何故だかこうすることを選んでしまったし、もう戻れはしない。ならいっそ、溺れてみるのもいいかも知れない。
青年はこどもの肩口に顔を埋めた。あ、と。隠し切れなかったのであろうこどもの声。心地よくすらある。堕としている、溺れている。認めてしまえば楽だった。刹那、刹那と囁いてみる。耳元を息が掠めるのか、囁くたびにこどもの身体が跳ねた。
堕としている。あと少しでこの腕の中に堕ちてくる。刹那。青年は甘い甘い林檎を片手に手招きする。
ふるりふるりと震えるこどもの腕が、彷徨い、挙句青年の首に弱く巻きついた。蛇はここ、後は二人で齧るだけ。こどもの目前に林檎を翳す。刹那。
こどもが酸素を求める魚のように口を開いては閉じ、そして。青年は心からの笑みを浮かべる。たどたどしい声がほろりと落ちる。
「ロッ……ク……」
堕ちた。
楽園を追われるまで、あと少し。
ああ、堕としているなあと、思った。
そもそも殺す術しか知らず、他には何もを知らなかったこども。初めて会ったときの瞳はただぎらぎらと光っていて、まるで獣のよう、いや獣ですらなかった。獣は生きるために殺すのであって、無用な殺戮には及ばないのだから。無論こんなこどもが自らの意志で殺すために殺していたわけではなく、そうあるように仕向けた『大人』がいたのだろう。神の御名のもと、祖国のためにと。
しかしそれも過ぎたことであって、青年には関係がないのだ。もちろん過去にこのこどもがどう生きてきたかを把握した上で、例えば文字の読み書きを知らぬなら文字を教えなければいけないけれど。とにかくこのこどもの『これまで』は、あくまで青年にとってだが瑣末なことで、肝要なのはこのこどもの『これから』、そしてその『これから』が青年の手に委ねられているということだ。
そう、このこどもの『これまで』を踏まえた『これから』、その全てが。
こどもが僅かに身を捩り、微かに声を漏らす。ああ、堕としているなあと思う。ひしひしと感じる。その零れる声から、触れ合う箇所から、ひしひしと。
見下ろせば腕の中、薄暗がりに光るこどもの目。ぎらぎらとまるで飢えるような瞳、ではない。滲んだ涙が薄く膜を張って零れそうにきらり、きらりと、弱々しく震える瞳。
読み書きを知らぬなら文字、きちんとした食事の取り方、最低限度の人との接し方、何より、
殺意以外の、感情を。
同胞の中には勿論、感情など必要ない、感情は作戦行動の阻害になると言う者もいたが、こどもに関する全権はとりあえず青年に任されていたし、非難してくる者はそもそもこのこどもと関わろうとは思っていない。だから青年はいいと思うように、いいと思うことをこどもに教えることにした。
正しい方法でも、間違った方法でも。恐らく答えなどないし、誰も止めなかった。気付かなかったのか黙認していたのかまでは知らない。ただ、誰も止めなかった、その事実だけが今を構成している。
青年は密やかに息を吐く。思った以上に籠もった熱、知らず肩が落ちる。途端、こどもがびくりと震えた。絡み合った温もりも共に震え、青年は僅かに眉根を寄せた。こどもの瞳は濡れて光っている。そこに何が浮かんでいるのか、そもそも浮かんでさえいないのか、見極めることがこの行為の目的である。
溺れそうになる自分を引き上げながら、青年は自らの下で微かに震え続けるこどもを見下ろした。
#02(080109)
「刹那――……っ!」
青年は思わず眉間に皺を寄せた。
まだこどもには馴染んでいないであろう諾々と与えられただけの彼の名前。コードネーム。青年だって呼びなれてはいない、そもそも発音しにくい音で構成された、自分達の間で互いの認識として役に立てばただそれでいい、言ってしまえばただの記号。
気遣うつもりはない。優しくする必要はないのだ。このこどもに覚えさせようとする感情を、例えばそう、愛、などというものに限定するつもりはさらさらない。半ば強引に押し倒したのだからそんな方向に展開するべくもないが。
要はこのこどもに感情を教え込むのが目的なのであって、もし今しがた及んでいるこの行為に関してこどもが青年に殺意を覚えることがあっても、それを逆手にとって手綱を握ってやろうと、それぐらいは考えている。憎悪でもまた然り。或いは青年に不審の感を抱いたこどもが自分以外の誰かを頼るようになれば、それはそれでいいのである。
だから、つまり。眉間の皺を緩め、青年は俄かに目を見開く。
ただ意味も感情もなく、確認のためだけに呼んだ名前。その声にこどもは反応した。予想外なかたちで。
ただでさえ溺れそうなのに、この、こどもは。青年はゆぅるりと口の端を持ち上げる。この薄暗がりなら、与えられるものに翻弄されているこどもには見えはしないだろう。唇を薄く開いた。今度はほんの少しばかり思惑を込めた発声。自然と甘く――聞こえるだろう、経験のないこのこどもには――落ちる、掠れた声。さながら林檎のような。
「刹那……」
「ぁ、くっ……」
びくりと震える身体、咄嗟に噛み締められる唇、そして先ほどと同じようにきゅうと縮こまる、熱を存分に湛えた触れ合う箇所。今度は青年の眉間に皺が寄ることはなかった。ただ密やかに息を、吐いて。笑む。
ああ、堕としている、な。
誰かが見咎めることなどないのだけれど、もしあるとしたら何もそんな行為に及んで感情を引きずり出さなくともと非難するだろう。実際青年自身もそう思う。けれど何故だかこうすることを選んでしまったし、もう戻れはしない。ならいっそ、溺れてみるのもいいかも知れない。
青年はこどもの肩口に顔を埋めた。あ、と。隠し切れなかったのであろうこどもの声。心地よくすらある。堕としている、溺れている。認めてしまえば楽だった。刹那、刹那と囁いてみる。耳元を息が掠めるのか、囁くたびにこどもの身体が跳ねた。
堕としている。あと少しでこの腕の中に堕ちてくる。刹那。青年は甘い甘い林檎を片手に手招きする。
ふるりふるりと震えるこどもの腕が、彷徨い、挙句青年の首に弱く巻きついた。蛇はここ、後は二人で齧るだけ。こどもの目前に林檎を翳す。刹那。
こどもが酸素を求める魚のように口を開いては閉じ、そして。青年は心からの笑みを浮かべる。たどたどしい声がほろりと落ちる。
「ロッ……ク……」
堕ちた。
楽園を追われるまで、あと少し。
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2007.11.13-2008.01.09~2009.02.16 x 2009.02.16 up
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