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彼方の声で、名前を呼んで
刹那。
刹那には、こう囁くときのロックオンの声がどうにも居心地悪く感じられてしかたなかった。濡れたような掠れたような、しっとりしていて違和感なく耳に滑り込んでくるくせにざらざらと脳内に残る、音。まるでたやすく侵入し瑕を残していくようでもあり、ほとんど不快と言っても差し支えない。
なのに。それなのに。刹那。また零れ落ちてくる声。刹那。ああ、と、刹那の唇から嘆息のような返答のような呼気が漏れる。刹那。どうも自分は、居心地悪く不快に感じるというのに、この声が好きらしい。必死で纏っていたはずの張り詰めたものがくたりと崩れるような気さえする。
さて、世間一般では事件とも呼ぶほどでもないと思われるが、常のソレスタルビーイングが殺伐としている点を鑑みれば左上十二度程度に彼らの日常を動かしたその出来事はやはり事件であったのだろう、とにかくそれが起こったのは刹那がロックオンの声について先に述べた通りの感情を自覚した後のことである。
「せーつーなー」
刹那は傍から見た己と付属物の姿を想像し、記憶の抽斗を探った。何か気にかかる、これは、確か、いつだったか見た本か何かの記憶が一致する。それは動物辞典のようであった。ぺらりぺらりとページを捲って、ああ、これか。刹那は頷く。コアラだ。まさにコアラだった。彼ら親子は母が仔を背負って移動する。無論仔が小さいときに限るが。その点が現在の自分たちとは異なるところだ。今の場合母コアラにあたるのが自分で、付属物のほうが仔コアラにあたるのだろうが、いかんせん背に貼りつく仔コアラもどきのほうが刹那より大きい。二十三センチほど。
「なー、刹那って、刹那ぁー」
お母さん構って構ってー。そんな幻聴が聞こえてきて刹那は額を押さえた。項垂れた刹那に気付いているのかいないのか、それは擦り寄ってくる。刹那の頬を茶の髪が撫で、背後から回って抱き込んでくる腕は柔らかく力を増す。更にあろうことか膝が刹那の両足を割って入り込み、極めつけはそう、耳だった。柔らかい温もりが耳殻に触れて、吹き込まれる、音が。
「……刹那」
「――ッ!」
後ろから抱き込まれているのだから背には当然衣服越しに人の温もりが触れている。しかし耳に声が吹き込まれたとき、確かに背筋にぞくりとしたものが奔ったのだ。対称に頬と耳には急速に熱が集まり、思わず刹那はぎゅっと目を閉じた。この声、年甲斐のない行動に失念していた、背中に貼り付いて擦り寄ってくるは仔コアラなどではない。刹那は背後から己の首に回される縄を思い浮かべる。捕らえるためか殺すためか、己のモノにするために掛けられることに違いはない。
なぁ、刹那。また、声。刹那はじわりと目を、口を、開く。そうしなければとんでもない何かが零れそうだったからだ。唯一の反抗として、揺れる視線だけは正面に保っておくに努める。
「……何だ」
「なー、おにーさん刹那くんにお願いがあるんだけどー」
揚々とした声。刹那は微かに息を吐く。男の声が普段の調子に戻ったことを認めての安堵の息だった。一人の男の声に翻弄されるなど癪なことこの上ないが、ほとんど醜態に近い己を晒すよりはマシだ。ほんの少し取り戻した余裕、刹那は無言で言葉の続きを促すが、しかしそれは安堵も余裕もぶち壊す恐るべき言葉だった。
「俺のこと、ちゃんと名前で呼んでくんない?」
「…………な、に?」
「俺はお前のことちゃんと名前で呼んでるのにさー、お前は俺のこと『アンタ』とかしか呼ばないじゃん?」
だから呼んでくれよ、な? などと付け足される。なんだその勝手な理屈は。アンタの記憶からはすっ飛んでるかもしれないが作戦行動中はちゃんと名前で呼んでいる。そうでない状況でまでアンタの名前なんか呼べるわけがない。
可能な限り平生の調子を保って答えた、途端、刹那の両足に割り込んでいた膝が下肢を押し上げる。耳に触れる、息が、言葉を紡ぐ。
「刹那……」
「ゃっ……」
思わず零れた、それ、醜態。刹那は口を覆った。しかし放たれた声を掻き消せるわけでもなく、刹那の声をしっかりと記憶したらしい男は更にぎゅうぎゅうと身を寄せてくる。調子に乗るなと鳩尾に一発入れてやりたかったがこう押さえ込まれてしまえば身動きなど取れないし、且つ不意にあの声を耳に注がれたら一環の終わりだ。刹那はどうしようもなく、じっと耐える。
「なー? 名前呼ばれたら気持ちいいだろ?」
「よくな……いっ!」
「刹那ー?」
「っ……」
刹那はただ首を左右に振る。耳と下肢に触れる熱を振り払おうとするかのように。無論そんなことは不可能で、貼りついた男の調子は刹那の反応を受けてか天にも届かんばかりに鰻上りだ。せめて頭突きでもかましてやりたいところだが、この身長差では顔面は狙えないだろう。腹が立つ。
「俺のことも気持ちよくしてくれよ、な? 名前で呼んで。刹那」
「無、理……そんな、っ、恥ずかしいことできるか……!」
ついぞ零れたのは正真正銘の本音である。この男の名前を呼ぶだと? 冗談じゃない、勝手に快楽の押し売りをしておいて対価を払えなど悪徳商法も甚だしい。クーリングオフの適用を要求する。刹那にしてみれば本音を零した時点で最大限の譲歩だった。が、恐らくは自分の都合のいいように刹那の言葉を解釈したのであろう男はついに刹那の服のボタンに手を掛けた。刹那の脳裏には人類の誰も見たことがない宇宙の果てを飛び越す鰻が浮かんで消える。
「なーにが恥ずかしいんだよ、ん? 刹――」
「ロックオン・ストラトス」
例えて言えば、そう、室内の全てが凍りついたかのようだった。
ここに来て遂に投げかけられた声は摂氏マイナス273.15度、どうも外宇宙は鰻に厳しい世界だったらしい。
最早氷像と化すしかないようなブリザードを真正面から受けた鰻、もといロックオンは、刹那の服のボタンに手を賭けたところで動けなくなっていた。刹那がじわじわと振り向けば、にやけた顔を引きつらせたロックオンの視線は正面の一点を見つめている。その一点にまします氷の女王――ティエリアは、あらん限りの蔑みを込めた目で、声で、鰻の氷像を粉砕する。
「ここがどこで今は何をするべき時間なのか、答えてくれるか」
「……ブリーフィングルーム、で、スメラギ・李・ノリエガ戦術予報士の到着を待って、まーす……」
どこか震える声で答えると同時、ロックオンの手がするりするり、刹那から離れていく。返答に頷く女王様の横でアレルヤが小さく手招いているのを視認し、刹那はようやく解放された体をそちらへと運んでいく。なんとなく力が抜けてふらつく事実に内心で腹を立てていると、アレルヤが早々に身なりを整えてくれた。「大丈夫?」と本気の心配付きである。刹那は重々しく頷いた。
その傍では今にも首を狩らん勢いでティエリアの糾弾が続いている。
「で? 今は未成年の同僚にセクシュアルハラスメントを働く時間だったか?」
「いえ、あの、すいませ……」
「そもそも君の性癖を見せつけられるようで甚だ不愉快だ。こういう類のことは公の場でやるな。どうしてもというなら人目に付かないところでやってくれ」
「いやな? 人前でやることに意義が」
「何か言ったか」
「すいません何も言ってません」
勢いよく下げられたマイスターリーダー格のつむじを傲慢に見下ろし、ティエリアは無言で踵を返した。ティエリア? アレルヤが投げかければ振り返りもせず麗人は返す。
「スメラギさんの様子を見てくる。いつまでもこんな状況でここにいると馬鹿が伝染しそうだからな」
馬鹿……。馬鹿呼ばわりされた男の声は哀れを誘っていたが、刹那は同情できなかった。作戦行動外のロックオンで許容できるのは何故だか抗えない声だけで、他はからっきしだと刹那も思っていたからである。よって絶望の海に沈没していくロックオンをなんとか引き上げようとするのはアレルヤだけだった。しかし心優しい青年の努力も、去り際のティエリアの一言で水泡に帰すこととなる。
「そういえばさっき何が恥ずかしいのかと言っていたが――」
刹那は重く深く頷いた。全く以ってティエリアの言うとおりで、そしてロックオンは死体のように沈んでいった。しばらくは浮き上がってこないだろう。
自分だって大概なものだと自覚しているが、『ロックオン』は更に酷いと思う。いくら偽名とはいえあんまりだ。デュナメス以外の機体を与えられていたらどうするつもりだったのやら。そして何より、刹那は『刹那』と呼ぶことを強要したりしていないだけこの馬鹿よりはマシだろう。
「『ロックオン・ストラトス』――お前の名前が恥ずかしいんだ」
刹那には、こう囁くときのロックオンの声がどうにも居心地悪く感じられてしかたなかった。濡れたような掠れたような、しっとりしていて違和感なく耳に滑り込んでくるくせにざらざらと脳内に残る、音。まるでたやすく侵入し瑕を残していくようでもあり、ほとんど不快と言っても差し支えない。
なのに。それなのに。刹那。また零れ落ちてくる声。刹那。ああ、と、刹那の唇から嘆息のような返答のような呼気が漏れる。刹那。どうも自分は、居心地悪く不快に感じるというのに、この声が好きらしい。必死で纏っていたはずの張り詰めたものがくたりと崩れるような気さえする。
さて、世間一般では事件とも呼ぶほどでもないと思われるが、常のソレスタルビーイングが殺伐としている点を鑑みれば左上十二度程度に彼らの日常を動かしたその出来事はやはり事件であったのだろう、とにかくそれが起こったのは刹那がロックオンの声について先に述べた通りの感情を自覚した後のことである。
「せーつーなー」
刹那は傍から見た己と付属物の姿を想像し、記憶の抽斗を探った。何か気にかかる、これは、確か、いつだったか見た本か何かの記憶が一致する。それは動物辞典のようであった。ぺらりぺらりとページを捲って、ああ、これか。刹那は頷く。コアラだ。まさにコアラだった。彼ら親子は母が仔を背負って移動する。無論仔が小さいときに限るが。その点が現在の自分たちとは異なるところだ。今の場合母コアラにあたるのが自分で、付属物のほうが仔コアラにあたるのだろうが、いかんせん背に貼りつく仔コアラもどきのほうが刹那より大きい。二十三センチほど。
「なー、刹那って、刹那ぁー」
お母さん構って構ってー。そんな幻聴が聞こえてきて刹那は額を押さえた。項垂れた刹那に気付いているのかいないのか、それは擦り寄ってくる。刹那の頬を茶の髪が撫で、背後から回って抱き込んでくる腕は柔らかく力を増す。更にあろうことか膝が刹那の両足を割って入り込み、極めつけはそう、耳だった。柔らかい温もりが耳殻に触れて、吹き込まれる、音が。
「……刹那」
「――ッ!」
後ろから抱き込まれているのだから背には当然衣服越しに人の温もりが触れている。しかし耳に声が吹き込まれたとき、確かに背筋にぞくりとしたものが奔ったのだ。対称に頬と耳には急速に熱が集まり、思わず刹那はぎゅっと目を閉じた。この声、年甲斐のない行動に失念していた、背中に貼り付いて擦り寄ってくるは仔コアラなどではない。刹那は背後から己の首に回される縄を思い浮かべる。捕らえるためか殺すためか、己のモノにするために掛けられることに違いはない。
なぁ、刹那。また、声。刹那はじわりと目を、口を、開く。そうしなければとんでもない何かが零れそうだったからだ。唯一の反抗として、揺れる視線だけは正面に保っておくに努める。
「……何だ」
「なー、おにーさん刹那くんにお願いがあるんだけどー」
揚々とした声。刹那は微かに息を吐く。男の声が普段の調子に戻ったことを認めての安堵の息だった。一人の男の声に翻弄されるなど癪なことこの上ないが、ほとんど醜態に近い己を晒すよりはマシだ。ほんの少し取り戻した余裕、刹那は無言で言葉の続きを促すが、しかしそれは安堵も余裕もぶち壊す恐るべき言葉だった。
「俺のこと、ちゃんと名前で呼んでくんない?」
「…………な、に?」
「俺はお前のことちゃんと名前で呼んでるのにさー、お前は俺のこと『アンタ』とかしか呼ばないじゃん?」
だから呼んでくれよ、な? などと付け足される。なんだその勝手な理屈は。アンタの記憶からはすっ飛んでるかもしれないが作戦行動中はちゃんと名前で呼んでいる。そうでない状況でまでアンタの名前なんか呼べるわけがない。
可能な限り平生の調子を保って答えた、途端、刹那の両足に割り込んでいた膝が下肢を押し上げる。耳に触れる、息が、言葉を紡ぐ。
「刹那……」
「ゃっ……」
思わず零れた、それ、醜態。刹那は口を覆った。しかし放たれた声を掻き消せるわけでもなく、刹那の声をしっかりと記憶したらしい男は更にぎゅうぎゅうと身を寄せてくる。調子に乗るなと鳩尾に一発入れてやりたかったがこう押さえ込まれてしまえば身動きなど取れないし、且つ不意にあの声を耳に注がれたら一環の終わりだ。刹那はどうしようもなく、じっと耐える。
「なー? 名前呼ばれたら気持ちいいだろ?」
「よくな……いっ!」
「刹那ー?」
「っ……」
刹那はただ首を左右に振る。耳と下肢に触れる熱を振り払おうとするかのように。無論そんなことは不可能で、貼りついた男の調子は刹那の反応を受けてか天にも届かんばかりに鰻上りだ。せめて頭突きでもかましてやりたいところだが、この身長差では顔面は狙えないだろう。腹が立つ。
「俺のことも気持ちよくしてくれよ、な? 名前で呼んで。刹那」
「無、理……そんな、っ、恥ずかしいことできるか……!」
ついぞ零れたのは正真正銘の本音である。この男の名前を呼ぶだと? 冗談じゃない、勝手に快楽の押し売りをしておいて対価を払えなど悪徳商法も甚だしい。クーリングオフの適用を要求する。刹那にしてみれば本音を零した時点で最大限の譲歩だった。が、恐らくは自分の都合のいいように刹那の言葉を解釈したのであろう男はついに刹那の服のボタンに手を掛けた。刹那の脳裏には人類の誰も見たことがない宇宙の果てを飛び越す鰻が浮かんで消える。
「なーにが恥ずかしいんだよ、ん? 刹――」
「ロックオン・ストラトス」
例えて言えば、そう、室内の全てが凍りついたかのようだった。
ここに来て遂に投げかけられた声は摂氏マイナス273.15度、どうも外宇宙は鰻に厳しい世界だったらしい。
最早氷像と化すしかないようなブリザードを真正面から受けた鰻、もといロックオンは、刹那の服のボタンに手を賭けたところで動けなくなっていた。刹那がじわじわと振り向けば、にやけた顔を引きつらせたロックオンの視線は正面の一点を見つめている。その一点にまします氷の女王――ティエリアは、あらん限りの蔑みを込めた目で、声で、鰻の氷像を粉砕する。
「ここがどこで今は何をするべき時間なのか、答えてくれるか」
「……ブリーフィングルーム、で、スメラギ・李・ノリエガ戦術予報士の到着を待って、まーす……」
どこか震える声で答えると同時、ロックオンの手がするりするり、刹那から離れていく。返答に頷く女王様の横でアレルヤが小さく手招いているのを視認し、刹那はようやく解放された体をそちらへと運んでいく。なんとなく力が抜けてふらつく事実に内心で腹を立てていると、アレルヤが早々に身なりを整えてくれた。「大丈夫?」と本気の心配付きである。刹那は重々しく頷いた。
その傍では今にも首を狩らん勢いでティエリアの糾弾が続いている。
「で? 今は未成年の同僚にセクシュアルハラスメントを働く時間だったか?」
「いえ、あの、すいませ……」
「そもそも君の性癖を見せつけられるようで甚だ不愉快だ。こういう類のことは公の場でやるな。どうしてもというなら人目に付かないところでやってくれ」
「いやな? 人前でやることに意義が」
「何か言ったか」
「すいません何も言ってません」
勢いよく下げられたマイスターリーダー格のつむじを傲慢に見下ろし、ティエリアは無言で踵を返した。ティエリア? アレルヤが投げかければ振り返りもせず麗人は返す。
「スメラギさんの様子を見てくる。いつまでもこんな状況でここにいると馬鹿が伝染しそうだからな」
馬鹿……。馬鹿呼ばわりされた男の声は哀れを誘っていたが、刹那は同情できなかった。作戦行動外のロックオンで許容できるのは何故だか抗えない声だけで、他はからっきしだと刹那も思っていたからである。よって絶望の海に沈没していくロックオンをなんとか引き上げようとするのはアレルヤだけだった。しかし心優しい青年の努力も、去り際のティエリアの一言で水泡に帰すこととなる。
「そういえばさっき何が恥ずかしいのかと言っていたが――」
刹那は重く深く頷いた。全く以ってティエリアの言うとおりで、そしてロックオンは死体のように沈んでいった。しばらくは浮き上がってこないだろう。
自分だって大概なものだと自覚しているが、『ロックオン』は更に酷いと思う。いくら偽名とはいえあんまりだ。デュナメス以外の機体を与えられていたらどうするつもりだったのやら。そして何より、刹那は『刹那』と呼ぶことを強要したりしていないだけこの馬鹿よりはマシだろう。
「『ロックオン・ストラトス』――お前の名前が恥ずかしいんだ」
- アンタのいいところなんて声だけだ、声だけ!
2007.10.23
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