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たそがれのさざめき

 昇降用のワイヤーから降り立った刹那は、地平線に向けた目を眇めた。没しゆく太陽、希望も慰めもなく、呪うようにあたりを染める光はまるで血の色。赤鴉の洗礼を受けたのか、街は瓦礫と化し骸の様相を呈している。最早獣に食まれるのを待つのみの屍、弾痕を晒す土壁に震えながら身を寄せる人々、ジャンクと化したモビルスーツ。乾燥した街に不似合いな水溜りが赤いのは、黄昏の太陽に照らされているから、ではない。
 刹那は一度俯いてから、背後のエクシアを見上げた。人を狂わせるのは太陽ではない、月だ。だからこの街の惨状は太陽ではなく人間の仕業。そこには詩的な感傷など必要ない。剥き出しの欲望だけが転がっている。生き残った街の人間とて例外ではないだろう。夜になれば月が昇り、人の心は狂騒に逸る。大気は風穴を空けた家屋などでは凌ぎようもないほど冷え込むのだから。苦しくなればなるほど理性の皮は剥かれ、この街で戦闘行為に及んでいたモビルスーツは露出した悪意の対象となる。例えそのモビルスーツが戦闘を終了させるという名目で敵に銃を向けていたとしても、だ。一体ソレスタル・ビーイングは誰のために戦火に身を投じているのだろう。もちろん――
 下らない思考に沈む前にぶるりと頭を振る。作戦終了、なればこの街に留まる必要もない。撤収するべく再びワイヤーに手を掛けたところで、刹那は視界の端にちらつく人影を認める。焦点をそちらに合わせれば、デュナメスから降りてきたところなのだろう、見慣れた男――ロックオンが夕日に影を長く伸ばしてこちらに近付いてきている。刹那は眉を顰めた。どこか様子がおかしい。デュナメスは今回バックアップとして遠距離からの狙撃を担当していた。目立った被弾はしていなかったはずだが、そういえばあのお喋りな男が作戦は終了したというのに一言も声をかけてこなかったことを思い出す。
 血の色の光の中、刹那の目前でまるで幽鬼のように、ゆらり、足を止める男。その俯き加減の顔を見上げ、刹那は思わず目を見開いた。体から流れ出す血は温かい、太陽は灼熱、なのに、ロックオンは寒さに耐えるかのように僅かに震えている。その目は意志を喪失したかのように、昏かった。この男のこんな様子は見たことがない。
「っ、おい」
「刹那」
 思わず上げた声を遮る、声。刹那は戦慄すら覚える。いつもは無駄に思えるほど(無論、それは多少の演技を含んでいるのだろうが)陽気で弾んだ声で喋るのがこの男なのに、今の声は。ゆぅらり、赤い光を遮る、精気のない動き、被さってくる、重み。刹那は思わずよろめいてたたらを踏み、結局そのまましたたかに背中を地にぶつけた。幼い頃から戦場を必死に駆け回り身体能力に自信はあるが、自分よりずっとでかい図体の男を支えるのは結構な無理がある。しかも不意の出来事ならば尚更。苦しい姿勢で受身は取ったものの刹那は一瞬息を詰まらせる。
「おい、アンタ……」
 共に倒れこんだ男は、縋るように緩く、刹那の首に腕を回している。刹那。枯れたような声は直接耳朶をくすぐる。ロックオンの顔は刹那の左肩に埋められている。どうすることもできず、刹那はただ次の動きを待つ。地平線に沈みゆく太陽が、一瞬どろりとした血だまりに見えた。
「刹那」
「……っ」
 耳に濡れたものが触れる。それでも振り解けない。拒んでしまえばこの男は崩れてしまう、そんな錯覚すら抱く声。止めてくれ、そんな声は。アンタのそんな声は嫌だ、こちらまでおかしくなりそうだから。濡れた耳朶にちり、と、ささやかな痛み。思わず刹那は目を閉じたが、ああ、やはり世界は血の色だった。強すぎる光は瞼という脆弱な遮蔽物などものともしない。不可避の呪い、或いは灼き尽くすように傲慢に侵蝕する。
「刹那、あのな、逃げてる親子がいたんだよ」
「……ああ」
「俺の目の前で吹っ飛んだんだ」
「……ああ」
「刹那、」
 刹那はもう何も答えない。代わりにゆるりと目を開いた。目の前の世界はやはり赤。覆い被さる男の体はやはり震えていて、唇からはぽつりぽつりと声が漏れている。刹那。刹那。胸が苦しかった。俺に求めるな、与えられるものなんてひとつしかないんだ。この男は知っていて求めている。だから更に、嫌だった。こんなかたちで与えてやるのは。でも、それでも、この男のこんな様は見ていたくない。こんな様を晒させたくない。こんな声は聞きたくない。こんな声を出させたくない。
 刹那、その声を機に、刹那はロックオンの体に腕を回した。熱を分けるかのように。そうすればこの震えは止まるだろう。
 刹那、その声を機に、刹那はロックオンの顔を上げさせた。そうしてこの声を封じ込めるには――
 きっとこの太陽は月のように人を狂わせるのだ。そして自分もこの男も狂わされているに違いない。そうでなければこんな風に、まるで傷の舐め合いのような行為に及んでいる理由が見当たらない。たったひとつ与えられるもの、自分自身を易々と与えてやっているわけがない。瓦礫の地平に身を潜めゆく太陽は毒のような光で二人を染めている。刹那は悼むように目を閉じた。せめて慰めだけでも、この唇に宿ればいいと思いながら。
    誰そ彼、逢魔が時、血の色の刻に彷徨う者。
    2007.10.14