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呼吸は困難だと云った深海魚の君と、
容易いことだと云う淡水魚のあなたを嘲笑う自由の海水魚な世界

 照明を落とした部屋の中、お世辞にも柔らかいとは言い難いベッドに腰を下ろす。目には照明のオレンジ、耳にはさあさあと微かに届く水の流れる音。ただ暇を持て余して、意味もなくテレビなどつけてみた。
 深夜特有のローテンションな映画。無駄に豊満な肢体を晒すブロンドの女、撓むように揺れる胸と戯れの空虚な睦言。リモコンを操作してチャンネルを変える。
 よくわからないダイエット器具のテレビショッピング。すっきりしたスーツ姿の男、そのうそ臭いオーバーアクション。リモコンを操作してチャンネルを変える。
 こんな深夜にいったい誰に届くというのか、秒刻みで変わってゆく世界の様子を伝えるニュース番組。リモコンを操作してチャンネルを変える、ために動くはずの、指。しかしそれはびくりと揺れただけで、事を起こすには至らなかった。
 薄暗い部屋の中でぼんやりと浮き上がる深夜のニュース。何かの暗喩のようですらある。映るのは現地に派遣されたアナウンサー、安全のためかヘルメットを被り、険しい顔つき。背景には崩壊しただの瓦礫の山と化した元民家らしきもの。そして画面の端に、簡潔な文章にまとめられた情報――
『アザディスタン近辺でテロ頻発』
 首筋が冷える。音量をぎりぎりまで落としているせいか、アナウンサーの声はひゅうと空気の啼く声に掻き消された。そこで気付くべきだったのだが、ロックオンは微かな水音が途切れたことに気付いていなかった。そのまま、ぱちり、思考も何もかもを攫うリセット音。視界が白い光で塗り替えられる。
 唐突に変わった色彩、明度を上げた照明の下、深夜のニュースはフラットなただのニュースへと変質した。目を細め、ロックオンは部屋の入り口を振り返る。見慣れた細い影が壁の照明スイッチに手を伸ばしたまま佇んでいる。
「……狙撃手が、視力を落とす可能性のある行為に及ぶのは推奨しない」
 刹那、口を突いて零れた声は呟きよりも小さく、それでも耳に届け入れたらしい子どもはぺたりと音を鳴らして寄ってくる。ぺたりぺたり、濡れた素足が床を踏む。
 刹那が歩くたび、安っぽい白い照明に煌く雫が散る。雫は濡れて顔に張り付いている髪から滴ったものであったり、惜しげもなく、且つ恥ずかしげもなく晒された子どもの裸身を伝い散ったものであったりした。ぺたり、ぺたり、ぺた。足音はロックオンの目前で止み、あとはただ、じっと黙してこちらを見下ろしてくる刹那。
 ベッドに腰掛けたままのロックオンは居心地の悪さに頬を掻き、やがて諦めの息を吐いた。ベッドの上に散乱した刹那の衣服へと視線を向ければ、脱ぎ散らかされたそれらの下に埋もれたバスタオル。どうしてこいつは、内心で嘆きながらロックオンはそれを引っ掴んだ。部屋に備え付けのバスタオルはごわごわとして硬かったが、気にせず刹那を引き寄せて頭に被せる。そのままわっしわっしと適当に掻き混ぜた。
「あのなぁ……せめて下着くらい穿いてこいよ、お前は」
 わっしわっし。こんなんもんかとタオルを剥ぎ取れば、ぼさぼさの黒髪が現れる。次、身体。
「この寒いのに風邪でも引いたらどうすんだ」
 わっしわっし。あんまり強く拭ったら痛いかもしれない、このタオル硬いから。ロックオンの配慮などつゆ知らず、黙ってされるがままになっていた刹那はするりとバスタオルから抜け出した。おいこら、追随する声も無視して、刹那は裸のまま薄い布団の中へと潜り込む。
「こら、刹那」
「下着は洗った。替えがない」
 コイツ、わざわざシャワーのついでに下着も洗ってたのか。潜伏中にそんなことすんのティエリアだけかと思ってた。無視される声の代わりに体ごと刹那を追いかける。乗り上げられたベッドは抵抗を示してぎしりと鳴いた。
「この程度で風邪を引くつもりもない。体調管理もマイスターの義務の範囲内だ」
 淡々と続く刹那の声。そんなん人前に全裸で出てきていい理由にはならねえぞ、言ってやろうと布団を掴んだ手、に、重なる声。
「それに、」
 布団の中から伸ばされた手がロックオンの手首を捉え、引いた。
 倒れ込んだ瞬間、ごつりと鈍い音。緩い痛みに目を瞬かせながらも状況を確認すれば、突き合わさった額の下、温度もなく佇むヘイゼルの瞳。しかし更にその下で薄く開かれた唇が紡いだ言葉は、零度の熱を含んでいた。
「どうせ全部脱ぐことになる」
「…………言ったなコノヤロウ」
 まったく、どうしてこいつは! 頭を抱えたいような怒鳴りつけてやりたいような、しかし両者の違いは己を責めるか刹那を責めるか程度のもので結局ロックオンはどちらも棄却した。刹那にとっては単なる開始の合図でしかないのだからどちらを責めても何の意味もない。そんな風に欲を優先した自分を正当化しながら、食らいつこうと目前の唇を視界の真ん中に捉え。
 また、首筋をひやりとした空気が、撫でた。
 気に留めるほどでもないその事象。だから動きを止めたのは精神ではなく単純に肉体の反応で、しかしコンマ以下の空白を突いて耳に届いた情報に反応したのは間違いなく心のほうだった。
『――…の一連のテロによる被害報告は――』
 視線だけで背後の音源を振り返る。上げられた明度によって平生へ埋もれていたはずのニュースが、ずるりと這い出て存在を知らしめていた。特集だったのか、話題は先程と同じまま。
 刹那によって平面化され、その後のやり取りで完全に意識から閉め出されていた、それ。再び認識してしまえば振り払うのは容易ではなく、首筋に触れる空気がひやりと纏わりついてくる。この冷気から解放されれば肉体に随伴して精神も自由になれるのではないかと都合のいい幻想を抱いて項垂れれば、まるで許しを請うような錯覚に捕らわれた。実際は頼りない首筋が露わになった、だけなのだけれども。
 嘲笑のような空気が流れ、緩く波打つロックオンの髪を揺らす。また冷たく撫でられる、首筋。次いでするり、触れてくるもの。目を見開く。その先には零度の温もり。
「刹、那」
 返ってくる言葉はなく、ただするすると首筋を辿る刹那の掌。シャワーを浴びて間もないわりに低い体温は掌以外からも分け与えられる。あれ、と思ったときには既に刹那の腕の中だった。ゆるりと、頭を刹那に抱えられている。
「……寒いのか」
 間近から注がれる子どもの声に目を開く。今、気遣ったのか? 刹那が俺を? 柔らかい拘束から逃れようと上体を起こせば、腕はまた、ゆるり、解かれる。
 見下ろせど刹那の目に自分は映っておらず、仕方なく視線を追えば窓辺ではためく染みだらけのカーテンがあった。窓の隙間から吹き込む寒風に、ロックオンは渋面を浮かべる。空調設備もなく、更にこの立て付けの悪さ。いくら一晩だけの塒とはいえこれはあんまりだった。吹き込んだ外気がまたひゅうひゅうと啼いてカーテンを巻き上げる。次からはもっとまともなホテルを選ぼう。同じ轍は二度と踏むまい。
 内心で固く誓うロックオンの腕に触れる体温。視線を刹那へと戻せば、今度はじっとこちらを見上げていた。ああ、思い至って子どもを抱きしめる。
「刹那がいるから寒くない」
 やはり言葉はない。無言の返答に満足してロックオンは刹那の肩口に顔を埋めた。耳元を掠める微かな吐息。乱れた呼吸を隠すかのように、刹那がちいさく呟いた。
「……テレビは、消せ」
 背後の音声に意識をやれば、いつの間にかまた平面化されていたニュースは這い出ることもない、ただのニュースだった。こんな深夜にいったい誰に届くというのか、秒刻みで変わってゆく世界の様子を伝えるニュース番組。終了時間なのかアナウンサーが画面の中から別れを告げている。
 ロックオンも内心でアナウンサーに別れを告げて、腕の中の子どもに溺れることにする。さらりと黒髪をかき上げて、額に、瞼に、鼻梁に頬に、唇を落とし。刹那が零す声に目を細めながら先ほど食らいつき損ねた唇を味わう。
 本日の放映は終了しました、無感情にそう告げて背後のテレビは沈黙した。
    きっと誰もが酸素を求めていてけれど俺たちだけが溺れてゆく。
    2007.12.21 x 2008.03.14 up