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淡色の世界に弔いを

 ――いのちは尽きて遺るはむくろ
 ――むくろに洗礼、ほむらの祝福
 ――生まれたて、裸でふるえる、真白く罅割れたあなたに捧ぐ


 雪。


 間髪入れず投げ返されたのはその一単語だった。
「……悪い刹那、ちゃんと文法使ってもう一回言ってくれ」
 12月25日が世界的にどのように認識されており、且つ大半の民衆はいかにしてその日を過ごすのか。具体的事例を列挙することでその日の歴史的・宗教的背景の希薄さと神聖性の消失を強調し、形骸化されただのイベントと化した『12月25日』を理解させた後。結構な時間を費やして本題まで行き着いたロックオンが、トナカイに引かせたソリに乗り、12月24日の深夜から25日未明にかけて子どもたちに贈り物をばら撒いて回る白髭に赤外套に揃いの赤い頭巾を被って長靴を履いた老人、説明したばかりの俗に言う『サンタクロース』を引き合いに出し。
 ――そうだ刹那、お前は子どもだから贈り物を受け取る権利がある、『保護者代行』ってことで俺がプレゼントしてやるよ、何が欲しい?
 などと無茶苦茶且つ己の欲望があからさまに透けて見える提案を持ち出したのはつい先ほどのことである。
 そして提案に何の疑念を呈すこともなく答えた刹那に、ロックオンは確認のため回答の復唱を要求。今度は一呼吸程度の間を置いて、開かれる、刹那の唇。
「雪が欲しい」
 ロックオンはこめかみを押さえ、次いで窓の外へと目をやった。刹那の部屋の大きな窓から見える東京の空は薄曇。空中で昇華し結晶となった水蒸気が白く舞い落ちてきてもおかしくはない天気。実際ロックオンが東京に赴いた一昨日には、薄く積もる程度に降っていた。なるほど刹那の願いも叶いそうである。にしても「雪が欲しい」なんて、刹那は予想外にロマンチストだったらしい。いや違う、全然違う、
「刹那ぁ、そんなん俺からのプレゼントにならねーだろ」
「……そうか」
「そうだよ。だから俺が用意できそうなもので考え直してくれ」
 こくりと頷いて刹那は窓越しに空を見つめる。ベッドに腰掛けて黙考する子どもをロックオンはじっと見下ろした。
 さて、この子どもがどんな贈り物を望むのか。希望の品自体にも驚いたが、そもそも物欲などなさそうな刹那が促されたからという前提があるにせよ要求を口にした点で既に意外だったのだ。ロックオンの視線の先で、刹那が顔を上げる。真っ直ぐに見つめてくる、赤みがかった瞳。見慣れたはずのそれに、あれ? ロックオンは柔らかい違和感を覚えた。それでも刹那の唇からは淡々と言葉が転び落ちる。
「……なら、灰。灰が欲しい」
「………………………………は?」
 先ほど覚えた違和感が消失する。或いはそれは理解の域を超えて膨張したのかもしれない。また或いは認識することもできないほどに収縮したのかもしれない。得体の知れない何かを抱えた刹那はロックオンの素っ頓狂な声に心底不思議そうな顔をした。実際は無表情なままなのだが、そういう雰囲気が伝わってくる。
「な……なんで、灰?」
「……お前が欲しいものを言えと言ったんだろう。用意できないのか」
「いや、灰だろ? できるけど……できるけど、なんで灰が欲しいんだ?」
 刹那の瞳が、伏せられる。ゆうらりと蠢くのは得体の知れない何か。なんだ、これは。そしてゆうらりと揺れるのは柔らかい違和感。この色。そうだ、ごく最近どこかで。子どもの指が己の首に巻きつく赤い布に触れた。見慣れたそのターバンすら知らない何かに見える。まるで刃物を滑らせた首筋から滴り落ちる水のような、何かに。
 一人狼狽するロックオンを捨て置いて、刹那の唇が死んだ言葉を紡ぐ。恐らくは彼の信じる、或いは信じていた神とは程遠いであろう、ロックオンの信じていた神に纏わる言葉を、紡ぐ。
「……――プルヴィス・プルヴィム・フィエリ、キニス・キネム・フィエリ、テラ・テラム・フィエリ。アンタたちはこう言うんだろう」
 その言葉は灰色と黒の記憶に繋がる。例えばあれは雨の日だった。灰色の空から零れ落ちるのは涙のような雫で、皆黒い傘を差して黒い服を着ていた。溢れるのは水が傘を叩く音、すすり泣く声、低いトーンの弔辞、手向けられた白い花。そして老いた神父の文句。
  塵は塵に、灰は灰に、土は土に。
「せ、つな」
「皆死んでもそのままだ。骸を埋めようとすれば穴を掘る間に撃たれて殺される。だからどうすることもできない。皆野晒しで腐っていく。鳥が啄ばんでいく」
「刹那、もういい」
 悼むような姿で子どもは呟き続ける。伏せられた目を覗くことが叶うのならば、それはきっと空虚な色で佇んでいるだろう。ロックオンは拒むように、刹那の纏う空気を払うように、ただ首を振った。無論目を伏せた刹那が見咎めるわけもなく、告解にも似た独白は続く。
「運が良ければ拡がった戦火に焼いてもらえる。それでも腐らないだけだ。鳥に啄ばまれないだけだ。野晒しなのは変わらない。ただ白い姿を晒すだけで」
「いいから、」
 肩を掴もうと手を伸ばす。けれどそれだけだった。ロックオンの手は刹那の肩に触れる寸前で動きを止める。どうして、どうして掴めない? この細い肩を抱いてやりたいのに。
「だからあの綺麗な白で埋めてやりたい。焼いてもやれなかった皆をせめて灰で眠らせてやりたい」
「刹那!」
 強い調子で名を呼ぶ。びくりと子どもの肩が揺れ、顔が上がった。僅かな潤みを湛え、更に赤みを増した瞳。ああ、これ、は。赤い瞳、腕を押し止める、柔らかい違和感。ロックオンの中で溶けてひとつになるそれら。
 ロックオンが東京に降り立ったのは一昨日。薄い雪が積もっていた。刹那のもとへ急ぐ途中、このマンションを囲う植え込みの傍でこんな色の瞳を見た。


 少年が掻き集めた雪を半球状に盛っていた。少年の動向を見守っていた少女が興味津々といった風情で声を上げた。この葉っぱは何? 少年が答えた。うんと、なんて言ったかな…ああそう、譲葉って言うんだ。これが耳になるんだよ。また少女が声を上げた。この赤いのは何? 少年が答えた。ええと、南天の実だよ。これをふたつ付けて……ほら、目になったでしょ? 少女がわぁと歓声を上げ、また問うた。で、これは何?
 少年は苦笑して、答えた。うん、これはね、


 そうだ、あの瞳に似ている。だから触れられなかった。触れれば溶けてしまいそうな、あの真白く冷たい、儚いもの。その瞳。触れることを躊躇わせた違和感。
 だからロックオンは手を伸ばせず、刹那の頬を鈍く輝く水珠が滑ってゆく。触れられない掌の代わりに、ロックオンは唇を開いた。
「なぁ刹那、悪ぃけどやっぱり、雪も灰もプレゼントしてやれそうにない」
「………………そう、か」
「うん。代わりにさ。お前の昔の戦友たち、埋めるの、手伝わせてくれよ」
 刹那がゆっくりと目を瞬く。潤みがほろりと零れ落ちた。
 柔らかい違和感が霧が晴れるように消えてゆく。得体の知れない何かはずるりと流れてゆく。残されたのは寒そうに震える刹那、かつての惨劇を悲しむただの愛しい子どもだった。ロックオンはそろりと手を差し出す。選ぶのは刹那だ、俺じゃない。
「だから聞かせてくれ。痛くて苦しいかもしれないけど、戦友の、刹那の昔の話」
 雪も灰もないけれど。その骸を過去のものとして語るならば、きっと酷く優しい『記憶』として埋葬できるだろう。
 真っ直ぐ見返してくる刹那にロックオンは弱く微笑んだ。記憶は嘘をつく。いろんなものを偽る。故に優しく、酷く残酷。けれどだからこそ人は生きていける。曖昧なアンビバレンス。刹那の手がゆっくりと動いた。


 もし刹那がこの手を取ったなら。その時は腕の中に引き込んで強く強く抱きしめよう。
 この熱を分け与えて、寂しく冷たい雪兎を溶かして。そして一つになれるように。
    肉は灰に、そして骨を埋めるかのように黙して降り積もる。
    2007.12.23 x 2008.03.14 up