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みずのほとりきみのとなり

 ロックオンは馬鹿だった。
 そう言ったら、頬を思いっきり張られた。重力のない通路では踏みとどまることもできず、勢いのまにまに身体は壁にぶつかる。それでもやはり、重力がないため何の痛痒もなく壁で跳ねて元の位置へと漂い戻る。刹那は何もかもを流れるに任せ、ただ瞳を瞬いた。水の珠がふわふわと通路に浮かぶ。
 溢れるもので滲んだ視界は、現実の狭間の幻想を見せる。幾つも幾つも漂う水珠は綺麗で、通路の無機質な明かりを跳ね返しきらきら輝いていた。煌きの向こうには刹那の頬を打った右手を震わせて涙を零すティエリアと、その細い肩を支えるアレルヤの姿があった。
「もう一度……もう一度言ってみろ、刹那!」
「何度でも言う。ロックオンは馬鹿だった」
「貴様ッ――!!
 ティエリアが激昂し、また右手を振りかぶる。止めてティエリアと半ば悲鳴のような声で制したアレルヤは、振り上げられた右手を己の腕の中に閉じ込める。銀色の眦ではやはり、ほろほろと水珠が零れては宙を彷徨っていた。
 おかしい。刹那は唇の端を持ち上げた。次いでくつくつと低い音が転び落ちる。それは嘲笑のようで、あるいは愉快さゆえに零れる笑い声のようで、あるいは嗚咽のようでもあった。
「……刹那、ねえ、刹那。どうしてそう思うの」
 笑い続ける刹那に、ついには右腕どころか細い身体の全てで以って制裁を与えんとするティエリアを羽交い絞めにしながら、アレルヤは微かな声で呟いた。ねえ、一番悲しいのは君でしょうと、ほんの僅かばかり責める色を混ぜながら付け足す。
 おかしい。それこそこの現実が幻想ではないか。ほんの少し前ならば考えられなかっただろう、俺がロックオンを嘲って、ティエリアがそれに憤って、アレルヤが非難の声を上げるなんて。こうしてマイスターが三人雁首揃えて泣いているなんて。ロックオン・ストラトスが、死ぬなんて!
 ぼろぼろと瞳から零れる水が酷く鬱陶しい。刹那は振り払うようにぶんぶんと首を振った。笑みは絶えない。
「ロックオンは目の治療に専念するべきだった。まして出撃なんて冗談じゃない。挙句の果てに――生身で、スローネを、アリーを墜とそうなんて」
「それでも、ロックオンはトレミーを守るために――」
「違う!!
 違う違う違う違う違う違う違う違う!! 胸を突く衝動のままに刹那は叫ぶ。何度も何度も頭を振って、違う、笑みも殺ぎ落として、違う違う、引き攣るような喉の痛みにも気付かずに、違う!!

 刹那、アレルヤは名を呼ぼうとするが口の中で転がるだけで音にはならなかった。ひたすらに繰り返される否定の言葉は意味さえ失うほどに叫ばれ、少年の零した涙と共に狭い通路に溢れかえる。
 そうだ、一番悲しいのは、誰よりも悲しいのは、刹那だ。
「アレルヤ」
 低く落ちた声にアレルヤは腕の中へ視線を落とした。だらりと全身から力を抜いたティエリア自身に、また見上げてくる瞳に言わんとすることを察してアレルヤは腕を広げた。解放されたティエリアは軽く床を蹴る。
 違う、違うと。今はもう力なく繰り返す刹那の前でティエリアはスロープを掴み、身体を制止させる。頬で跳ねた水滴に目を細め弱く否定を続ける刹那の腕を掴んだ。ひくり、刹那は一瞬全身を揺らすが、ティエリアの腕を振り払う力もないのかただ俯いて低く漏らす。
「ロックオン、は……トレミーより、ソレスタルビーイングより、私怨を晴らすことを優先したっ……!」
「そうとも取れるかもしれない、しかしそうじゃないことは君自身分かっているはずだ」
「馬鹿だ、ほんとに馬鹿だっ……無理に決まってるのに、馬鹿……!」
 震えながら伸ばされる両腕を、ティエリアは躊躇わず受け止めた。もし重力下であるならば刹那の身体はこの場に崩れ落ちていただろう。慣れない他人の感触にあたり一面に漂う涙に、そっと近付いて背中を支えてくるアレルヤに、ティエリアはただ目を細めた。激昂は刹那の身を切るような叫びに温度を下げ、気付いてしまった深い深い悲しみに溺れる。
 本当、は。消え入るような刹那の声が嗚咽に混じって零れ落ちる。涙と否定の言葉で憤りを、虚勢を全て流し尽くした子どもが、ティエリアの腕の中で剥き出しの悲しみを晒していた。
「目なんてなくてもよかった、腕も足もなくてもいい……! 生きていてくれれば、傍に居てくれれば、ただ……た、だ……」

 あまりに自分本位だと思う。酷いと思う。それでも、心の底からそう願った。
 例え両の眼を失って、綺麗な空色に自分を映すことがなくなっても。両の腕を失って、自分を抱き締めることがなくなっても。両の足を失って、自分の隣に立つことがなくなっても。あの優しい声でただ名前を呼んでくれれば、愛してると言ってくれれば。
 いっそ言葉を失っても、心を、記憶を失くして自分のことを愛してくれなくてもいいから。
 ただ、傍に、居てくれれば。
「馬鹿、だ……」
 零れた掠れ声、ティエリアの腕に力がこもる。後頭部に添えられたおおきな手はアレルヤだろう。
 けれど自分を抱き締める腕も温かい手も、ロックオンでは、ない。
 生ぬるい水がまた視界を遮る。疎むように刹那は目を閉じ、意識すら手放した。
    すべて幻であればいい。水面の虚像であれば。
    2008.03.17