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澪標

    ※過去捏造

 死ぬのだろうか。
 少年は空を見上げた。砂漠地帯のここいらには珍しい雨が、さあさあ、降っている。砂塵に塗れ屋根も外壁も吹き飛んだ廃墟に横たわる自分、を、見下ろす空。祖国クルジス、あの時のようにメシアが現れることはない。
 ――だって、これは、彼らから提示された試練だから。
 戦友たちはとおくとおくへ逝ってしまって、守ろうと足掻いた祖国はめちゃくちゃに壊されて殺されて、だから帰る場所なんてもうなくて。あとはもう、天から舞い降りた救い主に、即ち『彼ら』に縋るしかなかったのだ。身一つ以外には何も持っていない子供の言うことだと、振り払われる覚悟で、それでも必死に伸ばした手。意外にも無視はされなかった。そして彼らが示したのはひとつのミッション。
 死ぬのだろうか。
 死ぬのかもしれない。
 生きるか死ぬかの二択しかないミッションだった。クリアすればあの救世主、正確には同一の機体ではないそうだがとにかくあのモビルスーツ、『ガンダム』の専属パイロットとして迎え入れてもいいと言われた。ただし。ミッションに失敗したならば当然迎え入れることはできない、自分たちの存在はまだ世間に知られてはいけない、だからその場合は、死を以って口を噤んでもらうことになる、と。
 さあさあ、雨は降り続ける。
 死ぬのだろうか。
 死ぬのかもしれない。
 少年は重く重く感じられる左手を天に伸ばした。右手を持ち上げれなかったのは、機関銃を握り締めた指を解く力すら残っていなかったからだ。さあさあ、さあさあ。天を目指す指先に降り注ぐ雨、雨、雨粒。指先だけでなく体中を、針のように突き刺してくる雨粒、のはずなのだが、冷たさは感じても、降り注ぐ雨の存在を感知できない。触覚が朽ち果ててしまったかのように。
 死ぬのかもしれない。
 それでもいい。
 実を言えば、提示された条件自体はクリアしていた。しかしミッション遂行時に受けた損害、それによる疲労は大きく、こうして動くこともできずにただ死を待っているような状況だ。天に伸ばした左腕が、少年の視界の中で意思など知らぬげにぶるぶると震え、ばたりと落ちた。地面に落ちたのは感知できた、でも左腕は地面を感知できない。
 さあさあ、雨は降り続ける。
 やはり死ぬのだろう。
 それでも、いい。
 そもそも彼らが現れなければ、少年はあの時アンフの銃砲に貫かれて戦友たちや祖国と運命を共にしていたはずである。だから死んでもいい。そもそも無かった筈の今を惜しむほど欲深くはないつもりだし、ほんのひとときでも救世主に近付けると――救世主そのものになれるかも知れないと、夢見れただけで充分だ。
 少年は目を閉じた。さあさあ、降り止まぬ雨、その音、冷たさ。鈍る触覚で更に自ら視覚を閉ざせば、まるで生きたまま死後の世界へと入り込んでしまったような錯覚。このままゆっくりと、感覚は薄れ、精神は肉から乖離するのだろう。
 さあさあ、さあさあ。耳に心地よく、死の足音にも似た雨音。
 さあさあ、さあさあ。さあさあ、さあさあ。
 さあさあ、さく、さく。さあさあ、さく、さく、さく。
 死の。足音の。ような。
 さく、さく、さく。
 さく……。
 雨音、に、紛れて。雨を吸い込んだ砂を踏みしめる、死の足音。自らの傍で止まったそれ。
 訝るでもなかったが、少年は半ば本能で、視認しようと緩慢に瞳を開いた。
 雨と廃墟を背に、男が立っていた。少年よりはずっと年上で、でもまだ大人には届かない、せいぜい青年といったぐらいの男。どこかで見たと思ったが、すぐに疑問は溶解した。彼らのうちのひとり、少年と同じく、『ガンダム』専属パイロット候補だと言っていた――
 不意に、少年の体が浮いた。緩慢に目を瞬かせれば、次の瞬間には男の顔が目前にある。ここでようやく、少年は自らが男に抱き上げられていることに気が付いた。
 ゆるりと男の顔を見やる。
 視線が、こつりとぶつかる。
 例えば、とてもとても冷え込んだ夜の明けた朝。
 外に置いていた水瓶に浮かんでいた、冷たくてつるつるしたもの、薄氷。
 珍しくて、嬉しくて、地平の向こうから昇ったばかりのまだ白い太陽に透かした。きらきらと煌いたそれは一層綺麗で。うっとりと魅入っていたら、やがて熱を増した太陽に溶かされてしまった。
 そんな瞳。薄氷色の瞳が、苦い笑みの形に細められる。
「……ミッションコンプリート。これでお前も天上人の仲間入り、だな」
「ぁ……」
 少年は答えようとしたが、上手く声が出なかった。喉の奥から転び出たのはただの音で、気付いた男が喋らなくていいとでも言うかのように首を横に振る。そしてじっと、腕の少年を見下ろした。ややあって、躊躇うような男の声。
「いいのか、お前」
「……?」
「今ここで死ぬよりはいいかも知れない。けどここから先は、死と同じだ」
 さあさあ、雨は降り止まない。男に掬い上げられた体はやはり雨を肌で感じられず、それでも腕の温もりはそこにあった。震え続ける左手を時間をかけて動かす。さあさあ、雨は降り止まない。指先がようやく、男の服を掴んだ。
 薄氷色の瞳を、ただ、見上げる。
 少年の瞳と男の瞳はしばしお互いを探り合い。先に視線をぶらしたのは少年だった。正確には男と見つめあうだけの体力も精神力も果ててしまった、のであるが。男が長く息を吐く。諦めにどこか似ていた。
 さあさあと、さあさあと、雨は降り止まない。
「――共に往こうか、死後の世界へ」
 さあさあ、さあさあ。
 空の涙と一緒に降ってくる、声、薄氷、唇。腕の中は温かかったけれど、降ってくるものなにもかも、残酷なまでに冷たかった。当然だ、これは死のくちづけ、だから。
 さあさあ、さあさあ。雨は降り続ける。
 少年はぶらしてしまった瞳を、求めるように薄氷に重ねる。男の瞳は開かれたまま、薄氷色の瞳の中に映る少年。朽ちる世界と堕ちてゆく狂夢。少年が見た最後の自分自身だった。